伊福部 昭(いふくべ あきら)
1914年〈大正3年〉5月31日 ~ 2006年〈平成18年〉2月8日)
日本の作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。
伊福部 昭(いふくべ あきら)
1914年〈大正3年〉5月31日 ~ 2006年〈平成18年〉2月8日)
日本の作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。
日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか、音楽教育者としても知られる。
ブッダが弟子に与えた言葉です
哺乳類で角が一本なのはサイだけです
ブッダは弟子が修行中に
群れることを好まなかったようで
「ただ独り歩め」と繰り返し繰り返し 説いています
(^_^;)
「 寒さと 暑さと 飢えと 渇えと
風と 太陽の熱と 虻と 蛇と
これらすべてのものにうち勝って
サイのツノのように ただ独り歩め 」
『スッタニパータ』は ブッダ本人の言葉に最も近い
と言われている原始仏典です
中村元さんの訳で 岩波文庫に入っています アマゾン
天才たちのエピソードを集めた本
内容は薄いが、読み易くて面白いので、つい最後まで読んでしまった
左の表紙にも書いてあるが、アップル社の創設者であるスティーブ・ジョブズ(→)は、スマートなプレゼンからは想像しにくいが、非常に泣き虫だった
会議などで、自分の話が相手に伝わらないだけで、よく泣いていたそうだ
ナポレオン(↓)は超が付くほどの読書好きで、常に特製の図書館馬車に大量の本を積んで、戦場に向かっていたという
(^_^;)
今日は大学時代の二人の友人を引き合わせる、という役目を果たしました
一人は大学教授、もう一人は経営コンサルタントで、研究したいテーマがあるので、大学のドクターコース(博士課程)に入って研究したいと考えている
この時期なので、ZOOMでネット会議ということになり、私も紹介した手前、初めてZOOM会議というものを体験しました
スマホがあれば、誰でも参加できます
そこでコンサルタントが、ドクターコースで研究したいテーマなど話したのですが、教授からは
「テーマをもっと狭く絞る必要がありますね」
というアドバイスでした
学部やマスター(修士)ならいざしらず、ドクター(博士)ともなると、人類の知の外延を少しでも広げることが学位授与の要件となる
それを成功させるためには、どんなに狭くてもいいから、他人のやっていない新たな研究テーマが必要になる(他人がやったテーマを、批判的に修正拡大するのはアリ)
狭く絞り込まないと、従来の「人類の知の外延」の内側に落ち込んでしまいやすい
まあこれって研究計画に限らない話で、事業計画でも、狭くて他社と競合しにくいニッチ・マーケットを攻略して、オンリー・ワンを狙った方が成功しやすいのと同じ
「テーマを狭く絞る」を徹底すると、一般世間から「専門バカ」などと呼ばれることもあるし、そこは専門と教養のバランスになる訳だけど、少なくともプロの研究者の世界では、「教養バカ」では通用しない
文豪ゲーテは若い作家に対して常に
「大作に取り組むな!」
と諭している
若いうちは希望に燃えているので
「オレサマが取り組むからには、
人類の重大テーマを作品化したいんだ」
などと野望をいだきがちだが、それは失敗しやすいよ、というのが老ゲーテのアドバイス
私は最近、
「天国の住人になりたい」
と考えているのですが、コリン・ウイルソンなど読むと、その秘訣の一つは
「関心(意識)を狭い対象に絞り込んで集中すること」
というのが指摘されている
フッサールなどが言うように、人間の意識(感覚、五感)には「指向性」があり、対象を絞り込んで集中しないと「見て観えず、聞いて聴こえず」になりやすい
逆に意識を狭い対象に集中することで、それまで感じられなかった「真の現実感」が感じられるようになり、そこから幸福感が湧き出す(天国の住人になる)
これを「至高体験」と呼んで研究したのが、心理学者のマズロー
別に「人類の知の外延」を広げるとか、ニッチ・マーケットを狙うというような外面的な効果だけでなく、自己の内面の充実感を手に入れて「天国の住人」になるのにも、「狭く絞る」ということが、とても重要みたいです
若いうちは自分が何をしたいのかよく分からず、いろいろ迷う訳ですが、その迷いの中で何かを見つけて、それに絞り込んで集中することで、人は成長し、充実感を手に入れるようです
なお、ゲーテは別なところで
「人は成長するかぎり、迷う」
「他人の道を上手に歩むより、
自分の道を迷いながら歩め」
とも言っているので、迷うことは悪いことではなく、成長の証なのだとも言っています
私なんか、ずーっと迷いっぱなしなので、困ったもんなんですけど、これも一つの人生さなどと、最近は悟り(諦め)つつあります
なお、ZOOM会議って便利なので、これでネット飲み会やろうかな、と思っています
(^_^;)
昨年秋に読んだ桜玉吉のマンガ「日々我日記」の続編とも言うべき最新刊が出たようです
桜玉吉さんも還暦を過ぎて、カラダのアチコチにガタが来ているらしい
三鷹の漫画喫茶暮らしから一転、伊豆の一軒家へと居を移した玉吉先生の、悲哀に満ちた日常
実に味のある画風なので、早く読みたいです
(^_^;)
