上野駅に登場した横断幕、「自由」を修復しています
いきなり哲学的なテーマでビックリしますが、ここでいきなり「おフランス革命2.0」でも始めるという訳でもなく、駅構内の巨大絵画「自由」を修復するのだそうです
「自由」は、上野駅中央改札口の壁に大きく描かれた、画家・猪熊弦一郎による1951年(昭和26年)の作品名
制作から74年たってますから「修復」も必要でしょうけど、ちょっと見た感じでは、まだ割とキレイですね
(^_^;)~♪
上野駅に登場した横断幕、「自由」を修復しています
いきなり哲学的なテーマでビックリしますが、ここでいきなり「おフランス革命2.0」でも始めるという訳でもなく、駅構内の巨大絵画「自由」を修復するのだそうです
「自由」は、上野駅中央改札口の壁に大きく描かれた、画家・猪熊弦一郎による1951年(昭和26年)の作品名
制作から74年たってますから「修復」も必要でしょうけど、ちょっと見た感じでは、まだ割とキレイですね
(^_^;)~♪
駅でこんなポスターを見かけました
多くの人がそうだろうけど、「デブリンピック」かと思った
太った人たちのスポーツの祭典!
何となくユーモラスな感じがしますね
当然、デブリンピック出場には「一定以上の肥満」が必要
試合前の体重測定では、必死になって水を飲んだりして、基準に合致するように体重アップに頑張る選手の姿とか見れるかも(ボクシングの逆だね)
競技種目に相撲が入るのは当然でしょうね
デブリンピックで最大かつ最も人気のスポーツになるでしょう
もともと日本の相撲は、海外から「デブのレスリング」と呼ばれてたりしますからね(Fat Wrestling)
それで、ファッションセンス記事に続いてまたアメリカ人ネタになっちゃうけど、たぶん圧倒的にアメリカが金メダルを取りそう
とにかく人口に対する「デブ比率」なら、たぶんアメリカがダントツ世界一!
YouTubeなんかでアメリカの街が出ると、とにかくデブだらけ
それも日本なんかにいるデブとは次元が違う、超デブがゾロゾロ歩いてるよ
アメリカのファッションセンスがイマイチなのは、アメリカが「田舎の国」などと書いたけど、アメリカが「デブの国」というのも大いにありそう
やっぱり太っちゃうと何を着てもパッとしないから、ファッションへの関心も薄れそうだよね
なお、「デブリンピック」ではなくて「デフリンピック」に興味のある方は、こちらをご覧ください
(^_^;)~♪
追伸
上の記事の中で「ユーモラスな感じ」と書きましたが、本当は肥満って、健康のためには深刻なことなんですよ
上の写真は、「ドジャース・ワイブズ」(ドジャース奥様会)のパーティー写真
大谷選手が所属する米国MLB(大リーグ)球団、ロサンゼルス・ドジャースの、選手の奥さまたちが集まってパーティーしています
まあ、パーティーでの装いであって、この格好で街を歩く訳でもないとは思うんだけど
何だかちょっと、ド派手すぎるなぁ~!
わざとゴテゴテ奇抜な格好をする主旨の仮装大会か?
と感じてしまうのは私だけ?
ダンナがMLBで活躍する選手なら年収は億単位で、お金はタップリあるんだろうから、もう少し何とかならんの?という気分になる
大谷選手の奥さま真美子さんが、一人だけシックな感じで、「浮いてる」と言うか、世界が違う印象すらあります
着物で参加すればいいのにとも思うけど、そうすると今度は逆に目立ち過ぎちゃうから、遠慮したのかな?
