現代史

石川太郎先生の研究(2)ハルマヘラ・メモリー

3/15に書いた当ブログ記事「石川太郎先生の研究(1)」のつづきです

あの記事を読んだ徳永パパから、太郎先生は陸軍将校だったと教えていただき、海軍将校だったという私の記憶は間違っていたようでビックリしました

新宿高校時代の生物の授業中、太郎先生の雑談に軍艦や南の島の体験談が多かったので、私が勝手に海軍将校だと思い込んでいただけみたいです

また熊さんからは

「俳優の池部良が、ハルマヘラ・メモリーという本を書いていて、どうも太郎先生と同じ時期に同じ島に居たらしい」

と教えていただき、さっそく池部良の著書「ハルマヘラ・メモリー」を入手して、いま読み終えました

池部良(1918-2010)は、往年の超イケメン映画スターですが、エッセイストとしても有名

そのせいか「ハルマヘラ・メモリー」は大変読みやすい文章で、372ページもある分厚い本ですが、退屈することなく今日一日で一気に読み終えました

文章は淡々としているのですが、それがかえって最前線の臨場感を高めているように感じました

以下、その読後感です

池部良が1918年生まれ、太郎先生が1917年頃の生まれというほぼ同世代で、二人の軍隊経験は驚くほど重なっているようです

どちらも軍隊や戦争にはまったく関係ない世界(映画俳優や生物学研究者)から26歳ころに徴兵され、大卒だったので予備士官学校へ進んで、見習い将校を経て将校(陸軍少尉)になります

陸軍少尉として、中国大陸の北京の近く(保定パオティン)にいて、そこから任地替え(転進)で南方のハルマヘラ島に移って終戦を迎えられたようです

ここまで軍隊経歴が似ていると、ひょっとしてお二人は、戦地(保定やハルマヘラ島)で出会っていたのかもしれませんね

今日、池部良の「ハルマヘラ・メモリー」を読みながら、太郎先生の若き日の戦争体験談を読んでいるような気持ちになりました

極寒の保定から熱帯のハルマヘラ島への移動は、狭い船内にぎゅうぎゅう詰めの輸送船団に乗って行くのですが、途中にはアメリカの潜水艦がウヨウヨしている海域を通ります

日米間の太平洋戦争は、最終的には原爆投下で決着がついた訳ですが、その前にレーダー技術で決定的な差がついていたようです

米軍が数百キロも先の日本軍艦の位置を正確に把握していたのに対して、日本軍は双眼鏡によって目に見える範囲しか分からない

偵察機もあったでしょうが、これは「点の探索」で、広い太平洋をカバーすることなど不可能

現代戦では、科学技術力のわずかな差が、国家や民族の運命を決します(2番じゃダメなんです)

その結果、多くの輸送船が米軍魚雷の餌食となって沈没し、一日に2000人もの将兵が海の藻屑となる話なども出て来ます

池部良の乗った輸送船も魚雷を受けて沈没しますが、海に投げ出された池部良は10時間以上も海面を漂いながら、日本海軍の駆逐艦に救助されて九死に一生を得ます

その駆逐艦に乗って、次の任地であるハルマヘラ島の守備任務につきます

太郎先生の雑談には、輸送船沈没の話は無かったような気がするから、太郎先生の乗った輸送船は、無事にハルマヘラ島へたどり着いたのかな?

米軍の作戦は、太平洋上の一つの島を占領したら、そこに飛行場を建設して次の島を狙う、というような着実な「島づたい戦略」で、この侵攻コース上の島にいた日本軍守備隊は、ほぼすべて全滅しています

池部良のいた(たぶん太郎先生もいた)ハルマヘラ島は、この米軍侵攻コースからわずかに外れていたので、激しい攻撃(艦砲射撃、航空機による爆撃や機銃掃射)を受けますが、かろうじて全滅は免れます

楽園のような南の島でのんびりしていると、その数秒後には耳をつんざくような爆裂音や射撃音が鳴り響き、一気に地獄の戦場と化する場面の描写は、なかなかの臨場感があります

