人生いろいろ

読書 細川幽斎

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 佐藤『幽斎玄旨』に続いて細川幽斎ものを2冊読みました

 江戸時代の改易や明治維新で没落した大名が多い中

 室町時代から現代まで 延々と続く稀有な名門細川家

  その秘密の一端は

 幽斎が残した家訓和歌にあるようです  (^_^;)

 


 

【死ぬ前のひと言】

織田信長「是非に及ばず」

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豊臣秀吉「秀頼を宜しくお頼み申す」

細川幽斎「思い残すことはない」

一休宗純「死にとうない」 

大石内蔵助「お先に」

葛飾北斎「あと10年生きたいが、せめてあと5年の命があったら、本当の絵師になれるのだが」

吉田松陰「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

ゲーテ「窓を開けてくれ。明りがもっと入るように」

カール・マルクス「最後の言葉なぞ、充分思いを伝えきれなかった愚か者が言うことだ」

不明「カネは生きてるうちに使え」

 

山尾志桜里どこへ行く?

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 ←この人との対決

  見たい気がします  (^_^;)

 

新型インフルエンザ等対策特別措置法改正案(新型コロナウイルス特措法)の採決で反対し、立憲民主党(枝野幸男代表)に離党届を提出した衆院議員の山尾志桜里(45)が注目されている。

山尾志桜里は同改正案の採決で、党の方針に従わず造反した後

「賛成ありきの短い党内議論で

 民主的手続きが担保できないのは残念だ」

と枝野執行部を批判。

離党会見では

「反対すると決めて行動した時から

 離党という選択肢はあった」

とし

「国会での議論や立憲主義、民主主義に対する考え方について

 私と党にギャップがある」

と党に三くだり半を突き付けた。

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かつて民進党時代には幹事長に一時内定していたともいわれたが、2017年に週刊文春が男性弁護士とのダブル不倫疑惑を報じ、山尾志桜里は男女関係を否定したが、その後は要職からは遠ざかった。

今年7月の東京都知事選挙では、立民の目玉候補として小池百合子都知事の対抗馬に名前が浮上していたが、離党で出馬の可能性はほぼなくなった。

今後は特措法で同じく反対した「れいわ新選組」山本太郎との連携もささやかれる。

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野党関係者は

「山尾志桜里は小学時代、ミュージカルの初代アニー役を務めたことで知られ、元俳優の山本太郎と合体なら話題を集める。

 れいわは東京育ちに支持者が多く、地元育ちの山尾志桜里は擁立しやすい」

と話す。

東大を出て司法試験合格、検察官を務めた後、当時の民主党代表だった小沢一郎にスカウトされて政界入りした山尾志桜里。

立民議員によると

「民主党が下野すると『民主党でなく自民党に入っていればよかった』と愚痴をこぼした人」

と権力志向は強かったという。

自民党関係者は

「旧民主党からは既に保守系の細野豪志や長島昭久が自民党に入っている。

 山尾志桜里は保守というよりリベラルですが、政界は一寸先が闇。

 急接近してくるかもしれない」

と話している。

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▲野党のみなさん

 

死について

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最近、大学時代の研究室の友人が、心筋梗塞で急逝し、まさに「早すぎる死」を痛感しました

下の文章は、哲学者・三木清の『人生論ノート』の抜粋です。この文章を書いたとき、昭和十年代なかば、彼は40歳前後でした

戦前の平均寿命は50歳にも満たず、40歳はすでに初老でした

 

* * * * * * *

 

近頃私は、死というものをそんなに恐しく思わなくなった。

年齢のせいであろう。

以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。

思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齢に私も達したのである。

この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。

愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思われる。

生れてくる者よりも死んでいった者に一層近く自分を感じるということは、年齢の影響に依るであろう。

三十代の者は四十代の者よりも二十代の者に、しかし四十代に入った者は三十代の者よりも五十代の者に、一層近く感じるであろう。

この年齢に達した者にとっては死は慰めとしてさえ感じられることが可能になる。

死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られている、今も私の心をとらえて離さないパスカルにおいてさえも。

