12【新宿高校OB有名人】

世田谷区長

世田谷区は保育園の「激戦区」であり、待機児童数も全国ワーストとなっている。

世田谷区では積極的に保育園を整備しているが、土地や建物が不足しているのが現状だ。

そんな中で、世田谷区は独自の取り組みをしている。

新宿高校中退(我々より1年上のようです)の保坂展人区長(61)に聞いた。

 

増え続けている年少人口

←2011年から区長を務めている現在2期目の保坂区長

――世田谷区は待機児童が多いと言われていますが、現状をどう認識していますか?

保坂 待機児童の数え方を統一することを4年前から国に対して要望してきました。

横浜市が「待機児童ゼロ宣言」をしたときに、育児休業中の親の子どもは含めないとしました。

それに右に倣えで、多くの政令市がその基準にしました。

すると見た目上の待機児童の発表数が劇的に減りました。

でも、実情は変わっていません。

私たちには「意図的に待機児童数を少なく見せてはいけない」という信念があり、定義をいじりませんでした。

国が「待機児童ゼロ」を言うならば、定義をはっきり示すべきと言ってきました。

今年は国の新しい基準が示されました。

もちろん、世田谷区に待機児童が多い現状は変わっていません。 続きを読む

夏の甲子園

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 7月8日、夏の甲子園の予選となる高校野球の東・西東京大会が開幕する。

 都立新宿高校を率いるのは同校OBの田久保裕之さん(35)。

 かつて「学生監督」として同校を指導したが、今春の異動で今度は教員監督として母校に戻ってきた。

 長年の夢がかなった田久保さんは、後輩とともに、チーム目標の3勝を目指す。

 「オラーッ、もう一球~!」「リズム、リズム!」。

 新宿御苑と新宿タカシマヤが間近に見える新宿高校のグラウンドに、田久保さんの大声が響き渡る。

 田久保さんは2000年に同校を卒業すると「母校の体育教師になりたい」と、日本体育大に進学。

 すぐに新宿高校の野球部監督になり「学生監督」として注目された。

 その後、念願の教員になり、10年に小山台高校の助監督に就任。

 チームは14年春のセンバツに、21世紀枠で出場を果たした。

 今年3月末、母校への異動が決定。

 小山台の大田原弘幸校長から「みんなが母校に行きたいが、実現するのは一握り。チャンスを逃すな」と背中を押された。

 現在は1年の担任と体育教諭として勤務しながら、野球部で監督を務める。

 東大野球部で活躍し中日球団代表も務めた新宿高校OB井手峻さんを外部コーチに迎え、小山台時代に学んだ狭いグラウンドで効率良く練習できるメニューを取り入れるなど、早くも手腕を発揮している。

 田久保さんは「自分は日本一幸せな教員。夏の大会は、3年生と同じ最後の夏という気持ちで臨む」と意気込む。

 主将の吉田壮吾さん(18)は「田久保先生は、僕たちが野球だけに集中できる環境を整えてくれる。『都立だから』という言い訳が、いい意味で通用しなくなった」と喜ぶ。

 マネジャーの高安柚奈さん(18)も「元々、OB総会などで知っていたので、最初からなじんでいます」と、歓迎している。

 新宿高校は7月9日、郁文館と対戦する。

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<高校野球東東京大会:郁文館4−1新宿>◇7月9日◇1回戦◇江戸川
新宿高校・梅原猛投手(3年)の力投は実らなかった。先発し7安打4失点完投。終盤で足をつりながらも投げきったが、勝利の女神はほほえまなかった。
5月から、OBで中日元球団代表の井手峻氏が外部コーチとして招聘(しょうへい)された。梅原は「最後の大会なので自分以外投げさせないという気で投げました。井手さんから『気負う必要はない』と言われたことを思い出して落ち着いて投げられました」と言った。今春から母校に戻った田久保裕之監督は「3年生がよく頑張った。梅原の気迫の守りは、後輩たちにしっかりメッセージとして伝わっているはず」と話した。
 郁文堂という出版社がありましたね
ドイツ語の教科書とか出してる (^_^;)