そして戦況悪化の暗いムードが支配する中で、ある日突然、玉音放送が流れて戦争が終わります

その終戦の描写も実に淡々としていて、著者のある種の諦念のようなものを感じさせる

池部良は(たぶん太郎先生も)昭和18~19年という敗色濃いころに徴兵されて、大卒だったので予備士官学校へ進んで、わずかな軍事教育や訓練を経て見習い士官から将校(陸軍少尉)になります

旧日本軍の階級制度は、大きく3段階に分かれていました

国や時代によって各階級の呼び名は違っていますが、どこの国の軍隊組織でもこの3段階の構造は似たようなもので、原則として指揮命令権限を持つのが将校です

兵士(兵卒):二等兵~兵長

下士官:伍長、軍曹、曹長

准尉(見習い士官)

将校(士官):少尉~大将

戦争末期になると軍人不足を補うために、軍隊経験が皆無の大卒(当時の大卒は少数派)も、学徒動員などで徴兵されました

その中には池部良や太郎先生のように、軍隊入隊後に予備士官学校に入り、見習い士官(准尉)を経て「にわか仕立ての将校」(最初は少尉)になる人たちもいました

この予備士官学校での成績や適性に難があると、将校ではなく下士官にされたそうです

一方、軍隊(陸軍)には、もともと市谷にあった陸軍士官学校出身の「本格的な将校」(職業軍人)がいて、上記の「にわか将校」を素人扱いして馬鹿にします

この「本格将校」(職業軍人)には、陸軍幼年学校などを経て、子どものころから軍人になることを目指してきた「軍人一筋」の人たちが多かった

この人たちから見れば、つい2~3年前まで映画俳優や生物学研究者などしていた連中が、陸軍将校として自分たちと同一視されることに耐えられなかったようです

この「本格将校」による「にわか将校」いじめは、かなり露骨に行われていたようで、本書の中でもたびたび描写されています

さらに戦争末期には、一般国民の30代40代といった、それまで年齢的に徴兵されなかった高年齢の男も、兵士不足を補うために徴兵されます

企業の管理職や、中小企業の社長をしていたような社会的地位のある男たちも、有無を言わさず徴兵され、二等兵として軍隊の最底辺のみじめな存在となって戦場へ送られるといった「悲劇」も少なからず生じました

また軍隊には長年いるが、士官学校などの学歴が無いために将校になれない、といったベテラン兵士や下士官も大勢います

すると当然ですが、まだ20代後半の経験不足な「にわか将校」が、自分より年上の、時には父親ほどの年齢の人生経験豊富な兵士(兵卒)や下士官を何十人も統率して指揮命令することになります

今でも年功序列を否定して能力主義を標榜する企業では、年上の部下との接し方に悩む若い上司がいますが、それと似たような現象が旧日本軍の内部でも生じていました

「年上の兵士」たちから見れば、自分たちの方が戦場経験も人生経験もははるかに豊富ですから、経験の乏しい学歴だけの「にわか将校」に対して、素直な気持ちになれないのも理解できます

上にいる「本格将校」(職業軍人)たちからは素人扱いで馬鹿にされ、軍隊の階級的には下にいるはずの「年上の兵士」たちからは、面従腹背の陰湿な抵抗に遭うという板挟み状態

しかも戦況は悪化の一途で、日本が戦争に勝つ見通しはまったく持てない

そんな絶望的状況でのメンタルを、太郎先生が87歳の時に出席した新宿高校同期会のスピーチで

「・・・人生振り返ってみると孤独だった

 軍隊でも孤独だった

と表現したのではないかと推察します

本書の中にも、著者(池部良)の戦場での孤独感が滲み出ています

軍隊組織内で置かれた立場から来る肉体的な厳しさや惨めさでは、将校より兵士の方がツラかったと思います

ただ、兵士にはすぐ近くに同じ立場の兵士が大勢いる

一方、新米の将校はたいてい小隊(10~30人くらいの兵士)を率いる訳ですから、同じ立場の人間(小隊長)には隣の小隊へ行かないと会えないので、小隊の中では常に孤独です

