現代史

おフランスの議会で雨漏り

おフランスの議会で雨漏りです

パリは19世紀半ばにオスマン知事のパリ改造計画が進められました

それまでのパリは、汚くて不潔な街だった

そのころ出来た建物は、すでに2世紀近くが経過して古びてきています

おフランスは伝統を重んずる国なので、古い建物ほど価値があるとされていますが、雨漏りとか機能的にいろいろ問題が起きることが多い

ホテル・クリヨン

以前にパリを旅して、ホテル・クリヨンという、かなり高級なホテルに泊まったことがあります

おフランス語だと、オテル・ドゥ・クリヨン(Hôtel de Crillon)

あのころの、しかも一番安い部屋で、1泊4万円以上

最近のインバウンド相場の東京や京都なら、1泊4万円なんて大したことないですけど、30年くらい前ですから、今なら1ケタ上かな?

予約も「一見さんお断り」みたいな感じで、紹介状が必要

仕方なく前日に泊まっていたパリ日航ホテルのコンシェルジュに頼んで、紹介状を書いてもらいました

でも中に入ってビックリ

内装はかなり古びていて、床なんか歩くとギシギシ!

それもそのはず、このホテルの建造は1758年(267年前)ですから、あのおフランス革命(1789年)よりもずっと前

日本だと江戸中期、9代将軍徳川家重の時代

「革命広場」と呼ばれたコンコルド広場に面していますから、革命の直後は毎日のように、窓からギロチン処刑が見えたはず

この場所で1343人がギロチン処刑された、まさに恐怖政治の時代

▲コンコルド広場の場所

▲ギロチン処刑

上の絵は処刑場だったコンコルド広場で、言葉は悪いが、ギロチン処刑は「民衆の娯楽」だった

おフランス国王ルイ16世の処刑場面で、処刑直後の彼の首を民衆に見せている

たぶん観衆から「革命バンザイ!」とか歓声が上がったのだろう

絵の左奥は、たぶんホテル・クリヨン(当時は王室別邸)

これに少し遅れて、たぶんこの場所で、王妃マリー・アントワネットも37歳で処刑された

飢えた民衆に向かって「パンが無ければ、ケーキを食べればいいじゃない」と言ったとされている、あの人です(本当は言ってないらしいけど、いかにも言いそうな人なんだよね)

今の日本なら「コメが無ければ、・・・」で、誰か名言を残してくれないかなぁ

▲フランス国歌は「革命バンザイ!」の歌です

* * * * * * *

ホテルの建物は古いけど客層は別格で、いかにも「おフランスの貴族」といった感じの貴婦人がロビーにいたりして、私にとっては普段なかなか味わえない「異次元空間」でした

ホテルの格というものは、設備ではなく客層なんだなぁと感じました

まあ、これを感じるだけならロビーでいい訳で、泊まる必要はないです

私は旅するとき、昼間は「歩くの大好き」で、一日中ひたすら歩きまわるので、「ホテルは寝るだけの場所」と割り切って、ふだんは安宿に泊まることが多い

よく行くタイのバンコクやパタヤでは、1泊2000円くらいのホテルが普通です(今は円安で、もう少し高いかも)

でもこのときはパリに半月くらいいて、「1泊くらい高いホテルに泊まってみよう!」みたいなノリでしたね

(^_^;)~♪

窮状のハメネイ師(86)

▲ハメネイ師(86)

イスラエル軍の攻撃で最側近まで失い孤立するなか、窮地のイラン最高指導者ハメネイ師(86)は6/18、イラン国営テレビを通じ

「脅しには屈しない」

「米軍介入は取り返しのつかない被害を(米側に)もたらす」

と述べ、イラン国民に抵抗を呼びかけた

とのことですが、世界でも最高水準の兵器を持つイスラエル軍に対して、現状大ざっぱに言ってイラン側の被害はイスラエル側の10倍以上で、圧倒的にイラン側が不利

イランの人口(約8600万人)はイスラエルの9倍ですが、現代戦は頭数(あたまかず)よりも兵器の性能がものを言う世界

イランが数百発のミサイルを発射しても、イスラエルの防空システム「アイアンドーム」に阻まれて、わずか数発が着弾する程度

最新鋭の戦車部隊に向かって、騎馬隊が突撃しているような時代錯誤感を覚えます

イランはすでに自国の制空権を失っており、これからイスラエルやアメリカはイラン上空に大型爆撃機を飛ばして、大量の爆弾の雨を降らせることも出来る

戦争は通常、次の3段階で進む(核兵器を使わない場合)

