人生いろいろ

東大野球部監督 井手峻さん

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創部100年目でプロ出身者は初めてとなる。

今月、東大野球部監督に就任した井手峻監督(75)である。

同大OBの井手監督は、1966年第2次ドラフト3位で同大出身2人目のプロ野球選手として中日に入団。

10年間の現役生活を終えた後は二軍監督やコーチを歴任、さらに球団代表などフロントの要職を務めるなど、50年近くにわたり、プロの世界に身を置いた。

2015年2月に退団後、東京都立新宿高校で特別コーチとなり、このたび母校で指揮を執ることに。

指導への情熱が衰えることを知らない井手監督に、話を聞いた。

球場近くで“単身赴任”

 ――東大の監督になったいきさつは?

「前任の浜田監督が契約更新の時期を迎え、今回はOBから公募しようということになった。何年か前なら自ら立候補しましたが、年齢のこともあるし、立候補は控えようと考えていた。そんな中、私の同級生が背中を押してくれ、ご指名いただいた。50年間、いろいろな野球を見てきて、勉強してきたことを還元したいと考えていた。持っているもの全てを吐き出してから死のうと思ってますよ(笑い)」

 ――就任して2週間。監督としての1日は?

「朝8時から正午ごろまで全体練習、午後は個別練習という形で、指導しています。まずは部員たちの名前を覚えること。今は4年生が卒業したので、部員は70人ほど。名簿を見ながら、名前と顔を一致させて。主将が気遣ってくれ、部員たちは練習用ユニホームの背中にみんな名前を書いてくれました」

 ――監督になるにあたり奥さまにご相談は?

「一言、『やりたいんでしょ?』と(笑い)。監督をやるにあたり、誰より妻に理解してもらわないといけない。朝のことなど考えて、東大球場(東京・文京区)の近くに小さい部屋を借りました。中日に在籍時もずっと名古屋で単身赴任をしていた。退団して関東に戻り、2人で余生を……というところだったから、私のワガママを聞いてくれた妻には感謝しています。自炊ができないから、普段は外食。でも、ちゃんと栄養も取らないとと思って、時間に余裕がある時は(都内の)自宅に帰って、妻と一緒に食事をすることもあります」

 ――以前から母校で指導をしたい気持ちはあったと。

「中日で10年間の現役生活を終えた直後に、延べ3週間ほど東大で指導をしたことがある。当時は大した知識はなかったですが、当時の部員たちは私が話すことを砂漠に水が染み込むように聞いてくれて。その時の快感は今も残っている。もう一回、東大で指導者をやってみたいと。中日を15年に退団し、11月上旬まで約2年、都立新宿高校で特別コーチをやらせてもらい、いろんな子供たちと接した。公式戦ではなかなか勝てなかったですが、初歩からやらないといけなかった子も、体が大きくなり、野球ができるようになる。進歩の度合いはプロとは違う。そこに面白さを感じていました」

せめて80歳までは、まずは42連敗を止める

 ――中日には選手、指導者、フロントの要職として約50年間在籍。

「見てきたもの、教わったものをどう還元できるか、ずっと考えています。ただ、プロの一流選手がこういう意図をもってプレーしているというような話はできても、とくにプロの打撃は“神秘的”な部分が8割を占めると思っている。感覚的なことですよね。打席で投手と対峙する中で、どの球を狙って、どう打つか。相手投手の心境、心理はどうか。これは言葉で言っても理解することは難しい。まして東大生は理詰めが好きです。まずは基本を徹底的にやり、体の仕組みを理解し、ロボットのようにというか、教科書通りにというか、プレーできるようになってほしい」

 ――どんな野球を?

「最初のミーティングで話したのは、チーム打率・250を目指し、これを研究課題にしようと。秋季リーグは打率・165。真っすぐ、変化球、甘い球が来た時にしっかり振れるように。走塁面では例えばゴロゴー。全員が完璧にできるように。大事なのは判断。足を動かし、どうやって“見る”のか、“見た”後に行くのか行かないのか。こういうものは実際にやって覚えないとダメ。そのことを教えてくれたのが中日の先輩である中利夫さん(元中日監督)」

 ――どんなことを教わったのですか?

