牛丼「すき家」の壁の絵

前記事(同窓会誌「朝陽」来ましたね)で、牛丼「すき家」の創業者である小川賢太郞さん(新宿高校19回生)に触れましたので、そのつづきを書きます

上の絵は、牛丼「すき家」のお店の壁に大きく描かれています

私は「すき家」の牛丼がダイスキなので、この絵は前からよく見ておなじみなのですが、先日の

ハマ研(横浜を研究する会)

で、実際に横浜の街を歩いて

上の絵で人々が立っている場所は「象の鼻」だ!

ということに気付きました

それで当時の絵を探したら、ありました!

もう、そのものズバリ、牛丼「すき家」の店内壁画は、この絵を元にしてるのは間違いなさそうです

遠くに高台(港の見える丘公園のあたり)があって、右に海岸通り、これは現在の山下公園のあたりでしょう

となると上の絵で人々が立っている場所は、「象の鼻」以外あり得ない!

▲開港当時の「象の鼻」

▲現在の「象の鼻」

ではなぜ、牛丼「すき家」の店内には、開港当時の横浜の絵を飾っているのか?

牛丼「すき家」の創業者である小川賢太郞さん(新宿高校19回生)は、石川県の出身ですが、「すき家」の第1号店は、生麦駅の近くだった

生麦駅は、川崎と横浜の中間にありますから、横浜に縁が深い

そしてここから先は、まだ十分な事実確認をしていないので、私の推理になります

若いころの小川賢太郞さんは共産主義にハマっていたので、20歳代のほとんどを

港湾肉体労働者(沖仲仕)の組織化(オルグ)

に費やしています

いまでは想像することも難しいのですが、当時(1968年ころ)は、優秀な学生が全共闘運動に参加して革命を夢見るのは「当然」のことでした

1968年、小川賢太郞さんは20歳

日本が高度成長で、どんどん豊かになっていった時代

1969年にはアポロ11号が月面着陸、1970年には前回の大阪万博があったりして、お祭り気分もあった

でもまだ日本には、多くの貧困が残っていた

小川賢太郞さんは、共産主義に見切りをつけて実業家になってからも、社会における「貧困の解決」を自分の人生テーマにしていたようです

▲アポロ11号が月面着陸 1969年

▲前回の大阪万博 1970年

▲沖仲仕

「港湾」労働者の組織化(オルグ)ですから、主な活動場所が横浜だったであろうことは容易に想像できます

青春の情熱を注ぎ込んだ地である横浜

その近くに、「すき家」の第1号店を出し、今なお「すき家」の店内に横浜の絵を飾っている

小川賢太郞さんの横浜に対する思い入れが伝わって来ます

そうなると、

彼の20歳代の活動内容を知りたい!

となるのですが、この辺の情報が意外に無いんです

ズバリ「伝記 小川賢太郞」のような本があれば一番いいけど、先月4/7にお亡くなりになったばかりで、まだ出てないみたい

wikiに経歴の概略が書いてありますが、ほとんどは牛丼業界に飛び込んだ30歳代以降で、20歳代の活動にはほとんど触れてない

共産党活動と言っても戦後ですから、それほど非合法なことはしてないと思いますが、港湾肉体労働者(沖仲仕)を雇っている荷役会社からすれば、共産党オルグは「招かざる客」で、ドロドロの戦いもあったのかもしれない

という訳で、小川賢太郞さんの20歳代についての情報を、これからWebやYoutubeなどでコマメに探していこうと思っています

(^_^;)~♪

SNSでもご購読できます。

コメントを残す