80【ヒストリー】

訃報 ショーケン

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 先日の内田裕也さんに続き

  アウトローの巨星が消えてゆく  (T_T)

 

俳優・萩原健一=本名・萩原敬三=さんが26日午前10時30分、都内の病院で亡くなっていたことが28日、分かった。68歳。所属事務所が書面で発表した。

病名はGIST(消化管間質腫瘍)。2011年からひそかに闘病していたが、本人の強い要望で病名の公表を控えていた。妻でモデルのリカ(本名・理加)さんが最期を看取ったという。

葬儀は家族のみで営まれ、都内の斎場で27日に荼毘(だび)に付された。

萩原さんは1950年7月26日生まれ、埼玉県出身。

65年に結成したばかりのザ・テンプターズにボーカリストとして加わる。

テンプターズはグループサウンズの先輩であるザ・スパイダースと同じスパイダクションに所属し、67年10月、シングル「忘れ得ぬ君」でデビュー。

68年には「神様お願い」「エメラルドの伝説」が大ヒットし、萩原さんは「ショーケン」の愛称で、ザ・タイガースの「ジュリー」こと沢田研二と並ぶアイドル的な人気を博した。

グループサウンズのブームは短く、テンプターズは70年に解散。

萩原さんは71年にテンプターズの大口広司、タイガースの沢田、岸部一徳、スパイダースの大野克夫、井上尭之とニューロックのスーパーグループ「PYG」を結成。

「自由に歩いて愛して」などの名曲を残すが、PYGは自然消滅する。

75年、ファーストソロアルバム「惚れた」を発表。

ソロでは「愚か者よ」、映画「竜二」の主題歌「ララバイ」やBOROのカバー「大阪で生まれた女」などの名曲、柳ジョージ&レイニーウッドがバックバンドの「熱狂・雷舞」や、井上、ミッキー吉野ら豪華メンバーでの「アンドレ・マルロー・ライブ」など、ライブアルバムの名盤を残した。

2017年5月には東京と大阪のビルボードライブで50周年ライブを行っている。

俳優としては、72年に出演した「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事役、同年の映画「約束」で鮮烈な印象を残し、ドラマ「傷だらけの天使」、「前略おふくろ様」、「祭りばやしが聞こえる」や映画「股旅」、「青春の蹉跌」などで、政治運動が挫折した70年代の若者のアイコンになった。

映画では「八つ墓村」、「影武者」などの大ヒット作に出演し、83、86年には日本アカデミー優秀主演男優賞を受賞。

その他の主な出演作に「誘拐報道」、「もどり川」、「極道の妻たち 三代目姐」、「いつかギラギラする日」、「居酒屋ゆうれい」がある。

ドラマでは「豆腐屋直次郎の裏の顔」、「課長サンの厄年」、「外科医柊又三郎」や大河ドラマ「太平記」、「元禄繚乱」、「利家とまつ」などに出演。

近年もNHKのドラマ「鴨川食堂」(16年)、「不惑のスクラム」(18年)で大きな存在感を示していた。

著書に「ショーケン」、「不良のススメ」、「日本映画『監督・俳優』論」(共著)がある。

 

 

歴博リニューアル

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▲弥生時代の高床倉庫でネズミからコメを守るネコ

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 数年前に見学に行ったことがありますが

  充実した展示の質と量に圧倒されます

 とても一日では見きれませんでした  (^_^;)

 

日本唯一の国立歴史博物館である千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)

先史時代と古代を扱う常設第1展示室が、昭和58年の開館以来初めてリニューアルされた。

同室の対象時代は、日本列島に現生人類が出現した3万7000年前から、日本を国号とする古代国家が成立した7~8世紀までの約3万6000年間に及ぶ。

弥生時代の開始年代が約500年さかのぼるなど、先史時代を中心に開館以降の36年間で大きく進歩した歴史研究の成果を反映させた、大規模かつ意欲的な展示刷新だ。

大幅に変化

「この30数年間、歴博は放射性炭素(C14)年代測定法などで多くの成果を生み出してきた。(展示は)われわれが学んだ40~50年前の教科書で描かれた歴史像から、大きく変わった」

