陸上自衛隊の第一空挺団(パラシュート部隊)
創立67周年の記念行事
第一空挺団の歴史は、朝陽27メンバーの人生と重なります
(^_^;)~♪
陸上自衛隊の第一空挺団(パラシュート部隊)
創立67周年の記念行事
第一空挺団の歴史は、朝陽27メンバーの人生と重なります
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上の2枚の写真は、今朝の朝散歩で、近所の牛丼「すき家」を撮ったもの
我が家の近所(品川駅周辺)には、すき家2軒と吉野家1軒があります
駅の規模が大きい割に、飲食店などが並ぶ繁華街の規模が小さい、というのが品川駅地元民の不満
私は舌が余り敏感ではないようで、微妙な味の違いが感じ取れず、すき家と吉野家の違いもよく分からない
何を食べてもけっこう美味しいし、牛丼は特にダイスキ
他に寿司と焼肉とハンバーグが好き(超子供舌)
ただ食べるのが異常に遅い(これは直りそうもない)
写真1枚目が港南二丁目店で、ここが近いのでよく行きます(月に2~3回)
そんな愛用している「すき家」さんですが、今日は臨時休業
数日前から「すき家」全店休業してる
もちろん、例の「ねずみ汁事件」のせいです
個人経営の外食店で料理にゴキブリ混入くらいは、実はザラにある話で、外食産業でバイトとかしたことのある人は、余りの不潔さに「外食したくなくなる」とかよく聞きます
むしろ「すき家」さんは、客席からよく見えるところに厨房がある店が多いので、かなり清潔な方ではないかなぁと思っています
ただ今回のように、味噌汁の中にネズミが泳いでるような生々しい映像がネットに流れると、巨大外食チェーンの本部としても放置することができません
今回の全店休業措置(売上減24億円)を決定するにあたり、「すき家」の経営トップは、死ぬほど悩み、熟考したのではないかなぁと推察します
で、その「すき家」を経営しているのが
外食チェーン「ゼンショー」のトップ
都立新宿高校出身の小川賢太郎氏
ということで、朝陽27につながってくる訳です
「ゼンショー」の本部が、品川駅の駅ビル(JR品川イーストビル)に入っているので、地元企業的な親しみも感じています
小川賢太郎氏は、都立新宿高校から東京大学に進学するも、全共闘運動にのめり込みすぎて中退
その後は港湾労働者として汗を流し、大学の外での労働運動に身を投じた
音楽家の坂本龍一より少し上の世代で(1948年生まれ)、全共闘運動に巻き込まれて共産主義に洗脳され、一時は道を踏み外したかと思いきや、そこから猛然と反撃に出て、今や日本の外食産業を代表する「外食王」
共産革命に情熱を燃やし、20代はいろいろ回り道してます
外食業界に足を踏み入れたのは1978年、30歳ころに吉野家に入社してから
吉野家で働きながら牛丼店のノウハウを学び、コツコツ貯めた500万円を元手にささやかな弁当屋からスタート
そして今やグループ店舗数 1万5109店(2024年3月末)という巨大企業グループを築き上げた、まさに立志伝中の人物
若いころは労働者の味方となって革命運動に奔走し、やがて経営者(資本家)として成功する
英国首相チャーチルの言葉を思い出しますね
20才で保守なら情熱が足りない
40才でリベラルなら知能が足りない
If you are not a liberal at 20, you have no heart.
If you are not a conservative at 40, you have no brain.
