41【映画舞台】

映画 海辺のポーリーヌ

昨日の「最強のふたり」につづき、今日もまた超ステキなフランス映画を観ました

「最強のふたり」は少しアメリカ映画っぽかったけど、この「海辺のポーリーヌ」は、まさにフランス映画ど真ん中という感じ

モンサンミッシェルに近いビーチに、15歳のポーリーヌ♀と25歳くらいのマリアン♀(二人はいとこ)がパリからバカンスにやって来る

マリアンはこのビーチが初めてじゃなくて、現地に昔の恋人もいて、男女数人が入り乱れてビーチで短い夏を過ごします

ストーリーだけ見るとドタバタ痴話げんかっぽいんだけど、それがさすがフランス人で、オシャレ、セクシー、哲学的なんだよね

ストーリーは単純で、雰囲気(ムード)を楽しむ映画です

こんなムードは、フランス映画じゃないと味わえないなぁ

中のひとり、アタマが少しハゲかかった中年男(と言っても40歳くらいかな)のアンリは、いい女とみると見境がなくて、次々に引っかけようとする浮気性の強い奴なんだけど、これがけっこうモテるんだ

欧米では「ハゲの男はモテる」って聞くけど、こんな感じなのかな?

マリアンは、まさにフランス女って感じで、コケティッシュな魅力を思い切り振りまいている

中年男アンリはマリアンと関係しながらも、「彼女は完璧すぎる」とかなんとか難癖を付けている(たぶん、浮気の言い訳)

映画の題名にもなってるポーリーヌは、まだ15歳で子供っぽいんだけど、周囲の大人たちの恋愛に混じりながらボーイフレンドを作ったりして、しかも自分なりの恋愛観を持って毅然としてるのはかっこいい

マリアンがポーリーヌを預かって二人でビーチに来たという設定だから、ポーリーヌの母親とかが出て来ないのもいいんだろうね

フランスの女の子って、こうやって「大人の女」になっていくのかなぁって感じ

フランスには女性の年代層の中に、しっかり「大人の女」という区分があって、これが質量ともに存在感がスゴいなぁと思う(主にフランス映画からの印象だけどね)

日本では下手をすると、「少女」「若い女」からいきなり「主婦」とか「中年女」に跳んでしまって、「大人の女」の幅や存在感が薄いような気がする

「大人の女」という存在が、「主婦」や「中年女」と何が違うのか、と問われたら、まず「恋愛の現役感」でしょうかねぇ

フランス映画の強みを3つ選ぶとしたら(日本人の男である私の目から見たら)

フランス女 フランスの風景(特にパリ) フランス語

かなぁと思う

イタリア人もそうだけど、ラテン系の女はカワイイし、自由奔放で魅力的だ

フランスは階級社会だから、上流と下流では違うだろうけどね

同じ白人でも、ゲルマン系は生真面目で固い感じがするし、デカくてゴツい

パリの街並みを背景にして映画を撮れば、下手な監督でもいい映画を撮れそう

恋愛映画でフランス語の話し言葉としての上品さは強力で、英語やドイツ語はかなり不利だ

フランス語:愛をささやく言葉

英語:部下に用事を言いつける言葉

ドイツ語:家畜をののしる言葉

そして、愛をささやきながら、哲学っぽい会話をする

(フランスの高校卒業試験であるバカロレアでは、「哲学」が必須科目)

さて日本語は、世界でどう感じられているのかな?

