死について

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最近、大学時代の研究室の友人が、心筋梗塞で急逝し、まさに「早すぎる死」を痛感しました

下の文章は、哲学者・三木清の『人生論ノート』の抜粋です。この文章を書いたとき、昭和十年代なかば、彼は40歳前後でした

戦前の平均寿命は50歳にも満たず、40歳はすでに初老でした

 

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近頃私は、死というものをそんなに恐しく思わなくなった。

年齢のせいであろう。

以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。

思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齢に私も達したのである。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。

愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思われる。

生れてくる者よりも死んでいった者に一層近く自分を感じるということは、年齢の影響に依るであろう。

三十代の者は四十代の者よりも二十代の者に、しかし四十代に入った者は三十代の者よりも五十代の者に、一層近く感じるであろう。

この年齢に達した者にとっては死は慰めとしてさえ感じられることが可能になる。

死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られている、今も私の心をとらえて離さないパスカルにおいてさえも。

パスカルはモンテーニュが死に対して無関心であるといって非難したが、私はモンテーニュを読んで、彼には何か東洋の智慧に近いものがあるのを感じる。

最上の死は、あらかじめ考えられなかった死である、と彼は書いている。

 

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この場合の「東洋の智慧」とは、主に老荘のことでしょうね

モンテーニュの主著『エセー』は、私の座右の書です

次の文章は、『エセー』1-20

「哲学を極めることは、死ぬことを学ぶこと」

よりの抜粋です

 

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足をしっかり踏まえて死を受けとめ、これと戦うことを学ぼう。

そしてまず手始めに、最大の強みを敵から奪うために、普通とは逆の道を取ろう。

死から珍しさを取り除こう。

死に親しみ、馴れ、しばしば死を念頭に置こう。

いつも死を想像し、しかもあらゆる様相において思い描こう。

馬がつまづいた時にも、瓦が落ちてきたときにも「これが死であったら」ととっさに反芻しよう。

お祭やお祝い事の最中にも、我等の境遇を思い起こさせるこの繰り返しを常に口づさもう。

そして喜びにうつつを抜かし、こうした喜びが如何に多くの死に狙われているかを忘れないようにしよう。

古代エジプト人は祝宴の最中や、御馳走の合間に、会食者への警告として、人間のミイラを持ってきた。

死はどこで我々を待っているかもわからない。

あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。

死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する。

 

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死に対する覚悟を決めてから、本当の人生が始まる。そんな気がします

次の文章は、雑誌「ニューズウィーク」の掲載された、死に関する科学的研究のレポート

「死が間近に迫ると、不安や恐怖に苛まれるのではなく、愛や幸福を感じる人が多い」

ことが研究でわかったという

 

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いつかやってくる死におびえる人は多い。

自らの死を極端に恐れる、「死恐怖症」(タナトフォビア)という症状もあるほどだ。

最近発表された研究でも、大半の人が死を恐ろしいイメージで捉えていることが指摘されている。

しかし同じ研究によると、現実に死が間近に迫っている者では事情が違い、一般に考えるよりはるかに肯定的な体験として死を捉えていることがわかった。

学術誌サイコロジカル・サイエンスに6月1日付けで掲載されたこの研究によると、死が身近に迫った人々の言葉を調査した結果、恐怖や不安に関連する言葉は少なく、意外なほど前向きに死と向き合っていることが判明したという。

ノースカロライナ大学チャペルヒル校の心理学者などからなる研究チームは、絵本作家のエイミー・クラウス・ローゼンタールが亡くなる10日前に記したコラムの言葉遣いが「愛と希望に満ちていた」点に着目したという(ローゼンタールはがんのため今年3月に他界した)。

研究論文の執筆者であるカート・グレイは声明の中で、

「死が目前に迫っている人が肯定的なのは不自然に思えるが、実際にはよくある反応だということが、今回の研究により明らかになった」

と述べている。

研究では、筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic lateral sclerosis:ALS)の末期にある患者と死刑囚という2つの集団について、死を目前にした時期の発言内容を分析した。

ALS患者については亡くなるまでの数カ月間に書かれたブログを、死刑囚に関しては刑執行前に残した最期の言葉を調査対象とした。

研究チームは、この2つの集団の比較対象として、死期を意識していない一般の人たちを対象に、自分が末期患者になった気持ちでブログを書いてもらったほか、自分が死刑囚だったら最後にどんな言葉を残すかと尋ねた。

両者の言葉を比較した結果、一般の人たちが想像した最期の言葉のほうが、実際に死に直面した人による言葉よりも、ずっと否定的であることが判明した。

グレイはこうコメントしている。

「死が近づいたときの感情は、悲しみや恐怖が多くを占めると考えがちだ。だが実際は、一般の人が想像するように悲しくも恐ろしくもなく、むしろ幸せな気持でいることがわかった」

「心身両面において、人間の適応力は驚くほど高い。死が迫っていようと、人は日常生活の営みを続ける。想像の段階では、死は孤独で意味のないものと捉えられがちだ。しかし、実際の言葉は、愛や社会とのつながり、そして意義に満ちている」

末期患者のブログをコンピューターによるアルゴリズム分析にかけたところ、マイナスよりもプラスの感情を表す言葉が使われる割合がはるかに多いことがわかった。

「心配」や「不安」、「恐怖」といった言葉よりも、「幸福」や「愛」を使う傾向が高いという。

一般の人が書いたブログのほうが、否定的な言葉が使われる頻度がはるかに高かった。

同様に、死刑囚が刑執行の直前に残した言葉は、収監されている時期に書いた詩と比べても、肯定的な意味を持つ単語が大幅に増えていた。

一般の人と比べると、否定的な言葉が使われる頻度は低かった。

こうした結果をもとに研究チームでは、死に対する感情では想像と現実にかなりの開きがあると結論づけている。

「死は誰にとっても避けられない。だが恐れることはない。今回の2つの集団を対象とした調査で、実際の死に至る体験は、意外なほど前向きなものであることが判明したからだ」

その限界にも触れている。

今回の研究は、死が迫った人の中でも特徴的な2つの集団を対象としており、老齢により死期が近づいた人など、他の集団には当てはまらない可能性もある。

死にまつわる感情を理解することは、今後の死への対処においてカギを握る要素だと、研究チームは述べている。

同チームは、

「人口の高齢化を考えると、この研究は、緩和ケアをめぐる政治的な議論に一石を投じる可能性がある」

と、その意義を強調した。

「現在の医療制度は、可能な限り死を避ける方向に特化している。これは主に、死が恐ろしく悲劇的なものだという観点に基づいたものだ。死を否定的に捉える文化的傾向を考えると、この方針は理解できるものではある。だが、今回の研究結果を見る限り、死は一般的に考えられているよりも肯定的なものである可能性がある。死神との遭遇は、思ったほど不吉なことでもないのかもしれない」

と、研究チームは論文で述べている。

 

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