職場で、内部告発者を突き止めようと必死になったBさん
「誰が密告したんだ?チクったんだ?」
「見つけたら徹底的に追い詰める!」
「辞めさせるまでやるぞ!」
とか息巻いて社内調査を進めたが、最終的には上司やコンプライアンス担当役員から厳しく叱責され、被害者たち(内部告発者としてBさんから追い詰められた人たち)に深く頭を下げる羽目になった
ところが、被害者たちはそれでも納得できず、Bさんを加害者として裁判所に提訴した
裁判所は
「Bさんの行為は行き過ぎだ、慰謝料を払え」
と命じた
という、笑い話のような事件(もちろん当事者には深刻な事件ですが)
日本人の大人なら誰でもご存じのように、日本の社会には江戸時代以前からある「村の論理」と、明治以降の「法の論理」があります
この二つの論理は、歴史的に言えば中世と近代という、かなり異なる考え方です
「論理」といいますが、ロジックというより、ルール(倫理、道徳、価値観)に近い概念
表面的には「法の論理」で動いているように見える「法治国家」日本ですが、ときどき「村の論理」が顔を出すことがあり、時には衝突することもあります
「村の論理」で処理しようとしたのに、「法の論理」の出番になったことを、少し前までの日本人は「裁判沙汰(ざた)」などと呼んでいました
特に、頭の中が「村の論理」一色というBさんみたいな人(昔の体育会系に多い)もたま~にいて、思わず笑っちゃうような珍事件を引き起こします
もちろん裁判所は「法の論理」の体現者ですから、原則として「村の論理」は通用しません
「村の論理」が成立したのは、おそらく室町時代の「惣村」の形成と深く関係しているように思われます
警察も裁判所も無かった(ほとんど機能していなかった)時代に、農民が自分たちの生活を自分たちで守るために団結し、その結果生まれたのが「村の論理」
それから500年以上が経過していますが、「村の論理」は今も脈々と生きています
ちなみに、西部開拓時代のアメリカのフロンティアでも、警察も裁判所も無かった(ほとんど機能していなかった)時代がありますが、個人主義の強い白人社会でしたから、団結で身を守るよりも、個人個人が自分で自分の身を守るという方向へ進み、「銃の論理」(銃社会)になりました
それなりの歴史的な必然性でそうなっている訳ですから、急に「銃を廃止しろ!」とか叫んでも、急には変えられない
それは日本の「村の論理」が、急には変えられないのと同じ
(^_^;)~♪