1)の攻撃:ミサイルを飛ばして敵の重要拠点(司令部、基地、弾薬庫など)を破壊。見た目が派手なので敵国民への心理的効果はあるが、ミサイル1発でビル1棟を破壊するのがやっとだから、「戦争のコスパ」が悪い。ミサイルは非常に高価なので、大量破壊には向かないが、ドローンの登場でこの「コスパ」も変化しつつある。この段階で戦争の勝敗が決することは少ない。イラン戦争は現状この段階だが、勝敗を決するため次の段階へ移りつつある

2)の攻撃:制空権を奪い、大型爆撃機の飛行コース(線)に爆弾の雨を降らせる。敵国の経済力(工業生産力)や電気水道などの生活インフラを破壊する。第二次大戦で日本は、この段階(B29の空襲)で戦闘力をほとんど奪われ、原爆でトドメを刺された。原爆が無ければ、次の段階(敵前上陸)へ進んだかもしれない

3)の攻撃:敵が陸で国境を接する隣国の場合、陸上部隊(陸軍)が侵攻して、敵の領土を実効支配する。この段階に入ると、最前線では戦死者が急増する。ガザ戦争は現状この段階。ウクライナ戦争は最初からこの段階だが、互いに制空権が奪えず、戦力が拮抗して膠着状態(塹壕戦)になっており、毎日数百人が戦死している。敵が日本や英国、台湾などのような島国だと、敵前上陸が必要になるので、軍事力によほどの差が無いと難しい

上記の3段階はあくまでも原則論で、「兵は詭道なり」(孫子)だから、この原則を踏まえつつ、いかに敵をダマすか(計略)が重要

イラン(ハメネイ師)は、まだ口先では威勢がいいけど、追い詰められて、裏ではアメリカに停戦の仲裁を頼んでいるとの情報もある

これが事実なら、味方のはずのロシアや中国ではなく、敵側のアメリカに頼るところに、ハメネイ師の追い詰められた苦境が感じられる(ロシアや中国は、頼りにならないということか?)

トランプは

「今さら遅い」 「無条件降伏あるのみ!」

「場合によっては、米軍もイランを攻撃する」

「ハメネイなんぞ、いつでも殺せるが、とりあえずまだ生かしといてやる」

と応じて歯牙にもかけない

国際社会はアフリカのサバンナのような弱肉強食の残酷な世界であることを、マザマザと見せつけてくれてます

日本では今でも泡沫政党の政治家が、「ミサイルよりコメを!」とか、トコトン平和ボケした牧歌的お笑い発言してますけどね

ハメネイ師が86歳、トランプが79歳、どっちもいい年で、頑固になりがち

イランはイスラム教原理主義の国で、イスラエルは強烈なユダヤ教の本家本元

アメリカも清教徒(ピューリタン)が創った国ですから、もともとキリスト教原理主義の傾向が強い

ガチガチ一神教原理主義の対立ですから、どっちも「我こそは正義!」「神に守られている」と固く信じてるので、妥協の余地は乏しい

ハメネイ師の言う「取り返しのつかない被害」とは何だろうか?

(たぶん、口先だけの脅し(強がり)だとは思うけどね)

ロシアや北朝鮮あたりからイランに流入した核爆弾を、輸送用コンテナに隠してイスラエルやアメリカの港に運び込み、爆発させるのが最も危険なシナリオだと思う

そこまでやれば第三次世界大戦(全面核戦争)のリスクが高まり、人類滅亡の危機だ

日米欧などの先進文明国連合(G7)に対して、何かと反抗している中露北朝鮮にとって、重要な仲間であるイランがツブレるのは避けたいハズだが、核爆弾まで渡すのは危険すぎるように思える

さりとて通常兵器の援助でイランが劣勢を挽回するのは無理だろう

イランがホルムズ海峡を閉鎖するという可能性は、昔から言われてきていて、重要な原油輸送ルートだから日本への影響も大きいのだが、完全に世界を敵に回すことになるし、原油大量輸入国で親イランの中国にも大きな痛手になる

イラン自身も原油輸出による外貨収入が激減する

もし本当にイランが機雷をばらまいてホルムズ海峡を閉鎖したら、世界最高水準の掃海(機雷除去)技術を持つ海上自衛隊の出番もあるかもしれない

事態は極めて切迫しており、今後1~2週間で、現代史を画するような大きな動きがありそうだ

((((;゚д゚))))

▲ホルムズ海峡、波高し

日本人のクルマのガソリンは、ここを通って来ている

艦内神社

▲戦艦「三笠」の艦内神社

 

海上自衛隊の多くの護衛艦の内部には、艦内神社があります

上の写真のように、神社というより神棚といった感じですが、小さいながらも神様が祀られており、祭日には盛装した艦長や幹部がお参りすることもあるそうです

戦前の旧帝国海軍から受け継がれた伝統

実際いざ戦闘となれば命がけ、生きるか死ぬかは運次第という側面もあることを考えると、「神だのみ」したくなる心情は理解できます

とは言っても、自衛隊は国(政府)の組織ですから、政教分離の原則に反する訳にもいきませんので、それなりの配慮もあるようです

(^_^;)

