達成率3割 目標金額(1億円)が
すこし高すぎるのかな~? (^_^;)
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佐藤喜一先生のお別れの会 発起人代表
橋本健一(19回、朝陽同窓会副会長)
大変悲しいお知らせですが、我らが敬愛する佐藤喜一先生が昨年12月6日にお亡くなりになられました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
付きましては「お別れの会」を開催致しますので、ご参加をお待ち申し上げます。
1.日時 平成29年2月25日(土) 受付開始11時半 「お別れの会」12時~14時
2.場所 クルーズクルーズ新宿 9階
〒160-0022 新宿区新宿3-5-4 レインボービレッジ
電話 03-5485-3900
3.主催 佐藤喜一先生の「お別れの会」
4.服装 平服にてお出で下さい。
5.出欠 メールまたはファックスにて朝陽同窓会宛に申し込み下さい。
メールアドレス jchouyou@estate.ocn.ne.jp
ファックス 050-3730-0138
なおお申込みは2月20日(月)までにお願いします。
また会場の収容人数に限りがあり、定員をオーバーした場合に
は調整させて頂く場合もありますので、予めご承知置き下さい。
6.会費 会費5千円 当日受付にお渡しください。
7.式次第
献花 開会の辞
同窓会長弔辞、1回生代表幹事弔辞、旧教職員代表弔辞
献杯と懇談
教え子代表弔辞 複数人
奥様・お嬢様のご挨拶
全員で合唱(生前佐藤先生が好まれた歌を)
閉会の辞
8.その他 ご遺族にはお花代を贈呈するつもりです。
9.お願い
佐藤先生の奥様から「弔問客に対する応対もままならないので、 出来れば自宅への弔問はご遠慮頂き、納骨後に墓地の方へお詣 り頂くようお願いします」とのお話を頂戴しております。墓地の所在地は後日このページに追記してお知らせしますので、宜しくお願い申し上 げます。
6月から3カ月にわたって連載してきた「母校をたずねる」東京都立新宿高校編。
紙面と毎日新聞ニュースサイトで募集した「私の思い出」には、多くの卒業生の読者の方からご投稿をいただきました。
最終回の今回、その一部を紹介します。
異業種集団のさらなる連携強化
―創立100周年の好機を活かそう―
朝陽同窓会 会長 垂水 尚志(新宿高校15回生)
昨年は、同窓会長として関連の行事、会合、説明会のほぼすべてに出席しました。活動するに伴い、100周年記念 事業を成功させるには若手会員の同窓会への関心を高めることが必須であり、そのためにも朝陽同窓会を異業種集団として位置づけ、その特徴を活かした活動を することの必要性を強く認識するようになりました。機会あるごとにこの点を強調してきました。
100周年記念事業は成功させたいものです。目下、特に実行 委員会委員長には、大変な努力をしていただいております。私は、委員長とともに募金のための会社訪問を始めました。会員の皆様には、本年も益々ご健勝でお 過ごしいただき、同窓会の活性化にご尽力いただくことをお願いします。新年を迎え、日頃、考えていることを紹介します。 続きを読む
卒業30周年同窓会にて
教科:理科(生物)
在籍:昭和21年8月~昭和53年3月(31年9ヵ月間)
3年間ほど自宅療養をされた後、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたそう です。
新宿高校最大の名物先生でした (T_T)
世田谷区長、保坂のぶと氏(都立新宿高校中退)は、中学生時代、学生運動の経歴などを書かれた ために受験した高校を不合格となり、千代田区教育委員会を相手取り提訴(内申書裁判)。
判例は現在も重要判例として認識されている。
元社民党所属、現在は無所属。
また、管理教育につい て疑問を呈した「学校解放新聞」を発行するなど、子どもの側に立った教育ジャーナリスト活動、市民運動を展開。
ふつうに全日制に入学してれば
我々の1年先輩ですね
「遅れて来た全共闘世代」かな (^_^;)
1955年、東京生まれ 東京都立新宿高校(17回生)卒業。
1981年、およそ一年間インド放浪 1988年、真宗大谷派東京専修学院入学。
