昨夜はYouTubeで、Oldiesをいっぱい聴いた
特に、Joan Baezが良かった!
それにしても、この時期(1950~60年代)の音楽には、なぜかくも名曲が多いのだろう?
あるいは、なぜ「名曲が多い」と、私は感じるのだろう?
一つの仮説は、直前に第二次大戦が終わり、その爆発的な開放感が多くの名曲を生んだという仮説(外部要因)
そもそも、Oldiesという言葉があること自体、この時期の音楽の特異性を示している
もう一つの仮説は、人はその人生の初期(おそらく20歳くらいまで)に聴いた音楽を、脳の奥深くの特定の部位に記憶し(刻み込み)、後になって名曲として感動し易い認識構造が脳に形成されるという仮説(内部要因)
脳の深層記憶にはタイミングが重要という仮説だが、生まれたばかりの小鳥の母親認識などに明瞭に現れている
また、聴覚や味覚臭覚など人間の根源的感覚に関する記憶が、それを初めて感じ取った時の生々しい周辺記憶を呼び覚ますという現象は、人間心理(脳)の特徴として広く認識されている(プルーストの『失われた時を求めて』など)
私は今でこそ高校の友人に誘われて時々クラシックのコンサート(多くは無料)へ行くこともあるが、残念ながらOldiesに感じるような、深層心理に突き刺さって来るような強烈な感覚は、クラシック音楽からはまったく得られない
生演奏特有の迫力があるので、クラシックのコンサート自体は嫌いじゃないんだけど、曲によっては「早く終わらないかなぁ」と感じることも少なくない
私の家は貧しかったから、子供のころ家にステレオはおろか、モノラルのプレーヤーすら無かった
日本全体が貧しかった時代だから、私の親が特別に悪いわけではない
小学校の半ばに家にテレビが入ったので、歌謡曲とかは聴くようになったが、親が新潟の山奥から東京に出て来たばかりで、世の中にクラシック音楽というものが存在することすら知らないような感じだったので、私がクラシック音楽を聴くことは皆無だった
私の両親は死ぬまで、クラシック音楽とは無縁だった
おそらくこのころ歌謡曲に混じってOldiesの曲もテレビから流れ、私の耳(脳)に入り込んだのかも知れない
私がクラシック音楽も聴くようになったのは、大学生になって自分の部屋にステレオを買ってからだったように記憶している
高校の友人(熊さん)に勧められて、クラシックの廉価版LPを買ったのが最初、たしかヴィバルディの「四季」だったかな
ただ、その時すでに私の「人生の初期(おそらく20歳くらいまで)」は過ぎ去っていたので、クラシック音楽が私の脳の奥深くの特定の部位に記憶(刻み込み)されることは無かったのかもしれない
いま私がクラシックのコンサートへ一緒に行ったりする友人たちは、みなクラシック音楽に深く傾倒しているクラシックマニア(オタク)なのだが、彼ら彼女らに共通しているのは、「親もクラシック音楽が好きだった」という決定的な事実だ
おそらく彼ら彼女らは、生まれたときからクラシック音楽を日常的に聴き、クラシック音楽に囲まれて生きて(成長して)きているようだ
これがおそらく、彼ら彼女らの耳(脳)に、決定的な影響を与えているのだろう
そして、その決定的な影響は、私には無かった
暴力団の世界を取材して、多くの本を書いている作家がいる
彼はこれまでに1000人以上の暴力団組長を取材してきているのだが、これまでクラシック音楽のファンだという組長には、一人も会ったことが無いと言っている
世の中にクラシック音楽のファンがそれほど多数派ではないことは知っているが、1000人の中に一人もいないというのは、かなりスサマジイことだ
安部譲二(←)のような恵まれた家庭出身の例外もいるが、ヤクザの世界に入るということは、その生育環境が恵まれたものではなかったであろうことは容易に想像できる
時代の違いもあるが、おそらくステレオもモノラルプレーヤーも無い貧しい家庭がほとんどだったはずだ
そして1000人の組長の親に、クラシック音楽のファンは、ほぼ皆無だったのだろう
(ちなみに安部譲二は、クラシック音楽に関する本やCDも出しているが、組長ではない)
私は幸か不幸か、ヤクザにはならずに成長したが、クラシック音楽から「深層心理に突き刺さって来るような強烈な感覚」は、今でも得られずにいる
果たして2つの仮説のうち、どちらが正しいのか?(どちらも正しいのか?)
(^_^;)