毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ 最終回

6月から3カ月にわたって連載してきた「母校をたずねる」東京都立新宿高校編。

紙面と毎日新聞ニュースサイトで募集した「私の思い出」には、多くの卒業生の読者の方からご投稿をいただきました。

最終回の今回、その一部を紹介します。

今も続く合唱コン発案 団体役員、堀貞行さん(70)=1964年度卒、千葉県佐倉市

 有数の進学校だった新宿高では、多くの生徒は「帰宅部」。そんな中で山岳部に入った。土曜は登山の服装で登校。授業が終わるやリュックを担いで小田急線に飛び乗り丹沢に登山。日曜日の夕方帰宅。予習も復習もあったものではなく、月曜は疲れて居眠り。

 「山岳部に入ったら現役では大学には入れないぞ」などと言われていたのに、さらに大変な厄災が。生徒会選挙の選挙管理委員長が女性山岳部員で、「お願い!」との頼みに、会長に立候補。書記長には、今度は私が「お願い」と頭を下げ山岳部の相棒になってもらった。

 2人を中心とした執行部は、ほとんど何もしなかったが、ある日、「おい、何かやろうぜ」と考えた末に、登山中テントでよく歌っていた2人は、合唱コンクールをクラス対抗で開催することを思いついた。

 これが全校で受けた。コンクール当日は、芸大に進んだ卒業生の支援も受けて盛況。最後の全員合唱「冬の星座」は盛り上がった。この合唱コンクールが今も続いていることを最近になって知り、感無量です。

 

3年連続学園祭で演劇 元建設会社役員 山岸哲男さん(81)=53年度卒、千葉県鎌ケ谷市

 1年生から大人扱いされて、3年間、自由な校風を満喫しました。3年間連続で学園祭のクラス演劇に出たことが私の誇りです。1年生では「ドモ又の死」と いう演劇で青島というチャラ男の役。主役は後の大蔵事務次官の斎藤次郎君で、2人ともなんとかセリフをかまずに済みました。

 早稲田大を出て親の望んだ上場企業の月給取りになりました。会社には旧制府立六中(新宿高の前身)の大先輩が4人もいておっかなかった。91年には会長から新米取締役の私まで、5人の新宿高同窓役員が勢ぞろい。すごい学校です。

 今は師匠について落語の稽古(けいこ)に励んでいますが、これも母校で身につけた「自由」のお陰だと思います。

 

大勢いた熱心な先生 会社員、中村嘉智さん(56)=77年度卒、東京都新宿区

 私が入学した1975年はさまざまな意味で母校にとって端境期だったと思います。学校群制度で駒場高と共に分類され、どちらに入学するか合格発表までわ からない。入学後、さっそく「かつての学生運動当時の生徒との取り決めにより、補習授業は行わない」「飲酒の不祥事があったので、君たちの代から修学旅行 は行わない」と告げられ、失望しました。

 先生の放課後の予備校でのアルバイトが半ば公然と行われていました。とはいえ、熱心な先生もたくさんいらっしゃいました。「ハンドボールバカ」を自任す る体育の島田房二先生、こっそり教室を借りて補習授業をしてくださった数学の関正春先生と物理の木暮隆夫先生、そして図書館司書の佐元光子先生。

 私が卒業して間もなく、5年を目安にした先生の強制異動が始まり、古くからいらした先生方から転勤が相次ぎました。「母校」といっても個性や伝統を守る ことも難しくなっていることを痛感します。私たちも学生運動当時の先輩に比べれば気付かぬうちに「おとなしく」なり、親になって、子の世代がより社会や政 治について無関心になっている現状に、危惧を抱かざるを得ません。

 

顧問の言葉に奮い立つ 東京外語大4年、星野環さん(23)=2011年度卒、東京都大田区

 「あなたの人生に影響を与えた人は誰ですか」。今年6月、就職活動で聞かれた質問だ。パッと頭に浮かんだ人がいた。「高校の水泳部の顧問だった佐藤貴文 先生です」。水泳部は練習が厳しいことで有名で、勉学を優先して毎年何人もの部員が辞めていった。大学受験を控えた3年の春、模試で初めてE判定をとった ことで、夏休み明けまで続く部活を続けることに家族は大反対。私のなかにも退部の文字がよぎり始めていた。

 しかしある日のミーティングで、教師2年目の情熱にあふれた佐藤先生は言い放った。「やらない後悔より、やる後悔を大事にしろ」。思わず目を見開いた。それからがむしゃらに泳ぎ、勉強した。そして1年後、第1志望現役合格を勝ち取ることができた。

 佐藤先生、あのとき私を奮い立たせ、また今のモットーとなるすてきな言葉をくれたこと、感謝しています。

 

王選手いた早実と対戦 無職、笹本国夫さん(76)=57年度卒、東京都渋谷区

 高校ではどうしても硬式野球をやりたいと思い、旧制六中時代からの硬式野球部の伝統があり、小さくとも自校のグラウンドで練習ができる新宿高を選んだ。 思い出は多いが、中でも2年生の夏の東京大会で、1年生の王貞治選手がいた早稲田実業と対戦した試合だ。この頃の早実は甲子園常連校で、間近に見る選手た ちは我がチームに比べ、体格が一回りも二回りも大きく見えたことが印象に残っている。

 前半は1点差で持ちこたえ強豪を慌てさせたが、後半の反撃のチャンスを逃し敗れた。善戦したとの思いからか、試合後はすがすがしい気分に浸った。王選手もリリーフ登板したが、1年生の夏の、あの神宮球場での私たちとの試合を覚えているだろうか。

 良き友、先輩、後輩。野球を通じて新宿高で得た宝物だ。

 

スポーツ大会で存在感 作曲・編曲・ピアニスト、斎藤友子さん(67)=66年度卒、東京都世田谷区

 名うての進学校と思って入学しましたが、とんでもない“付録”が。「校長杯」というクラス対抗のスポーツ大会が毎月のようにあり、その慌ただしさは尋常 ではありませんでした。学業では鳴かず飛ばずの私でしたが、クラスメートの運動能力に優れた親友との連係プレーで勝利して、3年間でご褒美のバッジをたく さんためました。

 新宿高は個性のかたまりの集団だった記憶があります。ふと思い出しても、クラスの一人一人のキャラクターを鮮明に思い出すことができるということは、学 校全体に良い意味での自由な空気が流れていたのだと信じます。先生もユニークなら、生徒もということです。音楽家として歩いて来られたのは、個性重視と自 由な創造性を大切にしてくださった校風ゆえと感謝しています。

 

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