野球部に大物コーチ

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都立新宿高校出身の元中日球団代表、井手峻氏(73)が母校である新宿高校の外部コーチに就任したことが5月31日、分かった。 続きを読む

池辺晋一郎「のびやかさは、今も」

 

平成29年3月10日発行のPTA会報144号「同窓生シリーズ」N0.91に作曲家 池辺晋一郎さん(新宿高校15回生)が「のびやかさは、今も」と題して寄稿されています。

池辺さんは昨年、第54回となる母校合唱コンクールの2年生課題曲を作曲されました。

そして、12月21日には合唱コンクールが行われている新宿文化センターを訪れて、各クラス生徒が次々と歌うご自身の曲を聴かれ、各クラスが整然と歌いきるのに感心されたと感想を述べられています。

池辺さん在校時代は八潮高校には歯が立たなかった合唱も現在は都立トップクラスと、何もかもが変化したことに驚愕しながら、池辺さんの話はご自身の高校時代にタイムスリップ。そして当時の新宿高校を表わす言葉として池辺さんがよく使う「のびやかさ」が今も持続している筈、と結ばれています。

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▲2回クリックすると拡大します (^_^;)

立花オペラ

立花さんからオペラのご案内をいただきました

みんなで観劇(感激)して、ミニ同窓会いたしましょ~♪  (^_^;)

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WS000000同級生の皆さん、お元気ですか?

いや~、ついに還暦を迎えましたねぇ。

さてさて久しぶりにオペラのご案内です。

今回は音楽大学を卒業して間もない若手との共演です。

演目はモーツァルト作曲の[Cosi fan tutte・女は皆こうしたもの]
または[恋人たちの学校]。

自分の彼女は絶対ほかの男性になびくことはないと言い張る青年2人。

いやいや、女に忠節を求めるなんて誰も見たことのない不死鳥フェニックスを信じる
ようなもの、といなす老哲学者アルフォンソ。

そう、その老哲学者役が私です。

指揮・チェンバロは日本を代表するコレぺティ(オペラ歌手を鍛える先生)服部容子さ
ん、そして演出家はこれまた日本で一番忙しく、オペラのことなら何でも知っている
奇才・中村敬一さんです。

皆さん若手育成のために手弁当で参加してくれました。

卒業生たちの自主公演ということでかなりの資金難だそうです、、、そこで久しぶり
にご案内をさせて頂きました。

2017年3月20日(月・祝)12:00開場、12:30開演

練馬文化センター・小ホール(西武池袋線・西武有楽町線・都営地下鉄大江戸線練馬
駅北口より徒歩1分)

お時間ありましたら是非お出かけ下さい!

しかし、最近の若手は実に歌が上手い、ビックリしますよ。

公演・チケットのお問い合わせは立花までよろしくお願いいたします。

新宿高校の皆様には学生割引でご案内しますね。

171-0044 豊島区千早3-13-10 立花 敏弘

bartoshi★a.toshima.ne.jp  ★を@に

2017 Cosi fan tutte チラシ表2017 Cosi fan tutte チラシ裏

▲画像をクリックして、もう一度クリックすると拡大します

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男性の中には、年齢が増すと共に渋さが加わり

ますますかっこよくなる人が時々おられますが

立花さんは、まさにその典型ですねー

うらやましい限りです  (^_^;)

池辺晋一郎さんが母校で講演

コギャルとおじいちゃん といった風情  (^_^;)

我が国音楽界第一人者の池辺晋一郎さん(新宿高校15回生)が11月16日(水)午後、母校1、2年生640人を前に講演されました。 続きを読む

池辺晋一郎さん

photo02新宿高校管弦楽部の創始者であり、我が国音楽界第一人者の池辺晋一郎さん(新15回生)が11月15日発行の『進路部通信』第18号に「雑駁さに、感謝!」と題して寄稿されました。

様々な機会で池辺さんがいつも言う

僕の音楽家人生の原点は新宿高校」を、今回は原点の中身を「雑駁」と表現し、“猛烈な雑駁”、“雑駁な輩”、“あの頃の雑駁さ”という言葉をキーワードに高校友人、音楽仲間との交流を語られ、最後に“雑駁さに感謝!”と締めくくられています。

