今年の新宿高校「朝陽祭」(以前は「学園祭」)は9月3日(土)、4日(日)行われます。
今年の朝陽祭は、「単位より大切な何かを求めて ボクは新宿に恋をする」をテーマに、
9月3日(土)9:30~16:00、4日(日)9:00~15:00の日程で行われます。
各クラス、各クラブの総力を結集した若さ溢れるパフォーマンスが校舎、グランド全体を舞台に繰り広げられます。
夕方終わるのが早いので 早めに行った方が良いですよ (^_^;)
今年の新宿高校「朝陽祭」(以前は「学園祭」)は9月3日(土)、4日(日)行われます。
今年の朝陽祭は、「単位より大切な何かを求めて ボクは新宿に恋をする」をテーマに、
9月3日(土)9:30~16:00、4日(日)9:00~15:00の日程で行われます。
各クラス、各クラブの総力を結集した若さ溢れるパフォーマンスが校舎、グランド全体を舞台に繰り広げられます。
夕方終わるのが早いので 早めに行った方が良いですよ (^_^;)
第24回東京校歌祭が今年も10月23日(日)、杉並公会堂で行われます。
朝陽同窓会からは六声会の皆さんを中心に水泳部OB・OG、更には母校100周年記念事業の一つとして今年結成された朝陽合唱団が出演されます。
どなたでも参加できますので、我と思わん方は是非ご参加下さい。
東京校歌祭は校歌の歌詞に込められた大切な教えを後世に残し、各校の卒業生が交流する場を作ろうと、都内の旧制中学の同窓生が中心となり結成した東京校歌振興会が平成5年から毎年開催しており、今年で24回目となります。
開演時間等の全体スケジュールは確認中ですが、新宿高校の出番は7番目で13時40分ころです。
詳しいパンフレット後日掲載します。
平成28年8月18日(木)、台風が関東東岸にあって時折強い雨に見舞われる中、22名の参加者を得て館山寮の見学ツアーが実施された。幸い見学中は雨に遭うことも無く、厳しい暑さの館山寮を満喫した。
館山寮の厨房は老朽化が激しく、換気も悪く、劣悪な環境にあり、特に夏期には厨房が40℃を超える高温となり熱中症などが心配され、改修が喫緊の課題となっていた。
これにたいし、朝陽同窓会では、新宿高校創立100周年記念募金および朝陽会の資金を元に、館山寮の厨房・食堂の改修を行った。
見学者一同、猛暑にあって、さっそくに食堂に新設されたエアコンのありがたさに感謝であった。
新宿高校前からバスで 続きを読む
館山寮(新宿高校の海の家)
の改修工事が完了しました!
卒業生も宿泊できますよ (^_^;)
平成28年7月7日(木)午後、新宿高校3階視聴覚室において、竹内徹さん(新宿高校30回生)が「建築構造デザインの世界」と題して講演されました。
これは、母校進路指導部が東京工業大学 高大連携模擬授業として、「東京工業大学を目指している人はもちろん、そうでない人も、文系・理系を問わず、偉大な先輩による大学の講義を体験してみよう!!」と、2~3年生及び保護者を対象にして行われたものです。
「華麗でタフな構造デザイン」を目指し、日本の建築構造分野をリードされている竹内さんは、ご自身の新宿高校時代の思い出や建築の道を選ぶに至った動機やその後の歩みを振り返りつつ、最新の研究成果と多くの実践例について講演されました。
憲法学者・小林節さん
新宿高校1966年度卒
ぐるっと首都圏・母校をたずねる:東京都立新宿高校/7
苦悩の日々が「強さ」導く 小林節さん /東京 – 毎日新聞
昨年6月の衆院憲法審査会で安保法案を「違憲」と断じ、10日投開票された参院選では「国民怒りの声」代表として各地を駆け回った憲法学者で慶応大名誉教授の小林節さん(67)=1966年度卒。
舌鋒(ぜっぽう)鋭い論客という現在の姿からは想像が難しいが、高校時代は「コンプレックスだらけで、現実から逃げ回っていた」という。悩み抜いた青春の日々を語ってもらった。
出身の新宿区立淀橋中は、成績の良い生徒を都立戸山高か新宿高に振り分けていて、新宿高には受動的に入りました。
予習・復習の習慣を身につけてなかったから、授業についていけない。
それと、自分には生まれつき左手に指がない障害があって、それが「みにくいアヒルの子」のように思えて。
思春期でしょ。女性を意識するから、姿に欠点があることは当時の自分にとって致命傷でした。
1年の夏に館山の臨海教室に参加しましたが、僕は泳げないから、遠泳に参加せず浜辺でずっと見ていた。
家に帰ったら顔にシミがたくさんできて、すごみのある顔になっていた。
シミは今も取れずそのままです。それが臨海教室の思い出です。
2年あたりから、授業は好きな英語と政治経済だけ出て、あとはクラスメートに代返を頼んでいました。新宿御苑に壁の穴から侵入して過ごしたり、新聞部の部室で、全国の高校から送られる学校新聞を読んで過ごしたり。