日本のアニメ映画は世界を席巻する勢いだけど、子供向けが多いから、ほとんど吹替かな

私は基本的に外国映画は吹替で観る方が好きだけど、フランス映画は字幕もいいなぁと思います

とにかく「海辺のポーリーヌ」、各シーンが長く記憶に残りそうで、何年も経って再び観ると懐かしさを感じそうな映画

1983年の映画だから、もう40年以上も前なんだけど、まったく古さを感じない

むしろ、最近のフランスは移民が増えすぎて荒廃しちゃってるから、古き良き時代のフランスが描かれたステキな映画と言えそう

パリ五輪の演出は、世界中から叩かれて「フランスも落ちたもんだ」と言われたし、フランス人はプライドが高くて周辺国を見下してるから、何かと嫌われがち(日本で言えば京都に似ている)

だけど過去には、いい映画をいっぱいつくってますね

(^_^;)~♪

映画 最強のふたり

久しぶりにいい映画だったので、感想を少し書きますね

映画評で評価の高い映画を観ると、期待が高くなる分がっかりすることもあるんだけど、本作は期待を裏切らなかった

ハングライダーの事故で、首から下がマヒした富豪の中年フィリップ

貧しいスラム街の出身だが陽気な黒人の若者ドリス

フィリップは、住み込みで身の回りの世話をする人を募集し、採用面接に多くの人が並ぶ

真面目そうな応募者が多い中で、気むずかしいフィリップは、ズバズバものを言うドリスが気に入る

ドリスは介護役に採用され、何もかも正反対の二人に友情が芽生えていく

階級差 パリの街並み 冒険 孤独と愛 不機嫌と愉快

寝たきりや、首から下がマヒでも、人生はそれなりに楽しめる

暗く湿っぽくなりがちな身体障害者の世界を、明るく愉快に描く

まあ、余り暗くならないのは、身体障害者でも大富豪だからかもしれないけどね

上流階級的な気取った世界を、痛烈に笑い飛ばしているところも痛快だ

2011年のフランス映画だから近作ではないが、この映画には実在のモデルがいて、ふたりともたぶん今も健在(もちろん一人は体が不自由)

黒人が主人公だからアメリカ映画っぽいけど、やはりフランス映画っぽさはよく出ている

(^_^;)~♪

表情芸

tiktokで大人気 澤村光彩(きらり)ちゃん

この表情芸、桂枝雀さんに通じる

(^_^;)~♪

蟹江敬三

蟹江敬三(かにえ・けいぞう)

1944年10月28日生まれ、東京都出身

2014年3月、胃がんのため69歳で死去

彼が俳優になったのは、都立新宿高校在学中に、ふとしたことで舞台に立ったことからだ

詳細はここをクリック

 

映画「君たちはどう生きるか」

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今週の 米国 映画収益ランキングで、

1位:「君たちはどう生きるか」

3位:「ゴジラ-1.0」

トップ3に日本映画2本は、ちょっとした快挙かな?

私はまだどちらも見てないので、内容についてどうこう言えません

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「君たちはどう生きるか」(↑)は、吉野源三郎が1937年に出した哲学的な小説

1937年(昭和12年)は、盧溝橋事件が起きて日中が全面戦争に突入し、日米関係が緊迫の度を高めていたころです

そんな86年も前の本を、いまアニメ化しようと考えた宮崎駿監督(→)

よほど思い入れのある本なんでしょうかね?

著者の吉野源三郎という人は、東大哲学科を出て、何を思ったか26歳で陸軍に入り、2年後に辞めてからは反戦活動を始める

戦前に元陸軍将校が反戦活動をするのだから、軍や政府の上層部からにらまれるよね

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もう少し後になって第二次大戦末期、時の首相の東條英機(→)は、気に入らない奴(特に左翼=共産主義者)を片っ端から徴兵して、危険な最前線に送るという手段を使った

その結果、若い人はもちろん、かなりの年配者でも最前線で亡くなったり、死ぬような苦労をした

私が東條英機を好きになれない最大の理由がこれだ

自分の周りにゴマすりイエスマンばかり集めて出世させ、優秀な人材を煙たがって左遷したのもこいつ

人間のちっぽけさ丸出しで、とても一国の首相とは思えない

今でもこんなトップのいる組織は、方向性や活力を失ってダメになりやすい

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出陣学徒壮行会で「天皇陛下バンザイ」を叫んだのもこいつ(→)