人の上に立つということは、孤独を引き受けることです

今では私もこんな悟ったようなことを書いてますが、これも歳のなせるわざで、20代の太郎先生にはキツかっただろうなぁと思います

戦前の日本の軍隊を描いた映画やドラマなどでは、やたらと激怒して部下を殴ったりする凶暴な軍人がよく登場します

すべての軍人がそうだった訳ではなく、池部良「ハルマヘラ・メモリー」の中には、まともな心を持った優しい軍人も少なからず登場しますし、池部良もその一人

しかしその一方で、軍隊映画そのままの凶暴な軍人がいたことも事実

部下(兵士)に厳しくすることは、軍隊組織の規律維持や精神のゆるみを防止する上で、ある水準までは合理化されますが、その水準を超えて残忍さを出す者も出てくる

今でも警察や検察の取り調べなどで社会問題化しますが、人間が組織や権力を背負って無力な個人に対応したとき、少なからぬ人間は、その深層心理に潜む残忍さを剥き出しにします

人権意識の希薄な途上国や共産独裁国では、ごくありふれた風景です

企業の上司による部下へのいじめ(パワハラ)も、似たような精神構造でしょう

だれの心の中にも、この残忍さは潜んでいます

敗戦の玉音放送が流れて数か月後に、生き残った将兵を日本へ送り返す船(復員船)の中で兵士たちが暴動を起こし、戦争中に部下に凶暴だった上官を海に放り込むといった復讐事件も起きていたようです

敗戦による武装解除で軍隊という枠組みが消滅した訳ですから、当然に起こり得る上下逆転現象で、ギロチンこそ使いませんが、フランス革命のあとの旧貴族の運命と似ています

池部良「ハルマヘラ・メモリー」は、1997年の出版で、池部良79歳の作品

79歳とは思えぬ生き生きとした詳細な描写は、池部良が晩年まで旺盛な知的活動をしていたことを感じさせます

ただし一部には著者の記憶の変化などのせいか、必ずしもすべて事実通りではなく、あるいは本を面白くするための脚色(フィクション)かと思われる部分もある

また中には、残酷すぎて本に書けないこともあったのではないか?と思われるところもある

たぶん太郎先生の雑談でも、残酷すぎて高校生には聴かせられないことがあったのではないか?と推察いたします

(;´Д`) ウウウ

石川太郎先生の研究(1)へ

石川太郎先生の研究(1)

▲我々27回生の卒業30周年同窓会(2005年)の太郎先生

87歳にしてこの背筋まっすぐの凛とした姿勢は、帝国海軍仕込み?

▲これは1年A組クラス会(2006年)にご出席の有賀先生

 

今日、昼寝をしていたら、夢の中に石川太郎先生が登場しました

最近はほぼ毎日昼寝をし、昼寝も夜寝も同じくらいの長さ

どちらも4時間くらいになってます

長時間続けて眠れないのは、年のせいでしょうかねー(トイレも近いし)

睡眠不足は重大な悪質ストレス要因で、

悪質ストレスは、免疫系を破壊して、ガン細胞の暴走を促す!

と私は信じているので、睡眠はタップリとるようにしています

具体的には、よほど重大な用事が無い限り

眠気を催したら、ためらうことなく、スグ横になる

自然に目覚めるまで、ひたすら眠る(約4時間)

という、昼夜2サイクル(合計8時間)の睡眠パターン

現役世代には無理な、リタイア世代だけに許された、ゼイタクなライフスタイルかもしれませんね

スペインには、シエスタという昼寝の習慣があるそうですが、我が日本も見習ったらどうかなぁ

いま太郎先生にお会いしたら

「70前の若造が、たるんどる!」

とか怒られるかな?