艦内神社の記事へ

 

* * * * * * *

 

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新宿高校(旧制六中)の興国の鐘

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▲日本海海戦(日露戦争)における戦艦三笠と東郷平八郎 左上はZ旗

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▲記念館「三笠

「横須賀・軍艦クルーズ」へ

 

日本海海戦120年

海上自衛隊の1等海曹や海曹長で作る「横須賀上級海曹会」220人が5/24、横須賀市の記念艦「三笠」で甲板清掃を行った

戦艦「三笠」は、1905年5/27-28、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を旗艦を含めて撃滅した、日本海軍連合艦隊の旗艦

ロシアは、ウクライナ戦争でも、旗艦「モスクワ」を撃沈されている

ロシアは元々陸軍国なので、海軍が弱いのは仕方ないのかな

「横須賀・軍艦クルーズ」へ

映画「グリーンブック」

私は映画が好きだけど、観るなら映画館より自宅で一人で観る方が好き、そして字幕より吹替が好き

昨日観たこの映画、2018年のアメリカ映画、とても良かったので少し書きます

1960年代の米国で、成功してカーネギーホールの中の豪華ルームに住む黒人ピアニストが、まだ黒人差別が根強い南部への公演ツアーを計画する(非常に勇気のいること)

▲ニューヨークにあるカーネギーホール

▲カーネギーホールの中にある、黒人ピアニストの住居スペース

▲現在の非白人比率マップ

「黒人は畑で肉体労働する奴隷」という意識の強い南部に、経済的に成功した黒人が行けば、現地の白人たちから激しい反感を買い、何をされるか分からない

そこでピアニストは運転手兼用心棒に、粗野でがさつ、少々ケンカっ早いイタリア系を雇い、2人でクルマに乗って危険な公演ツアーという珍道中をする

このイタリア系というところもポイントで、白人だがアングロサクソンなどから差別されがちなイタリア系

刑事コロンボも主人公が「安月給のさえない」イタリア系の刑事で、成功した富裕な犯人(多くはアングロサクソン)を追い詰めるという設定が、米国庶民に大ウケ(たぶん、成功者の転落を見る庶民の爽快感なんだろね)

「安月給のさえない」を強調するツールが、ヨレヨレのコート、そしてボロボロのクルマ

黒人差別という重苦しくなりがちなテーマだが、ユーモラスに描いていて、時々泣かせる場面もある

経済力と弱点の両方を持つ少し気難しい男が、まったく異なる育ち境遇のがさつな男を助っ人として雇い、やがてふたりの間に友情が芽生えるというストーリーは、先日観た「最強のふたり」に通じる

「グリーンブック」とは、黒人でも泊まれるホテルをリストアップした旅行ガイド本

当時、米国の多くのホテルは白人専用で、黒人の泊まれるホテルはごく限られており、ゴキブリが這い回るような劣悪な環境だった

ピアニストはそれを覚悟で、南部への公演ツアーに出る

それから現在までの60年余り、公民権運動などによる差別撤廃が時代の流れとなるが、その裏で米国の貧しい白人たちは白人としての特権を次々に奪われ、経済的にも追い詰められて不満が鬱積していく