パスカルはモンテーニュが死に対して無関心であるといって非難したが、私はモンテーニュを読んで、彼には何か東洋の智慧に近いものがあるのを感じる。

最上の死は、あらかじめ考えられなかった死である、と彼は書いている。

 

* * * * * * *

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この場合の「東洋の智慧」とは、主に老荘のことでしょうね

モンテーニュの主著『エセー』は、私の座右の書です

次の文章は、『エセー』1-20

「哲学を極めることは、死ぬことを学ぶこと」

よりの抜粋です

 

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足をしっかり踏まえて死を受けとめ、これと戦うことを学ぼう。

そしてまず手始めに、最大の強みを敵から奪うために、普通とは逆の道を取ろう。

死から珍しさを取り除こう。

死に親しみ、馴れ、しばしば死を念頭に置こう。

いつも死を想像し、しかもあらゆる様相において思い描こう。

馬がつまづいた時にも、瓦が落ちてきたときにも「これが死であったら」ととっさに反芻しよう。

お祭やお祝い事の最中にも、我等の境遇を思い起こさせるこの繰り返しを常に口づさもう。

そして喜びにうつつを抜かし、こうした喜びが如何に多くの死に狙われているかを忘れないようにしよう。

古代エジプト人は祝宴の最中や、御馳走の合間に、会食者への警告として、人間のミイラを持ってきた。

死はどこで我々を待っているかもわからない。

あらかじめの死を考えておくことは、自由を考えることである。

死の習得は、我々をあらゆる隷属と拘束から開放する。

 

* * * * * * *

 

死に対する覚悟を決めてから、本当の人生が始まる。そんな気がします

次の文章は、雑誌「ニューズウィーク」の掲載された、死に関する科学的研究のレポート

「死が間近に迫ると、不安や恐怖に苛まれるのではなく、愛や幸福を感じる人が多い」

ことが研究でわかったという

 

* * * * * * *

 

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いつかやってくる死におびえる人は多い。

自らの死を極端に恐れる、「死恐怖症」(タナトフォビア)という症状もあるほどだ。

最近発表された研究でも、大半の人が死を恐ろしいイメージで捉えていることが指摘されている。

しかし同じ研究によると、現実に死が間近に迫っている者では事情が違い、一般に考えるよりはるかに肯定的な体験として死を捉えていることがわかった。

学術誌サイコロジカル・サイエンスに6月1日付けで掲載されたこの研究によると、死が身近に迫った人々の言葉を調査した結果、恐怖や不安に関連する言葉は少なく、意外なほど前向きに死と向き合っていることが判明したという。

ノースカロライナ大学チャペルヒル校の心理学者などからなる研究チームは、絵本作家のエイミー・クラウス・ローゼンタールが亡くなる10日前に記したコラムの言葉遣いが「愛と希望に満ちていた」点に着目したという(ローゼンタールはがんのため今年3月に他界した)。

研究論文の執筆者であるカート・グレイは声明の中で、

「死が目前に迫っている人が肯定的なのは不自然に思えるが、実際にはよくある反応だということが、今回の研究により明らかになった」

と述べている。

研究では、筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic lateral sclerosis:ALS)の末期にある患者と死刑囚という2つの集団について、死を目前にした時期の発言内容を分析した。

ALS患者については亡くなるまでの数カ月間に書かれたブログを、死刑囚に関しては刑執行前に残した最期の言葉を調査対象とした。

研究チームは、この2つの集団の比較対象として、死期を意識していない一般の人たちを対象に、自分が末期患者になった気持ちでブログを書いてもらったほか、自分が死刑囚だったら最後にどんな言葉を残すかと尋ねた。

両者の言葉を比較した結果、一般の人たちが想像した最期の言葉のほうが、実際に死に直面した人による言葉よりも、ずっと否定的であることが判明した。

グレイはこうコメントしている。

「死が近づいたときの感情は、悲しみや恐怖が多くを占めると考えがちだ。だが実際は、一般の人が想像するように悲しくも恐ろしくもなく、むしろ幸せな気持でいることがわかった」

「心身両面において、人間の適応力は驚くほど高い。死が迫っていようと、人は日常生活の営みを続ける。想像の段階では、死は孤独で意味のないものと捉えられがちだ。しかし、実際の言葉は、愛や社会とのつながり、そして意義に満ちている」