 

* * * * * * *

 

夢の細かい内容はスグに忘れたのですが、太郎先生のことを思い出しながら、以下に少し書いてみることにします

新宿高校時代に太郎先生の生物の授業を受けた方はご存じのことですが、太郎先生は海軍将校となって第二次大戦に従軍されています

(この辺の記憶が、先週の「横須賀・軍艦クルーズ」とつながって、夢になったのかもしれませんね)

太郎先生は新宿高校での生物の授業中に、この戦争体験を「雑談」として語り、時として授業時間の大半が「雑談」になることも多々ありました

その体験談が非常に面白い(興味深い)ものだったので、新宿高校卒業生の間では

新宿高校最大の名物教師

として語り継がれています

我々新宿高校卒業生にとって「太郎」と言えば、麻生太郎、山本太郎、河野太郎などではなく、石川太郎先生しかいないのです

あの名物授業を録音しておいて、いま聴きたかったなぁ

いま考えてみますと、太郎先生は年齢的に、1943年(昭和18年)の「学徒出陣」で戦場に向かう運命になったのではないか?と推察します

それまで男子大学生は兵役法により、26歳まで徴兵を猶予されていましたが、敗色濃い戦時体制下ではこの猶予が撤廃され、20歳以上の文系学生が徴兵の対象となりました

そこでひとつ疑問が生じます

なぜ理系(生物学)の太郎先生が、学徒出陣することになったのか?

実は理系でも一部の学科では学徒出陣の対象となった、という情報もあります

確かに同じ理系でも、機械や電気みたいな工学系ならともかく、生物みたいな理学系は、戦争遂行や兵器製造との関係が薄そうです

当時、生物兵器や化学兵器の研究もしていたはずだけど、それはたぶん医学系や薬学系、応用化学系が担うはず

この辺の詳しい事情、もしご存じの方がいたら教えてください

▲出陣学徒壮行会 1943年(昭和18年) 元は白黒だがAIでカラー化

太郎先生は戦争から生還して、31年9か月間(昭和21年8月~昭和53年3月)、生物の先生として新宿高校で教鞭を執られました

我々27回生は、その最後に近い3年間、太郎先生に接する機会があった訳です

下の写真は、我々が入学するずっと前、太郎先生が新宿高校へ赴任した直後の撮影ではないかと思われます

まだ若々しい太郎先生(おそらく30歳代前半くらい)が写っています

周囲の理科の先生たちの、いかにも学者っぽい、ややひ弱な感じに対して、太郎先生の堂々たる面構えや雰囲気は、「さすが元帝国軍人!」と言いたくなります(私だけの感想かな?)

我が敬愛する物理の有賀先生は、やや不敵な笑みを浮かべているようにも見えます

有賀先生は、私の新宿高校1年の時のクラス担任で、有賀先生の授業が面白くて私は物理がダイスキになり、そのまま人生の途中まで理系人生を突っ走りました

「コレ、大事ですからね、コレ!」、思い出します

そのうち太郎先生に続き、「有賀健治先生の研究」も書きたいなぁ (^_^;)

 

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さて、当ブログの2013年8月8日に「古稀記念文集」という記事があります

これには、新宿高校12回生(我々よりも15年上)が古稀記念文集を発行したときの経緯などが書かれています

その中で12回生の同期会(2012年ころ)に来賓として出席なさった石川太郎先生のことが書かれています

石川先生は95歳、中野先生が92歳と、御高齢になられたことでもあり、それぞれお体にご不自由を感ずる日々を過ごされておられるそうです。

石川先生は視力が弱くなって、相手の顔が丸く霞んでいる程度にしか見えなくなっておられる由。

また中野先生におかれては、歩行に困難を覚える外、発声もままならなくなられているので、スピーチは控えたいとのご意向でした。

斯様に、ご不自由なお体を押してまでも、先生方のご参加が得られるのも、この七夕会が文集発刊に象徴されるような絆を保ち続けているからではないで しょうか?

スピーチの中で石川先生は、

「・・・人生振り返ってみると孤独だった。

軍隊でも孤独だった。

そして今外山中学の同窓会で生き残っているのは、自分を含めて たった4人。

孤独だねー」

と言われながらも、若い奥さまの温かな早めのお迎えを受けて(森さん・功刀さん談)4時頃お帰りになられました。

この「外山中学」とは、どこの学校?

旧制府立四中(都立戸山高校)を「戸山中学」と呼んで、それが誤植されたのか?