外食産業では、YouTubeに不潔なイタズラ動画が流れた「くら寿司」とか、たびたび社会問題化しています
今回の「ねずみ汁事件」も、悪質なイタズラではないかとの憶測もありますが、真相は闇の中
今回の「すき家」一斉休業という決断には、災い転じて福と成そうという、小川賢太郎氏の不屈の闘魂のようなものを感じます
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小田急デパートに続き、先月(3月)に新宿ミロードが閉館、京王デパートも再開発プランを発表し、新宿駅再開発が着々と進んでいます
再開発の目玉は、東京都庁を上回る、高さ約260m、48階建ての超高層ビル
都市開発を戦争に例えると、超高層ビルは最前線の戦闘場面
華やかなデパートや商店の売り場は、日々激しいマーケティング戦争の現場です
それを支えるのが物流機能(ロジスティクス)なのですが、日本人の国民性には、物流軽視という致命的な欠陥があるような気がします
旧日本軍では物流を輜重(しちょう)と呼んでいましたが、最前線の戦闘を重視するあまり輜重(物流)を軽視したことが、最前線での武器弾薬不足や兵士の悲惨な飢餓を招き、戦争に負ける大きな原因となりました
現在の物流トラックドライバーの加重労働問題などの根底にも、この物流軽視があるのではないかと気になります
日本最大の繁華街である新宿では、衣料品や食品が大量に消費されています
これを支える物流機能の整備が追いつかず、路上荷さばき問題など諸々の混乱が生じているようです
このことを扱った記事をみつけました
▲新宿駅西口の超高層ビル 完成予想図 高さ約260m、48階建て
▲高輪プリンスホテル(高プリ)日本庭園の桜が満開です
今朝(3/31)の朝7時前、外気温8度、かなり寒い
花見なんかしてる人は、ほとんどいない ((((;゚д゚))))
写真をクリックすると拡大します
▲御殿山花見之圖
高輪(御殿山)は江戸時代まで東京湾に突き出た高台で桜の名所
高台へ登る坂道に手すり用の縄を張ったので、高縄→高輪
現在の品川駅あたりが海岸で、その先は海、房総半島まで見えた
上の浮世絵の下の方に見える街並みは東海道品川宿で大繁華街
▲クリックすると拡大します
朝陽27会の立花さんからオペラのご案内メールをいただいたので、ここに転載させていただきます
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皆さまこんにちは。
ジェットコースター並みの気温の変化ですがお元気でいらっしゃいますか?
さて、オペラのご案内をさせてください。
今回はプッチーニ作曲の「ラ・ボエーム」。
音大同級生の井ノ上君(今や二期会を代表するテノール)と久しぶりの共演となりました。
彼は詩人ロドルフォ、僕は画家マルチェッロ役。
4月27日 (日) 14:30開演、曳舟文化センターホールにて。
アマチュアですがフルオーケストラでの公演となり僕も演奏を楽しみにしています。
チケットのお問い合わせはbaritoshi112★gmail.com か bartoshi★a.toshima.ne.jp まで宜しくお願い致します。(★→@)
同報メールにて失礼いたしました。
チラシを添付しましたのでどうぞご覧ください。
立花敏弘
新宿高校出身こじのりさんのライブスケジュールです
情報提供ありがとうございます (^_^;)
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暑かったり寒かったりする中、九州へ旅に出ています。
ご案内メールの送信が、滞っておりました、うっかり、すみません
昨日、九州メンバーとわたし達でレコーディングしてきました。完
もう4月になりますが、ツアーからのスケジュールを貼ります。
5月は盛良さんと西ツアー、広島何年ぶりでしょう… 7月は札幌に行きます!
九州へは、また9月に行く予定です。
ライブへのお越しをお待ちしています。
どうぞよろしくおねがいします。
小島のり子 kojinori@mac.com jazzkojinori@gmail.com
Website(ライブ詳細こちらで) kojinori.com
YouTube youtube.com/@jazzkojinori
3/15に書いた当ブログ記事「石川太郎先生の研究(1)」のつづきです
あの記事を読んだ徳永パパから、太郎先生は陸軍将校だったと教えていただき、海軍将校だったという私の記憶は間違っていたようでビックリしました
新宿高校時代の生物の授業中、太郎先生の雑談に軍艦や南の島の体験談が多かったので、私が勝手に海軍将校だと思い込んでいただけみたいです
また熊さんからは
