追伸 たけちゃん(竹永さん)から、とっておきの1枚をいただきました
星条旗のはためき具合の、最高の瞬間をとらえてますね
「本日二番目の、いい写真」かな?
もちろん、これが「本日最高の写真」(173T)↓
(^_^;)~♪
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(^_^;)~♪
「漫画訳・雨月物語」という本を読みました
元になっている「雨月物語」は、江戸時代の作家、上田秋成の作品で、日本の中世を背景にしたホラー(怪談)話を9話ほど集めています
私は映画でも小説でも、ホラー系ダイスキ!なので、ついつい引き込まれます
つい最近も、春日武彦という精神科医の書いたホラー系の本にのめりこんだばかり
「雨月物語」は、石川淳が現代語に訳してますし、映画にもなってるので、その名前をご存じの方も多いかと思います
マンガですからスグ読めたんですが、その9つあるホラー話の冒頭に「白峯」という話があり、崇徳院と歌人の西行が、あの世とこの世の壁を越えて語り合うというオカルトっぽい内容です
崇徳院は、日本の三大怨霊(おんりょう)として有名な崇徳(すとく)天皇で、歴代の天皇の中でも最も不幸な死に方をした人
この世に未練と恨みを残して死んだために成仏できず、いろいろと厄介な「祟り(たたり)」を巻き起こして生者を苦しめる、と信じられてきました
能の「松山天狗」も、これを題材にしています
この祟りという考え方は、日本人の心性の非常に深いところにあって、日本の歴史に大きな影響を与えているだけでなく、実は我々現代日本人のメンタリティにも大きな影響を及ぼしています
祟りと似たようなものに「言霊(ことだま)」があり、
何かの悪い言葉を口にすると、それが現実化する
という一種の信仰
今でも、誰かが悪い(ネガティブな)言葉を発すると
「そんな縁起でもないこと言うな!」
などとたしなめる人がよくいますよね
自己啓発系の成功哲学には
「常に前向き、建設的な言葉を発していれば
それはいずれ現実化して成功できる!」
というプラス思考(ポジティブ・シンキング)の考え方がありますが、それのネガティブ・バージョンでしょうか?
日本人が幕末明治以降、西欧文明に接してほぼ2世紀
表面的には「自由」「権利」「進歩」みたいな西欧型の合理的概念に慣れています
でも日本人の心の深いところには、祟りや怨霊、言霊のような心性を脈々と残している
それは時には、スピリチュアルなものに引き込まれる動機にもなったりして(若い女性に多い)、メンタル面を重視した企業のマーケティング戦略にも影響を及ぼしたりする
崇徳院はこの世に恨みを残して死にますが、その元になった政治的事件が保元の乱
日本史上の有名な事件で、大学受験の受験科目に日本史を選んだ方はよくご存じだと思いますが、私は理系だったので今回改めて保元の乱について調べました
この事件(乱)は、天皇家の跡継ぎ問題から始まっていて、現代の愛子さまと秋篠宮の関係を思い起こしてしまいます
結局、後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇(崇徳院)は破れて讃岐(現代の香川県)へ流され、二度と京(みやこ)を見ることなく亡くなります
このとき、両軍の戦略立案を担ったのが
崇徳方の藤原頼長(敗者)
後白河方の藤原通憲(信西)(勝者)
両者ともスゴい切れ者で、現代の官僚なんかによくいる秀才タイプ
ただし、頼長は藤原氏の中でも主流派(嫡流)に生まれたエートコのボンボン
信西はそうではなかったので、自分も藤原氏でありながら藤原氏主流派に恨みを持ち、保元の乱に勝利すると着々と藤原氏主流派つぶしを始めます
その信西も、数年後の平治の乱に破れて死に、首はさらしものに
保元の乱は後白河天皇方が勝ったとは言いながら、実は本当の勝者は武士でした
乱の勝敗を決したのは武士の軍事力だったので、当然と言えば当然です
この事件からのち、政治の実権は徐々に武士へ移り、天皇家と摂関家(藤原氏主流)はパワーを失って「飾り物」になっていきます
その意味で保元の乱は、時代が古代から中世へ移り変わる画期的な事件でした
少し大ざっぱな言い方をすると、世界に多くの国家や民族がある中で、歴史的に中世という時代をきちんと経ているのは西欧と日本だけで、ほぼ現代の先進国と一致します
これを偶然と見るか、歴史の必然と見るか、なかなか面白いところです
(^_^;)~♪
▲我々27回生の卒業30周年同窓会(2005年)の太郎先生
87歳にしてこの背筋まっすぐの凛とした姿勢は、帝国海軍仕込み?
