10【朝陽27同窓会】

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000レストランジャーナリスト・犬養裕美子さん

新宿高校1977年度卒

毎日新聞

 東京都立新宿高校の特徴として、多くの卒業生が挙げるのが「ナンバーワンよりオンリーワン」という校風。

卒業生にもさまざまな分野の「オンリーワン」を 輩出している。

日本初の「レストランジャーナリスト」として活躍する犬養裕美子さん(56)=1977年度卒=もその一人。

「かっこ悪くてもやり通す」と いう新宿高校魂をたたき込まれたという学校生活を語った。

 学校は都会のど真ん中にありながら、男子が女子の2倍いてバンカラな雰囲気でした。

私もおしゃれは大好きでしたが、学校ではジャージー。男よりも男っぽくて、男子からは「イヌケイ」と呼ばれ、全く女扱いされませんでした。

 部活は中学から続けていたバスケット部に入りました。

練習が厳しくて有名で、一番つらかったのは福島での夏合宿。暑さと練習がきつくて胃が痛くなったの を覚えています。

そのかいあってか、3年春の都大会では私立の強豪がひしめく中、公立ながらベスト16に入り、やったことは報われるんだと思いました。

 部活後に毎日通ったのは、通学路にあった「ねえちゃん屋」。

いわゆる昔からの駄菓子屋で、体育部系の生徒のたまり場でした。15人ほど入れば満杯になる小さな店。コッペパンにマーガリンを塗ってジャムをつけた、1個50円くらいのジャムパンをみんなで食べた。

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毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000俳優、元参院議員・中村敦夫さん(76)

新宿高校1957年度卒

 旧制府立六中時代から全国屈指の進学校だった都立新宿高校。

 俳優で元参院議員の中村敦夫さん(76)=1957年度卒=の在校時は激しい受験競争の真っ ただ中だったという。

 「なじめず、変わり者だった」という中村さんに、その後の俳優業や政治家へとつながる高校時代の経験を聞いた。

 生まれは東京ですが、小中学校は新聞記者だった父親の仕事の関係で福島県におり、県立磐城高校に入学しました。

 東京出身の母の希望もあり、1年の夏に都立高校の編入試験を受けました。

 新宿高と戸山高の両方受かってどちらか迷いましたが、校舎に入る時に、戸山は靴をぬがなければならない。

 スリッパを持っていなかったら怒られたけど、新宿は古い校舎で土足のまま上がれた。

 礼儀作法がうるさくなさそうで自分に合っていると思い、新宿高に決めました。

 当時は毎年100人が東大に入るような進学校。レベルが高くてびっくりしました。

 最初の英語の試験でシェークスピアが出た。100点満点で10点以上 取ったらまあまあみたいな難問で、自分は10点ちょっと、周りも20点も取れない。

 一人だけ60点取った岩田昌征という生徒がいて、覚えています。彼は後 にユーゴスラビアの専門家として大学で教えていると聞きました。

 学校はとにかく競争しなくちゃいけないという雰囲気があった。

 朝の通学時間は、新宿駅南口から学校まで、学生帽をかぶった男子生徒が辞書を見ながら ダーッと列を作って歩く。

 社会のエスタブリッシュメントへの道を競い合うような雰囲気に拒絶感があり、なじめませんでした。

 高校生活はたくさんの本や映画に親しみました。

 コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」は自分のポジションを言い当ててもらったように感じて、とことん 読みました。

 映画は週1回は名画座に通いました。一番印象に残っているのは「天井桟敷の人々」。当時の名優が総出演で、それは夢中で見ました。

 学校に隣接していた新宿御苑には毎日弁当を持って行きました。

 障害物競走みたいに校庭の塀を乗り越えて入って。本当は入り口があったのですが、新宿高生は「第三のグラウンド」と呼んで、自由に行き来していました。

 俳優になって「木枯し紋次郎」の紋次郎役で当たった後に、小説を書いたりニュース番組のキャスターや政治家にもなり、分野横断的にいろいろやりました。

 一貫しているのは、時代認識と世界観の「表現者」であるということです。

 高校3年間は、セットされた道を進む「順応型の秀才」のためのコースで、そうじゃない自分のような人間は独力で道を探していくしかなかった。

 しんどい人生だけど、そっちのほうが面白いと気付いた。それは反面教師としての、あの学校のおかげです。

 今の時代は混乱の極致で、軸になるものがない。

 僕がこれからできるのは、遠慮せずにはっきりものを言うこと。

 自分の確信したことをさまざまな手段で伝える「表現者」としての人生を、全うしたいと思います。

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身近な存在、新宿御苑 第三のグラウンド?