「俳優の池部良が、
と教えていただき、さっそく池部良の著書「ハルマヘラ・メモリー」を入手して、いま読み終えました
池部良(1918-2010)は、往年の超イケメン映画スターですが、エッセイストとしても有名
そのせいか「ハルマヘラ・メモリー」は大変読みやすい文章で、372ページもある分厚い本ですが、退屈することなく今日一日で一気に読み終えました
文章は淡々としているのですが、それがかえって最前線の臨場感を高めているように感じました
以下、その読後感です
池部良が1918年生まれ、太郎先生が1917年頃の生まれというほぼ同世代で、二人の軍隊経験は驚くほど重なっているようです
どちらも軍隊や戦争にはまったく関係ない世界(映画俳優や生物学研究者)から26歳ころに徴兵され、大卒だったので予備士官学校へ進んで、見習い将校を経て将校(陸軍少尉)になります
陸軍少尉として、中国大陸の北京の近く(保定パオティン)にいて、そこから任地替え(転進)で南方のハルマヘラ島に移って終戦を迎えられたようです
ここまで軍隊経歴が似ていると、ひょっとしてお二人は、戦地(保定やハルマヘラ島)で出会っていたのかもしれませんね
今日、池部良の「ハルマヘラ・メモリー」を読みながら、太郎先生の若き日の戦争体験談を読んでいるような気持ちになりました
極寒の保定から熱帯のハルマヘラ島への移動は、狭い船内にぎゅうぎゅう詰めの輸送船団に乗って行くのですが、途中にはアメリカの潜水艦がウヨウヨしている海域を通ります
日米間の太平洋戦争は、最終的には原爆投下で決着がついた訳ですが、その前にレーダー技術で決定的な差がついていたようです
米軍が数百キロも先の日本軍艦の位置を正確に把握していたのに対して、日本軍は双眼鏡によって目に見える範囲しか分からない
偵察機もあったでしょうが、これは「点の探索」で、広い太平洋をカバーすることなど不可能
現代戦では、科学技術力のわずかな差が、国家や民族の運命を決します(2番じゃダメなんです)
その結果、多くの輸送船が米軍魚雷の餌食となって沈没し、一日に2000人もの将兵が海の藻屑となる話なども出て来ます
池部良の乗った輸送船も魚雷を受けて沈没しますが、海に投げ出された池部良は10時間以上も海面を漂いながら、日本海軍の駆逐艦に救助されて九死に一生を得ます
その駆逐艦に乗って、次の任地であるハルマヘラ島の守備任務につきます
太郎先生の雑談には、輸送船沈没の話は無かったような気がするから、太郎先生の乗った輸送船は、無事にハルマヘラ島へたどり着いたのかな?
米軍の作戦は、太平洋上の一つの島を占領したら、そこに飛行場を建設して次の島を狙う、というような着実な「島づたい戦略」で、この侵攻コース上の島にいた日本軍守備隊は、ほぼすべて全滅しています
池部良のいた(たぶん太郎先生もいた)ハルマヘラ島は、この米軍侵攻コースからわずかに外れていたので、激しい攻撃(艦砲射撃、航空機による爆撃や機銃掃射)を受けますが、かろうじて全滅は免れます
楽園のような南の島でのんびりしていると、その数秒後には耳をつんざくような爆裂音や射撃音が鳴り響き、一気に地獄の戦場と化する場面の描写は、なかなかの臨場感があります
そして戦況悪化の暗いムードが支配する中で、ある日突然、玉音放送が流れて戦争が終わります
その終戦の描写も実に淡々としていて、著者のある種の諦念のようなものを感じさせる
池部良は(たぶん太郎先生も)昭和18~19年という敗色濃いころに徴兵されて、大卒だったので予備士官学校へ進んで、わずかな軍事教育や訓練を経て見習い士官から将校(陸軍少尉)になります
旧日本軍の階級制度は、大きく3段階に分かれていました
国や時代によって各階級の呼び名は違っていますが、どこの国の軍隊組織でもこの3段階の構造は似たようなもので、原則として指揮命令権限を持つのが将校です
兵士(兵卒):二等兵~兵長
下士官:伍長、軍曹、曹長
准尉(見習い士官)
将校(士官):少尉~大将
戦争末期になると軍人不足を補うために、軍隊経験が皆無の大卒(当時の大卒は少数派)も、学徒動員などで徴兵されました
その中には池部良や太郎先生のように、軍隊入隊後に予備士官学校に入り、見習い士官(准尉)を経て「にわか仕立ての将校」(最初は少尉)になる人たちもいました
この予備士官学校での成績や適性に難があると、将校ではなく下士官にされたそうです
一方、軍隊(陸軍)には、もともと市谷にあった陸軍士官学校出身の「本格的な将校」(職業軍人)がいて、上記の「にわか将校」を素人扱いして馬鹿にします
この「本格将校」(職業軍人)には、陸軍幼年学校などを経て、子どものころから軍人になることを目指してきた「軍人一筋」の人たちが多かった