末期患者のブログをコンピューターによるアルゴリズム分析にかけたところ、マイナスよりもプラスの感情を表す言葉が使われる割合がはるかに多いことがわかった。

「心配」や「不安」、「恐怖」といった言葉よりも、「幸福」や「愛」を使う傾向が高いという。

一般の人が書いたブログのほうが、否定的な言葉が使われる頻度がはるかに高かった。

同様に、死刑囚が刑執行の直前に残した言葉は、収監されている時期に書いた詩と比べても、肯定的な意味を持つ単語が大幅に増えていた。

一般の人と比べると、否定的な言葉が使われる頻度は低かった。

こうした結果をもとに研究チームでは、死に対する感情では想像と現実にかなりの開きがあると結論づけている。

「死は誰にとっても避けられない。だが恐れることはない。今回の2つの集団を対象とした調査で、実際の死に至る体験は、意外なほど前向きなものであることが判明したからだ」

その限界にも触れている。

今回の研究は、死が迫った人の中でも特徴的な2つの集団を対象としており、老齢により死期が近づいた人など、他の集団には当てはまらない可能性もある。

死にまつわる感情を理解することは、今後の死への対処においてカギを握る要素だと、研究チームは述べている。

同チームは、

「人口の高齢化を考えると、この研究は、緩和ケアをめぐる政治的な議論に一石を投じる可能性がある」

と、その意義を強調した。

「現在の医療制度は、可能な限り死を避ける方向に特化している。これは主に、死が恐ろしく悲劇的なものだという観点に基づいたものだ。死を否定的に捉える文化的傾向を考えると、この方針は理解できるものではある。だが、今回の研究結果を見る限り、死は一般的に考えられているよりも肯定的なものである可能性がある。死神との遭遇は、思ったほど不吉なことでもないのかもしれない」

と、研究チームは論文で述べている。

 

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輪廻転生

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『第三のチンパンジー』など旺盛な著作で知られるジャレド・ダイアモンドが、

「人口減少は日本復活のチャンスだ」

と述べている(『週刊文春』2020年1月2日・9日合併号)。

日本の主流の議論の正反対だから驚く読者が多いかも知れないが、筆者(宮崎正弘)はむしろ賛成で、以前から述べてきた考えに近い。

なぜなら日本はむしろ人口が多すぎるのである。

狭い国土に一億二千万人が暮らせば住居がウサギ小屋になるのも当然であり、生活空間に余裕がなくなる。

ダイアモンドは、第一に人口八千万人が適当としてドイツと同数になり、輸入する資源が減って資源小国という強迫観念が希釈になること、第二に女性の雇用のチャンスが拡がり、第三に雇用高齢化が定着する。第四に外国人労働者をそれほど受け入れないという選択肢が日本にもたらされる。

ゆえに日本にとって人口減少は逆にチャンスだとする。

とはいうものの、近未来の日本社会は「 超高齢社会」から「多死社会」に移行する。

すでに出生者より死者が上回り、人口動態は少子高齢化と同時に大量の死がやってくる時代となる。

団塊の世代が終活期に突入したからだ。

現在進行形の少子高齢化社会で、介護保険が確立された上、介護士が大量に養成された。

そのうえで、「終末ケア」の必要が説かれている。

各地にケアセンターが次々と生まれ、雑誌は相続の特集を出したりしている。

驚くなかれ伝統的な大家族制が消滅し、介護が日本国家の「基幹産業」となった。

ものつくり、匠の日本が基幹産業を変貌させたのだ。

日本経済の絶頂期には考えも及ばなかった、退嬰的な社会に変貌した。

人は人生の満足度を抱きながら安らかに眠るのが理想である。

戦後の死生観は戦前までの伝統的なそれから転倒し、生きることだけが尊重される、不思議な価値観に蔽われている。

生命尊重だけでよいのか、と絶叫して三島由紀夫は自決した。

今後の日本では「看取り」が重視される社会となり、「看取り士」が増えるだろう。

人口動態から推測できることは2015年に毎年150万人、2040年には年間180万人が死ぬ一方で、出生数は2018年に86万人強と、少数核家族化、しかも高齢単身世帯が600万、このうち400万が女性の単身世帯となり、介護認定は2018年に644万人、これを180万人の介護士が支えている。

