50【健康管理】

新宿駅南口で首つり自殺 ミロードデッキ

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1月6日13時15分ごろ、東京都新宿区西新宿のJR新宿駅南口の歩道橋で、

「若い男性が柱にマフラーをひっかけて、飛び降りようとしている」

と110番通報があった。

警視庁新宿署によると、マフラーで首をつり、心肺停止状態になっている30代の男性を発見。

男性は通報の直後に飛び降りたとみられ、搬送先の病院で死亡が確認された。

同署は男性が自殺を図ったとみて調べている。

同署によると、男性は精神障害があり、直前まで一緒に飲食していた知人に対し、

「これから死ぬ」

などと話していたという。

現場は甲州街道にかかる「ミロードデッキ」と呼ばれる歩道橋で、駅周辺の商業施設などと接続している。

男は弱いよ 金ピカ先生

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派手な格好で羽振りのいいイメージが強かった「金ピカ先生」が孤独死したというニュースは、日本中に衝撃を与えた。

それは、多くの人にとって彼の死に様が他人事に思えぬものだったからに他ならない。

話が嚙み合わない

「ハァ、ハァ、ハァ……早く死にたい」

8月下旬のまだ暑い日、本誌は生前の「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68)を取材し、9月7日号の特集でその変わり果てた姿を伝えていた。

かつて築いた財産をすべて使い果たし、生活保護と、週に2回のデイケアサービスだけを頼りに生きていた佐藤さんの家は電気もガスも止められ、熱気がこもる寝室には、異臭が充満していた。

骨と皮だけのようになった身体にパンツ一枚の姿で、ガラス玉のような両目は、遠くを見つめたまま動かない。

口にするのは近所のコンビニで売られている格安のカップ焼酎と、タバコだけ。息も絶え絶えの様子で焼酎をあおり、ゴホゴホとむせる。

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「山城(新伍)、梅宮(辰夫)、(菅原)文太、あの頃の東映ヤクザ映画は楽しかったですね……」

頭がもうろうとしているのだろう。予備校講師時代の思い出を尋ねても、会話が嚙み合わない。

取材中、佐藤さんの口をつくのは「自分は生きる屍」「何にも関心がない」「早く死にたい」という、絶望に支配された人間の言葉ばかりだった。

そして、この取材からわずか1ヵ月足らずで、佐藤さんは誰にも看取られることなく、たった独りでこの世を去った―。

バブル期に一世を風靡し、最盛期には年間2億円とも言われる収入を得ていた佐藤さんは、なぜこれほどまでにも哀しく、孤独な最期を迎えなければならなかったのか。

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佐藤さんは、’90年代前半にはすでに講師を引退。その後は、知名度を活かしてタレントとして生活していたが、ブームはあっという間に過ぎ去り、収入は講師時代の100分の1以下に。

それでも、かつては毎日のように高級ホテルで食事をし、地方への移動も常にファーストクラスだった佐藤さんの放蕩ぶりは一向に収まらなかった。

「貯金はあっという間に減っていきましたが、決定打になったのは、なけなしのおカネを元手に出馬した’01年の参議院選挙でした。自民党から出馬したものの、落選してしまった」(佐藤さんの友人)

穴埋めのため、予備校講師時代に建てた「豪邸」も売り払った佐藤さんが、中野区内にある実家に妻と共に越してきたのは、いまから5年ほど前のことだった。

「もともと、あの家には佐藤さんの母親が住んでいました。お母さんはハデな人で、ヒラヒラのフリル傘を片手に真っ赤な帽子をかぶったりしていて、佐藤さんの独特のファッションセンスは母譲りだったと思います。

そんな母親が亡くなって間もなく、佐藤さんと奥様が引っ越してきた。あの頃はまだ元気で、『いくらの時計を買った』とか『収入がウン千万円あった』とか、昔の自慢話をよくしていました。でも奥様は常識人でね。いつも腰が低い人だった」(近隣住民)

そして妻は去った…

金遣いの荒さは「金ピカ先生」の異名どおりだった佐藤さんだが、人柄については見た目とは裏腹に穏やかで、人を怒鳴るようなことは一切なかったという。

そして、周囲の人が口をそろえるのは、「人一倍仲の良い夫婦だった」ということだ。

「先生は温泉が大好きで、羽振りの良かった時代はいつも夫婦で伊豆や箱根に出かけていた。そういう旅行も、外食するときも、先生は絶対に奥さんを連れていました。

奥さんはお嬢様育ちで、実家は相撲部屋の後援会会長をしていたほど。先生とは対照的に常に地味な服装で、とても出来た人でした。旦那さんを常に立てていて『うちの佐藤がすみません』というのが口癖でした。