こんな奴に送られて最前線へ出陣させられた学徒たちが気の毒だ

吉野源三郎も年齢的に最前線に送られておかしくなかったのだが(終戦時46歳)、運よくそうはならなかったようだ

もう少し若かったら、元軍人なんだから、間違いなく最前線送りだったと思う

戦前の左翼は命がけの覚悟が必要だったし、立派な人物も多かった

現在のふやけたパヨクとはまるで違う

戦後の吉野源三郎は、岩波書店で岩波新書や雑誌「世界」の創刊に携わり、当時の左翼運動の先頭に立った

戦後25年間くらいは左翼(共産主義)運動が盛んで、全学連などの学生が暴れまくり、日本も共産化しそうになったことがある

その最若年層に坂本龍一もいて、新宿高校で暴れていた

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戦争に負けた日本(吉田茂内閣)は、米国中心の自由主義陣営と講和して国際社会に再デビューした

このとき吉野源三郎など左翼陣営は、ソ連や中国など共産国を含んだ講和を主張していた

この左翼陣営の主張が通っていたら、やがて左翼運動が盛り上がった1960年ころに日本が共産化して、現在の中国や北朝鮮のような暗黒独裁体制の共産主義国家になっていた可能性もあって恐ろしい

このころ、安倍ちゃんの祖父の岸信介首相が

「共産勢力に勝つためなら、何でも利用しよう!」

ということで、カルト宗教の統一教会(反共団体だった)に接近し、これが今に至る自民党と統一教会の腐れ縁になった

実際、共産革命を主張する全学連が国会を取り囲み(↓)、岸信介も命の危険を感じた

今では信じがたいが、日本が共産化するかどうか、紙一重だった

 

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▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)

 

統一教会のおかげも少しはあったのか不明だが、日本は共産化を免れた

当時の大学生の多くや坂本龍一は、共産革命の成功を本気で信じていた

その熱っぽい雰囲気は、柴田翔「されどわれらが日々」を読むと伝わってくる

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第二次大戦中の英国首相チャーチル(→)

「ヒトラーに勝つためなら、悪魔とでも手を組む!」

と言ったらしい(史実かどうか知らんけど)

まさに岸信介はそれを実行し、共産主義者に勝つために、悪魔(統一教会)と手を組んだ

チャーチルも岸信介も、相当な悪党だと思うが、東條英機よりははるかに人間が大きい

政治とは結局、力(パワー)の世界なのだから、必要とあらば猫の手でも悪魔の手でも借りるくらいの器の大きい悪党じゃなきゃいけないと思う

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黒船に乗ってペリーが日本に来てから170年、日本という国は随分と危険な橋を渡りながら現在に至っているのだなぁと思います

それでも何とか乗り切って来れたのは、徳川時代260年の天下太平の世で培われた民度の高さがあったからかな?

「どうする家康」終わっちゃったね

(^_^;)

 

* * * * * * *

 

追伸 大河ドラマ「どうする家康」の最終回

北川景子演じる茶々が、燃え上がる大坂城と血まみれの顔で最期に掃き捨てたセリフ

つまらぬ国になるであろう」

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「正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ

 人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける」

「やさしくて、卑屈な、かよわき者の国に」

まさにニーチェの言った「畜群」そのもの

器の大きい悪党のいない国ですね

(;´Д`)

 

 

▲映画「君たちはどう生きるか」予告編(2023年)

 

▲学徒出陣壮行会(明治神宮外苑、1943年)

 

▲全学連の安保闘争デモ隊(1960年)

 

映画「放浪記」を観る

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10/22~24に原作「放浪記」を読む

10/26に新宿区落合の旧林芙美子邸(現記念館)見学

林芙美子の書斎(→)

そして今日10/29,映画「放浪記」を観る

まさに「放浪記」漬けの一週間 (^_^;)

原作は日記の抜粋なので、やや断片的でストーリー性が弱かったのだが、映画はちゃんと脚本で筋立てられている

しかもすでに原作を読んでいるので分かりやすかった

まず最大の印象は、主演・高峰秀子の秀逸な演技力

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高峰秀子(→)と言えば超美人女優だが、その美人度をぐっと抑えて地味な(ややブサイクな)化粧で登場