その貧しい白人の鬱積した不満に着目して(利用して)大統領になったのがトランプ

副大統領バンスの著書「ヒルビリー・エレジー」の副題は

アメリカの繁栄から取り残された白人たち

元大統領オバマが、このピアニストに重なって見えた

人種別の出生率の違いや移民の流入などによって、米国の白人比率は下がり続けている

白人が米国の少数民族になる日は、そんなに遠くない

現在のトランプ政権の政策は、白人層の「最後の抵抗」にも見えてくる

この映画には実話が背景にあり、「最強のふたり」と同様、二人は生涯親友でありつづけた

(^_^;)~♪

石川太郎先生の研究(2)ハルマヘラ・メモリー

3/15に書いた当ブログ記事「石川太郎先生の研究(1)」のつづきです

あの記事を読んだ徳永パパから、太郎先生は陸軍将校だったと教えていただき、海軍将校だったという私の記憶は間違っていたようでビックリしました

新宿高校時代の生物の授業中、太郎先生の雑談に軍艦や南の島の体験談が多かったので、私が勝手に海軍将校だと思い込んでいただけみたいです

また熊さんからは

「俳優の池部良が、ハルマヘラ・メモリーという本を書いていて、どうも太郎先生と同じ時期に同じ島に居たらしい」

と教えていただき、さっそく池部良の著書「ハルマヘラ・メモリー」を入手して、いま読み終えました

池部良(1918-2010)は、往年の超イケメン映画スターですが、エッセイストとしても有名

そのせいか「ハルマヘラ・メモリー」は大変読みやすい文章で、372ページもある分厚い本ですが、退屈することなく今日一日で一気に読み終えました

文章は淡々としているのですが、それがかえって最前線の臨場感を高めているように感じました

以下、その読後感です

池部良が1918年生まれ、太郎先生が1917年頃の生まれというほぼ同世代で、二人の軍隊経験は驚くほど重なっているようです

どちらも軍隊や戦争にはまったく関係ない世界(映画俳優や生物学研究者)から26歳ころに徴兵され、大卒だったので予備士官学校へ進んで、見習い将校を経て将校(陸軍少尉)になります

陸軍少尉として、中国大陸の北京の近く(保定パオティン)にいて、そこから任地替え(転進)で南方のハルマヘラ島に移って終戦を迎えられたようです

ここまで軍隊経歴が似ていると、ひょっとしてお二人は、戦地(保定やハルマヘラ島)で出会っていたのかもしれませんね

今日、池部良の「ハルマヘラ・メモリー」を読みながら、太郎先生の若き日の戦争体験談を読んでいるような気持ちになりました

極寒の保定から熱帯のハルマヘラ島への移動は、狭い船内にぎゅうぎゅう詰めの輸送船団に乗って行くのですが、途中にはアメリカの潜水艦がウヨウヨしている海域を通ります

日米間の太平洋戦争は、最終的には原爆投下で決着がついた訳ですが、その前にレーダー技術で決定的な差がついていたようです

米軍が数百キロも先の日本軍艦の位置を正確に把握していたのに対して、日本軍は双眼鏡によって目に見える範囲しか分からない

偵察機もあったでしょうが、これは「点の探索」で、広い太平洋をカバーすることなど不可能

現代戦では、科学技術力のわずかな差が、国家や民族の運命を決します(2番じゃダメなんです)

その結果、多くの輸送船が米軍魚雷の餌食となって沈没し、一日に2000人もの将兵が海の藻屑となる話なども出て来ます

池部良の乗った輸送船も魚雷を受けて沈没しますが、海に投げ出された池部良は10時間以上も海面を漂いながら、日本海軍の駆逐艦に救助されて九死に一生を得ます

その駆逐艦に乗って、次の任地であるハルマヘラ島の守備任務につきます

太郎先生の雑談には、輸送船沈没の話は無かったような気がするから、太郎先生の乗った輸送船は、無事にハルマヘラ島へたどり着いたのかな?

米軍の作戦は、太平洋上の一つの島を占領したら、そこに飛行場を建設して次の島を狙う、というような着実な「島づたい戦略」で、この侵攻コース上の島にいた日本軍守備隊は、ほぼすべて全滅しています

池部良のいた(たぶん太郎先生もいた)ハルマヘラ島は、この米軍侵攻コースからわずかに外れていたので、激しい攻撃(艦砲射撃、航空機による爆撃や機銃掃射)を受けますが、かろうじて全滅は免れます

楽園のような南の島でのんびりしていると、その数秒後には耳をつんざくような爆裂音や射撃音が鳴り響き、一気に地獄の戦場と化する場面の描写は、なかなかの臨場感があります

そして戦況悪化の暗いムードが支配する中で、ある日突然、玉音放送が流れて戦争が終わります

その終戦の描写も実に淡々としていて、著者のある種の諦念のようなものを感じさせる

池部良は(たぶん太郎先生も)昭和18~19年という敗色濃いころに徴兵されて、大卒だったので予備士官学校へ進んで、わずかな軍事教育や訓練を経て見習い士官から将校(陸軍少尉)になります

旧日本軍の階級制度は、大きく3段階に分かれていました

国や時代によって各階級の呼び名は違っていますが、どこの国の軍隊組織でもこの3段階の構造は似たようなもので、原則として指揮命令権限を持つのが将校です

兵士(兵卒):二等兵~兵長

下士官:伍長、軍曹、曹長

准尉(見習い士官)