このド派手パーティーなら、着物でも余り目立たないような気もするけどね
ふつうの日本人である私の目から見て、アメリカ人のファッションセンスというのは、ちょっと「いかがなものか?」と感じさせられることが少なくない
はっきり言えば「下品」の一語になるのだが、要するに
「品(ひん)」というものが感じられない
欧米全体で見ても、ヨーロッパ人には余り感じない、アメリカ人のファッションにだけ感じる違和感
逆に言えば、それだけファッションでも何でも「周囲の目」を気にせずに自由気ままに生きられるアメリカ社会(特に西海岸)の良さととらえることも出来る
何かと「周囲の目」に規制されがちな日本社会の息苦しさとは正反対の世界
過去数千年も島国の中で暮らしてきた日本と、最近300年くらいで世界中から集まって来た移民の国アメリカでは、同じ文化になる訳がない
アメリカという国は建国当初から皇室とか王室が無い、つまり「貴族がいない社会」で、平民(非貴族)が文化の主体になってきた
そのせいか、アメリカ人そのものは庶民的でフレンドリーな人が多く、とても親しみやすい
先日、横須賀の米軍基地のイベントに行ったんだけど、その時にいた米兵さんたちも非常にフレンドリーでいい感じでした
これと対極に位置しているのが、ヨーロッパ貴族文化の伝統が強いおフランス人で、悪く言えば尊大で上から目線で常に気取っていて、人を拒絶するようなところがある(だから周辺の国の人たちからメチャ嫌われてるけどね)
気分は貴族だから額に汗して働くのは大嫌いで、いつもカフェでお茶しながら「評論家」を気取っているイメージがある
そんな訳で実労働は何でも移民まかせ、移民なしでは社会が動かなくなり、パリの街を歩けば分かるけど、移民に国を乗っ取られそうな勢い(日本もそうなりつつあるけどね)
おフランス革命で、貴族の多くはギロチンで殺されたけど、その文化(貴族気分)は脈々と生きているのかもしれません
今でもおフランス人のお年寄りなんかには
「アンシャン・レジーム(フランス革命前)に戻りたい」
なんて言う人もいるらしい
文化というものには多面性があるから、ある側面だけを見て文化の優劣を判断するのは早計だとは思うんだけど、やはりアメリカ人のファッションセンスには違和感が付いてまわる
日本やヨーロッパでも、今では公式の貴族制度はほぼ廃止(緩和)されて平民(非貴族)主体の民主主義社会になっているが、長い間続いてきた貴族文化の影響は簡単には消えないし、消えて欲しくない気もする
逆にアメリカには、同じ平民(非貴族)とは言いながらも、貧富の格差(経済的階級)には歴然たるものがあり、世界の超大富豪の多くがアメリカ人だ
ただ、貧富の格差は上下移動が激しいから、貧しい育ちの大富豪みたいな人もいっぱいいて、閉鎖的な上流階級文化(貴族文化)が形成されにくい
文化、特に「品(ひん)」の形成には
何世代にもわたる、永い時間がかかる
そう言えば現大統領の大富豪トランプさんは、親も金持ちだったからエートコのボンボンで育ったハズなのに、着ているものは高価そうだけど、余り「品(ひん)」は感じられないね
話をファッションに戻すと、私の子供時代、母親とその知り合い(近所のおばさん)に付いて商店街の呉服屋(着物屋)に入ると、大人二人が
「派手かしら?地味かしら?」
と盛んにおしゃべりしていた記憶がある
私の子供時代の我が家は貧しい方だったと思うけど、母親は着物だけはいっぱい持ってて、亡くなったときにタンスや押入から大量の着物が出て来て、処分に困った記憶があります
現在の我々より数世代以上前の日本(江戸時代の日本)は、世界史でもマレに見るファッション大国で、町人でも収入の半分近くを着るものにつかっていたらしい
長い平和と都会生活が続くと、人間ってそうなるみたい
何しろ当時、江戸は世界最大の都市だったからね
だから呉服屋は江戸時代の巨大産業で、現在の大手老舗デパートには、江戸時代の呉服屋から発展したところが多い(詳細はこちら)
そんなファッション重視の伝統は、私の母親世代にも、そして多分、現在の日本人にも脈々と生きていているのだろう
私個人は余りファッションには興味がなく、日本人にしてはダサい格好をしている方だと思うけど、たまに渋谷とか原宿を歩くと、若い日本人のファッション重視には感動すら覚えます
特に若い男の子のオシャレがスゴいよ
アメリカ人のファッションセンスがダサい(下品な)理由の一つに、アメリカが「田舎の国」というのもありそう
知り合いに銀座で生まれ育ったおばさん(泰明小学校出身!)がいたんだけど、彼女が東京から少し離れた場所に引っ越したとき、周囲の人たちの着ているものが「ダラシ無い!」と言っていつも嘆いていた
周囲に常に大量の「人の目」がある都会と、人の少ない田舎では、他人から見られているという感覚(つまりファッションセンスにつながる)に差が生じるのは当然だろう
人口密度とファッションセンスには
強い正の相関がありそうだ
アメリカにだってNYとか人口密度の高い大都会はあるけど、あの超絶に広い国土なので、正確な数字は知らないけど、アメリカの田舎人口比率は、日欧よりかなり高そうな気がする
アメリカ人ばかりケナすのも気の毒なので、ヨーロッパに目を転じよう
下の写真を見たとき、私も「合成写真ではないか?」と目を疑った
ドイツのメルケル元首相(70)が、オペラを観劇しているところ
下の記事によると、パーティーやコンサートなどで盛装した女性が肌を見せることについて、日欧には大きな文化差があるらしい
広い世界にはイスラム圏のように、女性が人前で顔すら出さない文化もある
まあメルケルさんは、中国や北朝鮮みたいな共産主義暗黒独裁体制だった旧東ドイツ出身だから、「品(ひん)」を求めるのは気の毒かな?