スピーチの中で3回も「孤独」という言葉を発した95歳の太郎先生

親しい人たちが次々に鬼籍に入る寂しさか?

勝手な想像ですが、戦場で戦友など多くの親しい人たちの死ぬ場面に遭遇し、それが太郎先生の人生観や孤独感に何らかの影響を及ぼしたのか?

あの授業中の饒舌だった太郎先生の、心の奥底が少しうかがえるような気がします

最後の「若い奥さま」というところに救いが感じられる

当ブログの2015年5月11日の記事「訃報 石川太郎先生」によると、3年間ほど自宅療養をされた後、2015年2月17日、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたとあります(享年97)

▲上記同期会(2012年ころ)の記念写真

▲少しボケてますが、中心部を拡大

左が多分、石川太郎先生(95) 一人おいて中野先生(92)

2012年の時点で太郎先生は95歳、すると生年は1917年ころで、1943年の学徒出陣の時に26歳くらいですから、まさに学徒出陣の対象者に該当します

もしかすると学徒出陣ではなく、徴兵猶予が切れた26歳でスグに戦地へ送られたのかもしれません

この「26歳で戦場へ」という仮説が正しいとすると、太郎先生の戦場体験は1943~1945の、長くても2年間程度だったはず

そこからあれだけの「雑談」が生み出された訳で、この2年間ほどの戦場体験の重みが感じられます

 

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ここに、「新宿高校歴代クラス担任一覧」という資料があります

これによると、太郎先生がクラス担任を引き受けたのは3回だけということが分かります

この資料は卒業時(3年生)のクラスなので、これとは別に入学時(1年生)のクラスがあります

いずれにしても、太郎先生の31年余の新宿高校在任期間を考えると、クラス担任の回数が少ないのかな?とも思いますが、上の先生のスピーチにある「孤独」と何やらつながってくるような気もいたします

また、我々が入学する前に全学連など反体制学生運動の影響を受けて、我々より少し上の世代(坂本龍一とか)が大暴れしました

新宿高校の校内もかなり荒れたのですが、それと太郎先生の「孤独」には何か関係がないかな?、などと勝手に想像してみたりもします

何しろ、国のために若者たちが命を捧げた時代、それからわずか20年ちょっとで、若者たちが国をぶっ壊そうと暴れていた時代

その二つを、目の前の出来事として、肉眼で見た太郎先生

今から思えば、どっちもスゴい時代だったと思います

▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)

右奥に出来たばかりの東京タワー(1958年完成)

 

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当ブログ1973年3月11日の記事に「石川太郎先生  読書雑感」という記事があります

我々27回生が新宿高校2年のころ、太郎先生56歳くらいの文章です

菜根譚を「老人の読む本」と断定しているところが、いかにも太郎先生

砲声やエンジンの音まで実感がわく」というところに、生の戦場体験を感じます

保定(パオティン)は、北京の近くの街ですから、海軍将校も軍艦に乗るばかりでなく、陸地のかなり奥深くでも戦ったのですね

▼拡大図

▲「保定城」でググったら、上のような城門の写真がありました

太郎先生は80年前の戦争中に、この城門を見たのでしょうか?

私の乏しい記憶や当ブログの過去記事からいろいろ書いてみました

記事中の私の記憶違いや誤解のご指摘、あるいは太郎先生に関する追加の情報やエピソードなど、hp@mkosugi.com までご提供いただけるとウレシイです

(^_^;)~♪

健児の歌 

 

黎明の雲を破り さしいづる日のごと
明けし生気充てり 我等六中健児
いざ燃えよ朝日のごと 母校の光世にあらはせ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

湧き出る若き力 揺るがぬ意思もて
奮闘と努力やまず 我等六中健児
いざ進め撓まず往け 校旗を四方に輝かせよ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

 

石川太郎先生の研究(2)へ

JR横須賀駅には階段が無い

▲JR横須賀駅

萩原さんから「JR横須賀駅には階段が無い」と教えてもらったので、

120年以上の歴史あるJR横須賀駅、階段が全くない理由は?