将校(士官):少尉~大将

戦争末期になると軍人不足を補うために、軍隊経験が皆無の大卒(当時の大卒は少数派)も、学徒動員などで徴兵されました

その中には池部良や太郎先生のように、軍隊入隊後に予備士官学校に入り、見習い士官(准尉)を経て「にわか仕立ての将校」(最初は少尉)になる人たちもいました

この予備士官学校での成績や適性に難があると、将校ではなく下士官にされたそうです

一方、軍隊(陸軍)には、もともと市谷にあった陸軍士官学校出身の「本格的な将校」(職業軍人)がいて、上記の「にわか将校」を素人扱いして馬鹿にします

この「本格将校」(職業軍人)には、陸軍幼年学校などを経て、子どものころから軍人になることを目指してきた「軍人一筋」の人たちが多かった

この人たちから見れば、つい2~3年前まで映画俳優や生物学研究者などしていた連中が、陸軍将校として自分たちと同一視されることに耐えられなかったようです

この「本格将校」による「にわか将校」いじめは、かなり露骨に行われていたようで、本書の中でもたびたび描写されています

さらに戦争末期には、一般国民の30代40代といった、それまで年齢的に徴兵されなかった高年齢の男も、兵士不足を補うために徴兵されます

企業の管理職や、中小企業の社長をしていたような社会的地位のある男たちも、有無を言わさず徴兵され、二等兵として軍隊の最底辺のみじめな存在となって戦場へ送られるといった「悲劇」も少なからず生じました

また軍隊には長年いるが、士官学校などの学歴が無いために将校になれない、といったベテラン兵士や下士官も大勢います

すると当然ですが、まだ20代後半の経験不足な「にわか将校」が、自分より年上の、時には父親ほどの年齢の人生経験豊富な兵士(兵卒)や下士官を何十人も統率して指揮命令することになります

今でも年功序列を否定して能力主義を標榜する企業では、年上の部下との接し方に悩む若い上司がいますが、それと似たような現象が旧日本軍の内部でも生じていました

「年上の兵士」たちから見れば、自分たちの方が戦場経験も人生経験もははるかに豊富ですから、経験の乏しい学歴だけの「にわか将校」に対して、素直な気持ちになれないのも理解できます

上にいる「本格将校」(職業軍人)たちからは素人扱いで馬鹿にされ、軍隊の階級的には下にいるはずの「年上の兵士」たちからは、面従腹背の陰湿な抵抗に遭うという板挟み状態

しかも戦況は悪化の一途で、日本が戦争に勝つ見通しはまったく持てない

そんな絶望的状況でのメンタルを、太郎先生が87歳の時に出席した新宿高校同期会のスピーチで

「・・・人生振り返ってみると孤独だった

 軍隊でも孤独だった

と表現したのではないかと推察します

本書の中にも、著者(池部良)の戦場での孤独感が滲み出ています

軍隊組織内で置かれた立場から来る肉体的な厳しさや惨めさでは、将校より兵士の方がツラかったと思います

ただ、兵士にはすぐ近くに同じ立場の兵士が大勢いる

一方、新米の将校はたいてい小隊(10~30人くらいの兵士)を率いる訳ですから、同じ立場の人間(小隊長)には隣の小隊へ行かないと会えないので、小隊の中では常に孤独です

人の上に立つということは、孤独を引き受けることです

今では私もこんな悟ったようなことを書いてますが、これも歳のなせるわざで、20代の太郎先生にはキツかっただろうなぁと思います

戦前の日本の軍隊を描いた映画やドラマなどでは、やたらと激怒して部下を殴ったりする凶暴な軍人がよく登場します

すべての軍人がそうだった訳ではなく、池部良「ハルマヘラ・メモリー」の中には、まともな心を持った優しい軍人も少なからず登場しますし、池部良もその一人

しかしその一方で、軍隊映画そのままの凶暴な軍人がいたことも事実

部下(兵士)に厳しくすることは、軍隊組織の規律維持や精神のゆるみを防止する上で、ある水準までは合理化されますが、その水準を超えて残忍さを出す者も出てくる

今でも警察や検察の取り調べなどで社会問題化しますが、人間が組織や権力を背負って無力な個人に対応したとき、少なからぬ人間は、その深層心理に潜む残忍さを剥き出しにします

人権意識の希薄な途上国や共産独裁国では、ごくありふれた風景です

企業の上司による部下へのいじめ(パワハラ)も、似たような精神構造でしょう

だれの心の中にも、この残忍さは潜んでいます

敗戦の玉音放送が流れて数か月後に、生き残った将兵を日本へ送り返す船(復員船)の中で兵士たちが暴動を起こし、戦争中に部下に凶暴だった上官を海に放り込むといった復讐事件も起きていたようです

敗戦による武装解除で軍隊という枠組みが消滅した訳ですから、当然に起こり得る上下逆転現象で、ギロチンこそ使いませんが、フランス革命のあとの旧貴族の運命と似ています

池部良「ハルマヘラ・メモリー」は、1997年の出版で、池部良79歳の作品

79歳とは思えぬ生き生きとした詳細な描写は、池部良が晩年まで旺盛な知的活動をしていたことを感じさせます

ただし一部には著者の記憶の変化などのせいか、必ずしもすべて事実通りではなく、あるいは本を面白くするための脚色(フィクション)かと思われる部分もある

また中には、残酷すぎて本に書けないこともあったのではないか?と思われるところもある

たぶん太郎先生の雑談でも、残酷すぎて高校生には聴かせられないことがあったのではないか?と推察いたします

(;´Д`) ウウウ

石川太郎先生の研究(1)へ

石川太郎先生の研究(1)

▲我々27回生の卒業30周年同窓会(2005年)の太郎先生

87歳にしてこの背筋まっすぐの凛とした姿勢は、帝国海軍仕込み?