 中村敦夫さんがお昼を食べに毎日通ったという、学校に隣接する新宿御苑。旧制六中として発足時には、当時、宮内省御料地だった御苑内の一角に初代校舎が建設されるなど、新宿高との結びつきは強い。

 かつて学校と御苑は壁一つを隔てて隣接しており、生徒は「第三のグラウンド」と呼んで日常的に壁を乗り越え「侵入」していた。戦後になると生徒の仕業 か、壁には出入りできるほどの大きさの穴が複数開き、1962年度の卒業アルバムには、穴から笑顔を見せる生徒の姿が掲載されている=写真・新宿高朝陽同 窓会提供。

 同窓会によると、要人が出席する式典が開かれる当日に、生徒が入って補導され、翌日の朝礼で当時の校長が「入るなら別の日に入れ!」と一喝したなど、御 苑にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。男性元教諭は「御苑の豊かな緑があったから、都心のど真ん中にありながらも生徒は学問に励み、健やかに過ご せたのではないか」と言う。

 2004年に現在の3代目校舎に移転し、御苑との間に道路建設工事が始まると、生徒が行き来することはなくなった。07年からは「奉仕」授業の一環とし て、生徒は年数回、御苑内の清掃や除草を実施している。創立から90年以上経た今も、御苑は生徒に親しまれている。=次回は31日に掲載します

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なかむら・あつお

 1940年生まれ。東京外国語大中退。63年俳優座入団。72年、連続テレビ時代劇「木枯し紋次郎」の紋次郎役に抜てきされ大ブレーク。以降多くのドラ マの主演を務める。83年、小説「チェンマイの首」で文筆活動開始。84年から情報番組「地球発22時」のキャスターとして、数十カ国で海外取材を経験。 98年参院議員に初当選。2004年政界引退。今年5月、徳島の寺院で出家得度した。

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000小山台高野球部助監督・田久保裕之さん

新宿高校1999年度卒

 夏の高校野球の季節がやってくる。

 東京都立新宿高校の硬式野球部は、部のOBが監督として指導するのが伝統だった。

 現都立小山台高野球部助監督の田久保 裕之さん(34)=1999年度卒=は、新宿高を卒業後、すぐに母校の学生監督に就任し6年務め、教員になった後の小山台高では、同校を都立初のセンバツ 出場に導いた。

 高校時代を「毎日がドラマだった」と振り返る熱血先生の田久保さんに、9年にわたった新宿高生活を聞いた。

 野球は5歳の頃、阪神ファンの父と1歳上の兄の影響で始めました。

公立中学野球部だった1年生の時に、顧問の先生に「野球も勉強も頑張れるところ」と勧 められ、新宿に入学しました。

野球部でのポジションは1番ライトで、部長。仲間に恵まれ、チームワークも抜群で、3年の春と夏はシード校でした。

 3年春の都大会4回戦で強豪の早稲田実業とあたり、七回に一塁からホームインする際、クロスプレーで左足が肉離れした。そのまま足を引きずり守備につきましたが、すぐに交代。チームは逆転サヨナラで負けました。

 夏の大会はテープをぐるぐる巻きの状態で出場。3試合ノーヒットで終わり、満足にプレーできず、仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

今思えば甲子園を十分狙えるチームでしたが、当時はただがむしゃらで、どこかに「甲子園は遠い」という諦めもありました。

 卒業後は「こんな楽しい高校生活が3年間ではもったいない。ドラマの続きを見たい」と、高校の教員を目指しました。

日本体育大入学後、すぐ母校の監督に なりました。大学4年間は朝、跳び起きて母校の朝練行って、大学へ行って、放課後また母校で練習して、という生活でした。

 卒業後は都立高の非常勤講師をしながら監督を続け、6年目の1月、教員採用試験を控え、選手に夏の大会で引退すると伝えました。

 その初戦の対戦相手に、 キャプテンの森田慎くんが長年のライバル校の都立戸山高(新宿区)を引き当てた。しかも開幕戦です。

 森田くんは「田久保さん、いい(引退の)舞台を用意し ましたよ」とニヤッと笑った。

 試合は「新宿ダービー」として盛り上がりました。

 ほぼ満員の神宮球場で、結果は七回コールド勝ち。それが監督として夏の大会 初勝利でした。

 ちょうど翌日は朝から教員採用試験で、大忙しでした。その大会では3回戦まで進みました。最後の夏に後輩たちからすごいプレゼントをもらい ました。

 翌年、念願の教員になり、2010年から小山台高に赴任。硬式野球部の助監督になりました。

 チームは14年春のセンバツに21世紀枠で出場しました。結 果は1回戦敗退。期待に応える試合ができず悔しかったですが、やはり甲子園はすばらしく、敗戦から得たものも大きかったです。