先生はおカネの管理がまったくできない人なので、カネ回りの世話は奥さんがぜんぶやってあげていました。誰かとご飯を食べるときはいつも先生の奢りなので、奥さんの鞄には100万円の束が入っていた。

先生が、講師を辞めてあまりおカネがなくなってからも、奥さんが先生のもとを離れることはありませんでした。10年ほど前に先生が脳梗塞で倒れた直後も、奥様は献身的に世話をして、きっちり断酒を成功させていました」(前出・佐藤さんの友人)

仕事以外のことはまるで何もできない夫と、半歩後ろを歩きながら身の回りを甲斐甲斐しく世話する妻。

典型的な「昭和のおしどり夫婦」の関係に亀裂が走ったのは、実家に移ってから2年ほどが経ち、夫婦の生活が本格的に困窮してからのことだった。

相変わらず近所の飲食店に行くにもタクシーを利用するような佐藤さんの暮らしぶりに妻は呆れ果て、二人の間には喧嘩が絶えなくなった。

ついには「死ぬまで住み続けていい」という条件のもと、知人に自宅を売り払い、そのカネで高級外車を買おうとした佐藤さんに妻の怒りは限界に達した。’17年のある日、突然家を出ていってしまう。

そこから、佐藤さんは死に至る孤独な日々を過ごすことになる。

〈もう女房に未練ないし〉
〈(独りで生きる余生は)バラ色ですよ、ずっと〉

昨年の夏に『スポーツ報知』の取材を受けた際には、以前の威勢の良さがまだ残っていた。だが、それは精一杯の強がりだった。

プライドと見栄の塊だった佐藤さんは、実入りが減って人に奢ることができなくなってからは、次第に友人たちとも没交渉になっていったという。きっと、「みっともない姿は見せられない」と思っていたのだろう。

そんな佐藤さんにとって、妻はありのままの姿をさらけ出すことのできる、唯一の相手だった。

その「たった一人」を失った瞬間から、佐藤さんの本当の苦しみが始まった。
誰もいない部屋で、話し相手もなくタバコをくゆらせながらぼんやりと過ごす毎日。

「過去の人」になっても、カネがなくなっても、病気になっても、多くの人が離れていっても、それでもそばにいてくれた妻が、ついにいなくなってしまった。

〈自分の人生には、もうなにひとつとして残されていない〉

決して取り返すことのできない過ちに気づいたとき、佐藤さんが感じた絶望はいかばかりだっただろうか。

「全部オレが悪い」

気づけば、すっかり自暴自棄になり、心の痛みを少しでも紛らわそうと、朝から晩まで大量の酒をあおるようになった。

そして、昨年の秋には、デイケアサービスがないと生活できないところまで体調が悪化した。

デイケア施設の関係者が言う。

「地域包括支援センターの職員が様子を見に行った結果、『もう一人では生きられないから、サービスが入ったほうがいい』という判断になりました。

担当のヘルパーが佐藤さんの家に初めて足を踏み入れたとき、中は荒れ放題で、床のそこかしこに落ちたゴミが異様な臭いを放っていた。

できる限りのことはしようと思いましたが、当のご本人が生きる意欲をまったく持てなかった。当初はコンビニでサンドイッチなどを買っていましたが、次第に食べることすらやめてしまった」

電気もガスもつかない真っ暗な家のなかで、服をまとわぬ佐藤さんはじっと虚空を見つめ、微動だにしなかった。

このときの様子を「恐らく、完全な『自己放任』状態だったのではないか」と語るのは、遺品整理業「あんしんネット」の石見良教氏だ。

「『自己放任』は社会から孤立していた人が、死別や離婚で唯一の心の拠りどころだった人を失ったり、病気などの負の出来事に見舞われたりして、孤独に耐えられずに自暴自棄になってしまうことです。

とりわけ、佐藤さんのように子供のいない高齢男性はその傾向がより顕著になる。普通、人間は生ゴミの臭いに耐えられず片付けたくなるものですが、毎日ボーッと過ごしているうちに感覚が麻痺して、それが異常であることにすら気づかなくなってしまう」

すでにほとんど会話することさえままならなくなっていた佐藤さんだが、時折、妻への気持ちをこぼしていたという。

「よく言っていたのは『こうなったのも全部オレが悪いから仕方ないよな』と。もとから、奥さんの悪口を言うのは聞いたことがありませんでした。

自分が悪かったというのは重々わかっていたと思います。ごくたまに奥様が訪ねてくることがあったようで、そのときは嬉しそうに話していました」(前出・施設関係者)