一応出席していることになっているから卒業はできたけれど、3年の成績は学年430人中402番。担任から「大学に行くだけが人生じゃない」と言われました。
高校時代は逃げ回っていた日々。一方で「きちんと生きなくちゃ」という悩みを熟成した期間でもありました。生きているのがいやだけど、死ぬ勇気もない。死ぬ勇気がないなら生きていくしかねえな、と。
何より自分を産んで育ててくれた母親に悪い。母が、私という障害児を産んでしまったために、親戚から「うちの面汚し」と言われていたのを知っていたので。
卒業後は浪人する羽目になって、そこから反転攻勢しました。子どもの頃の目標である弁護士になろうと思いました。
小学校の同級生の父親に苦学して弁護士になった人がいて、その人に「小林君、負けてる人を助けるのが弁護士なんだ」と言われ、なりたいと思ったんです。慶応大に入学した後はひたすら勉強し、大学は首席で卒業しました。
憲法学者は、差別された人や迫害された人に光をあてる職業です。被差別事件に関わっても、誰も僕のことを警戒しない。
一見すると障害者だから仲間と認めてもらえるし、外見の問題だけでなく、高校時代に心の修羅場をくぐっているからだと思います。
昨年6月、衆院憲法審査会で安保関連法案に「違憲」を突きつけた翌日の夕方、記者から「学生団体のSEALDs(シールズ)が機動隊に植え込みに追い込まれている」と言われ、許せないと思って国会前に行き、街頭演説をしました。
憲法で認められた表現の自由で、誰にも迷惑をかけてない。子どもたちに「いいんだよ、これはやっていいんだ」と見せたかった。
今の自分は孤立を恐れない、非常に自立した人間だと思います。それは、逃げ回っていた高校時代、自分という条件から逃げ切れないことを発見したからです。
代返してくれた仲間と、代返を見逃してくれた教師。そんな新宿高のおおらかで雑な雰囲気。その校風が、今の「強い自分」の原点に導いてくれたような気がします。
高校3年間は、本当に深いところでの哲学的決断をするための、迷っている時間をくれた場所です。
小林さんが思い出を語った臨海教室は、初代校長が掲げた「学校、家庭、同窓生、生徒が一体となった大家族主義」という理念を具体化する行事として1922年から始まった、同校を代表する伝統行事だ。
当初は希望者のみが参加したが、57年からは全員参加となり、1年生が夏休み期間中に3泊4日で、千葉県館山市にある同校の館山寮で過ごす形式になった。
期間中は携帯電話使用禁止。各部屋にはテレビも冷房もない寮での集団生活で、生徒は心身ともに鍛えられる。
メインイベントは3日目の「大遠泳」だ。
寮の前の浜をスタートして約1キロ離れた大賀海岸まで平泳ぎで完泳を目指す。
生徒は泳力別に事前練習をし、水泳部の卒業生もボランティアで参加する。
手厚い指導と協力体制により、これまで無事故。最近10年は約9割の高い完泳率を誇る。
水泳部OBとして約30年にわたり指導にあたってきた鈴木仁志さん(48)=85年度卒=は、臨海教室で味わった仲間との連帯感と遠泳の達成感を後輩にも経験してほしいと思い、参加を続ける。
鈴木さんは「泳ぎの不安な生徒もいる中、皆で無事ゴールした時の喜びは他ではできない経験」と魅力を語り、「今後も伝統を受け継いでほしい」と話す。
新宿高の「大家族主義」は、臨海教室として今も引き継がれている。
5/12開会式の様子です 場所は駒沢オリンピック公園総合運動場 続きを読む
「母校をたずねる」は今月から、東京都立新宿高校(新宿区内藤町)編を連載します。
日本を代表する大繁華街の一角にある同校は、政治や文化など幅広い分 野で時代のリーダーを輩出してきました。
初回は、平和や環境問題などへの幅広い発言でも知られる音楽家、坂本龍一さん(64)=1969年度卒=が、その 高校時代を語ります。
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小学2年で引っ越した世田谷区(東京都)では、当時、「新宿高に行く」というのはある種のステータス。当時の世田谷は田んぼに蛇がいたり、ツクシが生えていたりする自然あふれる場所。そんな田舎の子にとって、新宿という大都会に通うことは大きな変化でした。
入学後まずしたのは、事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を、1カ月かけて全部まわったこと。うち2軒を気に入りました。人生で一番映画を見た時期で もあります。印象的なのはジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」。人生で一番好きな映画です。音楽の勉強もしました。当時珍しかった現代音楽を聴 かせてくれる催しに、1人で足を運びました。