今回の全面リニューアルの背景について、歴博の久留島浩(くるしま・ひろし)館長はそう語る。

考古学分野での自然科学的年代測定技術の発達により、縄文時代や弥生時代の区分や時代像は、36年前と比べて大幅に変化した。

第1展示室は6部構成。最初のコーナー「最終氷期に生きた人々」は、今回のリニューアルで大幅に拡充された旧石器時代(日本列島では約3万7千年前~約1万6千年前)を扱う。

まず出迎えてくれるのは、ナウマンゾウの実物大模型を中心に約4万年前の南関東の風景を再現したジオラマ。寒冷な気候を反映した針葉樹が目立つ植生は、現代の南関東とはだいぶ異なる。

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最終氷期の「現代人」

次に目に入るのは、革なめしの作業を行う日本列島の最初期の住人たちの模型だ。そのかたわらには、製革作業に使われた石器が並んでいる。毛皮を丁寧に加工した衣服をまとったその姿は、現代の極地に生きる民族とよく似ている。

「旧石器時代人というとかつては野蛮で原始的なイメージを持たれていたが、実際はわれわれと変わらない現代人(ホモ・サピエンス)。当然、寒冷な環境に適応するための道具を工夫して作っていた」

そう説明するのは、コーナーを担当した同館の工藤雄一郎准教授。

1990年代まで、縄文時代の開始は気候が現代と同程度に温暖な後氷期に移行した約1万1千年前とされてきた。だが、最近の研究進展により、実は最終氷期まっただ中の約1万6千年前に土器が出現したことが明らかになり、従来の縄文時代の枠組みが問い直される状況になっている。

旧石器時代後期と縄文時代草創期は生活環境面では共通するものが多く、画然と区分できるものではないことが、この2つを「最終氷期人」として同一空間で扱うことで示されている。

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繰り上がった弥生時代

時代はある境で急激に変化するものではないので、移行期も重視しなければならない。

時代ごとの変化や特徴を強く打ち出していた旧展示の反省の上に立つ、そうしたメッセージは、近年特に大きな研究進展があった弥生時代に関しても示されている。

一般に水田稲作の開始をもって弥生時代の始まりとされる。

その時期は従来、紀元前5世紀ごろとされてきたが、今世紀に入ってからの歴博の研究によって紀元前10世紀に九州北部で水田稲作が始まっていたことが明らかになり、弥生時代の開始を約500年繰り上げる説が定着しつつある。

コーナーを担当した藤尾慎一郎教授は、「繰り上げの結果、稲作を中心にする人と、縄文的な文化で暮らしていく人が併存する段階が約600年にわたり日本列島に併存したことになる。そこをどう表現するかが一番難しかった」と明かす。

展示では、朝鮮半島から九州に伝わった水田稲作が農耕社会を成立させ、西日本から東日本へと拡散していく様子が地域差に留意しつつ描かれている。

“大発見”も反映

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弥生時代をめぐってはもう一つ、近年の目覚ましい“大発見”も反映されている。

穀物を保管する高床倉庫の再現模型の入り口に陣取るのは、かわいらしい2匹のネコ。

従来、イエネコは経典などの重要書物をネズミの害から守るため、奈良~平安時代に渡来したとされてきた。

ところが近年、長崎県壱岐市の遺跡から弥生時代中期頃のイエネコと推定される骨が出土。

日本へのネコの移入時期が一気に数百年さかのぼることになった。

「穀物は相当、ネズミの害があるもの。ネコがいてもおかしくない」(藤尾教授)

全体的に重視されているのは、再現模型などを多用した「可視化」だ。

たとえば銅矛や銅鐸、鉄剣などの金属器は、緑青やさびにおおわれた実物とともに、新造時を再現した複製品も展示。

金属製品の複雑な造形やまばゆい輝きが、石器や木製品ばかりの世界で生きてきた人々にどのような印象を与えたかを追体験させてくれる。

現段階の先史・古代史研究の先端が詰まった、充実の展示だ。

国立歴史民俗博物館(歴博)

一般600円。月曜休館。

問い合わせは、ハローダイヤル03・5777・8600

数年前に見学した時の写真へ

 