(^_^;)~♪
▲バイデン一家
アメリカ前大統領バイデン(82)が、家族と一緒の写真(↑)をSNSにアップ
この写真が「不自然だ!」として話題になってる
今はAIで合成写真が簡単に作れるけど、何か不自然な感じが残ったりする
それで、わざと不自然さのある写真を合成して、「どこが不自然か?」を当てるクイズがネット上で流行っていたりもする
上の写真をよく見ると、バイデンは階段の最上段付近にいるのに、背の高さ(頭の位置)が何となくおかしい
立ってるようには見えず、床にヒザをついてる、あるいは階段に腰かけてるくらいの高さなんだけど、スーツ着てヒザをついたり階段に腰掛けたりするかな?
バイデンは在職中に、階段で何度もコケてるから、ちょうどコケて起き上がった(まだヒザついてる)ところの写真なら、さもありなん
だいたい前大統領なんだから、普通はバイデンを中央にして写真とるでしょ
上の写真のせいで健康不安説まで出ている
「すでに死んでいるのではないか?」とか
バイデンは大統領在職中からヨボヨボしていたし、いつみまかっても不思議ではない
遺産相続か何かの関係で、まだ生きてることにしたい事情でもあるのかな?
それに比べて、トランプ(78)の元気なこと!
上のバイデン一家、オシャレとはほど遠い(ダサい)普段着みたいな格好なんだけど、わざと庶民性をアピールしてるつもり?
トランプ一家が常にモデルみたいに超オシャレなのと大違い
実際、トランプの奥さんは元モデルだしね
とにかく私は、ちょっとミステリアスと言うか、ホラーっぽい話がダイスキです
(^_^;)~♪
▲トランプ一家
* * * * * * *
追伸 ローマ教皇フランシスコの葬儀で、
「男性は黒いスーツと黒いネクタイ、白いシャツ」
というドレスコードを無視して、トランプが青いスーツとネクタイで参列し、世界中から非難ゴーゴー
こうゆう
「オレのルールは、オレが作る!」
みたいなオヤジって、面白いから好きです
その下で働きたいとは思わないけど
それでも、トランプは先進国の文明人だから、ルールを破ったことがニュースになってる
これがプーチンとか習近平なら、ルールを守ったことがニュースになるよ
(^_^;)~♪
▲バンジーで飛んだ瞬間(写真をクリックすると拡大します)
前記事(秩父SL旅)の中で、橋の上からバンジージャンプを見る場面があり、
▼108▼飛んだ!(飛んだ瞬間は撮れず)
と書きました
肉眼で見ると、上の写真(▼108▼)のように、かなり遠景です
我々のいた白川橋からバンジーまで、100メートル以上ありました
カメラに望遠(ズーム)レンズが欲しい場面ですが、私はスマホカメラ(光学望遠無し)で撮っているので、上の写真(▼108▼)のように、細かいところは分かりません
飛んだ瞬間の写真は撮れませんでしたが、女性が両手を広げて飛んでいたのが、ハッキリと肉眼で見ることが出来たので、脳裏に焼き付きました
ところが、一緒にいた竹永さんが、その飛んだ瞬間の素晴らしい写真を、望遠レンズで撮っていたのです!
写真は瞬間芸術で、動く被写体の
一瞬を切り取るところに醍醐味がある
だから動画よりも写真(静止画)の方が奥が深い
と私は思っておりますが、竹永さんはまさに、一瞬を切り取る天才です!