▲これは1年A組クラス会(2006年)にご出席の有賀先生

 

今日、昼寝をしていたら、夢の中に石川太郎先生が登場しました

最近はほぼ毎日昼寝をし、昼寝も夜寝も同じくらいの長さ

どちらも4時間くらいになってます

長時間続けて眠れないのは、年のせいでしょうかねー(トイレも近いし)

睡眠不足は重大な悪質ストレス要因で、

悪質ストレスは、免疫系を破壊して、ガン細胞の暴走を促す!

と私は信じているので、睡眠はタップリとるようにしています

具体的には、よほど重大な用事が無い限り

眠気を催したら、ためらうことなく、スグ横になる

自然に目覚めるまで、ひたすら眠る(約4時間)

という、昼夜2サイクル(合計8時間)の睡眠パターン

現役世代には無理な、リタイア世代だけに許された、ゼイタクなライフスタイルかもしれませんね

スペインには、シエスタという昼寝の習慣があるそうですが、我が日本も見習ったらどうかなぁ

いま太郎先生にお会いしたら

「70前の若造が、たるんどる!」

とか怒られるかな?

 

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夢の細かい内容はスグに忘れたのですが、太郎先生のことを思い出しながら、以下に少し書いてみることにします

新宿高校時代に太郎先生の生物の授業を受けた方はご存じのことですが、太郎先生は海軍将校となって第二次大戦に従軍されています

(この辺の記憶が、先週の「横須賀・軍艦クルーズ」とつながって、夢になったのかもしれませんね)

太郎先生は新宿高校での生物の授業中に、この戦争体験を「雑談」として語り、時として授業時間の大半が「雑談」になることも多々ありました

その体験談が非常に面白い(興味深い)ものだったので、新宿高校卒業生の間では

新宿高校最大の名物教師

として語り継がれています

我々新宿高校卒業生にとって「太郎」と言えば、麻生太郎、山本太郎、河野太郎などではなく、石川太郎先生しかいないのです

あの名物授業を録音しておいて、いま聴きたかったなぁ

いま考えてみますと、太郎先生は年齢的に、1943年(昭和18年)の「学徒出陣」で戦場に向かう運命になったのではないか?と推察します

それまで男子大学生は兵役法により、26歳まで徴兵を猶予されていましたが、敗色濃い戦時体制下ではこの猶予が撤廃され、20歳以上の文系学生が徴兵の対象となりました

そこでひとつ疑問が生じます

なぜ理系(生物学)の太郎先生が、学徒出陣することになったのか?

実は理系でも一部の学科では学徒出陣の対象となった、という情報もあります

確かに同じ理系でも、機械や電気みたいな工学系ならともかく、生物みたいな理学系は、戦争遂行や兵器製造との関係が薄そうです

当時、生物兵器や化学兵器の研究もしていたはずだけど、それはたぶん医学系や薬学系、応用化学系が担うはず

この辺の詳しい事情、もしご存じの方がいたら教えてください

▲出陣学徒壮行会 1943年(昭和18年) 元は白黒だがAIでカラー化

太郎先生は戦争から生還して、31年9か月間(昭和21年8月~昭和53年3月)、生物の先生として新宿高校で教鞭を執られました

我々27回生は、その最後に近い3年間、太郎先生に接する機会があった訳です

下の写真は、我々が入学するずっと前、太郎先生が新宿高校へ赴任した直後の撮影ではないかと思われます

まだ若々しい太郎先生(おそらく30歳代前半くらい)が写っています

周囲の理科の先生たちの、いかにも学者っぽい、ややひ弱な感じに対して、太郎先生の堂々たる面構えや雰囲気は、「さすが元帝国軍人!」と言いたくなります(私だけの感想かな?)