上野東京ライン

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 日本の鉄道は 本当に素晴らしいんですけど

  地方の各駅停車が だんだん減ってきているのが

 青春18きっぷファンとしては 少々残念です  (^_^;)

 

日本を定期的に訪れている筆者(英国人 Colin Joyce)は数年前、都内に「上野東京ライン」という新しいJRの路線ができたことに気がついた。

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上野駅と東京駅はすでに結ばれていなかったか? そう思い、やや困惑した

なるほど、それは都心を走り抜け、5つの都県を一度も乗り換えることなく縦断できる路線であることが分かった。

複数の路線を結ぶ難しい事業を見事に成し遂げたことで、乗客の利便性は高まり、世界最先端の日本の公共交通はさらに良くなった。

南北270キロメートルにも及ぶ鉄道路線の名称に、徒歩で行き来できる都心の2つの駅名を使うのは、かなり控え目な名称に思えた。

しかし、それこそ日本人が自分たちの大きな業績を正しく評価しない、「平成」という時代の典型だった。

平成で成長した日本サッカー

同世代の日本人と違い、筆者は平成以外の日本を知らない。

1992年に英国から来た私には、バブルの記憶も、昭和への郷愁もない。

平成時代に対して日本人の多くが抱く「停滞」さらに言えば「後退の時代」という見方を理解しつつも、自分でそう感じることはなかった。

私は、自分が出会ったこの国に深く感銘を受け、特筆すべき改善する力や、遅れを巻き返す能力に目を見張っていた。

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後者の例として挙げられるのはサッカーだ。

私が学生として神戸に初来日した当時、日本はサッカーの「へき地」だった。

しかし、1993年のJリーグ発足は日本を強豪国へと押し上げた。

日本代表は実力をつけ、国内リーグの人気は高い。

スタジアムは素晴らしく、サポーター層も磐石。

欧州に渡ってトップリーグでプレーできるようになった選手もいる。

関西を代表するクラブチームといえば「ガンバ大阪」。

1993年当時、そう思っていたことを覚えている。

大阪にもう1つ、さらに神戸、京都にもクラブができる余地があるなど想像もしなかった。

これはすべて一世代の間に起きたことだ。

おっと、2002年に日韓が共催したワールドカップ(W杯)の成功に言及し忘れるところだった。

複雑な直通運転の謎

日本について語り出すと、申し訳ないが鉄道の話が止まらなくなる。

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運賃が高く、時刻表は当てにならず、腹立たしいほど遅れがちで、運休することもある(そして休暇シーズンには代行バスに切り替わる)英国に比べ、日本の鉄道の旅がどんなに素晴らしいか、皆に伝えたくて仕方がない。

来日当時、この国の鉄道システムはすでに十分素晴らしかった。

北は盛岡、南は博多までしか新幹線が延びていないのは当然のことと受け入れていた。

日本の大部分がカバーされていると感じたし、そこから先に行きたければ、特急列車に乗り換えるか、最初から飛行機を利用すればいいと考えていた。

都内を電車で移動するにも、JR山手線を乗り降りして私鉄のターミナル駅間を行き来するのをわずらわしいと思ったことはなかった(何しろ山手線は3分おきにやってくる恐るべき電車だ)。

しかし、そこに「上野東京ライン」が登場した。

他にも直通運転の路線が増えた。

電車に乗ったら途中で別の会社が運行する路線に変わり、その先はおそらくまた別の会社が運行している。

技術的な問題をどう解決したのかは言うまでもなく、運賃をどう分け合っているのか、どの会社が運転手に給料を払っているのか、私にはまったく見当もつかない。

1つではなかった本州と四国を結ぶ橋

1988年に開通した瀬戸大橋も偉業だと感じた。

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行きは電車、帰りは大型トラックをヒッチハイクして橋を往復した。

