学生野球資格回復制度の改定により、元プロの高校野球指導者も年々増えつつある。
そのなかでも、東大からプロに入り、コーチを経て、球団代表にまで上り詰めた異色の経歴の持ち主がいる。
半世紀近くにわたり中日の屋台骨を支えた井手峻(いで・たかし、74)は現在、母校・都立新宿高校でコーチとして指導にあたっている。
選手、指導者、フロントとして歩んだ野球人生と、高校野球の指導者としての今の夢を語った。
「野球がうまいという自覚は全くなかったな。当時は今以上にプロアマの接触が全くない時代。ドラフトのときにいきなり電話がかかってきて、びっくりしたのをよく覚えています」
都立新宿高校を卒業後、1年浪人を経て東大に入学。
六大学では通算4勝を挙げたが、卒業後は三菱商事に内定が決まっていた。
突然のプロからの指名には、大きく心が揺らいだという。
「やっぱり勉強と野球の両立は苦労した。プロは野球だけでいいというもんだから。商社は優秀な人材がたくさんいる。私なんかは全然ダメだったと思うよ(笑い)」
ドラフト制施行翌年の指名で中日に入団すると、ルーキーイヤーにリリーフとして初勝利。
前年に大洋漁業からプロ入りした新治伸治と投げ合い、史上唯一の“東大出身対決”を制したが、投手としてはこの1勝に終わった。
野手転向後は守備固めや代走で出場を重ね、1973年には公式戦唯一の本塁打を決勝打で飾った。
「編成に回ってからは、新人によく『まずはオレを超せよ』と言ったもの。投手なら1勝、野手なら1本ですから」。
プロ10年を機に、現役を引退。すると1年を待たず呼び戻され、今度は10年、コーチや二軍監督を歴任した。その後のフロント入りは自然な流れだったという。
「誰も認めてくれないかもしれないが、高木(守道)さんと権藤(博)さんを組ませたのが、私の一番の功績だと思ってる。ドラゴンズ最高の野手と最高の投手が、プレーオフ(CS)でジャイアンツを追い詰めた(2012年)。夢は果たせなかったかもしれないが、あれが集大成です。投手も内野も外野もやったし、選手も指導者もフロントもやった。本当に恵まれた野球人生でした」
50年近く在籍した中日を15年に退団。現在は母校、都立新宿に戻り、高校生の指導にあたる。
「現役のときは直感でやってて、やっと理屈で野球がわかるようになったのに、体力的にはもう限界。やってみせられない、ノックもできない。私もこのぐらいの知識を持ってやってみたかった。だから、今の子たちにそれを伝えられれば」
約半世紀にわたり、選手、コーチ、フロントとして中日を支えた“陰のミスタードラゴンズ”は、唯一無二の経験を次の世代に伝えていく。
見た目も 生き方も
カッコイイじいさんだなぁ (^_^;)
井手峻 いで・たかし
1944年2月13日生まれ、佐賀県唐津市出身。
都立新宿高校入学後、本格的に野球を始める。
東大では六大学通算4勝。
66年、第2次ドラフト3位で中日に入団、前年の新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロとして注目を集める。
76年に現役引退。その後二軍コーチ、二軍監督、一軍コーチを歴任し、87年からフロント入り。
92年に一軍コーチに復帰すると、96年以降は再びフロントに。2013年に球団代表。
15年に退任、現在は母校の都立新宿高校でコーチとして指導にあたる。
175センチ、70キロ。右投げ右打ち。