2025年には253万人の介護士が必要だが、38万人が不足することになるだろうとするシミュレーションが存在する(後述藤和彦論文)。

このような後ろ向きの社会が到来するにあたり、考えるべきは家族制度、冠婚葬祭の在り方、死生観の是正、日本の伝統的哲学の再構築ではないのか。

戦後の日本では、GHQの占領政策の影響が大きく、価値観の転倒がおこり、家族制度がGHQによって破壊された。

結婚の伝統も欧米的な、即物的な儀式に変質し、日本的良さは喪失された。

死生観の激変によって、死=無という考え方が拡がった。

仏教への帰依が希釈化したからだろうが、

「死は無」という誤解だらけのニヒリズム

が蔓延し、人生をいかに活きるかが説かれても、如何に死ぬかは無視されがちだった。

他方、安楽死をもとめてスイスへわたる日本人が静かに増えている

スイスでは安楽死が合法化されている。

「人生において何が本質的に重要なのか、いまの仕事が何かに貢献しているのか」という思考が見失われ、ある種達成感や人生の満足感をもって死を迎えるという人間が少なくなった。

無駄な人生だったとみる、人生に意義を認めない欧州人が増えた。

戦後の実存主義などが好例だが、AIはケアの代替にはなり得ず、看取りが必要なのである。

縄文時代の 遺跡の住居跡を調べると、入り口に甕が埋められている事例が多いという。

この甕は逆さにされ、 底には小さな穴が開けられており、乳幼児や死産児の遺体が納められていた。

死産児の遺骨を玄関の床下や女性用トイレの脇などに埋める風習がごく最近まで日本で見られていた。

「死んだ子供が少しでも早く生まれ変わってくることを願って、遺骸を女性が頻繁に跨ぐところに埋めた」(竹倉史人『輪廻転生』、講談社、2015年)

遺体を埋める前に墓の中に魔除けと「生まれ変わり」を促すとされるベンガラ(酸化鉄) という赤い粉をまいたりしていた(簗瀬均「魂のゆくえ」秋田魁新報社)

また初期の聖書には生まれ変わりの記述が多数存在していた。

こうした輪廻転生の思想が、現代に甦る。

この問題に正面から取り組んだ論文は「多死社会における産業振興のあり方に関する一試案」、藤和彦(経済産業研究所) である(RIETI  Policy Discussion Paper Series・ 2019 年 12 月)

その概要の重要箇所を下記に簡潔に掲げる。

「生まれ変わり」の観念の起源は古い。

インドでは少なくとも過去4000年にわたって宗教的、哲学的発達の最大の源泉の一つになってきた。

人類の精神史の中で輪廻や復活といった「生まれ変わり」の観念が繰り返し生じており、客観的な事実か単なる妄想なのかどうかは別にして、繰り返し出現してくるだけの心理的 な必然性があったことだけは間違いない。

2006年から2008年にかけてギャラップ社が143か国を対象として行った宗教 に関する国際調査では、日本は世界で8番目に宗教を重視しない国としてランクされてい るが、生まれ変わりを信じている日本人はなんと43%に達したのである。

内訳を見てみ ると、高齢者よりも若年層、男性よりも女性の方が「信じている」比率は高い。

生まれ変わりの主張はあらゆる時代を通じて世界のほぼ全域で発生している。

「生まれ変わり」の死生観は世界中の民俗文化において見られるが、前世の記憶を持って いると称する者の逸話がもとになって発生した可能性がある。

「生まれ変わり」を認めていた西洋古代思想  古代のエジプト人が「あの世とこの世との間に大きな隔たりはない」と考えていたよう に、太古から私たちは死と死後のことを意識してきた。

西洋哲学の出発点と言われるギリシャでは、「生まれ変わり」の観念はオルフェウス教(密儀宗教の一種)から始まったとされ、哲学においても魂や形而上的世界の実在が想定されていた。