この人たちから見れば、つい2~3年前まで映画俳優や生物学研究者などしていた連中が、陸軍将校として自分たちと同一視されることに耐えられなかったようです
この「本格将校」による「にわか将校」いじめは、かなり露骨に行われていたようで、本書の中でもたびたび描写されています
さらに戦争末期には、一般国民の30代40代といった、それまで年齢的に徴兵されなかった高年齢の男も、兵士不足を補うために徴兵されます
企業の管理職や、中小企業の社長をしていたような社会的地位のある男たちも、有無を言わさず徴兵され、二等兵として軍隊の最底辺のみじめな存在となって戦場へ送られるといった「悲劇」も少なからず生じました
また軍隊には長年いるが、士官学校などの学歴が無いために将校になれない、といったベテラン兵士や下士官も大勢います
すると当然ですが、まだ20代後半の経験不足な「にわか将校」が、自分より年上の、時には父親ほどの年齢の人生経験豊富な兵士(兵卒)や下士官を何十人も統率して指揮命令することになります
今でも年功序列を否定して能力主義を標榜する企業では、年上の部下との接し方に悩む若い上司がいますが、それと似たような現象が旧日本軍の内部でも生じていました
「年上の兵士」たちから見れば、自分たちの方が戦場経験も人生経験もははるかに豊富ですから、経験の乏しい学歴だけの「にわか将校」に対して、素直な気持ちになれないのも理解できます
上にいる「本格将校」(職業軍人)たちからは素人扱いで馬鹿にされ、軍隊の階級的には下にいるはずの「年上の兵士」たちからは、面従腹背の陰湿な抵抗に遭うという板挟み状態
しかも戦況は悪化の一途で、日本が戦争に勝つ見通しはまったく持てない
そんな絶望的状況でのメンタルを、太郎先生が87歳の時に出席した新宿高校同期会のスピーチで
「・・・人生振り返ってみると孤独だった
軍隊でも孤独だった」
と表現したのではないかと推察します
本書の中にも、著者(池部良)の戦場での孤独感が滲み出ています
軍隊組織内で置かれた立場から来る肉体的な厳しさや惨めさでは、将校より兵士の方がツラかったと思います
ただ、兵士にはすぐ近くに同じ立場の兵士が大勢いる
一方、新米の将校はたいてい小隊(10~30人くらいの兵士)を率いる訳ですから、同じ立場の人間(小隊長)には隣の小隊へ行かないと会えないので、小隊の中では常に孤独です
人の上に立つということは、孤独を引き受けることです
今では私もこんな悟ったようなことを書いてますが、これも歳のなせるわざで、20代の太郎先生にはキツかっただろうなぁと思います
戦前の日本の軍隊を描いた映画やドラマなどでは、やたらと激怒して部下を殴ったりする凶暴な軍人がよく登場します
すべての軍人がそうだった訳ではなく、池部良「ハルマヘラ・メモリー」の中には、まともな心を持った優しい軍人も少なからず登場しますし、池部良もその一人
しかしその一方で、軍隊映画そのままの凶暴な軍人がいたことも事実
部下(兵士)に厳しくすることは、軍隊組織の規律維持や精神のゆるみを防止する上で、ある水準までは合理化されますが、その水準を超えて残忍さを出す者も出てくる
今でも警察や検察の取り調べなどで社会問題化しますが、人間が組織や権力を背負って無力な個人に対応したとき、少なからぬ人間は、その深層心理に潜む残忍さを剥き出しにします
人権意識の希薄な途上国や共産独裁国では、ごくありふれた風景です
企業の上司による部下へのいじめ(パワハラ)も、似たような精神構造でしょう
だれの心の中にも、この残忍さは潜んでいます
敗戦の玉音放送が流れて数か月後に、生き残った将兵を日本へ送り返す船(復員船)の中で兵士たちが暴動を起こし、戦争中に部下に凶暴だった上官を海に放り込むといった復讐事件も起きていたようです
敗戦による武装解除で軍隊という枠組みが消滅した訳ですから、当然に起こり得る上下逆転現象で、ギロチンこそ使いませんが、フランス革命のあとの旧貴族の運命と似ています
池部良「ハルマヘラ・メモリー」は、1997年の出版で、池部良79歳の作品
79歳とは思えぬ生き生きとした詳細な描写は、池部良が晩年まで旺盛な知的活動をしていたことを感じさせます
ただし一部には著者の記憶の変化などのせいか、必ずしもすべて事実通りではなく、あるいは本を面白くするための脚色(フィクション)かと思われる部分もある
また中には、残酷すぎて本に書けないこともあったのではないか?と思われるところもある
たぶん太郎先生の雑談でも、残酷すぎて高校生には聴かせられないことがあったのではないか?と推察いたします
(;´Д`) ウウウ
追伸 たけちゃん(竹永さん)から、とっておきの1枚をいただきました
星条旗のはためき具合の、最高の瞬間をとらえてますね
「本日二番目の、いい写真」かな?