「現役引退後、一軍外野守備走塁コーチに就任した1978年当時の監督が中さん。キャンプの際、シーズン中に起こる可能性があるプレーは全部、やらせてくれと言われた。自分自身、代走で使われることがあり、スチールの練習をしたことはあっても、走塁技術に関する知識がなかった。引退した後、もっといろんなことを勉強していれば、もっといいプレーができたかもしれないと思った。あとは、権藤博さんや鹿島忠、山崎武司といった中日OBに投手のこと、野手のこと、練習方法やメニューの内容などアドバイスをもらいました」

 ――東大といえば、日本最高峰の頭脳集団。

「勉強は一番かもしれませんが、スポーツって、うまい人の方が頭がよさそうに見える。ただ、理解するのは速いと思うので、そこに体がついてくれば、上手になるのは早いかもしれない。東大野球部の4年間で燃え尽きてもいい、というくらいの気持ちがあってもいいと思っている。卒業後も野球を続ける人もいるが、野球を終える部員の方が多いと思う。公式戦に限れば、1年間で20試合として、4年間で80試合だけ。出し惜しみをしていたら、もったいない。4年間、基本をしっかりやっておけば、もし将来、子供たちに野球を教えるとなった時に役に立つはずです」

 ――75歳という年齢で監督を務める。体力維持の秘訣は?

「とくに何も(笑い)。中日を退団してからは動くことっていったら、ゴルフをちょっとやっていたくらいで。お酒はだいぶ減りましたね。毎晩飲んではいるけど、食事をおいしく食べるために少し飲む、という感じで。ビール、日本酒、ワインかな。ウイスキーや焼酎のようなロングドリンクは飲まないですね」

 ――5年後には80歳。

「せめて80まではやりたいですね。これまでためてきたものをなるべく早く、吐き出して。それが勝ちにつながれば最高です。まずは、17年秋から続く42連敗を止めて、1勝すること。早大や慶大など、ライバル5大学にどうにかして一泡吹かせたい」

(聞き手=藤本幸宏/日刊ゲンダイ)

 

新宿高校の井手峻コーチ、東大監督に就任

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▲一回り上なんですけど、若々しいですね (^_^;)

東大硬式野球部(東京六大学野球)は、13日付で浜田一志監督が退任し、後任として井手峻(たかし)さんが就任することを発表した。

井出新監督は新宿高校と東大の野球部OBで、プロ野球中日ドラゴンズで10年間プレー。

東大硬式野球部としては、初のプロ出身監督となる。

井出新監督は取材に対して、就任の動機を

「現役引退後に野球に携わる中で、最後は母校にこれまで培ってきたものを還元したいと思っていた」

と説明。

「投手陣を整備し、まずは1勝を目指したい」

と意気込んだ。

井出新監督は都立新宿高校OBで、東大に入学後、投手としてリーグ通算4勝を記録。

今月までは、都立新宿高校野球部の特別コーチを務めていた。

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井手峻 いで・たかし

1944年2月13日生まれ、佐賀県唐津市出身。

都立新宿高校入学後、本格的に野球を始める。

東大では六大学通算4勝。

66年、第2次ドラフト3位で中日に入団、前年の新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロとして注目を集める。

76年に現役引退。その後二軍コーチ、二軍監督、一軍コーチを歴任し、87年から中日球団フロント入り。

92年に一軍コーチに復帰すると、96年以降は再びフロントに。2013年に中日球団代表。

15年に退任、現在は母校の都立新宿高校でコーチとして指導にあたる。

175センチ、70キロ。右投げ右打ち。

 

金田寛教授 逮捕 ストーカー

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 68歳でも スゴイ情熱

  元気だなぁ~  (^_^;)

 

風俗店に勤める20代女性の自宅前で待ち伏せし付きまとうなどしたとして、警視庁町田署は29日までに、ストーカー規制法違反容疑で九州工業大特任教授の金田寛容疑者(68)=北九州市戸畑区仙水町=を逮捕した。

金田寛教授は「姿を見るつもりだった」と容疑を認めている。

同署によると、金田寛教授は昨年6月に客として女性と知り合った。

金田寛教授は、愛人関係を迫ったため今年2月に店から出入りを禁止されたが、それ以降数十回にわたり、女性に「会いたい」などとメールを送り続けたという。

女性は今月27日、金田寛教授に車で付きまとわれて交番に駆け込み、町田署員が金田寛教授に職務質問し、付きまといを認めたため逮捕した。

 

年を取ったなぁ

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“自分、年を取ったなぁ……”と思うこと、ありませんか?