古代ギリシャの数学者として知られるピタゴラスは前世の記憶を持ち、「不滅の霊魂」 「霊魂の輪廻転生」「修養による霊魂の浄化」を弟子たちに唱えていた。

 「魂の不死を信じて平然と死ぬことができる心の訓練が、哲学の使命である」

と弟子たち に教えていたソクラテスにとって、自らの死は永遠の生、人間の魂の永続性を象徴するも のであった。

ピタゴラスの世界観を継承したプラトンも、著書「パイドン」「国家」などの中で「死者の魂は一定期間を過ぎると生まれ変わる」と主張している。

古代ギリシャ思想においては、死によって霊魂と肉体は分離し、前者は不滅とされてい た。

例外はソクラテスと問答を行った当時のソフィスト(知恵ある者)たちだった。

彼らは現代人のような唯物論的な考え方を有していた( 樫尾直樹他「人間に魂はあるのか?」国書刊行会、2013年。以上引用止め)

輪廻転生と言えば、三島由紀夫の最後の四部作の主要テーマである

『春の雪』の松枝清顕は『奔馬』で飯沼勳となり、『暁の寺』ではジンジャンン姫に転生していた(らしい)。

最終巻の『天人五衰』の安永透は、輪廻転生とは無縁だったことが示唆されている。

嘗て筆者がローマ憂国忌での講演を依頼されたおり、イタリアの知識人達と懇談の機会があったが、三島『豊饒の海』への最大の関心は輪廻転生だった。

カソリックが強いイタリアのおいてすら、人生の模索の思想に、仏教的東洋的死生観が横たわるのである。

かくして多死社会となる日本で、精神的安らぎの希求や看取るというシステムが、嘗ての大家族制という伝統に近付くことができるか、どうかが今後の論議になるだろう。

「宮崎正弘の国際情勢解題」令和弐年正月元旦年頭随筆より

 

東大野球部監督 井手峻さん

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創部100年目でプロ出身者は初めてとなる。

今月、東大野球部監督に就任した井手峻監督(75)である。

同大OBの井手監督は、1966年第2次ドラフト3位で同大出身2人目のプロ野球選手として中日に入団。

10年間の現役生活を終えた後は二軍監督やコーチを歴任、さらに球団代表などフロントの要職を務めるなど、50年近くにわたり、プロの世界に身を置いた。

2015年2月に退団後、東京都立新宿高校で特別コーチとなり、このたび母校で指揮を執ることに。

指導への情熱が衰えることを知らない井手監督に、話を聞いた。

球場近くで“単身赴任”

 ――東大の監督になったいきさつは?

「前任の浜田監督が契約更新の時期を迎え、今回はOBから公募しようということになった。何年か前なら自ら立候補しましたが、年齢のこともあるし、立候補は控えようと考えていた。そんな中、私の同級生が背中を押してくれ、ご指名いただいた。50年間、いろいろな野球を見てきて、勉強してきたことを還元したいと考えていた。持っているもの全てを吐き出してから死のうと思ってますよ(笑い)」

 ――就任して2週間。監督としての1日は?

「朝8時から正午ごろまで全体練習、午後は個別練習という形で、指導しています。まずは部員たちの名前を覚えること。今は4年生が卒業したので、部員は70人ほど。名簿を見ながら、名前と顔を一致させて。主将が気遣ってくれ、部員たちは練習用ユニホームの背中にみんな名前を書いてくれました」

 ――監督になるにあたり奥さまにご相談は?

「一言、『やりたいんでしょ?』と(笑い)。監督をやるにあたり、誰より妻に理解してもらわないといけない。朝のことなど考えて、東大球場(東京・文京区)の近くに小さい部屋を借りました。中日に在籍時もずっと名古屋で単身赴任をしていた。退団して関東に戻り、2人で余生を……というところだったから、私のワガママを聞いてくれた妻には感謝しています。自炊ができないから、普段は外食。でも、ちゃんと栄養も取らないとと思って、時間に余裕がある時は(都内の)自宅に帰って、妻と一緒に食事をすることもあります」