もちろん、これが「本日最高の写真」(173T)↓
(^_^;)~♪
「漫画訳・雨月物語」という本を読みました
元になっている「雨月物語」は、江戸時代の作家、上田秋成の作品で、日本の中世を背景にしたホラー(怪談)話を9話ほど集めています
私は映画でも小説でも、ホラー系ダイスキ!なので、ついつい引き込まれます
つい最近も、春日武彦という精神科医の書いたホラー系の本にのめりこんだばかり
「雨月物語」は、石川淳が現代語に訳してますし、映画にもなってるので、その名前をご存じの方も多いかと思います
マンガですからスグ読めたんですが、その9つあるホラー話の冒頭に「白峯」という話があり、崇徳院と歌人の西行が、あの世とこの世の壁を越えて語り合うというオカルトっぽい内容です
崇徳院は、日本の三大怨霊(おんりょう)として有名な崇徳(すとく)天皇で、歴代の天皇の中でも最も不幸な死に方をした人
この世に未練と恨みを残して死んだために成仏できず、いろいろと厄介な「祟り(たたり)」を巻き起こして生者を苦しめる、と信じられてきました
能の「松山天狗」も、これを題材にしています
この祟りという考え方は、日本人の心性の非常に深いところにあって、日本の歴史に大きな影響を与えているだけでなく、実は我々現代日本人のメンタリティにも大きな影響を及ぼしています
祟りと似たようなものに「言霊(ことだま)」があり、
何かの悪い言葉を口にすると、それが現実化する
という一種の信仰
今でも、誰かが悪い(ネガティブな)言葉を発すると
「そんな縁起でもないこと言うな!」
などとたしなめる人がよくいますよね
自己啓発系の成功哲学には
「常に前向き、建設的な言葉を発していれば
それはいずれ現実化して成功できる!」
というプラス思考(ポジティブ・シンキング)の考え方がありますが、それのネガティブ・バージョンでしょうか?
日本人が幕末明治以降、西欧文明に接してほぼ2世紀
表面的には「自由」「権利」「進歩」みたいな西欧型の合理的概念に慣れています
でも日本人の心の深いところには、祟りや怨霊、言霊のような心性を脈々と残している
それは時には、スピリチュアルなものに引き込まれる動機にもなったりして(若い女性に多い)、メンタル面を重視した企業のマーケティング戦略にも影響を及ぼしたりする
崇徳院はこの世に恨みを残して死にますが、その元になった政治的事件が保元の乱
日本史上の有名な事件で、大学受験の受験科目に日本史を選んだ方はよくご存じだと思いますが、私は理系だったので今回改めて保元の乱について調べました
この事件(乱)は、天皇家の跡継ぎ問題から始まっていて、現代の愛子さまと秋篠宮の関係を思い起こしてしまいます
結局、後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇(崇徳院)は破れて讃岐(現代の香川県)へ流され、二度と京(みやこ)を見ることなく亡くなります
このとき、両軍の戦略立案を担ったのが
崇徳方の藤原頼長(敗者)
後白河方の藤原通憲(信西)(勝者)
両者ともスゴい切れ者で、現代の官僚なんかによくいる秀才タイプ
ただし、頼長は藤原氏の中でも主流派(嫡流)に生まれたエートコのボンボン
信西はそうではなかったので、自分も藤原氏でありながら藤原氏主流派に恨みを持ち、保元の乱に勝利すると着々と藤原氏主流派つぶしを始めます
その信西も、数年後の平治の乱に破れて死に、首はさらしものに
保元の乱は後白河天皇方が勝ったとは言いながら、実は本当の勝者は武士でした
乱の勝敗を決したのは武士の軍事力だったので、当然と言えば当然です
この事件からのち、政治の実権は徐々に武士へ移り、天皇家と摂関家(藤原氏主流)はパワーを失って「飾り物」になっていきます
その意味で保元の乱は、時代が古代から中世へ移り変わる画期的な事件でした
少し大ざっぱな言い方をすると、世界に多くの国家や民族がある中で、歴史的に中世という時代をきちんと経ているのは西欧と日本だけで、ほぼ現代の先進国と一致します
これを偶然と見るか、歴史の必然と見るか、なかなか面白いところです
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