公開当時のパンフレットも完全収録
史上初の「ゴジラ」映画コンプリート・シリーズ
2016年7月12日創刊予定 続きを読む
公開当時のパンフレットも完全収録
史上初の「ゴジラ」映画コンプリート・シリーズ
2016年7月12日創刊予定 続きを読む
▲肝細胞、小腸上皮細胞におけるTTC39B阻害時の分子メカニズム
コレステロール吸収に関与する蛋白質の機能を解明
非アルコール性脂肪肝炎と動脈硬化の革新的治療薬開発に期待
放送作家の草分け的存在で、マルチタレントとしてテレビ、ラジオで幅広く活躍した永六輔(えい・ろくすけ、本名・孝雄=たかお=)さんが7日に死去したことが11日、分かった。83歳だった。
作詞家として、
坂本九「見上げてごらん夜の星を」
「上を向いて歩こう」
梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」
などのヒット曲を手掛けた。
北島三郎「帰ろかな」
など、作曲家の中村八大さんと組んだ楽曲も多く、永さん、中村さん、坂本さんのトリオは「六八九トリオ」とも呼ばれた。
東京都出身。高校在学中からNHKラジオに投稿していたコントを放送作家の三木鶏郎氏に認められ、放送作家としての活動を始めた。
ラジオに加え、テレビ草創期から番組の企画や構成を手掛け、NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」などの人気番組を送り出した。 続きを読む
「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒット曲で知られる双子の歌手「ザ・ピーナッツ」の妹、伊藤ユミ(いとう・ゆみ、本名・月子=つきこ)さんが5月18日に死去していたことが7月11日、分かった。75歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
伊藤さんは昭和16年、愛知県生まれ。
双子の姉、エミさんとともに「ザ・ピーナッツ」を結成し、34年に「可愛い花」でレコードデビューした。
卓越した歌唱力とハーモニーの美しさで注目され、音楽バラエティー番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」に出演。
「情熱の花」「ふりむかないで」など数々のヒット曲を送り出し、高度成長を背景にテレビの普及とともにお茶の間の人気者となった。
NHK紅白歌合戦には34年から49年にかけて16回連続出場。
映画にも活躍の場を広げ、「クレージー黄金作戦」などに出演した。
特に、36年の特撮映画 「モスラ」では、双子の妖精「小美人」を演じて話題を集めた。
アメリカのテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演するなど海外でも活動した。
日本の歌謡界のトップを走り続けたが、50年に芸能界を引退。
以来、メディアからは遠ざかった生活を送っていた。 続きを読む
レストランジャーナリスト・犬養裕美子さん
新宿高校1977年度卒
毎日新聞
東京都立新宿高校の特徴として、多くの卒業生が挙げるのが「ナンバーワンよりオンリーワン」という校風。
卒業生にもさまざまな分野の「オンリーワン」を 輩出している。
日本初の「レストランジャーナリスト」として活躍する犬養裕美子さん(56)=1977年度卒=もその一人。
「かっこ悪くてもやり通す」と いう新宿高校魂をたたき込まれたという学校生活を語った。
学校は都会のど真ん中にありながら、男子が女子の2倍いてバンカラな雰囲気でした。
私もおしゃれは大好きでしたが、学校ではジャージー。男よりも男っぽくて、男子からは「イヌケイ」と呼ばれ、全く女扱いされませんでした。
部活は中学から続けていたバスケット部に入りました。
練習が厳しくて有名で、一番つらかったのは福島での夏合宿。暑さと練習がきつくて胃が痛くなったの を覚えています。
そのかいあってか、3年春の都大会では私立の強豪がひしめく中、公立ながらベスト16に入り、やったことは報われるんだと思いました。
部活後に毎日通ったのは、通学路にあった「ねえちゃん屋」。
いわゆる昔からの駄菓子屋で、体育部系の生徒のたまり場でした。15人ほど入れば満杯になる小さな店。コッペパンにマーガリンを塗ってジャムをつけた、1個50円くらいのジャムパンをみんなで食べた。
50年前の昭和41年に、ウルトラマンシリーズの嚆矢(こうし)である「ウルトラマン」の第1話が放送されたのは7月 17日。
だが、その1週前の7月 10日に番組の宣伝イベント「ウルトラマン前夜祭」が録画中継され、ウルトラマンが初めてテレビに登場した日なのだ。
山崎さん 情報ありがとー (^_^;)
新宿高校出身、こじのりさんの、ライブスケジュールです。
ありがとうございます (^_^;)
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フルート小島のり子です。いかがお過ごしでいらっしゃいますか。
ありふれた日常風景が 非日常化する面白さです
右下の をクリックして 大画面でどうぞ
