70【浮き世】

MacPeople 坂本龍一

さかもとりゅういちMacPeopleにて好評連載中の「ユザーンの川越コンピューター学園」。

10回目のゲストは世界で活躍す る音楽家の坂本龍一さん! 超大物の登場で、今月はMacPeople本誌の表紙と巻頭も飾っています。

 

今月の転入生:坂本龍一

’52年生まれ、東京都出身。幼いころから作曲を学び、大学在学中から本格的に活動開始。ソロとして活動する一方、「イエロー・マジック・オーケストラ」 (YMO)に参加して人気を得る。テクノポップ、ワールドミュージックといった分野での活躍のほか、オペラや映画音楽の作曲・プロデュースなど、活動は多 岐に渡る。環境問題や平和問題に関する発言や活動も多く、独特の存在感で常に注目を浴びる存在

 

「反抗してブラックジーンズで学校に行ってたよ」

ユザーン 学生服はいままでに着たことがありました?

坂本 中学・高校と着てたよ。でも高校2年生くらいから、もう着るのやめちゃったんだよね。

ユザーン それ、勝手にやめちゃってもいいものなんですかね。

坂本 いや、ダメだと思うけど、反抗して。ブラックジーンズで学校に行ってたよ。

ユザーン そんな人、校内にほかにいました?

坂本 いなかったね。

ユザーン そうでしょうね(笑)。だいたいブラックジーンズ自体そのころそんなに浸透していませんよね。

坂本 たぶんあんまりなかった。

ユザーン じゃあ、オシャレだったんですね。

坂本 うん、オシャレだった(笑)。

 

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愛と憎しみの新宿

41DcTjuKwRLTKY201009240247  1960~70年代にアングラ文化や街頭デモで底知れぬエネルギーを感じさせた新宿。

80年代以降は地上げや再開発で風景も集う人々も変わったと 語られ た。

だがいま、その街が再び新しい顔を見せようとしていると、批評家の平井玄さん(62)はいう。

自らの半生と新宿の近代史を重ねて『愛と憎しみの新宿』 (ちくま新書)を著した平井さんに聞いた。

「私にとって新宿は『ファウスト』の遍歴物語の舞台。新宿にうごめいていた芝居や音楽、政治運動の担い手や飲み屋のオヤジ、アル中の職人、そうした『悪魔』たちに導かれるうちに、自分自身もデーモンになっていった」

新宿2丁目のクリーニング店に生まれ、現在も新宿に暮らす平井さんは、新宿高校では一学年上の坂本龍一らと高校全共闘を結成、ジャズ喫茶にもぐりこんでは山下洋輔や阿部薫の演奏を聴いた。

そんな平井さんにとって、バブル期を頂点とする80年代の新宿は「栄えてはいたが、死んだ街」だった。「巨大になりすぎて、何でも売っているけど、新宿にしかないものは何もなくなった」。平井さんは一時、新宿を離れる。

商業的な若者文化の先端は渋谷へ、カネのない若者が独自文化を生みだすパワーは高円寺などへ流出した。だが不況下の地価下落で流れが再び変わった、と平井さんはみる。若者が徐々に新宿周辺に戻り始めたというのだ。

たとえばフリーターたちの労働運動の拠点が新宿に置かれている。「フリーターは交通費がかかるところには住めない。どこへでも歩いていけるところに、集まって暮らすしかない。そういう人々の多く住むエリアの一つとして、新宿が再び面白い文化を生み出す可能性はある」

 2年前のメーデーでは、フリーター全般労組が中心になり、約40年ぶりに新宿一周デモが実現。平井さんも参加した。いま新宿には、アナーキズムのグッズを扱うショップやビート詩人の朗読会が開かれるカフェなど、「新宿的」な店が生まれているという。

「ふたをされ暗渠(あんきょ)になっていただけで、流れそのものは途絶えていなかった。街の骨格はそう変わっていない。私の本を読んでいまの新宿を歩けば、歴史が二重写しで浮かび上がってくるはずだ」

若い読者からの反応も多いという。かつて10代の平井少年を遍歴に誘った悪魔メフィストフェレスの役を、平井さん自身が担おうとしている。

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一九六〇~七〇年代の新宿。そこは伝説的なジャズ・バーやシネマテークなどが集まる巨大な文化工場だった。風月堂、紀伊國屋書店、文壇バー、ATG新宿文 化をはじめ、異形な場所に奇怪な人間たちがひしめきあって、戦後日本文化の闇鍋を形作った。一方で、歌舞伎町や要通り、旭町や二丁目などなど、喰い物や SEXを入力するとたちまち爆発的に膨張する欲望の街でもあった。新宿二丁目の赤線地帯で生まれ育った思想家が、濁愛、陰謀、宇宙の文学や悪魔の建築、阿 鼻叫喚に劣情有理、ありとあらゆる運動を包みこんだ新宿の奥座敷を七転八倒して活写する異色の地下文化史。