男は弱い

羽振りが良かった時代を忘れられず放蕩を続け、すべてを頼り切っていた妻に愛想を尽かされる。

佐藤さんの辿った末路を、「自業自得」の一言で片付けるのは簡単だ。
しかし、どんな形にせよ、すべての夫婦に離別のときはやってくる。佐藤さんが襲われた絶望は、誰にとっても決して他人事ではない。

「連れ合いと離れた後、女性は『独りで生きなきゃ』と覚悟を決めて強くなる場合も多いのですが、男性の場合は、一気に弱ってしまう人が少なくありません。

近所付き合いや友人付き合いの多い女性にとって、夫は『たくさんある人間関係の一つ』に過ぎませんが、定年後に仕事関係のお付き合いがなくなった男性にとっては、奥さんとの関係は唯一無二のもの。

死別や離婚でそれが失われると、どうしていいかわからず、ただ呆然と立ち尽くしてしまうのです」(ケアマネージャーオフィス「ぽけっと」代表の上田浩美氏)

自分では何もできない男が独りになったときに襲われる、どうしようもない孤独。
人知れず最期を迎えた瞬間、佐藤さんがせめて絶望から解放されたことを願ってやまない。

「週刊現代」2019年10月12・19日合併号より

 

年には勝てない

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 後継に道を譲らず ひたすらポストにしがみつく

  醜い認知症ボケ老人もいるようですが

 こうゆう清々しい引退劇も あるんですね~  (^_^;)

 

山梨県甲州市の田辺篤市長(74)が27日、市議会議長に辞表を提出し、受理された。

物忘れなどを理由に挙げ、来年1月末で辞職する。

市長選は2月上旬に実施される公算が大きい。

辞表提出後に記者会見し、

「年を取りしんどくなった。年には勝てない」

と語った。

特定の病気は否定したが、疲れや物忘れが目立つようになったと説明。

「30分前の話を忘れることもあり、妻から気をつけた方がよいと言われるようになった」

と明かした。

決断時期については、

「選挙のこともあり、4月までには新しい市長が誕生していないと(いけない)」

と話し、年度の区切りを考慮したという。

新年度予算については「骨格予算」との方針を示した。

現在4期目で、任期を2年近く残した辞職になる。

「自分ではそれなりのことはやってきた」

と市政運営を振り返った。後継については

「やりたい人が何人もいるので、あえて言いません」

と明言しなかった。

田辺氏は県議や旧塩山市長を経て、2005年の合併で誕生した甲州市の市長選で当選。

17年11月に4選された。

 

強姦魔・初鹿明博 立憲民主党

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立憲民主党の衆院議員、強姦魔・初鹿明博は20日、強制わいせつの疑いで書類送検されたことを受け、同日付で離党届を提出したと発表した。

報道各社宛ての文書で強姦魔・初鹿明博は「捜査機関の判断を待つ身でありますが、このような事態を招いたことに鑑み、離党届を提出しました」とした。

強姦魔・初鹿明博を巡っては2015年5月、タクシー内で知人女性にわいせつな行為をしたとして、警視庁葛西署が今月10日に書類送検した。

 

東大野球部監督 井手峻さん

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創部100年目でプロ出身者は初めてとなる。

今月、東大野球部監督に就任した井手峻監督(75)である。

同大OBの井手監督は、1966年第2次ドラフト3位で同大出身2人目のプロ野球選手として中日に入団。

10年間の現役生活を終えた後は二軍監督やコーチを歴任、さらに球団代表などフロントの要職を務めるなど、50年近くにわたり、プロの世界に身を置いた。

2015年2月に退団後、東京都立新宿高校で特別コーチとなり、このたび母校で指揮を執ることに。

指導への情熱が衰えることを知らない井手監督に、話を聞いた。

球場近くで“単身赴任”

 ――東大の監督になったいきさつは?

「前任の浜田監督が契約更新の時期を迎え、今回はOBから公募しようということになった。何年か前なら自ら立候補しましたが、年齢のこともあるし、立候補は控えようと考えていた。そんな中、私の同級生が背中を押してくれ、ご指名いただいた。50年間、いろいろな野球を見てきて、勉強してきたことを還元したいと考えていた。持っているもの全てを吐き出してから死のうと思ってますよ(笑い)」

 ――就任して2週間。監督としての1日は?