▲これは1年A組クラス会(2006年)にご出席の有賀先生
今日、昼寝をしていたら、夢の中に石川太郎先生が登場しました
最近はほぼ毎日昼寝をし、昼寝も夜寝も同じくらいの長さ
どちらも4時間くらいになってます
長時間続けて眠れないのは、年のせいでしょうかねー(トイレも近いし)
睡眠不足は重大な悪質ストレス要因で、
悪質ストレスは、免疫系を破壊して、ガン細胞の暴走を促す!
と私は信じているので、睡眠はタップリとるようにしています
具体的には、よほど重大な用事が無い限り
眠気を催したら、ためらうことなく、スグ横になる
自然に目覚めるまで、ひたすら眠る(約4時間)
という、昼夜2サイクル(合計8時間)の睡眠パターン
現役世代には無理な、リタイア世代だけに許された、ゼイタクなライフスタイルかもしれませんね
スペインには、シエスタという昼寝の習慣があるそうですが、我が日本も見習ったらどうかなぁ
いま太郎先生にお会いしたら
「70前の若造が、たるんどる!」
とか怒られるかな?
* * * * * * *
夢の細かい内容はスグに忘れたのですが、太郎先生のことを思い出しながら、以下に少し書いてみることにします
新宿高校時代に太郎先生の生物の授業を受けた方はご存じのことですが、太郎先生は海軍将校となって第二次大戦に従軍されています
(この辺の記憶が、先週の「横須賀・軍艦クルーズ」とつながって、夢になったのかもしれませんね)
太郎先生は新宿高校での生物の授業中に、この戦争体験を「雑談」として語り、時として授業時間の大半が「雑談」になることも多々ありました
その体験談が非常に面白い(興味深い)ものだったので、新宿高校卒業生の間では
新宿高校最大の名物教師
として語り継がれています
我々新宿高校卒業生にとって「太郎」と言えば、麻生太郎、山本太郎、河野太郎などではなく、石川太郎先生しかいないのです
あの名物授業を録音しておいて、いま聴きたかったなぁ
いま考えてみますと、太郎先生は年齢的に、1943年(昭和18年)の「学徒出陣」で戦場に向かう運命になったのではないか?と推察します
それまで男子大学生は兵役法により、26歳まで徴兵を猶予されていましたが、敗色濃い戦時体制下ではこの猶予が撤廃され、20歳以上の文系学生が徴兵の対象となりました
そこでひとつ疑問が生じます
なぜ理系(生物学)の太郎先生が、学徒出陣することになったのか?
実は理系でも一部の学科では学徒出陣の対象となった、という情報もあります
確かに同じ理系でも、機械や電気みたいな工学系ならともかく、生物みたいな理学系は、戦争遂行や兵器製造との関係が薄そうです
当時、生物兵器や化学兵器の研究もしていたはずだけど、それはたぶん医学系や薬学系、応用化学系が担うはず
この辺の詳しい事情、もしご存じの方がいたら教えてください
▲出陣学徒壮行会 1943年(昭和18年) 元は白黒だがAIでカラー化
太郎先生は戦争から生還して、31年9か月間(昭和21年8月~昭和53年3月)、生物の先生として新宿高校で教鞭を執られました
我々27回生は、その最後に近い3年間、太郎先生に接する機会があった訳です
下の写真は、我々が入学するずっと前、太郎先生が新宿高校へ赴任した直後の撮影ではないかと思われます
まだ若々しい太郎先生(おそらく30歳代前半くらい)が写っています
周囲の理科の先生たちの、いかにも学者っぽい、ややひ弱な感じに対して、太郎先生の堂々たる面構えや雰囲気は、「さすが元帝国軍人!」と言いたくなります(私だけの感想かな?)