事前に周到に準備して、前もってカメラを構えて待っていても、上のような絶妙な瞬間の写真を撮るのは非常に難しいと思うのです(高速連続撮影カメラを使えば別ですけどね)
昨日の我々はバンジーの存在を知らず、たまたま白川橋の上を通りかかったら、偶然あの場所でバンジーをしていたのを見かけただけなのです
ジャンパーがいつ飛ぶのか、まったく知らなかったのです
それで上のような一瞬を切り取れるのは、まさに天才です
下の写真は、バンジージャンプが終わって、引き上げてるところです(これも竹永さん撮影)
写真をクリックすると、女性の表情がハッキリ分かります
私は、スマホカメラ(光学望遠無し)の性能がそこそこ良いので、スマホとは別にカメラを持とうとは今まで思っていなかったのですが、やはり望遠レンズのパワーは馬鹿にできませんね
実は竹永さんには、先日3/24の記事(横須賀の米軍基地を歩く)でも、天才的な一瞬切り取り写真がありました
下の写真、星条旗の一瞬のハタメキ具合、素晴らしいですね
(^_^;) スゴイ !
* * * * * * *
追伸 竹永さんからコメントいただきました:
かなり ズームで撮っていたので 飛び降りる瞬間にしても
よくあのフレームに収まったものだと僕もびっくりしてます
「漫画訳・雨月物語」という本を読みました
元になっている「雨月物語」は、江戸時代の作家、上田秋成の作品で、日本の中世を背景にしたホラー(怪談)話を9話ほど集めています
私は映画でも小説でも、ホラー系ダイスキ!なので、ついつい引き込まれます
つい最近も、春日武彦という精神科医の書いたホラー系の本にのめりこんだばかり
「雨月物語」は、石川淳が現代語に訳してますし、映画にもなってるので、その名前をご存じの方も多いかと思います
マンガですからスグ読めたんですが、その9つあるホラー話の冒頭に「白峯」という話があり、崇徳院と歌人の西行が、あの世とこの世の壁を越えて語り合うというオカルトっぽい内容です
崇徳院は、日本の三大怨霊(おんりょう)として有名な崇徳(すとく)天皇で、歴代の天皇の中でも最も不幸な死に方をした人
この世に未練と恨みを残して死んだために成仏できず、いろいろと厄介な「祟り(たたり)」を巻き起こして生者を苦しめる、と信じられてきました
能の「松山天狗」も、これを題材にしています
この祟りという考え方は、日本人の心性の非常に深いところにあって、日本の歴史に大きな影響を与えているだけでなく、実は我々現代日本人のメンタリティにも大きな影響を及ぼしています
祟りと似たようなものに「言霊(ことだま)」があり、
何かの悪い言葉を口にすると、それが現実化する
という一種の信仰
今でも、誰かが悪い(ネガティブな)言葉を発すると
「そんな縁起でもないこと言うな!」
などとたしなめる人がよくいますよね
自己啓発系の成功哲学には
「常に前向き、建設的な言葉を発していれば
それはいずれ現実化して成功できる!」
というプラス思考(ポジティブ・シンキング)の考え方がありますが、それのネガティブ・バージョンでしょうか?
日本人が幕末明治以降、西欧文明に接してほぼ2世紀
表面的には「自由」「権利」「進歩」みたいな西欧型の合理的概念に慣れています
でも日本人の心の深いところには、祟りや怨霊、言霊のような心性を脈々と残している
それは時には、スピリチュアルなものに引き込まれる動機にもなったりして(若い女性に多い)、メンタル面を重視した企業のマーケティング戦略にも影響を及ぼしたりする
崇徳院はこの世に恨みを残して死にますが、その元になった政治的事件が保元の乱
日本史上の有名な事件で、大学受験の受験科目に日本史を選んだ方はよくご存じだと思いますが、私は理系だったので今回改めて保元の乱について調べました
この事件(乱)は、天皇家の跡継ぎ問題から始まっていて、現代の愛子さまと秋篠宮の関係を思い起こしてしまいます
結局、後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇(崇徳院)は破れて讃岐(現代の香川県)へ流され、二度と京(みやこ)を見ることなく亡くなります
このとき、両軍の戦略立案を担ったのが
崇徳方の藤原頼長(敗者)