貧しさから来る卑屈さや悔しさを、表情や姿勢、歩き方など全身を使って見事に表現していてホレボレした

私がこれまでに観た日本映画が何百本になるか数えていないけど、間違いなくベストテンに入る素晴らしい作品

原作だけでは勝手に想像するしかなかった、大正末期から昭和初期にかけてのカフェーがどんな雰囲気だったのか、かなり具体的に感じ取るができる

以前に永井荷風原作の映画「墨東奇譚」(→)を観て、カフェーの場面があった

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この映画も実にいい作品で、「ベストテン」に入れたい映画

だからカフェーのそれなりのイメージはあったのだが、「墨東奇譚」で登場するカフェーは銀座にあった「タイガー」という当時の一流カフェー

今で言えば銀座の高級クラブのような、超豪華な内装や雰囲気

永井荷風は親が金持ちで、しかも小説が売れてますます金持ちになったので、そんな高級カフェーに出入りしていた

今日の映画「放浪記」の中のカフェーは、いかにも貧しい時代の場末のカフェーといったうらぶれた感じ

カフェーの客も接待する女性(女給)も、いかにも貧しげで、非常にリアリティがあった

この映画は1962年公開なので、制作に携わった人たちの頭の中には、少し前の時代のカフェーの記憶が生々しく残っていたはず

だから、かなりリアリティの高い再現かと思われる

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貧しさに辛苦しながら大成した作家と言うと松本清張(→)がいて、林芙美子と年代も近い(清張は芙美子より6歳下)

私は清張の大ファンで、彼の作品の大半は読んでいるのだが、彼の作品の背景にも、極度の貧しさがある

清張には軍隊経験(運良く戦死は免れた)があるのだが、その自伝作品「半生の記」によると、彼は軍隊生活を余り苦にせず、むしろ楽しいと感じていたようだ

なぜかと言えば

「軍隊は毎日3回メシが食えるし、学歴差別が無い!」

というもので、清張の若き日の貧しさや学歴差別への反発が想像できる

とにかく貧しさのせいか、清張の作品は暗い、徹底的に暗い、底なしに暗い

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私は清張作品、特に推理小説を読んでいると、いつも気分がトコトン暗くなり、何か背筋がゾクゾク寒くなるような恐怖感に襲われて、いい年して自宅のトイレに行くのも怖くなる

それくらい読む人を独特の小説世界に引き込むパワーがあり、読み始めるとやめられなくなるのが清張作品だ

清張原作の映画というと「砂の器」(→)が有名で、名作映画とし名高い

「放浪記」と似たような絶望的に貧しい場面もある

ただ私は、映画の出来として「砂の器」はさほどいい映画とは思えず、「放浪記」の方がはるかにいい

私は幸いにも余り実体験していないが、とにかく高度成長期(1960年~)より前の日本には、まるで空気のように「貧しさと空腹感」が充満していたようだ

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そんな貧しい日本が、わずか20~30年で、世界でも有数の豊かな先進文明国に駆け上がった

だから私の子どものころの日本は、今ほど豊かではなかったが、去年より今年、今年より来年が飛躍的に良くなるという時代

一人一人にはそれなりの悩みや苦労があったかもしれないが、日本社会全体としては「未来への希望」が充ち満ちていた

だから、今の若い人たちを見ると、私は少し気の毒な気分になる

貧しさと空腹感 → 未来への希望

これは世界史的に見ると、大変な「事件」だ

それより半世紀以上も前を生きた二人、時代も貧しさもよく似た清張と芙美子

だが、清張の底なしの暗さに比べると、芙美子の世界は妙に明るい

「お金が無い無い」と常にピーピーしているのだが、読んでいて気分が落ち込んで暗くなるようなことは少ない

これはもう、清張と芙美子の「気質の違い」のようなものなのだろうか

芙美子が割と社交的で、いつも近くに男(貧しいけど)がいたのに対して、若い頃の清張の周囲には女気や友人が乏しく、いつも孤独で古代史や文学の本を読んでいたようだ

芙美子が天性の文学的才能で突っ走った感じがするのに対して、清張は才能もさることながら、とにかく「努力の人」という感じがする

最近知ったのだが、清張は英語が得意だった

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大作家になってしょっちゅう海外へ取材旅行へ出かけるとき、出版社が現地通訳を用意してくれるのだが、清張は余り通訳には頼らず、自分で英語を話して取材していたらしい

