幕末

「氷川清話」を読む

先日、「勝海舟記念館」を歩いたので、久しぶりに「氷川清話」を読みました

幕末明治の英雄である勝海舟が、その晩年に自らの人生を振り返って話した内容の談話録ですから、口語体で非常に読み易い

ちゃきちゃき江戸っ子言葉で、歯切れが良いが、少し話しを盛る(大げさに言う)クセがある

「氷川」というのは、晩年の海舟が住んでいた屋敷が赤坂氷川神社の近くにあったからで、現在の六本木ミッドタウンの裏あたり

昔のお屋敷街の雰囲気が現在も残っていて、私はこのあたりをよく散歩します

晩年の海舟は、この屋敷の中の自分の書斎を「海舟書屋」と呼び、ものを書いたり、人を招いて談話をしたりして過ごしていました

海舟書屋の名付け親は佐久間象山で、象山が海舟に贈った上の額にちなんでいます

象山と海舟は互いを高く評価し合い、象山は海舟の妹を妻にしている

このとき象山は41歳、海舟の妹は17歳(24歳差)

象山はかなりの変人ですが、幕末の日本では一二を争う国際事情通で、早くから開国を説いていたために攘夷派から憎まれ、最後は53歳で暗殺されてしまいました

海舟も開国派でしたから常に命を狙われていて、九死に一生を得たような話が「氷川清話」にはたくさん出てきます

海舟が77歳(満75歳)と、当時としては長寿を全う出来たのは、まさに奇跡!

晩年の海舟は、この海舟書屋から、自らを「海舟」と名乗ります(本名は、勝義邦よしくに)

海舟は若いころから非常に筆まめな人で、大量の書き物を残しており、また人を招いて談話するのも好きだったようで、海舟書屋には海舟の話を聴こうとして毎日のように客が来ていました

夏目漱石もその書斎に毎日のように門下生(芥川龍之介など)がやってきて談話に花が咲いていたようですから、政治家と文学者という違いはあるにせよ、似たような雰囲気だったのかもしれません

むやみに威張ったり、人を叱りつける人のまわりに人は集まりませんから、海舟も漱石もよくしゃべり、人の話も素直によく聴く人柄だったのでしょう

「氷川清話」は、そんな雰囲気の中での海舟の談話をまとめた本です

文庫にもなっていますが、今回は中央公論社「日本の名著」シリーズの「勝海舟」で読みましたので、その冒頭に江藤淳さんの紹介文「海舟論」もあり、これがなかなか素晴らしかった

さすが文芸評論の第一人者だけあって、非常に格調高い文章で、単なる紹介文の域をはるかに超えています

私は大学時代に一般教養で江藤淳さんの授業を選び、その中で勝海舟を知りました

江戸っ子言葉で歯切れが良かった海舟ですが、少々人を食ったような皮肉っぽい軽口も多く、そのために敵を作ることもあったようです

福沢諭吉から嫌われたのも、そのせいかもしれません

海舟が咸臨丸の艦長として米国から戻ったころ、江戸幕府の老中が

「米国が日本と異なる点は何か?」

と質問します

海舟は「同じ人間だから、さほど異なる点は無い」と答えると、老中はなおも「そんなことはあるまい」と続けるので、海舟は

「強いて言えば米国では

人の上に立つ者は皆それなりに優秀でした

こればかりは日本とは正反対でした」

と答えたので、老中は「無礼者め!」と怒った

という話が「氷川清話」の中にあります

(^_^;)~♪

勝海舟が設計した砲台

梶原台場」は、幕末の動乱期、倒幕を狙う長州藩の藩士らの上洛を防ぐために築造された砲台です

勝海舟が設計責任者で、その遺構が、大阪府高槻市内で初めて見つかりました

高槻市は今日2/28午前10時から現地説明会(上の動画)を開きました

倒幕と言うと、

勝海舟と西郷隆盛が会見

英雄同士が意気投合し

無血開城が決まって一件落着

みたいな、簡単に済んだようなイメージもありますが、その背後では勝海舟も西郷隆盛も、権謀術数の限りを尽くして着々と戦争準備を進めています

戦争(内戦)なんですから当然ですけど、両軍のトップが会って簡単に事が済むなら、世の中から戦争なんて、とっくに無くなっています

おそらく「戦争の天才」大村益次郎の立てた江戸攻略作戦が完璧すぎて、それを勝海舟ら幕軍トップがよく理解(状況判断)し、無駄な負け戦(泥沼を避けたというのが実情でしょう

武装解除の命令に反して決起した幕軍の残党(彰義隊)が、わずか数時間で壊滅したことからも、大村の立てた作戦の完璧さがうかがえます(それにしても大村は、どれほど脳が大きかったのだろう?)

