6月から3カ月にわたって連載してきた「母校をたずねる」東京都立新宿高校編。
紙面と毎日新聞ニュースサイトで募集した「私の思い出」には、多くの卒業生の読者の方からご投稿をいただきました。
最終回の今回、その一部を紹介します。
6月から3カ月にわたって連載してきた「母校をたずねる」東京都立新宿高校編。
紙面と毎日新聞ニュースサイトで募集した「私の思い出」には、多くの卒業生の読者の方からご投稿をいただきました。
最終回の今回、その一部を紹介します。
体内の免疫細胞を活性化させてがん細胞を攻撃し、転移したがんも死滅させる新たな治療法を、米国立衛生研究所(NIH)の小林久隆・主任研究員らが開発し、動物実験で効果を確かめたと発表した。
17日の米医学誌「サイエンス・トランスレーショナル・メディシン」に論文が掲載される。
米カリフォルニア州の新興企業と共同で、数年内の臨床試験実施を目指す。
がん細胞は、免疫細胞の活性化を抑えるブレーキ役の細胞(制御性T細胞)を引き寄せ、免疫細胞からの攻撃を逃れている場合が多い。
研究チームは、ブレーキ細胞に結合するたんぱく質「抗体」をマウスに注射。
この抗体には、光(近赤外線)を受けると化学反応が起きる物質が付いており、がんの患部に体外から近赤外線を当てるとブレーキ細胞が破壊された。
人体が持っている免疫力を高めることが
ガンの予防につながりますね (^_^;)
本を読む人は読まない人よりも長生きするという研究結果が報告されています。詳細は以下から。
知らなかった知識や自分と違う考え方を学ぶことができ、あるいは手に汗握る冒険物語や心弾む恋愛物語を体験することのできる読書。
書物が私達にもたらしてくれるものは限りなく豊かですが、なんと長生きという効能もあるようです。
イェール大学のBecca R. Levy疫学教授が主導した研究によると、読書をする人は読書をしない人よりも2年ほど長生きする傾向にあるということ。
この研究では全国規模の健康に関する調査のうち、読書傾向について回答した3635人のデータを分析しています。
その中で対象をまったく読書の習慣を持たない人、1週間に3時間半程度までの読書をする人、1週間に3時間半以上の読書をする人の3つのグループに分割しました。
すると、よく本を読む人は、女性、大学教育を受けている人、収入の高い人という傾向が見られました。研究者らは年齢、人種、健康についての自己申告、鬱傾向、雇用、婚姻の有無などと共に調整を行いました。
そうして調整を行った後でも、1週間に3時間半程度までの読書をするグループは、読書週間を持たないグループより調査以降12年で17%程死亡率が低く、1週間に3時間半以上の読書をするグループに至っては以降12年の死亡率は23%も低かったのです。
こうした結果から、よく本を読む人は読まない人に比べて平均で2年ほど寿命が長いという結論が導かれました。
Becca R. Levy教授は「毎日30分程度の読書が読まない人に比べて生存に大きな優位性をもたらしている。その優位性は富や教育、認知能力をはじめとした多くの要素を除外した後でも残っている」と指摘しています。
ただし、雑誌や新聞を読んでいてもその後の死亡率に目立った変化は見られなかったということ。長生きしたければ「本を読む」ことが大切なようです。
長生きすると たぶん退屈することになるので
読書が好きだと 飽きなくていいですね (^_^;)
厚生労働相・塩崎恭久さん
新宿高校1969年度卒
全国の高校で学生運動の嵐が吹き荒れた1969年、東京都立新宿高校も、その影響を強く受けた。生徒会長も務めた衆院議員で厚生労働相の塩崎恭久さん (65)=同年度卒=は、自由な教育を求めて学校側と対峙(たいじ)した。「自分の問題意識に、正面から全力で向かい合っていた」という塩崎さんに、“時 代の風”の真っただ中で過ごした高校生活を語ってもらった。
部活は社会科学研究会、通称「社研」に所属しました。当時、学校の校庭の前に簡易宿泊所があり、時に犯罪者が逃げ込んだりする社会の縮図のような場所でした。四谷警察署へ実態を聞きに行き、調べた内容を模造紙に書いて文化祭で発表しました。
一つ上の姉が交換留学プログラムで米国へ留学したのに感化され、「自分も」と2年の2学期から1年間、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近く の高校に留学しました。制服もなく生徒は車を運転して学校に通う。何より、自分でやりたい授業を選べるというのがカルチャーショックでした。