我が敬愛する物理の有賀先生は、やや不敵な笑みを浮かべているようにも見えます

有賀先生は、私の新宿高校1年の時のクラス担任で、有賀先生の授業が面白くて私は物理がダイスキになり、そのまま人生の途中まで理系人生を突っ走りました

「コレ、大事ですからね、コレ!」、思い出します

そのうち太郎先生に続き、「有賀健治先生の研究」も書きたいなぁ (^_^;)

 

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さて、当ブログの2013年8月8日に「古稀記念文集」という記事があります

これには、新宿高校12回生(我々よりも15年上)が古稀記念文集を発行したときの経緯などが書かれています

その中で12回生の同期会(2012年ころ)に来賓として出席なさった石川太郎先生のことが書かれています

石川先生は95歳、中野先生が92歳と、御高齢になられたことでもあり、それぞれお体にご不自由を感ずる日々を過ごされておられるそうです。

石川先生は視力が弱くなって、相手の顔が丸く霞んでいる程度にしか見えなくなっておられる由。

また中野先生におかれては、歩行に困難を覚える外、発声もままならなくなられているので、スピーチは控えたいとのご意向でした。

斯様に、ご不自由なお体を押してまでも、先生方のご参加が得られるのも、この七夕会が文集発刊に象徴されるような絆を保ち続けているからではないで しょうか?

スピーチの中で石川先生は、

「・・・人生振り返ってみると孤独だった。

軍隊でも孤独だった。

そして今外山中学の同窓会で生き残っているのは、自分を含めて たった4人。

孤独だねー」

と言われながらも、若い奥さまの温かな早めのお迎えを受けて(森さん・功刀さん談)4時頃お帰りになられました。

この「外山中学」とは、どこの学校?

旧制府立四中(都立戸山高校)を「戸山中学」と呼んで、それが誤植されたのか?

スピーチの中で3回も「孤独」という言葉を発した95歳の太郎先生

親しい人たちが次々に鬼籍に入る寂しさか?

勝手な想像ですが、戦場で戦友など多くの親しい人たちの死ぬ場面に遭遇し、それが太郎先生の人生観や孤独感に何らかの影響を及ぼしたのか?

あの授業中の饒舌だった太郎先生の、心の奥底が少しうかがえるような気がします

最後の「若い奥さま」というところに救いが感じられる

当ブログの2015年5月11日の記事「訃報 石川太郎先生」によると、3年間ほど自宅療養をされた後、2015年2月17日、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたとあります(享年97)

▲上記同期会(2012年ころ)の記念写真

▲少しボケてますが、中心部を拡大

左が多分、石川太郎先生(95) 一人おいて中野先生(92)

2012年の時点で太郎先生は95歳、すると生年は1917年ころで、1943年の学徒出陣の時に26歳くらいですから、まさに学徒出陣の対象者に該当します

もしかすると学徒出陣ではなく、徴兵猶予が切れた26歳でスグに戦地へ送られたのかもしれません

この「26歳で戦場へ」という仮説が正しいとすると、太郎先生の戦場体験は1943~1945の、長くても2年間程度だったはず

そこからあれだけの「雑談」が生み出された訳で、この2年間ほどの戦場体験の重みが感じられます

 

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ここに、「新宿高校歴代クラス担任一覧」という資料があります

これによると、太郎先生がクラス担任を引き受けたのは3回だけということが分かります

この資料は卒業時(3年生)のクラスなので、これとは別に入学時(1年生)のクラスがあります

いずれにしても、太郎先生の31年余の新宿高校在任期間を考えると、クラス担任の回数が少ないのかな?とも思いますが、上の先生のスピーチにある「孤独」と何やらつながってくるような気もいたします

また、我々が入学する前に全学連など反体制学生運動の影響を受けて、我々より少し上の世代(坂本龍一とか)が大暴れしました

新宿高校の校内もかなり荒れたのですが、それと太郎先生の「孤独」には何か関係がないかな?、などと勝手に想像してみたりもします

何しろ、国のために若者たちが命を捧げた時代、それからわずか20年ちょっとで、若者たちが国をぶっ壊そうと暴れていた時代

その二つを、目の前の出来事として、肉眼で見た太郎先生

今から思えば、どっちもスゴい時代だったと思います

▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)

右奥に出来たばかりの東京タワー(1958年完成)

 

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当ブログ1973年3月11日の記事に「石川太郎先生  読書雑感」という記事があります

我々27回生が新宿高校2年のころ、太郎先生56歳くらいの文章です

菜根譚を「老人の読む本」と断定しているところが、いかにも太郎先生

砲声やエンジンの音まで実感がわく」というところに、生の戦場体験を感じます

保定(パオティン)は、北京の近くの街ですから、海軍将校も軍艦に乗るばかりでなく、陸地のかなり奥深くでも戦ったのですね

▼拡大図

▲「保定城」でググったら、上のような城門の写真がありました

太郎先生は80年前の戦争中に、この城門を見たのでしょうか?