 監督の魅力は、教室や机上の勉強だけでは見えない、生徒の土壇場の底力を見られることです。

自分の高校時代の後悔から、生徒には「甲子園に行きたい」ではなく「行くんだ」と思わせることがスタートラインだと肝に銘じています。

 私には夢があります。いつか、母校に戻るチャンスがあったら、監督として甲子園に導きたい。

地元の伊勢丹、高島屋、小田急百貨店、京王百貨店に「新宿高 出場おめでとう」の垂れ幕がかかり、地元の方が喜び、全国の皆さんに新宿高を知ってもらえれば−−。

そのために今は修行中です。

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19〜74歳のOB 現役より先に「甲子園」

 戦前の旧制六中時代に創部され、終戦直後には都大会決勝まで進んだこともある新宿高硬式野球部。2008年には田久保さんも参加するOBチーム「マスターズ新宿」が誕生し、現役より一足先に甲子園出場を果たしている。

 チームは硬式野球部OB会「朝陽白球会」の、20歳から79歳の約100人が選手登録。月1回ほど企業のグラウンドなどを借りて活動している。

 「マスターズ甲子園」は、元高校球児たちが世代を超えて出身校別にチームを結成し、地区予選を経て甲子園の舞台に立つ大会だ。

09年、チームは都予選を 勝ち抜き、現役チームが手にしたことのない甲子園切符をつかんだ。

翌年11月の試合当日、徳島・鳴門高との対戦では、代打や細かい守備交代で、参加した 19歳から74歳の50人全員が試合に出場。

試合には負けたが、アルプススタンドでは駆けつけた同窓会メンバーが大いに盛り上がった。

 OBの宮崎直道さん(62)=1971年度卒=は、「長年の夢がかない、最高の気分でした」と振り返る。

現在、チームは2度目の出場を目指し、練習に励 む。

一方で、過去にはマスターズの甲子園出場に発奮した現役チームが後に甲子園初出場を果たした例もあり、先輩たちは現役生の奮起にも期待を寄せる。

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卒業生「私の思い出」募集

 都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。

300字程度で、学校生活や恩師、友人との思い出、またその後の人 生に与えた影響などをお書きください。

卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地 方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。

メールの場合はshuto@mainichi.co.jpへ。

いただいた「思い出」は、毎日新聞やニュースサイト で紹介することがあります。

新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。

ツイッター @mainichi_shuto

フェイスブック 毎日新聞 首都圏版

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たくぼ・ひろゆき

 1981年東京都生まれ。

日本体育大体育学部卒業。2006年都立園芸高、10年同小山台高定時制課程教諭。

都立園芸高では部員9人の軟式野球部監督、 小山台高では硬式野球部助監督。

12年から、野球指導に関わる若手教員のレベルアップを目的に、「東京高校ベースボール若手会」(通称TKB)を主催し、 定期的に勉強会を開催している。

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

平成28年6月から毎日新聞に「母校をたずねるー新宿高校」が、毎週一度、掲載されます。

記事には毎回卒業生が一人取り上げられ、在校中のエピソードや卒業後の活躍のようすなどを語ります。

以下に記事の一覧をお知らせします。

卒業生の欄をクリックして記事本文をご覧ください。

 

連載回 毎日新聞紙面掲載日 卒業生(卒業回)
平成28年6月 3日 坂本龍一(22)
平成28年6月10日 柴田 和子(9)
平成28年6月17日

 

8回くらい 連載される予定です (^_^;)

 

訃報  現国の中野博之先生

訃報 現国の中野博之先生が5月21日に逝去されました。

享年94です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

なお葬儀等は既に家族で済ませたとのことです。

写真は、母校創立90周年記念祝賀会にて

平成24年9月29日(土)18:00~
青山ダイヤモンドホール サファイアルーム

吉江新二先生(美術) 中野博之先生(現国)

 

27回生登場

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球技ではなく 格闘技 ですもんね (^_^;)

同窓会誌「朝陽」より

 

池辺晋一郎 『仲代達矢さんの背中を追って』

hyo1池辺晋一郎さん(新宿高校15回生)から新著『空を見てますか⑦ 仲代達矢さんの背中を追って』を朝陽同窓会へ寄贈いただきました。

『空を見ていますか』シリーズは週刊の「うたごえ新聞」連載のエッセーを収録したもので本書はその7巻目。

今回は第一部に長年の親交がある仲代達矢さんとの対談、第二部が収録エッセーという構成になっています。

音楽家であると同時に演劇人でもあり、映画人でもあることを自認している池辺さん。

70ページにわたる仲代さんとの対談の中で、仲代さんの役者人生とご自分の音楽人生の交点を軸に、多くの役者仲間や黒沢監督のエピソードも混じえながら縦横に語られています。