「朝8時から正午ごろまで全体練習、午後は個別練習という形で、指導しています。まずは部員たちの名前を覚えること。今は4年生が卒業したので、部員は70人ほど。名簿を見ながら、名前と顔を一致させて。主将が気遣ってくれ、部員たちは練習用ユニホームの背中にみんな名前を書いてくれました」

 ――監督になるにあたり奥さまにご相談は?

「一言、『やりたいんでしょ?』と(笑い)。監督をやるにあたり、誰より妻に理解してもらわないといけない。朝のことなど考えて、東大球場(東京・文京区)の近くに小さい部屋を借りました。中日に在籍時もずっと名古屋で単身赴任をしていた。退団して関東に戻り、2人で余生を……というところだったから、私のワガママを聞いてくれた妻には感謝しています。自炊ができないから、普段は外食。でも、ちゃんと栄養も取らないとと思って、時間に余裕がある時は(都内の)自宅に帰って、妻と一緒に食事をすることもあります」

 ――以前から母校で指導をしたい気持ちはあったと。

「中日で10年間の現役生活を終えた直後に、延べ3週間ほど東大で指導をしたことがある。当時は大した知識はなかったですが、当時の部員たちは私が話すことを砂漠に水が染み込むように聞いてくれて。その時の快感は今も残っている。もう一回、東大で指導者をやってみたいと。中日を15年に退団し、11月上旬まで約2年、都立新宿高校で特別コーチをやらせてもらい、いろんな子供たちと接した。公式戦ではなかなか勝てなかったですが、初歩からやらないといけなかった子も、体が大きくなり、野球ができるようになる。進歩の度合いはプロとは違う。そこに面白さを感じていました」

せめて80歳までは、まずは42連敗を止める

 ――中日には選手、指導者、フロントの要職として約50年間在籍。

「見てきたもの、教わったものをどう還元できるか、ずっと考えています。ただ、プロの一流選手がこういう意図をもってプレーしているというような話はできても、とくにプロの打撃は“神秘的”な部分が8割を占めると思っている。感覚的なことですよね。打席で投手と対峙する中で、どの球を狙って、どう打つか。相手投手の心境、心理はどうか。これは言葉で言っても理解することは難しい。まして東大生は理詰めが好きです。まずは基本を徹底的にやり、体の仕組みを理解し、ロボットのようにというか、教科書通りにというか、プレーできるようになってほしい」

 ――どんな野球を?

「最初のミーティングで話したのは、チーム打率・250を目指し、これを研究課題にしようと。秋季リーグは打率・165。真っすぐ、変化球、甘い球が来た時にしっかり振れるように。走塁面では例えばゴロゴー。全員が完璧にできるように。大事なのは判断。足を動かし、どうやって“見る”のか、“見た”後に行くのか行かないのか。こういうものは実際にやって覚えないとダメ。そのことを教えてくれたのが中日の先輩である中利夫さん(元中日監督)」

 ――どんなことを教わったのですか?

「現役引退後、一軍外野守備走塁コーチに就任した1978年当時の監督が中さん。キャンプの際、シーズン中に起こる可能性があるプレーは全部、やらせてくれと言われた。自分自身、代走で使われることがあり、スチールの練習をしたことはあっても、走塁技術に関する知識がなかった。引退した後、もっといろんなことを勉強していれば、もっといいプレーができたかもしれないと思った。あとは、権藤博さんや鹿島忠、山崎武司といった中日OBに投手のこと、野手のこと、練習方法やメニューの内容などアドバイスをもらいました」

 ――東大といえば、日本最高峰の頭脳集団。

「勉強は一番かもしれませんが、スポーツって、うまい人の方が頭がよさそうに見える。ただ、理解するのは速いと思うので、そこに体がついてくれば、上手になるのは早いかもしれない。東大野球部の4年間で燃え尽きてもいい、というくらいの気持ちがあってもいいと思っている。卒業後も野球を続ける人もいるが、野球を終える部員の方が多いと思う。公式戦に限れば、1年間で20試合として、4年間で80試合だけ。出し惜しみをしていたら、もったいない。4年間、基本をしっかりやっておけば、もし将来、子供たちに野球を教えるとなった時に役に立つはずです」

 ――75歳という年齢で監督を務める。体力維持の秘訣は?