この『進路部通信』が生徒・保護者に配られた翌日の11月16日(水)は、奇しくも池辺さんの母校での講演日。

この記事を読んで何かを感じた1、2年生が目を輝かせて講演に聴き入る姿が印象的でした。

その他にも、母校合唱コンクール課題曲作曲など、池辺さんにとっても母校にとっても平成28年は記念すべき年になりました。

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新宿高校出身キックボクサー

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新宿高校66回生H組のベイノア君が10月10日(月)に後楽園ホールで、キックボクシングのウエルター級新人王決勝戦に出場します。

リングネームは「ブラックパンサー”ベイノア”」(極真会館所属)です。

極真空手仕込みの多彩な蹴り技とパワーを武器とする注目の逸材。

極真会館東京城北支部所属で2015年西東京大会準優勝、2014城西カップ準優勝などの実績を極真空手で持ち、キックではPETER AERTS SPIRITプレ世界大会選抜トーナメント-70kg級で優勝した。

上の写真は、今年5月のJ-NETWORKでプロデビュー。結果は見事2RKO勝ち。

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毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000元新宿高教師・佐藤喜一さん

新宿高校1948年度卒

 東京都立新宿高校の長い歴史の中には、多くの名物教師が存在した。新制高校第1期の卒業生で、国語教師として24年間母校の教壇に立った佐藤喜一さん (86)=1948年度卒=もその一人。「新宿高のレジェンド」が、30年にわたる母校の日々を語った。

 生まれは東京都の北区十条。池袋にあった豊島師範付属小に通い、同級生が多く行ったので新宿高の前身の旧制府立六中に進学を決めました。入学した年は 1943(昭和18)年4月の戦中期。入学式翌日は明治神宮に参拝。朝礼の時はまず皇居遥拝(ようはい)、続いて新宿御苑に最敬礼でした。

 勉強もしましたが、軍事訓練が多かった。夏休みは陸軍の兵営で行軍などの訓練。中学2年の時には勤労動員で軍需工場へ行きました。給料は月給30円。戦後に支払われたけど、物価が急に上がり、焼け石に水でした。

 終戦後、学校は一変しました。それまで「お国のために」というのに、急に「民主主義とは」なんて。不信感を持ちました。授業はあってもテキストがない。英語の木村武雄先生は小泉八雲の怪談をガリ版刷りにしてオリジナルのテキストを作ってくれました。

 戦後、部活動も始まりました。鉄道が好きだったので、仲間と鉄道研究会を作り、部品を集めて「Oゲージ」の鉄道模型を作り文化祭で走らせました。

 学校近 くの伊勢丹本店が接収され進駐軍の宿舎でした。部活で帰りが遅くなった夕暮れ、校門を出ようとすると派手な化粧をして米軍兵士を相手とする女性がたむろし ている。ちらりと横目で見ながら「負けたんだ」とつぶやいたものです。

 49年、旧制中学から新制高校に変わった都立第六高(50年に新宿高に校名変更)の第1期生として卒業し、鉄道のエンジニアになりたくて、東京都立大工 学部に入学。その後、教養課程で学んだ文学の方に興味を持って、国文学専攻で卒業、さらに修士課程まで進み、国語教師になりました。

 都立富士高を経て青山高で教えていたころ、新宿の5代目校長の沢登哲一先生が、「母校に帰って来いよ」と声をかけてくださった。そして、先生が退職され た63年春から母校で働くようになったんです。沢登校長は名物校長の誉れ高き方。豪放磊落(らいらく)でお酒好き、教員にも心酔者が多かった。

 先生方もユニークな方が多かったです。いろいろな教員がいる中でも一致していたのは、「私たちの職場は私たちできちんと運営していく」というところで す。当時教頭は教員の中から互選していました。校務分掌も、一切教師が決めました。そういう自主的な校務運営が、自主性を尊重する新宿高の校風を育てたよ うに私は思います。