というサイトを閲覧したら、JR横須賀駅だけでなく、横須賀の街の歴史など、いろいろ分かりました

たしかに階段が無いが、その理由には2説あり

黒船にビックリした幕末~明治の日本は、近代的な造船所の必要に迫られた

そこで登場するのが小栗上野介忠順(2027年のNHK大河ドラマ主人公)

造船所建設指導で来日したのが、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーで、公園の名前になっている

1871(明治4)年に「横須賀造船所」第1号ドックが完成

横須賀駅に1番線が無い理由、などなど

ちなみに先日乗り降りしたのは京浜急行の横須賀中央駅で、こっちが横須賀市街の中心にあり、JR横須賀駅はやや街外れにあります

(^_^;)~♪

▲明治18年発行の横須賀絵図 軍港見学者向けお土産

 

▲ヴェルニー公園

詳細はここをクリック

横須賀・軍艦クルーズへ

「お大典の碑」と階段 新宿駅開業140周年

新宿駅南口から新宿高校へ向かう途中にあった「お大典の碑」と階段

奥に高層ビルが見えますから、そんなに大昔ではない

この階段を登り降りした記憶があります

(^_^;)~♪

「お大典の碑」というのは、昭和3年(1928年)の昭和天皇ご即位を記念した御大典記念の碑のことで、現在は、西新宿の十二社熊野神社に移設されています

「御大典」は「ごたいてん」と読むのが正しいようですが、私は勝手に「おたいてん」と読みたいのです

 

▼今はこんな感じ ((((;゚д゚))))

「お大典の碑」を意識しているのか、今でも時計台のような碑(塔)が立っています(中はエレベーター)

新宿高校出身 森香澄 新宿駅でティシュを配る

 

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東日本旅客鉄道は1月22日から、新宿駅開業140周年を記念した一連のイベントを開催する。

主なイベントには、

2月22日から3月9日まで西改札内コンコースで行われる「歴史写真展」

3月1日にSuicaのペンギン広場で開催される「新宿スペシャルオーケストラ」

などが含まれる。

このオーケストラは、参加者が自分の楽器を持ち寄って演奏し、1000円の参加費で楽しむことができる特別な催しだ。

新宿駅は1885年3月1日に「日本鉄道」として開業した日本初の私鉄で、その歴史を楽しむためのイベントが多岐にわたって計画されている。

特に注目を集めるのが「201系電車」のラッピング自動販売機で、2月1日から12月中旬まで西改札内コンコース11・12番線エレベーター横に設置され、新宿の懐かしい通勤情景を思い起こさせる。

また、2月18日から24日まで「駅からハイキング&ウォーキングイベント」が開催。

新宿高校の生徒と共同で選定した歴史巡りコースを楽しむことができる。

さらに、3月2日には全席グリーン車仕様のハイグレード車両「なごみ(和)」を使用した団体専用の臨時列車が運行され、渋谷駅から上諏訪駅までの往復旅行を楽しむことができる。