翌年卒業。
1995年、真宗大谷流高明寺榊奈川県横浜市)住職となる。
比較思想学会会員(専門:宗教問対話) 。
主な論文に「インド的混沌と祈りの集い」ハンニヤハウス通信(1991年) 、
「<オウム>が突きつけるもの」ハンニヤハウス通信(1995年) 、
「唯識ノート」月刊・雲集1995-2001年まで連載C 「続・唯識ノート」月刊・雲集(2004年) 、
「<呼びがナ>への呼応「大河内了義先生のご講義を開いて」 『連絡誌・大地』第5号(2005
辛) 、
「偽ってはならない」山口県光市母子殺害事件の奔護団を批判した念仏者、浅田正作氏の著書を絶版とした真宗大谷派宗門(の一部と出版部)の言論封殺に対し、浅田氏の弁護人として抗議した対抗論文(2009年5月、 http:〝www.komyoji.netにて配倍中) 、
「<帰命とバクティー>-<無量寿経とバガヴァッド・ギ一夕->における信仰の格山賢比較思想研究遥第38号・比較思想学会(2011年) 、インターネット法着払ttp:/,/www.komyoji.net高明寺の法話) 、
「真宗法話一他力の本来の意味・浄土静註」(2013年9月) 、
「真宗法話一来迎たのむことなし」 (2014年7月) 、
「真宗法話一共に同心にただこの高僧の説を信ずべし・正信偽」 (2014年9月上インターネット講義(http:〟www.komyoji,net現代仏教塾) 、
「第五回現代仏教塾<親鷲の今一浄土真宗と近代仏教学>」 (2014年1月)
まんが・ブッダ伝序章(2014年5月、 http:〝www.komyoji.netまんが「プッダ伝」にて配信中)など。
1955年生まれで17回生
とゆーのは変ですねー
もしかして27会メンバー? (^_^;)
MacPeopleにて好評連載中の「ユザーンの川越コンピューター学園」。
10回目のゲストは世界で活躍す る音楽家の坂本龍一さん! 超大物の登場で、今月はMacPeople本誌の表紙と巻頭も飾っています。
今月の転入生:坂本龍一
’52年生まれ、東京都出身。幼いころから作曲を学び、大学在学中から本格的に活動開始。ソロとして活動する一方、「イエロー・マジック・オーケストラ」 (YMO)に参加して人気を得る。テクノポップ、ワールドミュージックといった分野での活躍のほか、オペラや映画音楽の作曲・プロデュースなど、活動は多 岐に渡る。環境問題や平和問題に関する発言や活動も多く、独特の存在感で常に注目を浴びる存在
ユザーン 学生服はいままでに着たことがありました?
坂本 中学・高校と着てたよ。でも高校2年生くらいから、もう着るのやめちゃったんだよね。
ユザーン それ、勝手にやめちゃってもいいものなんですかね。
坂本 いや、ダメだと思うけど、反抗して。ブラックジーンズで学校に行ってたよ。
ユザーン そんな人、校内にほかにいました?
坂本 いなかったね。
ユザーン そうでしょうね(笑)。だいたいブラックジーンズ自体そのころそんなに浸透していませんよね。
坂本 たぶんあんまりなかった。
ユザーン じゃあ、オシャレだったんですね。
坂本 うん、オシャレだった(笑)。
1960~70年代にアングラ文化や街頭デモで底知れぬエネルギーを感じさせた新宿。
80年代以降は地上げや再開発で風景も集う人々も変わったと 語られ た。
だがいま、その街が再び新しい顔を見せようとしていると、批評家の平井玄さん(62)はいう。
自らの半生と新宿の近代史を重ねて『愛と憎しみの新宿』 (ちくま新書)を著した平井さんに聞いた。
「私にとって新宿は『ファウスト』の遍歴物語の舞台。新宿にうごめいていた芝居や音楽、政治運動の担い手や飲み屋のオヤジ、アル中の職人、そうした『悪魔』たちに導かれるうちに、自分自身もデーモンになっていった」
新宿2丁目のクリーニング店に生まれ、現在も新宿に暮らす平井さんは、新宿高校では一学年上の坂本龍一らと高校全共闘を結成、ジャズ喫茶にもぐりこんでは山下洋輔や阿部薫の演奏を聴いた。
そんな平井さんにとって、バブル期を頂点とする80年代の新宿は「栄えてはいたが、死んだ街」だった。「巨大になりすぎて、何でも売っているけど、新宿にしかないものは何もなくなった」。平井さんは一時、新宿を離れる。