私の乏しい記憶や当ブログの過去記事からいろいろ書いてみました

記事中の私の記憶違いや誤解のご指摘、あるいは太郎先生に関する追加の情報やエピソードなど、hp@mkosugi.com までご提供いただけるとウレシイです

(^_^;)~♪

健児の歌 

 

黎明の雲を破り さしいづる日のごと
明けし生気充てり 我等六中健児
いざ燃えよ朝日のごと 母校の光世にあらはせ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

湧き出る若き力 揺るがぬ意思もて
奮闘と努力やまず 我等六中健児
いざ進め撓まず往け 校旗を四方に輝かせよ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

 

石川太郎先生の研究(2)へ

JR横須賀駅には階段が無い

▲JR横須賀駅

萩原さんから「JR横須賀駅には階段が無い」と教えてもらったので、

120年以上の歴史あるJR横須賀駅、階段が全くない理由は?

というサイトを閲覧したら、JR横須賀駅だけでなく、横須賀の街の歴史など、いろいろ分かりました

たしかに階段が無いが、その理由には2説あり

黒船にビックリした幕末~明治の日本は、近代的な造船所の必要に迫られた

そこで登場するのが小栗上野介忠順(2027年のNHK大河ドラマ主人公)

造船所建設指導で来日したのが、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーで、公園の名前になっている

1871(明治4)年に「横須賀造船所」第1号ドックが完成

横須賀駅に1番線が無い理由、などなど

ちなみに先日乗り降りしたのは京浜急行の横須賀中央駅で、こっちが横須賀市街の中心にあり、JR横須賀駅はやや街外れにあります

(^_^;)~♪

▲明治18年発行の横須賀絵図 軍港見学者向けお土産

 

▲ヴェルニー公園

詳細はここをクリック

横須賀・軍艦クルーズへ

「お大典の碑」と階段 新宿駅開業140周年

新宿駅南口から新宿高校へ向かう途中にあった「お大典の碑」と階段

奥に高層ビルが見えますから、そんなに大昔ではない

この階段を登り降りした記憶があります

(^_^;)~♪

「お大典の碑」というのは、昭和3年(1928年)の昭和天皇ご即位を記念した御大典記念の碑のことで、現在は、西新宿の十二社熊野神社に移設されています

「御大典」は「ごたいてん」と読むのが正しいようですが、私は勝手に「おたいてん」と読みたいのです

 

▼今はこんな感じ ((((;゚д゚))))

「お大典の碑」を意識しているのか、今でも時計台のような碑(塔)が立っています(中はエレベーター)

新宿高校出身 森香澄 新宿駅でティシュを配る

 

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東日本旅客鉄道は1月22日から、新宿駅開業140周年を記念した一連のイベントを開催する。

主なイベントには、

2月22日から3月9日まで西改札内コンコースで行われる「歴史写真展」

3月1日にSuicaのペンギン広場で開催される「新宿スペシャルオーケストラ」

などが含まれる。

このオーケストラは、参加者が自分の楽器を持ち寄って演奏し、1000円の参加費で楽しむことができる特別な催しだ。

新宿駅は1885年3月1日に「日本鉄道」として開業した日本初の私鉄で、その歴史を楽しむためのイベントが多岐にわたって計画されている。

特に注目を集めるのが「201系電車」のラッピング自動販売機で、2月1日から12月中旬まで西改札内コンコース11・12番線エレベーター横に設置され、新宿の懐かしい通勤情景を思い起こさせる。

また、2月18日から24日まで「駅からハイキング&ウォーキングイベント」が開催。

新宿高校の生徒と共同で選定した歴史巡りコースを楽しむことができる。

さらに、3月2日には全席グリーン車仕様のハイグレード車両「なごみ(和)」を使用した団体専用の臨時列車が運行され、渋谷駅から上諏訪駅までの往復旅行を楽しむことができる。

この旅行に参加することで、限定記念グッズ4点を手にすることができる特典も魅力だ。

参加申し込みは、1月24日から「日本の旅、鉄道の旅」サイトで受け付ける。

各イベントでは、新宿駅とその周辺の発展を支えてきた歴史と未来への展望を感じることができる。

さらに、JR東日本グループの社員が、特別にデザインされたエンブレムを着用して、来場者を迎え、140周年の記念を祝う。

これらのイベントを通して、新宿駅の重要な節目を体感する機会を提供する。

▲1885(明治18)年、日本鉄道「内藤新宿駅」として完成

今でこそ新宿と言えばここですが、日本全国には「新宿」という地名が多いので、それと区別するために「内藤新宿」と呼ばれていました

江戸時代の大名、信濃高遠藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)があったからです

内藤新宿駅の駅名を短くするときに、新宿駅ではなく内藤駅にしていたら、歌舞伎町とか夜(night)の街にふさわしい駅名になっていましたね

でもそうなると、新宿区ではなく「内藤区」、新宿高校ではなく「内藤高校」になっていたかもしれません

(^_^;)~♪