これには水戸学(尊皇思想)に傾倒していた「最後の将軍」徳川慶喜の

「大君(おおきみ)に向けて弓は引けない」

という意向も反映していたはず(大君=天皇)

官軍の背後にはイギリス、幕軍の背後にはフランスがいましたから、泥沼の代理戦争に踏み込む可能性は十分にありました(アメリカは南北戦争で、それどころではなかった)

実際、徳川慶喜のお膝元の水戸藩では、天狗党などの悲劇が泥沼の様相を示しています

この理解(状況判断)が出来ずに、無謀な戦争の泥沼に踏み込む愚かなリーダーが、世界の歴史には山ほどいます

人間に闘争心や向上心がある限り、地上から戦争は無くならないと思いますが、勝てない戦争(泥沼は絶対に避けるべきです

昭和19~20年の日本も、同盟国の独伊が消えて明らかに負けが見え、降伏すべきタイミングがあったのにそれを逃し、最後の泥沼の中で多くの貴重な命が失なわれました

第二次大戦での日本人の死者数は、大まかに総計300万人と言われてますが、最後の昭和19~20年で、この半分くらいが亡くなっているのではないかな?

仮に15か月間に150万人とすると、平均で毎月10万人、毎日3000人以上が死ぬ

(死ななくても、手足を失うような大怪我をする人は、この10倍くらいか)

東日本大震災による死者は約15900人ですから、毎週これ以上の人が死ぬ状態を、1年以上も続けてしまった

イタリアとか見ていると、「負けるのが上手だなぁ」とつくづく感心します(単に弱すぎるだけかもしれないけど)

第二次大戦におけるイタリアの死者数は、大まかに30万人(日本の10分の1)

今日2/28、米国とイスラエルがイランとの戦争を始めましたが、果たして短期勝利できるのか、泥沼に踏み込むのか?

((((;゚д゚))))

梶原台場の記事へ

勝海舟を歩く

勝海舟

大学時代に江藤淳さんの授業「福翁自伝を読む」で、勝海舟「氷川清話」を読み、興味を引かれました

福沢諭吉(福翁)は、慶應義塾大学の創立者で、最近まで1万円札の顔だった人

勝海舟は、日本海軍の生みの親で、官軍の西郷隆盛と直談判して江戸無血開城を実現した人

この福沢と勝の関係は水と油でしたけど

どちらも超一流の人物で非常に面白い!

福沢が彼の主催していた新聞「時事新報」で

瘠我慢(やせがまん)の説

(幕府側で重要な役職にいたにもかかわらず、明治政府の要職についたのは、「武士道の精神」に反する振る舞いだ!)

として勝を批判したとき、勝は

行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候

(出処進退は自分が決める、悪口称賛は他人の主張、私には関係ない)

と答えて、まったく相手にしなかったのは有名

江戸時代の封建主義(門閥制度)を嫌い、福翁自伝の中で

「門閥制度は、親の敵(かたき)で御座る」

とまで言い、日本の近代化を推進した福沢が「武士道(主君に対する忠義)を説く」というのは、少々無理があるような気もします

理知的な福沢があえて無理な批判をした背景には、福沢が生理的に勝を嫌っていたことがありそう

二人は同じ船(咸臨丸)に乗ってアメリカへ行ったこともありますが、勝(咸臨丸の艦長)には後輩や年下を馬鹿にしてからかうクセがあったので、勝の軽口が福沢のプライドを傷つけ、根に持った可能性もあります(勝は福沢より11歳年上)

氷川清話」を読むと、ほぼ口語体で書かれており、勝の少しハッタリの効いた、歯切れが良くてズバズバ結論を言う、ちゃきちゃきした江戸っ子ぽい話し方が伝わって来ます

大阪で学問したマジメな「学者」福沢と、ちゃきちゃき江戸っ子の「政治家」勝は、気性が合わなかったのかもね

(^_^;)~♪

詳細はここをクリック

▲勝海舟のお墓の前にいたニャンコ (^_^;)~♪

一夜城と福翁自伝

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先日、小田原の一夜城(石垣山城)に登りました

城の建物はありませんが、石垣の多くは残っており、駐車場の近くにパティシエ鎧塚俊彦(→)の「ヨロイヅカファーム」もありました

天下統一の総仕上げ、秀吉が北条攻めのために「一夜で築いた」と言われる城なので、急ごしらえのチャチな城かと思っていたら、一の丸、二の丸、天守閣まである壮大な城でした

