歩くの大好き(^_^;)

荒川治水資料館と赤羽せんべろ街を歩く

東京(江戸)では、1600年に徳川家康が来てから400年以上、ずっと大規模な建設工事が続いています

東京の下町は標高が低く、台風や大雨による水害に弱い

1910年(明治43年)の関東大洪水では、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸という被害が出ました

そこで始まったのが荒川の治水で、名前の通り「荒れる川」でした

それまで荒川の下流が都心を流れる隅田川だったのですが、途中から新しい人工の川(荒川放水路)をつくり、大水のときは隅田川へ流れる水を減らして都心の洪水を防ごうというプランです

パナマ運河の掘削工事に参加して最先端の掘削技術を身に付けたエンジニア青山士(あきら)が先頭に立ち、1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)まで、17年間の大工事

まだパワーショベルのような重機も無い時代で、ほとんどは人力による苦難の工事、まさに感動ものです

隅田川へ流れる水をせき止める役目を果たすのが、今回見学した岩淵水門

上の写真は旧水門(赤水門)で、今は二代目の新水門(青水門)になっている

岩淵水門のすぐ近くに荒川治水資料館があり、「荒れる川」を治水した苦難の歴史を記録しています

資料館と水門を歩いたあと、近くの赤羽駅へ移動して、有名な「赤羽せんべろ街」を歩きました

熊さんからLINEで感想があり、下のMAPをいただきました

熊さん、ありがとー

(^_^;)~♪

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せんべろ街の写真だけ(最後の96枚)

乃木坂を歩く

乃木希典は日露戦争で陸軍トップの軍人(陸軍大将)で、学習院の院長もつとめた明治時代の偉人

昭和天皇の教育係も務めた

司馬遼太郎「坂の上の雲」では愚将として描かれましたが、最近「そうではない」という本も出て、名誉回復が図られています

彼は長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次の三男として、江戸の長府藩上屋敷(現在の六本木ヒルズ)に生まれた

乃木坂の地名は、ここに彼の自宅があったことから

六本木が現在のようになったのは戦後に米軍が来てからで、戦前は現在のミッドタウンの場所に陸軍歩兵第一連隊があり、「陸軍の街」でした(海軍の街は横須賀)