若い頃には考えもしなかった心や体の変化に直面し、ちょっとブルーになることってありますよね。

でも大丈夫! 年を取るのはみんな平等。

世の中に加齢から無縁な人はいません!

TOKYO FMの生放送番組「高橋みなみの『これから、何する?』」10月23日(水)の生放送では、パーソナリティをつとめるたかみなが「“自分、年を取ったな……”と思うエピソード」に寄せられたメッセージについて答えてくれました。

詳細はここをクリック

 

金ピカ先生

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 明らかにアルコール依存症ですね

  68歳とは思えない老け方 目が死んでる

 手に持っているのは ワンカップのお酒?  (;´Д`)

 

まずは、先日亡くなった「金ピカ先生」こと佐藤忠志さん(享年68のご冥福を心からお祈りしたい。

我々は8月末日、「かつて一斉を風靡した人びとに、近況を尋ねに行く」という趣旨の取材で佐藤さんのもとを訪れていた。

佐藤さんは快く応じてくれたが、かつてから変わり果てた生き様には、「人生とはいったいなんだろうか」と、深く考えさせられるものがあった。

追悼の思いを込めて、その日のことを振り返る。

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経済産業ダンス大臣

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まずは写真をご覧いただきたい。

右の男性は多くの方がご存知だろう。

ダンサーにしてTRFのメンバーでもあるSAM(57)だ。

安室奈美恵(42)と結婚していたことでも知られる。

一方、左の男性をお分かりの方は、どれくらい、いるだろうか――?

この写真が掲載されたのは週刊新潮の2015年11月12日号。

「あのセンセイのこんな趣味 第2弾」というグラビア特集に掲載された。

タイトル通り、国会議員5人の珍しい趣味を紹介している。

趣味がダンス、という左の男性は、菅原一秀・衆議院議員(57)だ。

自民党代議士で、9月11日に発足した第4次安倍再改造内閣で経済産業大臣として初入閣を果たした。

 

訃報 安部譲二氏 82歳

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 麻布中学では橋本元首相のご学友

  非常に才能に恵まれた人物が

 非常に特異な人生を歩みました  (T_T)

 

刑務所での収監体験をユーモラスに描いた自伝的小説「塀の中の懲りない面々」などで知られる作家の安部譲二(あべ・じょうじ、本名安部直也〈あべ・なおや〉)さんが2日、急性肺炎で死去した。

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82歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻美智子さん。

東京都出身。

国民学校(現在の小学校)低学年にして、シェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを片っ端から読破。

東京都港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。

中学時代に暴力団に加わり、その後は客室乗務員、ばくち打ち、用心棒、キックボクシングの解説者などを経験した。

東京・府中刑務所での実体験をもとに描いた1986年のデビュー作「塀の中の懲りない面々」がベストセラーになり、映画化もされた。

「塀の中のプレイ・ボール」「極道渡世の素敵な面々」など極道をテーマにした軽妙な作品を次々に発表して人気を博した。

 

台風サーファー(62)溺死

The Beach Boys- Surfer Girl (1964)

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 亡くなったのは残念だけど

  62歳で 台風中にサーフィン!

 若っいなぁ~ (^_^;)

 

9月8日正午ごろ、神奈川県平塚市高浜台の沖合約100メートルで、サーフィンに来ていた中津川和宏さん(62)=住所、職業不詳=が浮いているのを、近くの海岸にいた男性が見つけた。

中津川さんは救助されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。

気象庁によると、同市には当時、台風15号の影響で波浪警報が出ていた。

神奈川県警平塚署によると、中津川さんは同日午前から友人とサーフィンに訪れていた。

発見時、海岸にサーフボードが打ち上げられていた。

同署は溺れたとみて詳しい状況を調べている。

 

ひばり邸の「三婆」(さんばば)

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▲故美空ひばりさんの家政婦の3人

辻村あさ子、斎藤千恵子、関口範子

 

 いい話だなぁ~

  ひばりさん お元気なら今82歳

 戦後の歌謡界が生んだ 二番目の天才

  一番はもちろん 藤圭子   (T_T)

 

日本の戦後歌謡史に大きな足跡を残した美空ひばり

6月24日30回目の命日に当たる。

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生前のまま残る東京・目黒区青葉台の自宅(現在は、美空ひばり記念館)には、住み込みで働いていた「おのり」「ちーこ」「あさこ」が今も住んでいる。