大相撲で史上3位の優勝31度を誇り、昭和から平成にかけて一時代を築いた元横綱千代の富士の九重親方(本名秋元貢=あきもと・みつぐ)が31日、膵臓がんのため東京都内で死去した。
九重部屋関係者が明らかにした。61歳。北海道福島町出身。
九重親方は精悍な顔つきと筋肉質の体から「ウルフ」の愛称で呼ばれた。
1970年秋場所初 土俵。81年名古屋場所後に第58代横綱に昇進した。
小兵ながら左前まわしを引いての寄り、豪快な上手投げで土俵に君臨し「小さな大横綱」と称された。
昭 和以降3位の53連勝など数々の記録を残し、89年には角界で初めて国民栄誉賞を受賞した。
91年夏場所限りで現役を引退後、92年4月から九重部屋を継承。
大関千代大海らを育て、2008年に初めて日本相撲協会理事となり、以降は事業部長や審判部長などを務めた。
15年には膵臓がんの手術を受けた。
余りにも早すぎる死 (T_T)
新宿高校1999年度卒
第98回全国高校野球選手権大会東東京大会で15日、都立の雄、小山台が初回に奪われた10点をはねかえし、立教池袋を下した。
劇的な試合のヒーローは、八回に逆転満塁ホームランを放った宮川慶悟内野手(17)だった。
八回1死満塁。3点差で打席が回ってきた。
「とにかくヒットを狙って、来た球は全部打ち返す」。
高めの直球を振り抜くと、打球はレフトスタンドへ突き刺さ る逆転満塁弾に。
大歓声が渦巻く中、一塁を回ったときに塁審が手を回しているのをみて、ようやくホームランと気づいた。
「ベンチに戻るまで実感はなかっ た」。
10点差をひっくり返した起死回生の一打は、無我夢中だった。
小学1年から野球を始め、高校も野球ができる学校を選んだ。 続きを読む
憲法学者・小林節さん
新宿高校1966年度卒
ぐるっと首都圏・母校をたずねる:東京都立新宿高校/7
苦悩の日々が「強さ」導く 小林節さん /東京 – 毎日新聞
昨年6月の衆院憲法審査会で安保法案を「違憲」と断じ、10日投開票された参院選では「国民怒りの声」代表として各地を駆け回った憲法学者で慶応大名誉教授の小林節さん(67)=1966年度卒。
舌鋒(ぜっぽう)鋭い論客という現在の姿からは想像が難しいが、高校時代は「コンプレックスだらけで、現実から逃げ回っていた」という。悩み抜いた青春の日々を語ってもらった。
出身の新宿区立淀橋中は、成績の良い生徒を都立戸山高か新宿高に振り分けていて、新宿高には受動的に入りました。
予習・復習の習慣を身につけてなかったから、授業についていけない。
それと、自分には生まれつき左手に指がない障害があって、それが「みにくいアヒルの子」のように思えて。
思春期でしょ。女性を意識するから、姿に欠点があることは当時の自分にとって致命傷でした。
1年の夏に館山の臨海教室に参加しましたが、僕は泳げないから、遠泳に参加せず浜辺でずっと見ていた。
家に帰ったら顔にシミがたくさんできて、すごみのある顔になっていた。
シミは今も取れずそのままです。それが臨海教室の思い出です。
2年あたりから、授業は好きな英語と政治経済だけ出て、あとはクラスメートに代返を頼んでいました。新宿御苑に壁の穴から侵入して過ごしたり、新聞部の部室で、全国の高校から送られる学校新聞を読んで過ごしたり。
一応出席していることになっているから卒業はできたけれど、3年の成績は学年430人中402番。担任から「大学に行くだけが人生じゃない」と言われました。
高校時代は逃げ回っていた日々。一方で「きちんと生きなくちゃ」という悩みを熟成した期間でもありました。生きているのがいやだけど、死ぬ勇気もない。死ぬ勇気がないなら生きていくしかねえな、と。
何より自分を産んで育ててくれた母親に悪い。母が、私という障害児を産んでしまったために、親戚から「うちの面汚し」と言われていたのを知っていたので。
卒業後は浪人する羽目になって、そこから反転攻勢しました。子どもの頃の目標である弁護士になろうと思いました。
小学校の同級生の父親に苦学して弁護士になった人がいて、その人に「小林君、負けてる人を助けるのが弁護士なんだ」と言われ、なりたいと思ったんです。慶応大に入学した後はひたすら勉強し、大学は首席で卒業しました。
憲法学者は、差別された人や迫害された人に光をあてる職業です。被差別事件に関わっても、誰も僕のことを警戒しない。
一見すると障害者だから仲間と認めてもらえるし、外見の問題だけでなく、高校時代に心の修羅場をくぐっているからだと思います。
昨年6月、衆院憲法審査会で安保関連法案に「違憲」を突きつけた翌日の夕方、記者から「学生団体のSEALDs(シールズ)が機動隊に植え込みに追い込まれている」と言われ、許せないと思って国会前に行き、街頭演説をしました。