 教師としての私を支えてくれた言葉があります。「学ぶとはこころにまことを刻むこと。教えるとはともに未来を語ること」。フランスの詩人ルイ・アラゴン の言葉です。必ずしも、この通りに実践したとも思っていませんが、一人一人の可能性の灯を、いかにしたら美しく燃焼させることができるか、考えながら生き てきたつもりです。

 新宿高の魅力は、御苑のみどりから知らず知らずのうちに薫陶を受けているといったところでしょうか。旧制六中校歌の一節に「木々の翠(みどり)を見やり つつ 学ぶ心の清きかな」とあります。これがとってもいい。都心の真ん中にありながら、御苑のみどりを感じながら、朝日のごとくさわやかな生徒たちと過ご せたことは、実にありがたい人生だったと思っています。

記憶に残る「名物先生」 ユニークな授業で慕われ

 新宿高校には多くの生徒が記憶にとどめる「名物先生」が多数在籍した。兼職が認められた時代は進学塾講師を兼任したり、専門性を磨いて大学の教授に転職した先生も。10年、20年と長期在籍する先生も数多くいた。

 1970年から20年間在籍した音楽担当教諭の野村満男さん(81)は、日本のチェンバロ製作・研究の第一人者としての顔も持つ。「基本はバロック音楽 にあり」との思いから、関わりの深いチェンバロを使った指導を思い立ち、試行錯誤の末、手作りで完成させたのがきっかけ。生徒に実際にチェンバロを製作さ せてバッハを演奏させ、評判を呼んだ。坂本龍一さんの教育実習の際の指導教官も務めるなど、多くの音楽家を育てた。

 50年から22年間在籍した英語担当の澤正雄さん(故人)といえば、名物「くるくるとん」。教え子の斎藤成(はかる)さん(61)=72年度卒=による と、ペンをくるくる回して出席簿に落とし、そこに名前のある生徒から当てて授業を始めたことから、この異名がついた。

 毎回、当てられた生徒の悲鳴や当たらなかった生徒の安堵(あんど)の声が教室に響いたという。慕う生徒も多く、退職後、卒業生有志が澤さんにまつわる本 を2冊自主出版した。斎藤さんは「生徒を優しく厳しく見つめてくださり、感謝している」と振り返る。=次回は最終回。26日に、卒業生の読者からいただい た「私の思い出」を掲載します


卒業生「私の思い出」募集

 都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。300字程度で学校生活や恩師、友人の思い出、またその後の人生に 与えた影響などをお書きください。卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地方部 首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jp.へ。いただいた「思い出」は毎日新聞やニュースサイトで紹 介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。


さとう・きいち

 1930年東京生まれ。東京都立大学大学院修士課程(近代日本文学専攻)修了。新宿高での教え子には芥川賞作家の絲山秋子さんもいる。退職後は駿台予備 学校講師などを務め、現在は鉄道エッセイストとして活躍。著書に「汽笛のけむり 今いずこ」(第25回交通図書賞受賞)など。

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000厚生労働相・塩崎恭久さん

新宿高校1969年度卒

  全国の高校で学生運動の嵐が吹き荒れた1969年、東京都立新宿高校も、その影響を強く受けた。生徒会長も務めた衆院議員で厚生労働相の塩崎恭久さん (65)=同年度卒=は、自由な教育を求めて学校側と対峙(たいじ)した。「自分の問題意識に、正面から全力で向かい合っていた」という塩崎さんに、“時 代の風”の真っただ中で過ごした高校生活を語ってもらった。

 部活は社会科学研究会、通称「社研」に所属しました。当時、学校の校庭の前に簡易宿泊所があり、時に犯罪者が逃げ込んだりする社会の縮図のような場所でした。四谷警察署へ実態を聞きに行き、調べた内容を模造紙に書いて文化祭で発表しました。

  一つ上の姉が交換留学プログラムで米国へ留学したのに感化され、「自分も」と2年の2学期から1年間、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近く の高校に留学しました。制服もなく生徒は車を運転して学校に通う。何より、自分でやりたい授業を選べるというのがカルチャーショックでした。

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