これを一夜ではないにしても、わずか88日間(3か月弱)で築いたと言うからビックリ

城から小田原市街が一望できます

日本一堅固と言われていた北条の小田原城は平野に立つ平城なので、山の上に立つ一夜城(石垣山城)の天守閣から、秀吉は小田原城を見下ろしたのでしょうか

いきなりすぐ近くに壮大な城が出来たせいか、北条は戦意を失い、すぐに降伏しています

秀吉はその生涯で多くの名城を築いていて、「秀吉は建築家だった」と言う人もいる

海岸付近から歩いて標高260mまで、距離的には往復10キロ4時間くらい登り下りしたので、ほとんどは舗装された道路でしたが、かなりの脚力強化になったような気がします

家を出るときは雲っていて、その前数日間より涼しかったのですが、登っているうちに晴れてきて暑くなり、汗だくだくになりました

城から下る途中にあった自動販売機のポカリスエットが死ぬほど美味しかった

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行く前にグーグルマップ(↑)で下調べをしたら、松永記念館というのが目に付きました

もしかして「電力の鬼」松永安左エ門?(→)と思ったら、まさにその通りで、松永が晩年を過ごした邸宅が没後に記念館になっています

一夜城に登った帰りに寄ろうと思ったのですが、暑さでその気が失せ、次回の楽しみにしました

現在の民営電力会社地方分割9社体制は松永の主張によるもので、旧国鉄のような公営1社全国独占体制を考えていた当時の政界の動きを封じて、自由競争体制による効率経営を実現しました

その後の国鉄の腐敗堕落と大赤字、さらに分割民営化への国家的大混乱を考えると、いかに松永に先見の明があったかが分かります

現在もまだ1社独占体制を続けて底なしの腐敗堕落(ケタはずれの高給&高受信料)の極みに達している公共放送NHKも、早く解体整理してもらいたいものです

小田原から帰宅して、松永の著書「人間福沢諭吉」を読みました

その中で松永は、福沢諭吉を「日本史上の三大偉人」として持ち上げています(残り二人は、聖徳太子と弘法大師空海)

松永が慶應義塾に在学したころまだ福沢諭吉は存命中で、三田のキャンパス内にあった福沢の自宅に松永はたびたび押しかけ、直接の薫陶を受けています

特に面白かったのは、松永と福沢の最初の出会いの場面

慶應義塾で教授に廊下ですれ違う時に丁寧なお辞儀をしていた松永に向かって、粗末な服装をした変なじいさんが近より、

「教師に向かって、そんな丁寧なお辞儀をするな!」

と言うのです

「三尺下がって師の影を踏まず」という伝統的価値観が生きていた時代に、それとは真逆なことを言う変なじいさんに松永は驚くのですが、それが福沢でした

福沢が言うには、

「ここ慶應義塾において

 教師も学生も共に学問する仲間だから同列で

 身分の上下などは無いし、あっては困るんだ!」

ということでした

松永の著書「人間福沢諭吉」は、「福翁自伝」からの引用が多いので、いままた「福翁自伝」を読み始めています

「福翁自伝」を読むのは今回で3回目ですが、グイグイ引き込まれるような面白さ

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最初に読んだのは大学時代、江藤淳先生(→)の授業「福翁自伝を読む」でこの自伝の存在を知りました

私は江藤淳先生から「直接の薫陶」は受けておりませんが、多大な影響を受けています

次に読んだのは30代の半ば、そして今回と、それぞれ感じるところが微妙に違います

福沢諭吉は66歳で亡くなっており、「福翁自伝」が書かれたのは63歳のとき

明治時代の63歳は、立派に「翁」だったのですね

いま「福翁自伝」の半分ほど読み終えたところで、貧乏書生がいきなり咸臨丸による万延元年遣米使節団トップのところへ押しかけて「私も乗せて行ってください」と頼むあたり、福沢の押しの強さを感じます