清張は小学校しか出ていないので、英語が得意と知って意外だったが、小説が売れてお金が自由になってから、英語の家庭教師(もちろん外国人)を雇って、英会話の訓練を欠かさなかったそうだ

清張は晩年に自分の人生を振り返って

「とにかく、努力だけはした」

と語っているのだが、実に清張らしい、重みのある発言だと思う

芙美子はイケメン好みで、しかも「カネと力は無かりけり」のイケメンばかりにホレて、いつも貧乏生活で苦労している

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その一方で、近所に住んでいる、イケメンではないが芙美子にお金を貸してくれたりするスゴく「いい人」の印刷工・松田さん(映画では安岡さん、加東大介が好演)が芙美子にホレて「一緒に所帯を持ちませんか?」などと接近するのだが、芙美子は拒絶する

もちろん、芙美子(→)のイケメン好みもあるのだが、

やはり女は「安心感のあるいい人」よりも

「少し危険な雰囲気の男」に魅力を感じるのかなぁ

などと思ったりもする

すごくいい女がヤクザにホレて、親をハラハラさせたりするケースが世間にはよくあるように感じるが、この辺が関係しているのか?

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(でもそんな雰囲気の男は、たいてい浮気するんだけどね)

この2種類の男が芙美子の前で取っ組み合う場面もある

芙美子を取り巻く男たちには作家志望などの文学関係者が多く、性格的にはかなり危ないゆがんだ性格の男が多い(だから文学など目指す訳だが)

その中ではこの松田さん(安岡さん)と、芙美子の晩年の伴侶となった画家の手塚緑敏は、珍しくマトモな人物と言える(印刷工と画家で、二人とも文学には関係ないからね)

芸術の三大ジャンルとして、音楽、美術、文学があるが、文学が一番アブナイ人間が多いように思う(私の偏見かもしれないが)

自殺者が多いのも文学だ

もちろん、芙美子自身も相当にアブナイ女で、最近は薄れたとはいえ、かつて林芙美子と言えば「悪女」のイメージだった(だから魅力的なんだけど)

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林芙美子原作「放浪記」は、これまでに3回映画化されていて、成瀬巳喜男監督の当作品が一番評判がいいようだ

そんな訳で、他の2作品も観てみたい気もする

まあ、その前に森光子(→)の舞台「放浪記」かな

成瀬巳喜男監督による林芙美子原作映画には、他にも1951~1955年公開の「めし」「稲妻」「妻」「晩菊」「浮雲」などの名作があり、これから観るのが楽しみだ

(^_^;)

 

 

 

林芙美子「放浪記」を読む

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林芙美子(→)の代表作放浪記を読んだ

新潮文庫で576ページという、やや長い作品で、第一部、第二部、第三部に分かれている

第一部を読み始めると、話があちこち飛んで時系列が混乱しているような、ストーリー性が弱いような印象があって、はっきり言って読みにくい

これが原因で、途中で読むのを断念する人も多いらしい

話の途中に沢山の詩が入っているので、自伝的作品でありながら、詩作前後の背景解説付き詩集といった感じ

それでも何とか第一部を読み終え、一晩寝たら頭の中が少し整理されたのか、翌日に読んだ第二部以降は分かり易かったし、急に面白くなった

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自伝的作品と言っても、中心は芙美子が20代の若く貧しかった時代の話

