梅雨には早すぎるし、どうなってるんでしょう?
桜の開花との関係が気になります
(^_^;)
梅雨には早すぎるし、どうなってるんでしょう?
桜の開花との関係が気になります
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祇園祭り、神田祭りと並ぶ日本三大祭りのひとつ、ヤマザキ春のパンまつりが始まっています
日本全国の「パンまつり研究家」たちは、いま必死になって、お皿攻略法を研究しています
いやー、なんだか一種の高貴さ、気高さを感じてしまいます
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春のパンまつりは、山崎製パンが毎年2月から春にかけて開催しているキャンペーンだ。
その仕組みは、簡潔に言えば
「パンに付いてくるシールを集めるとお皿が必ずもらえる」
というもの。
しかし、毎年お皿の大きさや形状が変わったりすることから、意外と奥が深く、中には「パンまつり攻略」と称してキャンペーンを熱心に研究するファンもいる。
つまり、「もっとも安くお皿を手に入れる攻略法」を調べ続けている。
23年の春のパンまつり(開催期間:23年2月1日~同年4月30日。北海道地区のみ23年3月1日~同年5月31日)は、価格効率とカロリー効率の2つの視点で分析してみた。
その結果を覚えておけば、点数シールを効率よく集められるし、毎日のパンをよりおいしく食べられるようになるはずだ。
▲完成予想イラスト
施工不良と虚偽報告で、15階まで建てたビルを一度全部解体して一から建て直すという、トンデモ不祥事が発覚しました
やらかしたのは大成建設で、即座に担当役員・寺本剛啓のクビが飛びましたが、今後の情勢しだいでは社長(CEO)・相川善郎のクビも飛ぶかもしれません
地震国の日本では、建築基準法が厳しい耐震基準を要求しており、当然ですが手抜き工事には厳格な処分が科せられます
逆に世界でも有数の「手抜き工事やりたい放題」の韓国では、地震でもないのに突然ビルが崩壊する事件がしょっちゅう起きています
韓国ソウルで1995年に発生した三豊デパート崩壊事件では、
営業中のデパートが突然崩壊し、約1400名もの死傷者
が出ました
わずか45秒で崩壊したので、逃げる時間もありません
崩壊したデパートを調査したら、鉄骨の代わりに石油缶(→)が放り込んであったり、考えられないような手抜き工事の痕跡だらけでした
「平気でウソをつき、平気で約束を破る国」韓国
の日常風景なのかもしれません
民度の低い赤組(中露韓北)らしい、およそ文明国では考えられないような、余りにもズサンで野蛮で無責任な事件です
そんな国の大統領(→)が、いま日本に来ていますが、連中は国家間の約束(条約や協定など)を守る気なんか、まったくありません
いま韓国経済が崩壊しそうなので、日本に助けてもらいたくてスリ寄っているだけですから、のど元すぎたら、またいつものしつこい反日を復活します
相手をしてやるだけ時間の無駄です
((((;゚д゚))))
札幌市の中心部、北海道の赤れんが庁舎(←)前に建設中の地上26階、地下2階の複合高層ビルで、施工不良と虚偽報告が発覚しました。
地上15階まで組まれていた鉄骨など(↓)は全て撤去され、工事は、ほぼ“やり直し”となる前代未聞の事態です。
▲地上15階まで組まれていた鉄骨などは全て撤去される
施工不良と虚偽報告が発覚したのは、札幌市中央区北1条西5丁目に建設中の地上26階、地下2階の複合高層ビルです。
この複合ビルは、アメリカのホテル運営大手、ハイアットが札幌市に初進出する他、オフィスや店舗などが入居し、来年2月に完成予定でした。
しかし、事業主のNTT都市開発によりますと、1月末の現地視察の際、発注したものと違うボルトが使われていたことがわかりました。
さらに調査をすすめると、鉄骨の柱の水平度のズレ、コンクリートの厚さ不足などの施工不良も多数発覚。
こうした施工不良に関し、工事を担当した大手ゼネコンの大成建設が、計測値を正常なものと偽るなど、NTT側に虚偽の報告をしていたことも判明しました。
このまま工事をすすめると建築基準法に違反するおそれがあるとして、NTT都市開発は、すでに地上15階まで組まれていた鉄骨などを全て撤去し、工事をほぼ最初から“やり直す”ことを決めました。
すでに工事の進捗率は23%に達していましたが、完成は2026年6月末まで大幅に遅れる見通しです。
虚偽報告も発覚した大成建設は、HBCの取材に
「作業を担当していた社員で、品質管理の担当者が施工不良の指摘を受けた際、
他の工事との調整で工期が遅れると懸念し、数ミリ程度なら問題ないと考えた」
と説明したということです。
また、大成建設が関わる他のビル建設で、同様の施工不良はないとしています。
大成建設は、今回の事態の責任を取り、
建築部門責任者である取締役の寺本剛啓(→)の辞任
などを発表しました。
少し前から新橋駅前のSL周辺を工事していて、何だろな?と思っていたのですが、これ(高輪築堤)だったんですね
昨年秋に日本の鉄道開通150周年を迎え、鉄道開通時からある品川駅や新橋駅では、いろいろな行事が行われて、これもその一環のようです
150年以上前の日本人は鉄道など見たこともなかったので、明治政府で鉄道整備責任者になった大隈重信(早稲田大学の創立者、→)たちは鉄道用地の確保に非常に苦労しました