商業的な若者文化の先端は渋谷へ、カネのない若者が独自文化を生みだすパワーは高円寺などへ流出した。だが不況下の地価下落で流れが再び変わった、と平井さんはみる。若者が徐々に新宿周辺に戻り始めたというのだ。
たとえばフリーターたちの労働運動の拠点が新宿に置かれている。「フリーターは交通費がかかるところには住めない。どこへでも歩いていけるところに、集まって暮らすしかない。そういう人々の多く住むエリアの一つとして、新宿が再び面白い文化を生み出す可能性はある」
2年前のメーデーでは、フリーター全般労組が中心になり、約40年ぶりに新宿一周デモが実現。平井さんも参加した。いま新宿には、アナーキズムのグッズを扱うショップやビート詩人の朗読会が開かれるカフェなど、「新宿的」な店が生まれているという。
「ふたをされ暗渠(あんきょ)になっていただけで、流れそのものは途絶えていなかった。街の骨格はそう変わっていない。私の本を読んでいまの新宿を歩けば、歴史が二重写しで浮かび上がってくるはずだ」
若い読者からの反応も多いという。かつて10代の平井少年を遍歴に誘った悪魔メフィストフェレスの役を、平井さん自身が担おうとしている。
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一九六〇~七〇年代の新宿。そこは伝説的なジャズ・バーやシネマテークなどが集まる巨大な文化工場だった。風月堂、紀伊國屋書店、文壇バー、ATG新宿文 化をはじめ、異形な場所に奇怪な人間たちがひしめきあって、戦後日本文化の闇鍋を形作った。一方で、歌舞伎町や要通り、旭町や二丁目などなど、喰い物や SEXを入力するとたちまち爆発的に膨張する欲望の街でもあった。新宿二丁目の赤線地帯で生まれ育った思想家が、濁愛、陰謀、宇宙の文学や悪魔の建築、阿 鼻叫喚に劣情有理、ありとあらゆる運動を包みこんだ新宿の奥座敷を七転八倒して活写する異色の地下文化史。
牛丼チェーンの「すき家」を運営するゼンショーホールディングスは、2010年度の連結決算で日本マクドナルドホールディングスを抜く売上高3700億円余りを達成し、外食産業のトップに立った。10年間で20倍以上の急成長だ。
そのオーナー社長、小川賢太郎氏(66)は、「革命家」と呼ばれるほど異色の経歴で知られる。
1948年生まれの団塊世代で、1968年に都立新宿高校から東大に入学して全共闘運動に身を投じるが、安田講堂の“落城”で敗北を味わう。
その ときの身の振り方が他の学生と決定的に違った。
多くの学生が教室に戻り、就職したのに対し、大学を中退し、今度は港湾労働者を組織化すべく、荷役会社へと 潜り込んだ。
だが、そこでも挫折と幻滅を味わい、逆に資本主義の優位性を痛感する。
今度は、「資本主義体制の下で世界の飢餓と貧困を撲滅する」という大目標を立て、急成長中だった吉野家に入社した。1978年のことだ。これが今に至る道の始まりだ。
小川氏が入社した2年後(1980年)、吉野家は経営危機が表面化した。
小川氏は孤軍奮闘して自主再建を目指したが、会社は会社更生法の適用を申請。
「米、牛肉、醤油というシンプルな組み合わせの牛丼は必ずハンバーガー並みにポピュラーになる」と確信していた小川氏は3人の部下を引き連れて独立し、ゼンショーを設立した。1982年のことだ。
社名の「ゼンショー」は「全勝」という意味
そこには、敗北の連続だった小川氏の「これからは全戦全勝だ」との思いが込められている。
独立した小川氏は軍隊のような「鉄の規律」を導入した。
それを物語るのが、企業理念に加え、社員や店舗スタッフの動き方までこと細かく記した「ゼンショーグループ憲章」だ。
たとえば、カウンター席の客には、注文から原則10秒で牛丼を出す。
外食産業に詳しい経営コンサルタントによれば、これは「業界最速」だ。
「営業報告から掃除に至るまでやるべきことのタイムテーブルも秒刻み。時間管理の厳しさは本社の管理部門でも同様で、商談は30分以内、歩く時は1秒に2歩以上が求められる。外食産業の多くでマニュアル化が進んでいるが、ゼンショーは突出している」
ちなみに、社員には筋力トレーニングや朝礼時のスクワットが義務付けられていたこともある。
※週刊ポスト2014年4月25日号
「ブラック企業」というイメージから
いかにして脱却するか (^_^;)