ニーチェが44歳で、発狂する直前に著した、自叙伝のような、一種の著作目録
このときのニーチェは理解者を失い、非常に孤独だったが、自分の思想の重要性は深く自負していたので、自分に注目しない世間に「私に注目せよ!」という叫びを発していて痛々しい
1)噴出するような創造力
2)同時代人に理解されない
3)狂気と紙一重
という天才の3条件に見事に適合している
脳(おそらく右脳)から噴き出すような直観と情動を、知性(左脳)がかろうじて文章化したような作品群
あの「ツァラトゥストラ」全4部を、各部10日程度で書き上げていることからも、その噴出の速さと激しさがうかがわれる
私はまだ「ツァラトゥストラ」と本書だけなのだが、激しく情動を揺さぶられるような読後感が残る
本書の読後に、手塚富雄「ニーチェの人と思想」(中公「世界の名著・ニーチェ」所収)を再読して彼の人生をたどり直してみたが、まさしく「天才はつらいよ」という悲壮感に満ちている
(^_^;)
ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の伝記小説かと思ったら、そうではなく、ブッダも登場するが、主人公シッダールタとは別人物
若き日に人生に悩み、出家して恵まれた生活を捨てるところはブッダと共通だが、その後の展開は還俗して恋をしたりカネを儲けたりと激動する
しかしシッダールタの心は満たされず、再び全てを捨てて、川のほとりで渡し守となる
鴨長明の「発心集」には、大きな寺の高僧(玄賓僧都、げんぴんそうず)がある日突然、全てを捨てて貧しい渡し守になる話が出てくるが、それが連想される
書物や人からではなく、川の流れから学ぶという考え方も、方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして・・・」を思い出させる
人生に大切なことは、所有することでも、知ることでもなく、体験することにあると考え、ブッダのような悟りを追体験しようとして、シッダールタは苦闘する
文学作品として非常に完成度が高く、小説でありながら詩のように美しい文章は、ノーベル賞作家ヘッセの、詩人としての才能が輝いている
キリスト教徒であるヘッセが書いているので、輪廻転生や涅槃といった仏教思想に、原罪や愛といったキリスト教思想が混入しているが、これはこれで面白い
(^_^;)
自分は人間ではなく、荒野から出てきたおおかみだということを、心の底でいつも知っていたという男の告白の体裁をとった、ヘッセの内面的な自伝
コリン・ウイルソンの言う「アウトサイダー」の典型の、その生きづらい人生を克明に描写している
今では常識化しているが、ごく大雑把に言うと、人間は右脳と左脳が機能していて、右脳が情動(無意識)、左脳が理性(意識)を支配している
多くの人は、この2人の支配人の間で、何とかバランスをとって生きているが、特に脳が肥大化した人(いわゆる天才)にあっては、このバランスが崩れ、自意識が過剰化し、いわゆる精神の分裂状態を招きやすい
クレッチマーの気質分類(↓)に無理に当てはめると、右脳優勢が粘着型、左脳優勢が分裂型、ほぼ拮抗してるのが循環型かな?
右脳左脳論が流行するよりもずっと前、ウイルソンが「アウトサイダー」で文壇に華々しく登場するよりも前に、天才ヘッセは人の脳の複雑な多重構造に着目していた
ヘッセに言わせれば、人の精神の分裂は2つだけに限られず、実は非常に多くの人格に多重分裂しており、その不安定な統合体が人間であるとしている
人間の意識の多重性や奥深さには、古来多くの文学者や哲学者が着目してきた
古くはブッダもこの点に着目し、非常に深い認識論を展開しているようだ
(^_^;)
▼クレッチマーの気質分類
クラシック音楽を本当に好きになるには
子どもの頃にクラシック音楽を日常的に聴けた
ということが決定的に重要だと思いますが
これは残念ながら多数派ではありません
(^_^;)
暴力団を取材し、1000人の親分に訊いても、カラオケで演歌を熱唱するのが好きな人はごまんといたのに、クラシック音楽のレコードを鑑賞したり、コンサートやオペラを観に行ったり、ピアノや楽器演奏を趣味とした人はひとりもいなかった。
わずかひとりもです。
クラシックの素地がなければ、カラヤンが指揮するベルリン・フィルの演奏だって喫茶店のBGMにしかならない。
自分で人生を選んだつもりでも、育った環境が決定的に重要です。
金を掴んだヤクザの子供からは、世界的な芸術家も生まれています。
ヤクザ(という職業)が、貧困の連鎖を断ち切る手段となった証明です。
この近所に住んでいたことがあるので、前を通るたびに「なんじゃ、これは?」という気がしました
周囲は高級住宅街なのですが、この家の周囲だけ別世界
「古民家」などという風流なシロモノではなく、「ゴミ屋敷」「お化け屋敷」といった感じ
夜は中に電球が1個点灯していたので、人が住んでいるみたいでした
((((;゚д゚))))
明治通り沿いの広尾商店街に入る交番の向かいの古民家が、撤収・解体されることがわかった。
以前から
「今にも崩れそう・・・」
「傾いている!」
と話題騒然だった。
関係者の話では、住人が亡くなり解体することになったそうです。
昨年は二階の窓が外れて、一時警察沙汰になるような事もあった。
いつも見慣れた風景が無くなる事もあり、近隣の住民が写真に収める姿も見られた。
▼この人が住んでいたそうです