それも半端ない貧しさで、毎日の食べものを手に入れるのに汲々としている

空腹なのにお金が無く、下宿の下の階に忍び込み、炊事場で味噌汁を盗んで飲む場面には唖然とする

その中でも読書だけは、まさに寸暇を見つけて続けており、本当に文学が大好きなのがズキズキ伝わってくる

今からちょうど120年前の、明治36年(1903年)生まれなので、私から見ると祖父祖母の時代と重なる

この時代の貧しい家庭の子どもが小学校を卒業すると、男の子は丁稚奉公、女の子は女中奉公などに出るのが普通で、小卒で社会に出るのが当たり前の時代だった

大学へ行くのが珍しくもない現在のような豊かな社会になったのは、1960年代の高度成長以降のわずか半世紀ちょっとで、日本の歴史から言ったらごくごく最近の話なのだ

芙美子は小学生のころから、親と一緒に行商をしており、今で言えば飛び込み営業のような仕事もする貧しい家庭の子どもだった

旧制中学(女の子は女学校)へ進学できるのは、富裕な家庭の子どもに限られていた

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そんな時代だったが、小学校の教師が芙美子の文学的才能を発見し、そのすすめもあって女学校に進学する

親からの支援はほとんど期待できず、

「昼は女学校で、夜はバイト」

「周囲はお金持ちのお嬢さまばかり」

という十代のキツイ4年間を過したはずなのだが、その辺の苦労話が本書には少ない

もしかすると、キツイながらも結構楽しい女学校生活を送っていたのかもしれないし、芙美子にはそんな精神的たくましさ(生命力がある

芙美子自身も、芙美子の母親も男運が悪くて、つまり非常に稼ぎの悪い男とばかりくっついて、この辺の男関係や貧困生活の苦労話が哀愁を帯びている

確かに明日をも知れぬ毎日、赤貧洗うがごとしの毎日なのだが、その割に芙美子本人は余り深く悩んだりせず、「お金が無い無い」と言いながらもあっけらかんと毎日を送っており、たくましい生命力を感じさせる

おそらく「何も無い者の強み」というのか、もうこれ以上落ちようがない境遇のもたらす不思議な安心感のようなものがあったのかもしれない

雑貨の行商のような仕事から始まって職を転々とし、カフェーの女給(今ならキャバ嬢?)もしていて、この辺の描写が森光子(→)の有名な舞台「放浪記」で詳しく演じられていたらしい

舞台を生で見ることはなかったが、舞台を記録した動画が手元にあるので、「放浪記」の映画とともに近日中に観たいと思っている

実は、私が以前に住んでいたマンションの上の方の階に森光子が住んでいて、エレベーターで時々一緒になったりしていたのだが、話しかけたりお近づきになることはなかった(少しもったいなかったかな)

もちろん大女優なのだが、すぐ近くで見ると小柄なおばあさんといった感じ

こんな人が20代のカフェーの女給の役をやるのかなと不思議に思った

カフェーの女給をテーマにした文学と言えば永井荷風なのだが、彼はカフェーのお客となる金持ちの中年男で、芙美子はカフェーで働く貧しくて若い女という、まったく正反対の立場

荷風が足繁く通った銀座のカフェー「タイガー」の名は「放浪記」にも登場するが、荷風と芙美子が同じ店内で客と女給として同席したことは、たぶん無かったようだ

本書「放浪記」全体を読んだ印象としては、21世紀の今なら何の違和感もなく普通に生きていそうな現代的感覚の女性が、たまたま運悪く1世紀前に生まれてしまったような感じがする

「エセー」を書いたモンテーニュは、「中世に生まれた近代人」などと言われているが、彼は貴族だったので経済的な苦労はしていない

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以前に瀬戸内寂聴(→)の動画を見ていたら、

「若い頃はいろいろ苦労したけど、

 だんだん時代が私に追いついてきたので、

 いまは生きるのがとても楽になりました」

というようなことを言っていた

芙美子の場合、時代が彼女に追いつくことは無かったのかもしれないが、たまたま雑誌に連載した「放浪記」(第一部)が人気となって、単行本もベストセラーになった

またたくまに文壇の寵児となり、貧困を抜け出して経済的成功も手に入れた

この辺の事情は、ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」を連想させる

19世紀の英国の売れない作家が、お金のためにしたくもない仕事をしたり、書きたくも無い雑文を書いたりして貧しく暮らしていたが、ある日遠い親戚の遺産が転がり込み、本当に書きたい作品だけを書くという恵まれた書斎生活に移行した喜びにあふれている