そして英国に住む家族に、5つの島にまたがるこの驚くべき「2階建て橋」について手紙を書いた。

日本は本州と四国を結ぶ橋を完成させた──。

当時はそれで終わりだと思い込んでいた。

もう1つの連絡橋プロジェクトが進行していた事実に気づかなかったのは、そのせいだろう(後に3つ目の橋建設も始まる)。

恥ずかしいことに、神戸から四国まで、岡山を通らずバスで行けたことに驚いたのはそれから10年後のことだ。

同じく東京湾アクアライン連絡道の建設も、2003年ごろ飛行機から見るまで気づかなかった。

橋梁部がトンネルに変わって海中にもぐる部分が、なぜ水であふれないのかはいまだに謎だ。

「平成日本」は総じて安定

平成の30年間に日本が直面した深刻な問題を、軽んじるつもりはない。

自然災害、政財界のスキャンダル、増大する政府債務、終身雇用の崩壊と非正規労働者の増加、高まる自殺率、少子高齢化など枚挙にいとまがない。

いずれもこの国が解決しなくてならない重大な問題であり、日本で記者をしていた頃は、深く憂慮しながら取材をした。

しかし、平成日本に暮らした1人として、この国の社会は総じて安定しており、回復力と対応力を備えているとも感じていた。

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経済危機が、ロンドンで起きた暴動のような社会の不安定化につながらなかったことをうれしく思っていた(私が物心ついてから、大きな暴動だけでも4回起きている)。

最後にもう1つ、日本で不思議だったのは外国人観光客が少ないことだった。

英国は、1990年代初めまでに年間2000万人の観光客を受け入れていた。

卓越した観光資源と交通インフラを備えた魅力的な国であるにもかかわらず、日本の実績は明らかに実力を下回っていた。

今はそれがどうなったか。私がここで話すまでもないだろう。

筆者 コリン・ジョイス(Colin Joyce)

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英エセックスを拠点に活動するジャーナリスト。

オックスフォード大学卒業後、日本語を学ぶため1992年に来日。

埼玉県の高校で英語を教えた後、週刊誌ニューズウィーク日本版に4年間、英紙デイリー・テレグラフ東京支局に7年間勤務した。

15年に及ぶ日本での生活をもとにした「『ニッポン社会』入門──英国人記者の抱腹レポート」(NHK生活人新書)、「マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>」(同)などの著書がある。

*本コラムは、ロイターに掲載され、筆者の個人的見解に基づいて書かれています。

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 英国人でコリンと言うと

  どうしても、コリン・ウィルソン

 思い出してしまいます  (^_^;)

 

地下鉄サリン24年

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 日比谷線沿線に住んでるので

  多くの皆さんから「大丈夫か?」と

 お問い合わせいただきましたが

  あのとき私は寝てました  ((((;゚д゚))))

 

13人が死亡、6千人以上が重軽症を負った平成7年のオウム真理教による地下鉄サリン事件から24年となった20日、多くの被害が出た東京メトロ霞ケ関駅(東京都千代田区)で、駅員が黙祷(もくとう)した。

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昨年7月にはオウム真理教元教祖の通名・麻原彰晃(死刑執行時63)ら、教団による一連の事件に関わった計13人の死刑が執行された。

サリン被害者の遺族も霞ケ関駅を訪れ、献花。

霞ケ関駅のほか、小伝馬町駅、築地駅など犠牲者が出た駅には、一般向けの献花台が用意された。

事件では、麻原彰晃の指示を受け、実行役の元教団幹部が、都心を走る地下鉄5車両に猛毒のサリンをまいた。

 

 

訃報 デストロイヤー

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 うわさのチャンネル ゴッドねえちゃん

  せんだみつお なつかしいなぁ  (^_^;)

 

覆面のプロレスラー「ザ・デストロイヤー」として日米で活躍したリチャード・ベイヤーさんが7日、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

息子のカートさんがフェイスブックで明らかにした。詳しい死因は明らかにされていない。

バファロー出身。1954年にレスラーとなった当時は覆面を使わず本名で活動していたが、62年にザ・デストロイヤーのリングネームになってから米内外で人気が出た。

得意技の「4の字固め」で相手を苦しめた。

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63年に初訪日し、東京で行われた力道山との試合のテレビ中継は視聴率64%を記録するなど、日本に空前のプロレスブームを巻き起こした。