後白河方の藤原通憲(信西)(勝者)
両者ともスゴい切れ者で、現代の官僚なんかによくいる秀才タイプ
ただし、頼長は藤原氏の中でも主流派(嫡流)に生まれたエートコのボンボン
信西はそうではなかったので、自分も藤原氏でありながら藤原氏主流派に恨みを持ち、保元の乱に勝利すると着々と藤原氏主流派つぶしを始めます
その信西も、数年後の平治の乱に破れて死に、首はさらしものに
保元の乱は後白河天皇方が勝ったとは言いながら、実は本当の勝者は武士でした
乱の勝敗を決したのは武士の軍事力だったので、当然と言えば当然です
この事件からのち、政治の実権は徐々に武士へ移り、天皇家と摂関家(藤原氏主流)はパワーを失って「飾り物」になっていきます
その意味で保元の乱は、時代が古代から中世へ移り変わる画期的な事件でした
少し大ざっぱな言い方をすると、世界に多くの国家や民族がある中で、歴史的に中世という時代をきちんと経ているのは西欧と日本だけで、ほぼ現代の先進国と一致します
これを偶然と見るか、歴史の必然と見るか、なかなか面白いところです
(^_^;)~♪
渡辺明 藤井聡太
いま世間では、夫婦別姓とかでモメてますが、「将棋の渡辺くん」こと渡辺明九段が、奥さんと離婚後も「一緒に暮らしていく」と公表した
離婚後も同居を続けるという、やや珍しいケース
離婚したら同居するな!などという法律は無いから、本人同士がOKなら別に問題なしだけどね
結婚するときは、
結婚と同時に同居をスタートする最もポピュラーなAコース
とりあえず籍だけ入れて、一緒に住むのは少し先というBコース
まず同居(同棲)して、心や体の相性などゆっくりじっくり確かめ合ったりしながら、いろいろあって籍を入れるCコース
があって、すでにAコースよりCコースの方がポピュラーかもしれないね
逆のコースでは
不倫が発覚したりして、まず別居して(Dコース)、いろいろあって離婚したり元の鞘に収まったり
というのが世間では多いような気がするけど、今回のように
離婚はするが同居は続ける(Eコース)
というのは、まだ珍しいケースなんじゃないかな?
動機がよく分からないけど、Cコースで結婚したカップルが
「とりあえず一段階、元に戻そう」
ということかな?
あるいは、マスコミ向けの話題づくり?
男と女の関係の新しいスタイル?
ちなみに、渡辺明九段には「魔太郎」という愛称がある
藤子不二雄A作のマンガ「魔太郎がくる」のキャラクターに似ていて、本人も似ていると認めているらしい
まあ、見た目もキャラもとがっていて、マンガにしやすい人のようです
(^_^;)~♪
若いころの渡辺明と「魔太郎がくる」
* * * * * * * * *
将棋の渡辺明九段(40)が、妻で漫画家の伊奈めぐみ氏と、昨年に離婚していたことを発表し、ネット上で話題となっている。
渡辺はX(旧ツイッター)で
「昨年、離婚しました。(足のケガとは関係ありません)」
「『将棋の渡辺くん』を通じて、夫婦で応援して下さった方に申し訳なく思います」
「膝手術の前から、まともに動けていないので、妻(元)にはかなり迷惑をかけています。世話だけでなく弱音を言っては話し相手をしてもらって、励まされています」
「今後も一緒に暮らしていくので、引き続きマンガの応援をするのと、自分もケガからの回復を目指して頑張りたいです」
と書いている。
渡辺が伝えた離婚後も同居するという「離婚同居」についての書き込みが相次いだ。
「結婚の形も変わっていくし、離婚の形も変わっていく」
「渡辺明九段と伊奈めぐみ氏 『同居離婚』 新しい形だな」
「今年一番驚いたニュースだわ まぁ仲たがいじゃないみたいだしありかもですね」
「同居離婚か。べつに憎みあっていないのだからこれはありやね」
「渡辺明九段、離婚してたってマジ!? 同居も続けるって…新しい形の家族?」
「21年暮らしたけれど、同居はするということらしい。彼ららしい。お子さんも成人されてるし、理解は得られるだろ」
「離婚したのに同居ってどゆこと? なんちゃって夫婦別姓か?」
伊奈氏は漫画家として夫の渡辺を題材とした「将棋の渡辺くん」で知られ、伊奈祐介七段の妹にあたる。
2人は04年4月、渡辺が19歳の時に結婚。
同年7月に長男が誕生していた。
* * * * * * * * *