この旅行に参加することで、限定記念グッズ4点を手にすることができる特典も魅力だ。

参加申し込みは、1月24日から「日本の旅、鉄道の旅」サイトで受け付ける。

各イベントでは、新宿駅とその周辺の発展を支えてきた歴史と未来への展望を感じることができる。

さらに、JR東日本グループの社員が、特別にデザインされたエンブレムを着用して、来場者を迎え、140周年の記念を祝う。

これらのイベントを通して、新宿駅の重要な節目を体感する機会を提供する。

▲1885(明治18)年、日本鉄道「内藤新宿駅」として完成

今でこそ新宿と言えばここですが、日本全国には「新宿」という地名が多いので、それと区別するために「内藤新宿」と呼ばれていました

江戸時代の大名、信濃高遠藩内藤家の下屋敷(現在の新宿御苑)があったからです

内藤新宿駅の駅名を短くするときに、新宿駅ではなく内藤駅にしていたら、歌舞伎町とか夜(night)の街にふさわしい駅名になっていましたね

でもそうなると、新宿区ではなく「内藤区」、新宿高校ではなく「内藤高校」になっていたかもしれません

(^_^;)~♪

品川駅は海岸にあった

品川駅の近くにある物流博物館では、いま鉄道古写真展が開催されています

上の写真の、ビーチ沿いに建つ小洒落た建物、今から130年以上も前の品川駅です

新橋横浜間に鉄道が正式開業する前に、品川横浜間で試験運転をしたので、横浜駅とともに日本で最も古くからある駅です

線路用地取得難で海岸沿いや海上(高輪築堤)に線路を作り、駅も海岸のすぐ近くで、駅前はすぐに海岸です

写真左上に見えるのが現在の三田(田町)のあたりで、幕末まで薩摩藩の江戸屋敷などがあり、幕府との間でドンパチあった場所です

その奥に見えるのが皇居(江戸城)、その右が江戸の下町でしょうか?

海岸に沿って東海道があり、大名行列や旅人など、江戸時代から賑わっていたエリアです

上の写真の右側、品川駅の南側に少し行くと、東海道の最初の宿場町「品川宿」がありました

その近くには鈴ヶ森刑場があり、江戸時代220年間に10~20万人が処刑されました

仮に15万人とすると、年に680人、毎日2人くらい死刑になっていた計算になります

有名な放火犯人、八百屋お七が処刑されたのもここです

現在のような科学捜査など無い時代で、自白させるための拷問も許されていましたから、冤罪も多かったと思われます

品川宿は江戸市街の入口にあたり、東海道を通って江戸に流入してくる人々に

「悪いことをすると、こうなるぞ!」

という警告(見せしめ)の役割も果たして、江戸の治安維持をはかっていました

今でも品川駅の近くには「旧海岸通り」という道路がありますが、今では周辺が埋め立てられて、近くに海は見えません

品川駅の場所は、上の写真の当時から変わっていませんが、周辺が激変した訳です

上の写真の右側の海が埋め立てられて(大正~戦前)、現在の港区港南エリアが出来ました

私が現在住んでいる場所は、数十年前まで海でした

品川駅は今、高輪ゲートウェイ駅周辺(来年春に本格開業)と共に大規模工事が進められていて、大きく変貌しつつあります

(^_^;)~♪

日本到着3日後に神社参拝したマッカーサー

▲鶴岡八幡宮の社務所日誌

前日(9/1)欠勤して記録に残った木村仕女

直前(8/31)に挙式したカップルもいる

戦後の日本の占領政策を主導した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)は、1945年8月30日に厚木飛行場に降り立った。

3日後の9月2日午前に東京湾上の米戦艦ミズーリ号で行われた歴史的な降伏文書調印式に出席した。

この後、同日午後3時半ごろ「幕僚十二名を帯同」して鶴岡八幡宮を参拝し、日本語を話せる将校が御朱印や破魔矢13本を買い求めたことが社務所日誌に記されている。

マッカーサーは当時の宮司に「私は40年前にも参拝したことがある」と語って境内を懐かしそうに眺め、応接室での休憩を勧められると「ありがとう。今日は急ぐから」と辞退した。

宮司は初対面の印象を「実に穏やかで終始、敬虔(けいけん)な態度で感服した」と話した。

この40年前、青年将校時代のマッカーサーは在日米大使館付き武官だった父の副官として来日。

日露戦争で活躍した東郷平八郎や大山巌、乃木希典と面会した経験もあったとされる。

吉田さんは「武士道で説かれる倫理観や潔さを日本の名将から教わり、武士や軍人の崇敬を受ける鶴岡八幡宮を敬う気持ちを持ったのだろう」と参拝の背景を推し量る

▲連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー

▲東京湾上の米戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書調印式

このつい半月ほど前まで、血で血を洗う激戦を繰り広げたが、勝敗確定後は互いに紳士的に対応することができた日米という文明世界

それから80年近くたっても、靖国神社に落書きするなど、日本国民の神経を逆撫でするような悪質な嫌がらせをしつこく続けている、反日赤組(中露韓北)という野蛮世界

この雲泥ほどの民度の差は、これから数十年、数百年、ひょっとすると5000年たっても埋まらないのかもしれませんね

(^_^;)