そのため都心の新橋品川間は、東京湾の浅瀬を埋め立てて線路(高輪築堤)をつくりました
日本に初めて出来た鉄道がいきなり海上を走るというのも奇抜で、下の絵(↓)のように対岸の高輪海岸には見物客が押し寄せ、小舟に乗って見物している人たちもいますね
港区高輪エリアは今でも高台ですが、高台に登るための道に手すりとして縄が張ってあり、それで高縄(たかなわ)と呼ばれていたそうで、それがいつの間にか高輪に変化しました
その後、東京湾の埋め立てが進んだために、海上だったはずの線路の周辺は地上になってしまい、高輪ゲートウェイ駅の工事で高輪築堤が出土した訳です
わずか150年前のものですから、1000年以上前の遺跡や歴史的建造物がいくらでもある日本では、余り大騒ぎするほどのものではありません
保存に手間をかけすぎると、現在の工事の障害になります
地元の港区には、あの有名なマック赤坂(←、本名:戸並誠、となみまこと)というタレント(?)港区議もいます
この人、これでも京都大学出身なんですよね
ちゃんと港区赤坂のマンションにお住まいです
港区長には区役所職員上がりの武井雅昭区長(↓)がいて、地味な実務家としてソツなく区政をこなしています
(^_^;)
▲高縄鉄道の図
右側の高台が高縄(高輪)で見物客が集まっています
右上の線路が地上に上陸しているあたりが現在の品川駅
左上の沖合には、お台場や黒船(?)まで描かれています
1世紀半前の1872年、鉄道開業時の線路を敷くため、東京湾の海上に築かれた高輪築堤(たかなわちくてい)。
それを再現した長さ22メートル、高さ1メートルの石垣が3月15日、東京・JR新橋駅前のSL広場に登場した。
地元の東京都港区による鉄道開業150周年の記念事業。
高輪築堤を解体した石を使い、新橋駅前のモニュメントとして親しまれているSLの土台として整備した。
品川駅周辺の再開発工事に伴い4年前に発掘された、高輪築堤の第七橋梁きょうりょう橋台部に使われていた安山岩267個を使って、実物のように30度の傾斜をつけた。
披露式典で、港区長の武井雅昭(→)は、日本初の鉄道が新橋—横浜間で開通したことに触れながら「鉄道発祥の地を一層、発信したい」とあいさつした。
地元・愛宕一之部連合町会会長の丸哲夫(81)も「SL広場に歴史的価値が加わった」と喜んだ。
港区によると、高輪築堤の実物の石を使ったモニュメントができるのは、明治新政府で鉄道整備の責任者だった大隈重信の故郷、佐賀県の県立博物館、東京・豊洲の広場に続いて3例目。
港区は、現地保存が一部にとどまっている築堤について、より広範囲な保存の必要性を訴えていきたいとしている。
▲虹橋(レインボーブリッジ)とお台場
▲合格祈願の絵馬の量がスゴい! (^_^;)
▲安田講堂を横から見上げたところ (^_^;)
貧しい生まれだが頭が良くて成り上がっていく
ソフトバンクの孫正義(←)を思い出しますね
貧しさやコンプレックスには
人を駆り立てる上昇パワーもありますが
どこか不安定な影のようなものも感じさせます
無教会派、生長の家、共産党、新興宗教GLAなど
宗教カルトを転々とした父親、中川忠義の人生が
中川隆(大川隆法)の人生に、大きな影響を与えたのは間違いなさそうです
父親のカルト体験から「カルト教祖はイケる!」と確信した商社マン中川隆(大川隆法)は
持ち前の頭脳を生かして「洗脳の科学」を研究し実践しました
((((;゚д゚))))
「幸福の科学」の教祖、大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。
地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていた。
その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。
麻布台のボロ家に身を寄せた一家は、思い思いの働きで貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。
だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。共産党に入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。
そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をした。
その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、
どんな小さな学校であっても、
一番だけは違うよ。
どんな狭い地域社会においても、
一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。
中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。
君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、
誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
佐野眞一著『幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち』から