合唱コンクール

新宿高校 校長 戸田 弘美   新宿折々

 

1月20日(火) 1,2年次生 合唱コンクール
今年も例年どおりの中野ZEROホールで合唱コンクールが行われました。
 今年の合唱コンクールのスローガンは「百歌繚乱」です。たくさんの歌声が花のように舞台一面に咲き誇り、競い合う光景が目に浮かぶ華やかなス ローガンで、期待できます。
今年から、課題曲が学年別という新しい試みが始まりました。1年次生は校歌です。課題曲になったことで皆さんが校歌を数多く 歌ってくれること、美しい響きを大切に歌ってくれることが、私はとても嬉しく、今日の舞台を楽しみにしていました。
また、2年次生の課題曲は「夢みる人」 です。いつもながら、新宿生の選曲の良さに感謝です。フォスターの爽やかなメロディーは、若々しい皆さんの歌声にピッタリです。私もつかの間、観客席で夢 のような時間が過ごせそうです。
皆さんは短期間の「集中と切り替え」で、準備を積み重ねてきたことと思います。さあ、いよいよ開幕です。堂々と胸をはっ て、練習の成果を思い切り見せてください。
 昨年まで、課題曲は1曲に決まっており、1,2年次生全てのクラスが同じ課題曲を歌いました。今年からは上記の巻頭言で書いたように、学年別 課題曲になりました。このことが、今年の合唱コンクールの大きな楽しみの一つでした。
1年次生は課題曲となった校歌を四部合唱で歌いました。合唱になった 校歌はいつもより重厚に感じられて、聴きごたえがありました。今後、毎年、課題曲に校歌を入れることで、式等で歌うときにも美しい響きが聴けることが期待 できて楽しみです。
2年次生は課題曲「夢みる人」をクラスごとに丁寧に美しく歌い上げてくれました。1月の放課後には、校長室の並びの部屋に生徒が集まっ て練習しており、いつも「夢みる人」の歌声が聴こえると、私も口ずさんでいました。
一方で自由曲は1,2年次生それぞれ、クラスの個性や練習の成果が出て おり、皆、充実した内容でした。特に2年次生になるとレベルが高くなり、感心させられました。金賞は2年C組「僕が守る」(カッコ内は自由曲名)、銀賞は 2年A組「Gloria」、銅賞は1年C組「うたをうたうとき」でした。1年次生が銅賞に食い込み、盛り上げてくれました。
さらに音楽部による合唱と、有 志による木管四重奏をアトラクションで聴き、心が澄み渡りました。
最後に、課題曲の校歌と「夢みる人」を全員で合唱しました。生徒の歌声が大きく響き渡 り、会場の皆の心が一つになったような感動がありました。

 

明治通りのバイパス道路

新宿駅周辺の明治通りと御苑通りの位置(資料:東京都などの資料を基にケンプラッツが作成)

池袋と新宿、渋谷の3つの副都心をつなぐ明治通り。

JR山手線の内側に沿って走る東京都内の幹線道路だ。

慢性的な交通渋滞が問題となっているJR新宿駅の東側で、明治通りのバイパスをつくる工事が静かに進んでいる。

当初の計画が決まったのは、今から約70年前。

しかし、バイパスは開通することなく、長らく止まったままになっていた。

希少な樹木の群落がある新宿御苑の敷地に道路が掛かる計画となっていたからだ。

バイパスを整備する東京都は2005年、道路の構造を見直してこの群落を回避できるように計画を改めた。

工事は2010年からスタート。

2020年の東京五輪を前に、ようやく開通のめどがついた。

 

我々の在学中から 問題になっていた道路

一時は新宿高校が 移転になりそうだった  (^_^;)

 

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大学入試センター試験

新宿高校 校長 戸田 弘美   新宿折々

 

○1月17日(土)、18日(日) 3年次生 大学入試センター試験
年が明け、3年次生にとっては、いよいよ決戦のときが来ました。

まず、1月14日(水)L.H.R.の時間に3年次生のための決起集会が視聴覚教室で開かれました。

3年次生の担任や進路指導部の教員が、様々な注意事項を確認したり激励の言葉をかけたりして、生徒を元気づけていました。

生徒は皆、真剣な眼差しで聴いていました。

これからいよいよ、長丁場の受験期間が本格的に始まります。

体調に気を付けて、強い気持ちとゆったりした心構えで、思い切り力を発揮して欲しいと心から願いました。

 

なんだか 戦争に行くみたいだね  (^_^;)

 

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牛丼「すき家」の社長は新宿高校OB

tinyReportsIMG_J20120817205104 牛丼チェーンの「すき家」を運営するゼンショーホールディングスは、2010年度の連結決算で日本マクドナルドホールディングスを抜く売上高3700億円余りを達成し、外食産業のトップに立った。10年間で20倍以上の急成長だ。