 ――以前から母校で指導をしたい気持ちはあったと。

「中日で10年間の現役生活を終えた直後に、延べ3週間ほど東大で指導をしたことがある。当時は大した知識はなかったですが、当時の部員たちは私が話すことを砂漠に水が染み込むように聞いてくれて。その時の快感は今も残っている。もう一回、東大で指導者をやってみたいと。中日を15年に退団し、11月上旬まで約2年、都立新宿高校で特別コーチをやらせてもらい、いろんな子供たちと接した。公式戦ではなかなか勝てなかったですが、初歩からやらないといけなかった子も、体が大きくなり、野球ができるようになる。進歩の度合いはプロとは違う。そこに面白さを感じていました」

せめて80歳までは、まずは42連敗を止める

 ――中日には選手、指導者、フロントの要職として約50年間在籍。

「見てきたもの、教わったものをどう還元できるか、ずっと考えています。ただ、プロの一流選手がこういう意図をもってプレーしているというような話はできても、とくにプロの打撃は“神秘的”な部分が8割を占めると思っている。感覚的なことですよね。打席で投手と対峙する中で、どの球を狙って、どう打つか。相手投手の心境、心理はどうか。これは言葉で言っても理解することは難しい。まして東大生は理詰めが好きです。まずは基本を徹底的にやり、体の仕組みを理解し、ロボットのようにというか、教科書通りにというか、プレーできるようになってほしい」

 ――どんな野球を?

「最初のミーティングで話したのは、チーム打率・250を目指し、これを研究課題にしようと。秋季リーグは打率・165。真っすぐ、変化球、甘い球が来た時にしっかり振れるように。走塁面では例えばゴロゴー。全員が完璧にできるように。大事なのは判断。足を動かし、どうやって“見る”のか、“見た”後に行くのか行かないのか。こういうものは実際にやって覚えないとダメ。そのことを教えてくれたのが中日の先輩である中利夫さん(元中日監督)」

 ――どんなことを教わったのですか?

「現役引退後、一軍外野守備走塁コーチに就任した1978年当時の監督が中さん。キャンプの際、シーズン中に起こる可能性があるプレーは全部、やらせてくれと言われた。自分自身、代走で使われることがあり、スチールの練習をしたことはあっても、走塁技術に関する知識がなかった。引退した後、もっといろんなことを勉強していれば、もっといいプレーができたかもしれないと思った。あとは、権藤博さんや鹿島忠、山崎武司といった中日OBに投手のこと、野手のこと、練習方法やメニューの内容などアドバイスをもらいました」

 ――東大といえば、日本最高峰の頭脳集団。

「勉強は一番かもしれませんが、スポーツって、うまい人の方が頭がよさそうに見える。ただ、理解するのは速いと思うので、そこに体がついてくれば、上手になるのは早いかもしれない。東大野球部の4年間で燃え尽きてもいい、というくらいの気持ちがあってもいいと思っている。卒業後も野球を続ける人もいるが、野球を終える部員の方が多いと思う。公式戦に限れば、1年間で20試合として、4年間で80試合だけ。出し惜しみをしていたら、もったいない。4年間、基本をしっかりやっておけば、もし将来、子供たちに野球を教えるとなった時に役に立つはずです」

 ――75歳という年齢で監督を務める。体力維持の秘訣は?

「とくに何も(笑い)。中日を退団してからは動くことっていったら、ゴルフをちょっとやっていたくらいで。お酒はだいぶ減りましたね。毎晩飲んではいるけど、食事をおいしく食べるために少し飲む、という感じで。ビール、日本酒、ワインかな。ウイスキーや焼酎のようなロングドリンクは飲まないですね」

 ――5年後には80歳。

「せめて80まではやりたいですね。これまでためてきたものをなるべく早く、吐き出して。それが勝ちにつながれば最高です。まずは、17年秋から続く42連敗を止めて、1勝すること。早大や慶大など、ライバル5大学にどうにかして一泡吹かせたい」

(聞き手=藤本幸宏/日刊ゲンダイ)

 

新宿高校の井手峻コーチ、東大監督に就任

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▲一回り上なんですけど、若々しいですね (^_^;)