「とくに何も(笑い)。中日を退団してからは動くことっていったら、ゴルフをちょっとやっていたくらいで。お酒はだいぶ減りましたね。毎晩飲んではいるけど、食事をおいしく食べるために少し飲む、という感じで。ビール、日本酒、ワインかな。ウイスキーや焼酎のようなロングドリンクは飲まないですね」

 ――5年後には80歳。

「せめて80まではやりたいですね。これまでためてきたものをなるべく早く、吐き出して。それが勝ちにつながれば最高です。まずは、17年秋から続く42連敗を止めて、1勝すること。早大や慶大など、ライバル5大学にどうにかして一泡吹かせたい」

(聞き手=藤本幸宏/日刊ゲンダイ)

 

年を取ったなぁ

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“自分、年を取ったなぁ……”と思うこと、ありませんか?

若い頃には考えもしなかった心や体の変化に直面し、ちょっとブルーになることってありますよね。

でも大丈夫! 年を取るのはみんな平等。

世の中に加齢から無縁な人はいません!

TOKYO FMの生放送番組「高橋みなみの『これから、何する?』」10月23日(水)の生放送では、パーソナリティをつとめるたかみなが「“自分、年を取ったな……”と思うエピソード」に寄せられたメッセージについて答えてくれました。

詳細はここをクリック

 

世田谷が水没

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 世田谷記念病院って

  世田谷の何を

 記念しているのだろう?  (^_^;)

 

東京 世田谷区の病院では建物の一部が水につかったため、入院患者を3階以上に避難させて水位が下がるのを待っています。

近くを多摩川が流れる世田谷記念病院では12日午後2時ごろから5階建ての病院の1階部分が水につかり始め、一時、胸の高さまで浸水したということです。

病院には高齢者を中心におよそ170人が入院していて、1階に病室はありませんが、全員を3階以上に避難させたということです。

病院周辺の道路が水につかっているため孤立した状況になっていて、水位が下がるのを待っています。

非常食などの支援物資を届けに来た男性は

「患者や病院の関係者は無事だと聞いていますが、疲労がたまっていると思うので早く水が引いて物資を届けられる状況になってほしい。1階には医療設備が多くあるのでこれからも心配です」

と話していました。

 

金ピカ先生

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 明らかにアルコール依存症ですね

  68歳とは思えない老け方 目が死んでる

 手に持っているのは ワンカップのお酒?  (;´Д`)

 

まずは、先日亡くなった「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68のご冥福を心からお祈りしたい。

我々は8月末日、「かつて一斉を風靡した人びとに、近況を尋ねに行く」という趣旨の取材で佐藤さんのもとを訪れていた。

佐藤さんは快く応じてくれたが、かつてから変わり果てた生き様には、「人生とはいったいなんだろうか」と、深く考えさせられるものがあった。

追悼の思いを込めて、その日のことを振り返る。

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正義マン

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消費税10%払って店内で食べるべきか、8%払って持ち帰るべきか…。

軽減税率の対象商品はイートインで食べるかどうかの項目が書いてあり、自己申告制にして会計を行っています。

しかし、自己申告だと商品持ち帰りを申告していながらイートインで食べる人たちも増えるのではないかと予想されています。

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そんな人たちの行為がイートイン脱税といわれているのです。

イートイン脱税のようにテイクアウトとして買っておきながら、イートインスペースで食べている人がいたとします。

それを見つけた時に、店員に告げ口するような人のことを正義マンと呼ぶそうです。

正義マンが増えると、告げ口される店員さんも対応に困りそうだ、などと心配の声も上がっていました。

 

 

まったく大人にならない男

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 上の写真 20歳くらいに見えますけど40歳

  心の成長が止まった 一種の発達障害ですかね?

 「まったく老けない女」なら ほめ言葉だけど

  40歳の不良少年なんて シャレにもならない  (;´Д`)

 

愛知県内の高速道路でエアガンを発射した煽り運転。

「またか……」と感じた人々も少なくないだろう。

その容疑者として、14日に兵庫県尼崎東署に出頭し、逮捕されたのは、筆者の中学の後輩、佐藤竜彦(40)だった。

「佐藤は兄弟分に連れられて、しぶしぶ警察に出頭したようだ」(筆者の知人)

エアガンの犯人が佐藤と知った時、驚きがなかったといえばウソになるかもしれない。

だが同時に「やはり竜彦か……」という思いも少なからずあった。

なぜならば、13日の時点で、容疑者が40歳の男で尼崎市出身、覚醒剤の前科があるということまではすでに掴んでいた。

そして、エアガン……よくよく考えて見ると、著者の知る限り、それに該当するのは佐藤しかいない。

著者の地元、尼崎・塚口でも多くの人間が「やっぱりか」という同じ感想を持っていた。

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