ちなみに昔は「連隊」ではなく「聯隊」と書いた

2・26事件の反乱軍は、ここから皇居方面へ向かった

そんな「陸軍の街」六本木に、陸軍トップの彼が自宅を構えるのは、ごく自然なことでした

彼の自宅は港区立「乃木公園」として現存(復元?)しており、9/12に見学会があったので、行ってみました

上の写真はその自宅前ですが、貫禄たっぷりですね

でも彼は明治天皇の崩御のあとに、62歳で殉死しており、この写真はたぶんそのころ(殉死直前?)のもの

殉死(割腹自決)した部屋も見ることができ、血に染まった服などもありました

ですから上の写真は、現在の我々より8歳も年下ということになります

(;´Д`) トシトッタ

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産総研を歩く

産総研(産業技術総合研究所)は、経産省所管の独立行政法人で、最先端の技術開発を行っています

以前の工業技術院が母体で、21世紀初頭の中央省庁再編で、産総研になりました

9/13に産総研の一般公開があって、ラボ(研究室)の中が見れるというので、お台場散歩がてら出かけ、モーションキャプチャのラボを見学しました

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哲学堂を歩く

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中野区に「哲学堂公園」という公園があります

今は区立公園になっていますが、元々は哲学者で東洋大学の創立者、故・井上円了博士によって精神修養の場として明治37年に創設されました

哲学をテーマにした公園というのは、海外は知りませんが、国内ではここだけではないかと思います

(^_^;)~♪

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門橋を歩く

▲ネットにあった写真 富士山が右に見えるから夕焼けかな

▲今日、歩きながら撮った写真 右下は釣りをする人たち

虹橋(レインボーブリッジ)は、わが家のベランダからよく見えます

門橋(ゲートブリッジ)は東京湾のもう一つの大きな橋で、これも端っこが少し見えます

今日は、汁パス(シルバーパス)を活用して門橋まで出かけ、橋の上を歩きました

橋の上を歩く距離は1600mで、20~30分

その前後にもたっぷり歩きましたけど

虹橋は以前に歩いて渡ったことがあり、お台場行きのバスでしょっちゅう通っているのですが、門橋は歩くのも通るのも初めて

そもそも人が歩けるのかな?と思い、ネットで色々調べてから出かけました

歩行可能時間などに、いろいろ制限があります

東京湾から見た都心遠景をながめることが可能

門橋はトラス構造の橋なので直線だけですから、見た目は無骨で男性的

虹橋のような吊り橋の曲線美はありません

虹橋は東京湾埋立地の奥にある深窓のお嬢さま、門橋は入口を守る屈強な門番の男という感じかな

虹橋を通っているのが4通り(一般道、首都高、歩道プロムナード、ゆりかもめ)で二階建てなのに対して、門橋は2通り(一般道、歩道)だけで、要するにシンプルな橋です

虹橋の歩道は両側にありますが、門橋の歩道は片側だけ

都心から離れているせいか、橋の上を歩いているのは私だけ?、みたいな不思議な気分を味わいました

門橋のすぐ下は釣り場になっていて、多くの釣り人が「江戸前」の魚を釣っていました

今日は23度くらい、涼しかったなぁ

(^_^;)~♪

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深川八幡まつりを歩く

深川八幡まつり(富岡八幡宮の例大祭)は、江戸三大まつりの一つ

寛永19年(1642)、3代将軍徳川家光の長男・家綱の世継ぎの祝賀を行ったのが始まり

今年は3年に一度の本祭り、各町会のお神輿(みこし)50基以上が登場

「水かけまつり」の別名通り、沿道の観衆が清めの水をかけまくります

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靖国神社を歩く

▲台湾から来た靖国参拝団?

終戦の日である今日8/15、九段の靖国神社を歩きました(11時半~12時半くらい)

靖国神社は何度も来たことがありますが、8/15は初めて

もっと混んで騒然としているのかと思っていましたが、意外と空いていて静か

(^_^;)~♪

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大田市場を歩く

汁パス(東京都シルバーパス)を手に入れた日の翌日7/2の汁パス散歩

私の父は八百屋(青果商)をしていたので、青果市場に毎朝仕入れに行ってました

子どものころ、父に連れられて青果市場を見に行ったことがありますが、大人たちが大きな声でワーワー騒いでいて、「ケンカしてるのかな?」と少し恐かった想い出があります

もちろんそれは「せり」だったんですけど、まだ子どもだったので、何をしているのか理解できなかった

「せり」では、買いたい価格を手(指)で表しますが、これは江戸時代(1730年、今から300年前)の大阪堂島コメ取引所(米会所)始まる長い伝統です

▲大阪堂島コメ取引所

父が通っていた青果市場は、「荏原青果市場」といって、現在の目黒駅と不動前駅の間にありました

脇を目黒川が流れていて、そこに今でも「市場橋」という橋がありますが、かつて青果市場があったなごりです

▲市場橋

ずっと後になって、都内の青果市場を統合する構想が持ち上がり、「荏原青果市場」は他のいくつかの市場と一緒に統合されて、現在の「大田市場」になりました

品川駅から都バスで大田市場に行けるので、汁パスを手に入れた7/2、大田市場まで行ってみましたが、昔の荏原市場の記憶がかすかによみがえり、なつかしかった

大田市場への統合で荏原市場は廃止になり、跡地に今ではオフィスビルやマンションが建ち並んでいます

毎朝通う市場が遠くなった父は、もう歳だったので、八百屋(青果商)をやめて引退しました

もう30年以上も前の話ですけどね

先日亡くなったMくんは、お父さんが移転前の築地市場で魚屋さん(仲買?)をしていたそうです

生前Mくんは年に数回、五反田のNTT病院での診察があったので、ときどき病院の食堂でランチしました

そのとき、お互い親の仕事つながりで、市場の話をしたこともあります

(T_T)

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