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ジョブズ(→)は「適度なレベルのお金」( some money )が手に入ったら、それ以上のお金は人生にとって大切ではないと言ったが、その「適度なレベルのお金」すら無いとかなり悲惨な人生になるので、運良くそれが手に入った時の喜びは非常に大きいようだ

ただ芙美子の場合、出版社に原稿を持ち込んで断られたりした貧困時代の記憶のせいか、どんな仕事でも断ることなくガツガツ引き受けるので、同時代の同業者(作家)たちからは「仕事を奪う女」として嫌われていたそうだ

およそ人間には

遠くから見ると立派な人物なのだが、近くで付き合うとイヤな奴・・・(1)

遠くから見ると悪党だが、近くで付き合うとすごくいい人・・・(2)

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の2種類がいるようだ

政治家で言えば(1)は中曽根康弘、(2)は田中角栄(→)と言われているが、どうなのだろうか

芙美子は、(2)のタイプだったのかもしれない

冒頭の新潮文庫の表紙に書かれた有名な言葉

「花のいのちはみじかくて

 苦しきことのみ多かりき」

は、芙美子の貧しくて苦しい前半生を象徴しているとされているが、作家の村岡花子に送った芙美子からの手紙に書かれた下の文章こそ、彼女の生命力を象徴している

「多かりき」と「多かれど」の違いに注目してください

 

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経済的な成功を手に入れた芙美子は、新宿区に豪邸を建て、画家の男(手塚緑敏、→)と幸せな家庭生活を送っていた

だが、どんな仕事でも断ることなくガツガツ引き受けることで無理をし過ぎたせいか、1951年(昭和26年)にわずか47歳であっけなく急逝(心臓麻痺)

みじか過ぎる花のいのちを散らしてしまった

仕事の無理もあるが、若い頃の貧困による劣悪な食生活で栄養が偏り、免疫力が低下していたのではないだろうか

芙美子が急死した場所は、食レポ(グルメ紀行文)を書くために訪れたうなぎ屋で、芙美子はすでに超人気作家になっていたのに、そんな新人ライターがするような雑仕事まで引き受けていた

それで「仕事を奪う女」として文壇からは嫌われていて、芙美子の告別式では葬儀委員長をつとめた川端康成(→)

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故人は、文学的生命を保つため、他に対して

時にはひどいこともしたのでありますが

しかし、後二、三時間もすれば

故人は灰となってしまいます。

死は一切の罪悪を消滅させますから

どうか故人を許して貰いたいと思います

と弔辞を述べて、参列していた多くの芙美子ファンの涙を誘った

芙美子が一緒に暮らした手塚緑敏は、画家としての才能は開花せず、彼女の作家収入に依存して、今で言う「主夫」として暮らしていた

今ならそんな夫婦は珍しくないが、何しろ1世紀近くも前なので、周囲からは「髪結いの亭主」とか「甲斐性なし」「ヒモ」とか言われて白い目で見られていたかもしれない

でも手塚緑敏はそんなことを気にせず、右上の写真のように芙美子と仲良く楽しく暮らしていたようで、芙美子と同様に「たまたま運悪く1世紀前に生まれてしまった」現代的感覚の持ち主だったようだ

芙美子は1903年に生まれ、その前半生は極貧の中で生き、27歳(1930年)から「放浪記」が売れに売れて極貧から脱し、多くの仕事と実直な夫(緑敏)に囲まれて、充実した後半生(約20年間)を生きた

芙美子が建てて手塚緑敏との楽しい生活を送った豪邸は、現在は林芙美子記念館として公開されている

近日中に尋ねてみたいと思っている

(^_^;)