我が敬愛する物理の有賀先生は、やや不敵な笑みを浮かべているようにも見えます
有賀先生は、私の新宿高校1年の時のクラス担任で、有賀先生の授業が面白くて私は物理がダイスキになり、そのまま人生の途中まで理系人生を突っ走りました
「コレ、大事ですからね、コレ!」、思い出します
そのうち太郎先生に続き、「有賀健治先生の研究」も書きたいなぁ (^_^;)
* * * * * * *
さて、当ブログの2013年8月8日に「古稀記念文集」という記事があります
これには、新宿高校12回生(我々よりも15年上)が古稀記念文集を発行したときの経緯などが書かれています
その中で12回生の同期会(2012年ころ)に来賓として出席なさった石川太郎先生のことが書かれています
石川先生は95歳、中野先生が92歳と、御高齢になられたことでもあり、それぞれお体にご不自由を感ずる日々を過ごされておられるそうです。
石川先生は視力が弱くなって、相手の顔が丸く霞んでいる程度にしか見えなくなっておられる由。
また中野先生におかれては、歩行に困難を覚える外、発声もままならなくなられているので、スピーチは控えたいとのご意向でした。
斯様に、ご不自由なお体を押してまでも、先生方のご参加が得られるのも、この七夕会が文集発刊に象徴されるような絆を保ち続けているからではないで しょうか?
スピーチの中で石川先生は、
「・・・人生振り返ってみると孤独だった。
軍隊でも孤独だった。
そして今外山中学の同窓会で生き残っているのは、自分を含めて たった4人。
孤独だねー」
と言われながらも、若い奥さまの温かな早めのお迎えを受けて(森さん・功刀さん談)4時頃お帰りになられました。
この「外山中学」とは、どこの学校?
旧制府立四中(都立戸山高校)を「戸山中学」と呼んで、それが誤植されたのか?
スピーチの中で3回も「孤独」という言葉を発した95歳の太郎先生
親しい人たちが次々に鬼籍に入る寂しさか?
勝手な想像ですが、戦場で戦友など多くの親しい人たちの死ぬ場面に遭遇し、それが太郎先生の人生観や孤独感に何らかの影響を及ぼしたのか?
あの授業中の饒舌だった太郎先生の、心の奥底が少しうかがえるような気がします
最後の「若い奥さま」というところに救いが感じられる
当ブログの2015年5月11日の記事「訃報 石川太郎先生」によると、3年間ほど自宅療養をされた後、2015年2月17日、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたとあります(享年97)
▲上記同期会(2012年ころ)の記念写真
▲少しボケてますが、中心部を拡大
左が多分、石川太郎先生(95) 一人おいて中野先生(92)
2012年の時点で太郎先生は95歳、すると生年は1917年ころで、1943年の学徒出陣の時に26歳くらいですから、まさに学徒出陣の対象者に該当します
もしかすると学徒出陣ではなく、徴兵猶予が切れた26歳でスグに戦地へ送られたのかもしれません
この「26歳で戦場へ」という仮説が正しいとすると、太郎先生の戦場体験は1943~1945の、長くても2年間程度だったはず
そこからあれだけの「雑談」が生み出された訳で、この2年間ほどの戦場体験の重みが感じられます
* * * * * * *
ここに、「新宿高校歴代クラス担任一覧」という資料があります
これによると、太郎先生がクラス担任を引き受けたのは3回だけということが分かります
この資料は卒業時(3年生)のクラスなので、これとは別に入学時(1年生)のクラスがあります
いずれにしても、太郎先生の31年余の新宿高校在任期間を考えると、クラス担任の回数が少ないのかな?とも思いますが、上の先生のスピーチにある「孤独」と何やらつながってくるような気もいたします
また、我々が入学する前に全学連など反体制学生運動の影響を受けて、我々より少し上の世代(坂本龍一とか)が大暴れしました
新宿高校の校内もかなり荒れたのですが、それと太郎先生の「孤独」には何か関係がないかな?、などと勝手に想像してみたりもします
何しろ、国のために若者たちが命を捧げた時代、それからわずか20年ちょっとで、若者たちが国をぶっ壊そうと暴れていた時代
その二つを、目の前の出来事として、肉眼で見た太郎先生
今から思えば、どっちもスゴい時代だったと思います
▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)
右奥に出来たばかりの東京タワー(1958年完成)
* * * * * * *
当ブログ1973年3月11日の記事に「石川太郎先生 読書雑感」という記事があります
我々27回生が新宿高校2年のころ、太郎先生56歳くらいの文章です
菜根譚を「老人の読む本」と断定しているところが、いかにも太郎先生
「砲声やエンジンの音まで実感がわく」というところに、生の戦場体験を感じます
保定(パオティン)は、北京の近くの街ですから、海軍将校も軍艦に乗るばかりでなく、陸地のかなり奥深くでも戦ったのですね
▼拡大図
▲「保定城」でググったら、上のような城門の写真がありました
太郎先生は80年前の戦争中に、この城門を見たのでしょうか?