東大硬式野球部(東京六大学野球)は、13日付で浜田一志監督が退任し、後任として井手峻(たかし)さんが就任することを発表した。

井出新監督は新宿高校と東大の野球部OBで、プロ野球中日ドラゴンズで10年間プレー。

東大硬式野球部としては、初のプロ出身監督となる。

井出新監督は取材に対して、就任の動機を

「現役引退後に野球に携わる中で、最後は母校にこれまで培ってきたものを還元したいと思っていた」

と説明。

「投手陣を整備し、まずは1勝を目指したい」

と意気込んだ。

井出新監督は都立新宿高校OBで、東大に入学後、投手としてリーグ通算4勝を記録。

今月までは、都立新宿高校野球部の特別コーチを務めていた。

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井手峻 いで・たかし

1944年2月13日生まれ、佐賀県唐津市出身。

都立新宿高校入学後、本格的に野球を始める。

東大では六大学通算4勝。

66年、第2次ドラフト3位で中日に入団、前年の新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロとして注目を集める。

76年に現役引退。その後二軍コーチ、二軍監督、一軍コーチを歴任し、87年から中日球団フロント入り。

92年に一軍コーチに復帰すると、96年以降は再びフロントに。2013年に中日球団代表。

15年に退任、現在は母校の都立新宿高校でコーチとして指導にあたる。

175センチ、70キロ。右投げ右打ち。

 

金田寛教授 逮捕 ストーカー

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 68歳でも スゴイ情熱

  元気だなぁ~  (^_^;)

 

風俗店に勤める20代女性の自宅前で待ち伏せし付きまとうなどしたとして、警視庁町田署は29日までに、ストーカー規制法違反容疑で九州工業大特任教授の金田寛容疑者(68)=北九州市戸畑区仙水町=を逮捕した。

金田寛教授は「姿を見るつもりだった」と容疑を認めている。

同署によると、金田寛教授は昨年6月に客として女性と知り合った。

金田寛教授は、愛人関係を迫ったため今年2月に店から出入りを禁止されたが、それ以降数十回にわたり、女性に「会いたい」などとメールを送り続けたという。

女性は今月27日、金田寛教授に車で付きまとわれて交番に駆け込み、町田署員が金田寛教授に職務質問し、付きまといを認めたため逮捕した。

 

年を取ったなぁ

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“自分、年を取ったなぁ……”と思うこと、ありませんか?

若い頃には考えもしなかった心や体の変化に直面し、ちょっとブルーになることってありますよね。

でも大丈夫! 年を取るのはみんな平等。

世の中に加齢から無縁な人はいません!

TOKYO FMの生放送番組「高橋みなみの『これから、何する?』」10月23日(水)の生放送では、パーソナリティをつとめるたかみなが「“自分、年を取ったな……”と思うエピソード」に寄せられたメッセージについて答えてくれました。

詳細はここをクリック

 

金ピカ先生

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 明らかにアルコール依存症ですね

  68歳とは思えない老け方 目が死んでる

 手に持っているのは ワンカップのお酒?  (;´Д`)

 

まずは、先日亡くなった「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68のご冥福を心からお祈りしたい。

我々は8月末日、「かつて一斉を風靡した人びとに、近況を尋ねに行く」という趣旨の取材で佐藤さんのもとを訪れていた。

佐藤さんは快く応じてくれたが、かつてから変わり果てた生き様には、「人生とはいったいなんだろうか」と、深く考えさせられるものがあった。

追悼の思いを込めて、その日のことを振り返る。

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詳細はここをクリック

 

経済産業ダンス大臣

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まずは写真をご覧いただきたい。

右の男性は多くの方がご存知だろう。

ダンサーにしてTRFのメンバーでもあるSAM(57)だ。

安室奈美恵(42)と結婚していたことでも知られる。

一方、左の男性をお分かりの方は、どれくらい、いるだろうか――?

この写真が掲載されたのは週刊新潮の2015年11月12日号。

「あのセンセイのこんな趣味 第2弾」というグラビア特集に掲載された。

タイトル通り、国会議員5人の珍しい趣味を紹介している。

趣味がダンス、という左の男性は、菅原一秀・衆議院議員(57)だ。

自民党代議士で、9月11日に発足した第4次安倍再改造内閣で経済産業大臣として初入閣を果たした。