東京バージョンもあります (^_^;)
新宿高校1957年度卒
旧制府立六中時代から全国屈指の進学校だった都立新宿高校。
俳優で元参院議員の中村敦夫さん(76)=1957年度卒=の在校時は激しい受験競争の真っ ただ中だったという。
「なじめず、変わり者だった」という中村さんに、その後の俳優業や政治家へとつながる高校時代の経験を聞いた。
生まれは東京ですが、小中学校は新聞記者だった父親の仕事の関係で福島県におり、県立磐城高校に入学しました。
東京出身の母の希望もあり、1年の夏に都立高校の編入試験を受けました。
新宿高と戸山高の両方受かってどちらか迷いましたが、校舎に入る時に、戸山は靴をぬがなければならない。
スリッパを持っていなかったら怒られたけど、新宿は古い校舎で土足のまま上がれた。
礼儀作法がうるさくなさそうで自分に合っていると思い、新宿高に決めました。
当時は毎年100人が東大に入るような進学校。レベルが高くてびっくりしました。
最初の英語の試験でシェークスピアが出た。100点満点で10点以上 取ったらまあまあみたいな難問で、自分は10点ちょっと、周りも20点も取れない。
一人だけ60点取った岩田昌征という生徒がいて、覚えています。彼は後 にユーゴスラビアの専門家として大学で教えていると聞きました。
学校はとにかく競争しなくちゃいけないという雰囲気があった。
朝の通学時間は、新宿駅南口から学校まで、学生帽をかぶった男子生徒が辞書を見ながら ダーッと列を作って歩く。
社会のエスタブリッシュメントへの道を競い合うような雰囲気に拒絶感があり、なじめませんでした。
高校生活はたくさんの本や映画に親しみました。
コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」は自分のポジションを言い当ててもらったように感じて、とことん 読みました。
映画は週1回は名画座に通いました。一番印象に残っているのは「天井桟敷の人々」。当時の名優が総出演で、それは夢中で見ました。
学校に隣接していた新宿御苑には毎日弁当を持って行きました。
障害物競走みたいに校庭の塀を乗り越えて入って。本当は入り口があったのですが、新宿高生は「第三のグラウンド」と呼んで、自由に行き来していました。
俳優になって「木枯し紋次郎」の紋次郎役で当たった後に、小説を書いたりニュース番組のキャスターや政治家にもなり、分野横断的にいろいろやりました。
一貫しているのは、時代認識と世界観の「表現者」であるということです。
高校3年間は、セットされた道を進む「順応型の秀才」のためのコースで、そうじゃない自分のような人間は独力で道を探していくしかなかった。
しんどい人生だけど、そっちのほうが面白いと気付いた。それは反面教師としての、あの学校のおかげです。
今の時代は混乱の極致で、軸になるものがない。
僕がこれからできるのは、遠慮せずにはっきりものを言うこと。
自分の確信したことをさまざまな手段で伝える「表現者」としての人生を、全うしたいと思います。
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身近な存在、新宿御苑 第三のグラウンド?
中村敦夫さんがお昼を食べに毎日通ったという、学校に隣接する新宿御苑。旧制六中として発足時には、当時、宮内省御料地だった御苑内の一角に初代校舎が建設されるなど、新宿高との結びつきは強い。
かつて学校と御苑は壁一つを隔てて隣接しており、生徒は「第三のグラウンド」と呼んで日常的に壁を乗り越え「侵入」していた。戦後になると生徒の仕業 か、壁には出入りできるほどの大きさの穴が複数開き、1962年度の卒業アルバムには、穴から笑顔を見せる生徒の姿が掲載されている=写真・新宿高朝陽同 窓会提供。
同窓会によると、要人が出席する式典が開かれる当日に、生徒が入って補導され、翌日の朝礼で当時の校長が「入るなら別の日に入れ!」と一喝したなど、御 苑にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。男性元教諭は「御苑の豊かな緑があったから、都心のど真ん中にありながらも生徒は学問に励み、健やかに過ご せたのではないか」と言う。
2004年に現在の3代目校舎に移転し、御苑との間に道路建設工事が始まると、生徒が行き来することはなくなった。07年からは「奉仕」授業の一環とし て、生徒は年数回、御苑内の清掃や除草を実施している。創立から90年以上経た今も、御苑は生徒に親しまれている。=次回は31日に掲載します
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なかむら・あつお
1940年生まれ。東京外国語大中退。63年俳優座入団。72年、連続テレビ時代劇「木枯し紋次郎」の紋次郎役に抜てきされ大ブレーク。以降多くのドラ マの主演を務める。83年、小説「チェンマイの首」で文筆活動開始。84年から情報番組「地球発22時」のキャスターとして、数十カ国で海外取材を経験。 98年参院議員に初当選。2004年政界引退。今年5月、徳島の寺院で出家得度した。