「日本史上の三大偉人」の一人、空海が遣唐使船に便乗するのと似ています

そして使節団トップが「ああ、いいよ」と簡単にOKするのですが、国家を代表する外交使節団に、どこの馬の骨とも分からぬ貧乏書生が紛れ込めたことに驚きです

福沢の洋学知識や押しの強さもさることながら、当時の牧歌的な雰囲気も感じます

このときの咸臨丸の艦長が勝海舟で、通訳としてジョン万次郎も同乗していた

関西育ちの福沢諭吉と、チャキチャキ江戸っ子の勝海舟は、ウマが合わなかったようで、「福翁自伝」でも勝海舟のことを余り良くは書いていません

空海も福沢も、行った先で文献を買いまくって日本へ持ち帰り、日本のその後の文明化に多大な貢献をしています

 

閉館 土方歳三資料館

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 元祖ジャニーズ系ですから

  ジャニーズ事務所が買い取って

 継続させたらどうでしょう?

 これとは別に

  日野市立新選組のふるさと歴史館

 というのもあって、こちらは閉館しません

今回「休館」とありますが、再開時期未定の長期休館で、民間(ご子孫)のよる運営ですから、このまま再開せずオシマイという可能性もあります

  (T_T)

 

幕末に活躍した新選組の副長・土方歳三(1835~69年)の遺品などを、土方歳三の生家跡に展示してきた「土方歳三資料館」(日野市)が、10月末で休館する。

土方歳三ゆかりの品を見学できる生家跡として、30年近く全国のファンに親しまれてきた。

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土方歳三の兄の子孫である土方愛館長(50)は

「今後は違った形で土方歳三の息吹を

 感じられる方法を考えていきたい」

と話し、一区切りを付ける決意をした。

土方愛館長は、木造平屋建ての土方歳三の生家で生まれ育った。

蔵で保管していた土方歳三の遺品を見たいと訪ねて来る人が後を絶たず、家の建て替えを機に、一部を資料館として1994年に開設し、遺品や史料を公開してきた。

土方歳三が少年時代、風呂上がりに相撲の張り手のけいこをしていたと言われる生家にあった大黒柱は、資料館入り口の 梁はり として残っている。

詳細はここをクリック

 

池上線まつり

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 兄の目蒲線は分断されてしまったけど

  弟の池上線は無事に走ってます  (^_^;)

 

「池上線全線祭り」が11月23~24日、五反田駅から蒲田駅を結ぶ東急池上線沿線で実施される。主催は東京急行電鉄。

同イベントは、東急池上線沿線の活性化を目的とする「『生活名所』プロジェクト」の第2弾。

昨年10月には、同プロジェクト第1弾として「池上線フリー乗車デー」を開催した。

乗車数は約56万9000人、池上線の認知度は63.7%(イベント前54.3%)となった。

同イベント広報担当者は「昨年は地域の商店街や店舗、企業の方々に協力いただき盛況だった。今回も地域の方々を中心にイベントを盛り上げていくことで、池上線沿線の魅力を伝えられたら」と話す。

当日は、東急池上線各駅でさまざまな企画イベントを行う。戸越銀座駅と池上駅の各商店街では、店舗前にテーブルを設置し、名物メニューを食べ歩きできる「ストリートビュッフェ」を展開。洗足池公園では、ボートハウス屋上をテラスとして開放するほか、ボートの無料乗艇(先着109組限定)を行う。

今年は江戸無血開城150年にちなみ、勝海舟と西郷隆盛のゆかりの地を巡る「幕末・明治スタンプラリー」とのコラボ企画も行う。

勝海舟の別荘があった洗足池と西郷隆盛が本陣を置いた池上本門寺周辺の店にスタンプ台を設置し、鹿児島県産食材を使った「勝丼」「せご丼」を販売する。

洗足駅と池上駅では、スタンプを集めて参加できる「無血開城抽選会」を行う。

そのほか、東急線各駅で現在販売している「東急ワンデーチケット」(660円)を提示すると、池上線沿線の200店以上で使える特典も用意する。

「ほっとスポット戸越銀座」ではコロッケ1個と引き換えできる「歩きコロッケカード」、洗足池駅近くにある鮮魚店「魚忠」では100円サービス券、久が原駅近くの「昭和のくらし博物館」ではオリジナル絵はがき進呈を行う(以上、準備数無くなり次第終了)。

担当者は「今回は持ち帰り用のごみ袋やマナー啓発の冊子を配布するなど、環境面にも気を配った。一路線全駅でイベントを行うのは首都圏の鉄道会社では初の試み。ぜひワンデーチケットで、一駅一駅を楽しんでもらえれば」と呼び掛ける。