▲靖国神社に落書きする中国人 2024年6月1日

 

日本製鉄 USスチールを買収

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▲カーネギーホール

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日本製鉄が、米鉄鋼大手USスチールを買収します

買収額は141億ドル(約2兆円)

USスチールは122年の歴史を誇り、かつて世界最大の企業でした

米国を代表していた大企業が海外勢に買収されるというのは、米国人にとっても感慨深いようで、米国でも大きく報じられています

「中国ではなく日本の企業に買収されて良かった」

と感じているかもしれません

いま中国は不動産バブルの破裂で、それどころではないと思いますけどね

日本でも東芝が、海外ファンドに買収されそうになってましたね

私も理系出身なので、友人が何人も東芝に就職しました

いま「半導体JAPAN」復活の流れに乗って、東芝が大復活して欲しいものです

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USスチールは1901年の大合併で誕生しました

日本製鉄の前身の八幡製鉄も1901年の設立

良きライバルと言いたいところですが、かつての八幡製鉄から見たら、USスチールは雲の上の存在でした

USスチールの設立に深く関与したのが、鉄鋼王カーネギー(←)

日本で言えば、新一万円札の顔、渋沢栄一みたいな人

NYのカーネギーホールで有名です(↑↓)

カーネギーホールで演奏することは、世界の演奏家の夢

Pianist Arthur Rubinstein ontvangt gouden tulp van RCA, Amsterdam, Arthur Rubinstein ontvangt gouden tulp *8 november 1971ピアニストのルービンシュタイン(→)が、ニューヨークで道を歩いているときに観光客から

カーネギーホールへの道

を尋ねられ

Practice, practice, and practice.

(練習して、練習して、さらに練習してください)

と答えたという逸話は余りにも有名

歩行者には5分で行ける道のりでも、演奏家には遠い遠い、さらに遠い道のようです

鉄鋼王カーネギーにも、次のような有名な逸話があります

母親と一緒に市場へ買い物に行ったカーネギー坊や

果物屋に山積みされていたサクランボに見入る

fruit_cherry_illsut_137

気付いた果物屋のおじさんが

「一つかみ、あげるよ」

しかしカーネギー坊や、手を出さない

おじさん「サクランボ、嫌い?」

坊や「好き」 でも手を出さない

おじさんは不思議そうな顔で、サクランボをつかんで坊やの帽子に入れてやる

帰宅後に母親が「どうして自分で取らなかったの?」と尋ねると、カーネギー坊や

「おじさんの手の方が大きかったから」

さすが大実業家、ガキのころからシタタカだったようです

この種の逸話は、伝言ゲームで話が盛られていくので、どこまでホントか知らんけど

(^_^;)

 

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▲カーネギーホールの内部

 

哲学堂公園と井上円了 そして妖怪

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▲哲学堂公園

 

「君たちはどう生きるか」を書いた吉野源三郎が東大哲学科を出ているので思い出したのですが、中野区にある哲学堂公園を作った井上円了(いのうええんりょう、→)という人がいます

東洋大学の創設者で、新潟県長岡市のお寺の跡取りとして生まれましたが、東大哲学科を出て、寺を継がずに哲学者になり、明治大正の思想界に大きな影響を与えました

私の親が長岡市(旧山古志村)出身なので、今でも長岡には親戚が多く、長岡出身の井上円了に親しみを感じます

明治大正時代の哲学者というと堅物の学者先生を思い浮かべるかもしれないが、実はこの円了先生なかなかユーモアや遊び心のある人で、哲学の傍ら妖怪の研究もしている

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「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるを思い出しますが、円了先生は妖怪というものを正面から「哲学的に」研究しています

今で言う民俗学のような研究もしていた訳です

都内には井上円了の事績が2つあります

哲学堂公園 中野区 釈迦、孔子、ソクラテス、カントをまつった「四聖堂」がある

東洋大学 文京区 キャンパス内に「井上円了記念博物館」がある

どちらもまだ行ったことがないので、近々歩いてみたいと思っています

(^_^;)