憲法で認められた表現の自由で、誰にも迷惑をかけてない。子どもたちに「いいんだよ、これはやっていいんだ」と見せたかった。
今の自分は孤立を恐れない、非常に自立した人間だと思います。それは、逃げ回っていた高校時代、自分という条件から逃げ切れないことを発見したからです。
代返してくれた仲間と、代返を見逃してくれた教師。そんな新宿高のおおらかで雑な雰囲気。その校風が、今の「強い自分」の原点に導いてくれたような気がします。
高校3年間は、本当に深いところでの哲学的決断をするための、迷っている時間をくれた場所です。
小林さんが思い出を語った臨海教室は、初代校長が掲げた「学校、家庭、同窓生、生徒が一体となった大家族主義」という理念を具体化する行事として1922年から始まった、同校を代表する伝統行事だ。
当初は希望者のみが参加したが、57年からは全員参加となり、1年生が夏休み期間中に3泊4日で、千葉県館山市にある同校の館山寮で過ごす形式になった。
期間中は携帯電話使用禁止。各部屋にはテレビも冷房もない寮での集団生活で、生徒は心身ともに鍛えられる。
メインイベントは3日目の「大遠泳」だ。
寮の前の浜をスタートして約1キロ離れた大賀海岸まで平泳ぎで完泳を目指す。
生徒は泳力別に事前練習をし、水泳部の卒業生もボランティアで参加する。
手厚い指導と協力体制により、これまで無事故。最近10年は約9割の高い完泳率を誇る。
水泳部OBとして約30年にわたり指導にあたってきた鈴木仁志さん(48)=85年度卒=は、臨海教室で味わった仲間との連帯感と遠泳の達成感を後輩にも経験してほしいと思い、参加を続ける。
鈴木さんは「泳ぎの不安な生徒もいる中、皆で無事ゴールした時の喜びは他ではできない経験」と魅力を語り、「今後も伝統を受け継いでほしい」と話す。
新宿高の「大家族主義」は、臨海教室として今も引き継がれている。
▲肝細胞、小腸上皮細胞におけるTTC39B阻害時の分子メカニズム
コレステロール吸収に関与する蛋白質の機能を解明
非アルコール性脂肪肝炎と動脈硬化の革新的治療薬開発に期待
放送作家の草分け的存在で、マルチタレントとしてテレビ、ラジオで幅広く活躍した永六輔(えい・ろくすけ、本名・孝雄=たかお=)さんが7日に死去したことが11日、分かった。83歳だった。
作詞家として、
坂本九「見上げてごらん夜の星を」
「上を向いて歩こう」
梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」
などのヒット曲を手掛けた。
北島三郎「帰ろかな」
など、作曲家の中村八大さんと組んだ楽曲も多く、永さん、中村さん、坂本さんのトリオは「六八九トリオ」とも呼ばれた。
東京都出身。高校在学中からNHKラジオに投稿していたコントを放送作家の三木鶏郎氏に認められ、放送作家としての活動を始めた。
ラジオに加え、テレビ草創期から番組の企画や構成を手掛け、NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」などの人気番組を送り出した。 続きを読む
「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒット曲で知られる双子の歌手「ザ・ピーナッツ」の妹、伊藤ユミ(いとう・ゆみ、本名・月子=つきこ)さんが5月18日に死去していたことが7月11日、分かった。75歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
伊藤さんは昭和16年、愛知県生まれ。
双子の姉、エミさんとともに「ザ・ピーナッツ」を結成し、34年に「可愛い花」でレコードデビューした。
卓越した歌唱力とハーモニーの美しさで注目され、音楽バラエティー番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」に出演。
「情熱の花」「ふりむかないで」など数々のヒット曲を送り出し、高度成長を背景にテレビの普及とともにお茶の間の人気者となった。
NHK紅白歌合戦には34年から49年にかけて16回連続出場。
映画にも活躍の場を広げ、「クレージー黄金作戦」などに出演した。
特に、36年の特撮映画 「モスラ」では、双子の妖精「小美人」を演じて話題を集めた。
アメリカのテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演するなど海外でも活動した。
日本の歌謡界のトップを走り続けたが、50年に芸能界を引退。
以来、メディアからは遠ざかった生活を送っていた。 続きを読む