追伸ニュース
将棋の渡辺明九段の元妻で漫画家の伊奈めぐみ氏が8日、自身のX(旧ツイッター)を更新。
離婚後の2人の関係性について漫画で端的に語った。
伊奈氏が2人の夫婦生活を描く漫画「将棋の渡辺くん」の最新話告知を受け渡辺九段は7日、自身のXを更新。
「昨年、離婚しました。(足のケガとは関係ありません)
『将棋の渡辺くん』を通じて、夫婦で応援して下さった方に申し訳なく思います」
と離婚を報告していた。
離婚後も同じ屋根の下でともに暮らしているそうで、その2人の支え合いの形には多くの反響が寄せられた。
伊奈氏は8日、「エゴサーチしたら、色んな人が持論を語っていた」と世間の声について言及。
「それらに対しまとめて返事、としてコレを貼っておこう」とポストし、漫画の1コマを投稿。
「誰も他人の家庭のことは理解できないから」
と漫画のコマのセリフでアンサーした。
先日のコンサートで実物を観察したオンド・マルトノ
奇妙なカタチをした絶滅危惧楽器
雅楽の背後にある大太鼓(下図の左上)を連想するのは前述の通り
実は、もう一つ連想するものがありました
ムンクの叫び
(^_^;)~♪
10/25、11/29、新宿高生が、「総合的な探究」授業の一環として、新宿御苑で美化・清掃活動を行いました。
この美化・清掃活動は、2007年から毎年実施されています。
今回は1年生、8クラスの生徒が参加しました。
ホンダの創業者、本田宗一郎は65歳で引退した
この引退にもいろいろドラマがあるのだが、それは置いて、引退後のエピソード
本田宗一郎は「仕事一筋」で生きてきた人なので、引退して家にいてもすることが無い
まだ65歳だから元気はある
人に勧められて、世間でいわゆる「趣味」と呼ばれるものをいろいろ始めてみたのだが、どれもイマイチ退屈で飽きてしまい困ったそうだ
逸話として聴いた(読んだ)話なので、どこまで事実なのか、困ってからどうしたのか、その辺の詳しいことは知らない
ただ本田宗一郎にとって、
「仕事一筋」(新しいものを創造する楽しさ)
の世界は、
「趣味」(出来上がった作品を味わう楽しさ)
の世界に比べると、次元が異なるほど底抜けに楽しかったのではないかと思う
趣味にも創造的な要素はあるが、やはり仕事のそれとは次元が違うのだろう
仕事からそのような底抜けの楽しさを感じ取れる人は、おそらく少数派だ
だが優秀なエンジニア、ビジネスマン、創業者、研究者、芸術家などには、そんな人が少なくないように思われる
仕事を通じて自分で何かを創り出し、それを見たり感じ取ったり出来る人は幸せだ
工場の流れ作業のような単純作業がツライのは、それを感じ取ることが難しいからだ
* * * * * * *
文豪の永井荷風(→)は「人生に三楽あり」と言った
読書と酒と女だそうだ
彼はかなり自分勝手な人間で、他人の都合など構わず、人生の楽しみを味わい尽くしたような感じの人だ
そんな人の言葉なので、それなりに真実味がある
だが荷風が本当に楽しかったのは、文章を書くことだったと思う
読書と酒と女というのは、その合間の、やや息抜きのような楽しみ
どんなに楽しいことでも、そればかりずっと続けていると集中力が持たなくなったり、一時的に飽きてきたりするので、息抜きというのは必要だ
私は、人生の知的な楽しみには2種類あると思っている
創楽(そうらく):自分で何かを創り出す楽しみ
受楽(じゅらく):他人が創り出したものを味わう楽しみ
創造には苦しみの側面もあると思うが、それでも創楽の真髄に触れると、受楽など詰まらなく感じて、せいぜい息抜き程度になるのかもしれない
天才は創楽を味わう、と言うより、創楽を味わって「仕事一筋」に生きたから、結果として世間から「天才」と呼ばれるようになったようにも思える
「仕事一筋」などと聞くと、世間の平凡な人は「無趣味の詰まらない人間」をイメージすることが多いだろうし、確かにそんな人間もいると思う
だが実は「仕事一筋」の人の中に、「人生の本当の楽しみを味わい尽くしている人」がいるのではあるまいか?
何かに挑戦して失敗した人を見て、批判したりあざ笑ったりする人がいるが、そんなあざ笑う人こそ「人生の本当の楽しみ」から最も遠いところにいるように思える
(^_^;)