私の乏しい記憶や当ブログの過去記事からいろいろ書いてみました
記事中の私の記憶違いや誤解のご指摘、あるいは太郎先生に関する追加の情報やエピソードなど、hp@mkosugi.com までご提供いただけるとウレシイです
(^_^;)~♪
健児の歌
黎明の雲を破り さしいづる日のごと
明けし生気充てり 我等六中健児
いざ燃えよ朝日のごと 母校の光世にあらはせ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり
湧き出る若き力 揺るがぬ意思もて
奮闘と努力やまず 我等六中健児
いざ進め撓まず往け 校旗を四方に輝かせよ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり
▲JR横須賀駅
萩原さんから「JR横須賀駅には階段が無い」と教えてもらったので、
というサイトを閲覧したら、JR横須賀駅だけでなく、横須賀の街の歴史など、いろいろ分かりました
たしかに階段が無いが、その理由には2説あり
黒船にビックリした幕末~明治の日本は、近代的な造船所の必要に迫られた
そこで登場するのが小栗上野介忠順(2027年のNHK大河ドラマ主人公)
造船所建設指導で来日したのが、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーで、公園の名前になっている
1871(明治4)年に「横須賀造船所」第1号ドックが完成
横須賀駅に1番線が無い理由、などなど
ちなみに先日乗り降りしたのは京浜急行の横須賀中央駅で、こっちが横須賀市街の中心にあり、JR横須賀駅はやや街外れにあります
(^_^;)~♪
▲ヴェルニー公園
▲「ダイヤモンド・オンライン」サイトより
ビジネス書のダイヤモンド社がやっている「ダイヤモンド・オンライン」というサイトで、都立戸山高校出身者の人脈特集記事があって、記事の冒頭に次のような文章がありました
(戸山高校は)都立の伝統校で、旧制東京府立四中を前身とする。
東京・新宿区にあるものの、校地周辺は文教エリアだ。
都立新宿高校とライバル関係にあるが、「軟派」とされる新宿高校に対し、戸山高校の校風は「硬派」で知られている。
新宿高校が「軟派」とされているとは、今日まで知らなかったので、ビックリしました
( ゚Д゚)ビックリ
* * * * * * *
追伸 私が高校時代に聞いた話では、戦前
六中(新宿高校)出身者には、軍人になる人が多く(つまり硬派)
四中(戸山高校)出身者には、学者や文化人になる人が多い(つまり軟派)
だったんだけどね
戦後になって逆転したのかな?
2025年3月10日(月)
横須賀市街→軍艦クルーズ→軍艦三笠(↑)
大野さんのご親戚、吉本萌慧ちゃん(旭川出身、藝大出身、都響メンバー)の自己紹介
私の音楽はじめて物語(月刊都響2025年3月号)
が、都響のホームページに載っています
吉本萌慧 | 東京都交響楽団 ←CLICK!
佐野さんにお知らせいただきました
ありがとうございます
(^_^;)~♪
少し前ですが、昨年2024年の初詣に、三嶋大社を歩きました
3/4の衆議院本会議で、地方税法改正案の審議中、総務大臣の村上誠一郎が退席して国会内のトイレに行き、議事が一時中断した
村上誠一郎は本会議場に戻ると、
「ネイチャー・コールズ・ミーだ!
我慢できず失礼した」
と陳謝した。
これは英語で「用を足す」を意味する言葉
村上誠一郎は、額賀衆院議長に退席の了解を取っていた
野党は法案の所管大臣が不在のまま議事が進んだことを問題視している
・・・という訳で、まぁどーでもいー話ですが、野党も大人げない
「Nature’s call」という言い方が、何となく面白いなぁ
nature(自然)という言葉は奥が深くて、ギリシャ哲学や老荘思想の重要概念
この村上誠一郎というオッサン、以前からちょっと注目してます
中居問題で底抜け腐敗体質がバレたフジテレビを管轄する総務大臣ですから
「フジテレビへの放送免許を取り消す!」
くらい言わんかなぁと思ってるんですが、言わんですね
(^_^;)~♪