印象に残る先生は、現代国語の前中昭先生です。最初の授業で衝撃 を受けました。「俺はお前たちに興味がない」なんて言って。びっくりして、でも面白いと 思って、授業が終わって職員室に追いかけていきました。そうしたら向こうも面白がってくれたのか、以来、友達みたいな関係になりました。彼が病気の時、コ ンサートで「マエナカにささげる」と言って演奏したこともあります。亡くなってしまいましたが、彼が当時話した言葉の意味が今になってわかったり、いまだ に大きな存在です。
学生運動の影響も受けました。1年生の4月、登校したら3年生が頭から血を流している。聞くと、機動隊にやられて帰ってきたという。ショックを受けて「これは、やらなきゃだめだ」と、全国的なデモに何度も足を運びました。
3年生だった1969年11月5日、定期テストや制服の廃止などを求めて校長室を占拠しました。クラスメートの塩崎恭久くん(厚生労働相)や馬場憲治く ん(マルチクリエーター)も一緒です。当日は朝からやる約束だったんですが、僕は遅刻した。母親が起こしてくれなくて……。まあ、そのくらい甘ちゃんだっ たんですよ。いろいろな先生と話し合いました。皆さん真摯(しんし)に対応してくれ、結局、全ての要求が通りました。
新宿高らしさ、といって一番に思うのは「バンカラ」ということ。下駄をはいてしょうゆで煮しめたような制帽をかぶり、腰に手ぬぐいをつけた先輩など、戦前の旧制高校の雰囲気が多分にあった。
日比谷高や戸山高はお坊ちゃん的な感じだけど、新宿はバンカラ。でも優秀な生徒がたくさんいて、雑多さと知性が同居している学校でした。音楽はもちろん、考え方、人とのつきあい方、映画。今につながる全てが新宿高で培われました。
60年代の終わりの、今でいうサブカルチャーが成熟してきた時代。その中心が新宿だった。多様性とか新しい価値観のるつぼのような場所に、ただでさえ多感な10代後半の時期に居ることができて、ラッキーでした。
今の若い人と話すと、すばらしいと思います。一見主張しないような子でも、話してみると、とてもしっかりしていて、大人をよく見ている。ただ、今の日本 はとても心配な状況です。脱原発や安保法制反対を訴えるのは、子どもたちが将来、よりひどい状況にさらされるとしたら、それは今の大人の責任だと思うか ら。言うべきことは言わなければならないと思っています。
「全員指導者たれ」。新宿高で今も引き継がれる、阿部宗孝・初代校長が打ち出した校是だ。1922(大正11)年、東京府立六中(旧制)として開校した同校は、時代の影響を受けて変化しつつも、その精神を受け継いできた。
戦中には軍国主義の波にのみ込まれたが、戦後はいち早く教員の間に教育民主化への機運が高まった。60年代には毎年100人前後が東京大に進学する全国 屈指の進学校となったが、当時の教員が「生徒は伸び伸びと遊び、いつ勉強しているのかと不思議だった」と振り返るほど、生徒の自主性を尊重した教育が行わ れた。
全国の大学で学園紛争が激化する中、東京の真ん中にある新宿高はその影響を強く受けた。一方で67年度から、受験戦争解消を名目に都立高の学校群制度(81年度で廃止)が導入され、中学生は進学する高校を自由に選択できなくなった。
これを機に東大などへの進学者は減少した。それでも「生徒が伸び伸びとしている印象は今も変わりません」と、卒業生が運営する新宿高の「朝陽同窓会」事 務局長、西出紀久さん(71)=62年度卒。西出さんは長女も87年、同校に入学。生き生きとした生徒たちの姿は「自分の在学当時のままだった」と話す。
90年代以降は「都立高を復活させよう」との流れが強まった。新宿高は2003年、進学重視型単位制高校となり、07年には都の「進学指導特別推進校」 に指定。土曜日授業や補習、補講の実施など、大学受験を重視した指導を強化している。=次回は10日に掲載します
http://mainichi.jp/articles/20160603/ddl/k13/100/012000c
人物略歴
1952年東京都生まれ。東京芸術大を経て78年「千のナイフ」でソロデビュー。同年「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)結成。映画「戦場 のメリークリスマス」で英国アカデミー賞、「ラストエンペラー」でアカデミーオリジナル音楽作曲賞、グラミー賞などを受賞。環境や平和問題への言及も多 く、森林保全団体の創設なども行う。2014年7月、中咽頭(いんとう)がんを公表したが、治療と療養を経て15年、映画「母と暮せば」と「レヴェナン ト:蘇えりし者」の音楽制作で復帰を果たした。
榊原さん 熊さん
情報ありがとー (^_^;)
新宿高校の大学合格実績が
戸田校長のもとで 大躍進しました
大変なお手柄です (^_^;)
新宿高校の建物が 欠けている写真を
なぜ表紙に 選んだんだろう (・_・?)