そのオーナー社長、小川賢太郎氏(66)は、「革命家」と呼ばれるほど異色の経歴で知られる。

1948年生まれの団塊世代で、1968年に都立新宿高校から東大に入学して全共闘運動に身を投じるが、安田講堂の“落城”で敗北を味わう。

その ときの身の振り方が他の学生と決定的に違った。

多くの学生が教室に戻り、就職したのに対し、大学を中退し、今度は港湾労働者を組織化すべく、荷役会社へと 潜り込んだ。

だが、そこでも挫折と幻滅を味わい、逆に資本主義の優位性を痛感する。

今度は、「資本主義体制の下で世界の飢餓と貧困を撲滅する」という大目標を立て、急成長中だった吉野家に入社した。1978年のことだ。これが今に至る道の始まりだ。

小川氏が入社した2年後(1980年)、吉野家は経営危機が表面化した。

小川氏は孤軍奮闘して自主再建を目指したが、会社は会社更生法の適用を申請。

「米、牛肉、醤油というシンプルな組み合わせの牛丼は必ずハンバーガー並みにポピュラーになる」と確信していた小川氏は3人の部下を引き連れて独立し、ゼンショーを設立した。1982年のことだ。

 

社名の「ゼンショー」は「全勝」という意味

そこには、敗北の連続だった小川氏の「これからは全戦全勝だ」との思いが込められている。

独立した小川氏は軍隊のような「鉄の規律」を導入した。

それを物語るのが、企業理念に加え、社員や店舗スタッフの動き方までこと細かく記した「ゼンショーグループ憲章」だ。

たとえば、カウンター席の客には、注文から原則10秒で牛丼を出す。

外食産業に詳しい経営コンサルタントによれば、これは「業界最速」だ。

「営業報告から掃除に至るまでやるべきことのタイムテーブルも秒刻み。時間管理の厳しさは本社の管理部門でも同様で、商談は30分以内、歩く時は1秒に2歩以上が求められる。外食産業の多くでマニュアル化が進んでいるが、ゼンショーは突出している」

ちなみに、社員には筋力トレーニングや朝礼時のスクワットが義務付けられていたこともある。

※週刊ポスト2014年4月25日号

 

「ブラック企業」というイメージから

いかにして脱却するか  (^_^;)

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坂本龍一の教育実習

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若き日の坂本龍一作品

先日、記録ファイル整理中、坂本龍一OBが教育実習に来た年=昭和48年(1973年)の新宿高校学園祭

管弦楽部(SPO )のために書いてくれた

偶然性の音楽《グループの為の反応》が出てきました。

2枚組でしたが、後半はどうしても見つかりません。

当時のジアゾ式青写真コピーは保存性が悪く、消えかかっていましたので、やっとの思いでクリーニング。初演した元部員に見てもらったのが次の図形譜です。

学園祭当日、部員有志を急遽集めて演奏したのですが、私・野村は有志募集の仲介人役。

演奏を面白がって聴いていただけなので、読譜・奏法がどのように指示されたのか記憶がありません。

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朝陽クラブ

「朝陽クラブ」第18回、」講演と懇親の夕べは

3月11日(水)18:00~20:00、

クルーズ・クルーズ新宿店(レインボービレッジ8F)で行われます。

今回のショートスピーチは元気象庁地震課長・18回生 小宮 学さんです。(演題は後日)

参加費は3,000円、興味深い講演を楽しみながらの飲み放題の立食パーティで、どなたでも参加できます。

多くの方の参加をお待ちしています。

世田谷「ガキ」殺害予告事件

P1090588←世田谷区役所

1月10日。よく晴れた三連休の初日にもかかわらず、世田谷の街中や公園ははしゃぎ回る子どもたちの姿が少なく、静かだった。

テレビや新聞で伝えられた「子ども殺害予告メール」を警戒し、多くの親子連れが外出を控えたためだ。

また第2土曜日のため区内の多くの小中学校で授業が行われたが、集団下校への付き添いを余儀なくされた保護者もいた。

筆者自身も世田谷区に住み、子育てをする身だが、その日は子どもとともに落ち着かない気持ちのまま自宅で過ごした。

殺害予告から6日が過ぎた15日現在、幸いにも世田谷区では関連する事件は報告されていない。

警察の捜査情報と犯人逮捕が待たれる中、単なるイタズラだと片付ける段階にはなく、引き続き子どもたちの安全にはいつも以上に注意を払う必要がある。

ネット上でも多くの情報が拡散されたこの事件だが、実は殺害予告が出された当日に不正確な情報が多く出回り、ある種の混乱状態になっていたことをご存じだろうか。

それは、行政の対応がネットによる情報伝達のスピード感に対してあまりにも無頓着だったことが原因だった。

非常時にこそ活用したいネットの情報伝達力。

それを生かすために何が求められるのか、整理してみたいと思う。

 

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