ひばり邸の「三婆」(さんばば)とも「妖精」とも呼ばれる3人。

ひばりの死後30年たっても、あのころのまま「『お嬢さん』が生きていた時と同じように」と暮らし続けている。

3人の朝は午前6時、仏前で火打ち石を打つことから始まる。

公私にわたってひばりを支えた母、喜美枝が、舞台へ向かう娘のために祈りを込めた習わしだった。

母の没後は、ひばりが仏前で打つようになって、その習慣を3人が引き継いだ。

耳のいいひばりは、台所のテーブルを動かす、わずかな音でも目を覚ました。

だから静かに、お嬢さんを起こさないように朝食の支度をする。

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「今朝の食事はいかがでしたか」。

食事を担当してきた「あさこ」が仏前で尋ねる。

返事はない。

だが「おいしかったよ」という言葉を夢想して、あさこはひとり、うれしくなる。

日中は、自宅に併設する記念館をファンが訪ねてくる。

身近で見てきたひばりの素顔を今に伝える「語り部」としての役割が、3人の仕事だ。

「お客さんに『ひばりさんがここにいて、迎えてくれたみたいだわ』

 なんて言われると、本当にうれしくて」

現場で付き人を務めた「おのり」の笑みがこぼれる。

ひばりの主演映画やコンサートの録画を3人で見る。

映像に合わせて誰ともなく歌い出す。

かわいらしい衣装や小物を見れば「お嬢さん、こういうの好きよね」などと語り合う。

「飽きる? いいえ、お嬢さんの話題は次から次に出てきますから」。

おのりとともに現場の付き人だった「ちーこ」が破顔する。

現在のひばり邸を新築する際、3人に個室を、という話もあった。

だが、固辞してそのまま、豪邸の隅っこ、10畳の和室で川の字になって寝る。

「お嬢さんが夢に出てくることは、ほとんどありません。夢でもいいからお話ししたいのに。なぜでしょう」と3人は口をそろえる。

長年、公私にわたって芸能活動を支えた3人を、ひばりは生前、とても大切にした。

ひばりの死後、誰も「辞める」と言わなかった。

「出て行け」とも言われなかった。

付き人として、ひばりと暮らしたあのころのまま、昨日と同じ今日を生きていたら、いつのまにか30年がたった。

これからのことなど考えたこともない。

明日も今日のように生きるつもりだという。

3人の夢、生きがいは、昔も今も「お嬢さんのそばにいること」。

おのりは言う。

「たった一つの願いがかなった人生です。私たちは本当に幸せです」

(以上、敬称略)

「おのり」こと関口範子さんは1940年(昭15)、「ちーこ」こと斎藤千恵子さんは37年、ともに東京都で生まれた。

「あさこ」こと辻村あさ子さんは50年生まれで静岡県出身。

いずれも熱烈なひばりファンだったが、ひばりの母、喜美枝さんに声をかけられて、住み込みで働くようになった。

おのりは商社勤務を経て61年、ちーこは66年から、ともに付き人に。

あさこは農協勤務を経て73年から料理係を務めた。

それぞれのあだ名は、ひばりがつけた。

現在は、東京都目黒区の美空ひばり記念館(旧ひばり邸)で案内係としても働いている。

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79歳のデジタル・クリエイター

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79歳のおじいちゃんがエクセルで描いた作品

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 エクセルにこんな使い方があるなんて

  まったく知りませんでした

 世の中にはスゴいおじいちゃんが

  いるもんですねぇー  (^_^;)

 

19年前、60歳堀内辰男氏は、引退した後、普段から関心があったデジタルアートに挑戦することを決心しました。

しかし、彼を困らせたのは、ただ一つ、費用の問題でした。

デザインソフトやタブレットなどのツールは、総じて値段がかなり高かったからです。

その時、偶然、職場の同僚がエクセルで図形をきれいに描いていたのを思い出して、エクセルでも絵を描くことができると考えました。

しかも、エクセルのプログラムは、彼のパソコンに入っていたため、特に費用もかからなかったのです。

そのように堀内辰男氏はエクセルのプログラムで19年間、絵を描いてきました。

そして2006年、彼は日本全国からエクセルで描いた作品が出品される

「エクセルオートシェイプアートコンテスト(Excel Autoshape Art Contest)」

優勝しました。

また彼の一部の作品は、群馬県立美術館に出品されたりもしました。

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