バラエティー番組にも登場してお茶の間の人気者となった。

これが素顔→

引退後はバファロー郊外に戻って体育教師に。

日米のレスリング選手の育成に取り組むなどスポーツ交流に貢献し、東日本大震災の被災者支援も行った。

2017年秋の叙勲で旭日双光章を受章。

18年2月にバファローで開かれた記念式典には白い覆面を着けて臨んだ。

その後の記者会見では、東京五輪に合わせた訪日への意欲を見せていた。

 

アレクサンドロス大王の墓ディオゲネス

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長くもどかしい発掘の最終日、カリオペ・リムネオス=パパコスタ氏はもう帰るつもりだった。

エジプト、アレクサンドリアの中心部にある公園「シャララート・ガーデン」で、ギリシャ人考古学者の彼女が発掘調査を始めてから、もう14年が過ぎていた。

目的は、ファラオになった古代の征服者にして、この街の名前のもとになった人物、アレクサンドロス大王の痕跡を探すことだ。

しかし成果はなく、時間切れが迫っていた。

そのとき、穴の中にいた助手たちが彼女を呼んだ。

土から白い大理石のかけらがのぞいていると言う。

それまでの発掘状況に落胆していたパパコスタ氏だが、白い石の輝きを目にして、希望が湧き上がるのを感じた。

「祈っていました」

と彼女は振り返る。

「ただの大理石のかけらではありませんようにと」

祈りは通じた。

遺物は、アレクサンドロス大王のあらゆる特徴を備えたヘレニズム期初期の像だと判明した。

これが大きな励みとなり、気落ちしていた考古学者は発掘を続けることになった。

詳細はここをクリック

Diogenes Of Sinope in wine barrel with dog and Alexander the Great Original edition from my own archives Source : Illustrierte Geschichte 1880

「何か望みがあれば、余がかなえてあげる!」と言ったアレクサンドロス大王に対して

 「日陰になるから、そこをどいてくれないか?」とだけ望んだディオゲネス

二人は親子以上に歳が離れていたが 同じ日に死んだと言われています  (^_^;)

ディオゲネスのエピソード

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この絵は額に入れて 部屋にかけてます  (^_^;)

港区郷土歴史館

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 1938年の建築というと

  真珠湾攻撃の直前ですね  (^_^;)

 

2018年の11月にオープンした東京・港区郷土歴史館が、レトロな雰囲気だとして、いまSNSで話題となっています。

80年ほど前の建物を改修して誕生した歴史館の魅力を取材しました。

港区白金台に開館した「港区郷土歴史館」。

その重厚な建物は、今から80年ほど前の1938年に建てられたものです。

中は吹き抜けになっていて、開けた空間が広がっているほか、細かな装飾も施されています。

そのほとんどが建設された当時のまま残っているというこの建物は、伝染病などを研究する日本で初めての専門機関「公衆衛生院」として2002年まで使われた後、2009年に港区が国から買い取り、耐震補強などを行った上で、2018年に郷土歴史館として開館しました。

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設計は東京大学の安田講堂などを手掛けた建築家・内田祥三の作品で、左右対称のゴシック建築に、外壁を重厚感のあるタイルで覆ったデザインが特徴です。

開館以来、SNS上では「建物がとても素晴らしい」「レトロでかっこいい」「おすすめ、うっとりです」といった感想が続々と寄せられ、話題となっています。

この建物の一番の見どころを学芸員の川上悠介さんに案内してもらいました。

案内してもらったのは、80年前から変わらぬたたずまいの、340席を備える「旧講堂」です。

木製の机や椅子をはじめ、照明器具など、室内はまるで時が止まったかのような空気が漂い、ノスタジックな雰囲気が訪れた人々を魅了しています。f0142606_17581792

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訪れた人は「ムードがある。自分が勉強した場所にはこんなにムードあるところはなかった。物語の主人公になったような気分になれる。すてき」などと話していました。

中には、40年ほど前にここで学んでいたという男性も訪れていて「感無量です」と昔を懐かしんでいました。

建物が話題となったおかげで、今では展示物にも興味を持ってもらえることが増えたといいます。

川上さんは「(今後は)区民と建物の活用方法を考えながら、親しんでもらえる建物にできれば」と話しています。
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