人生いろいろ

平均寿命

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去年の日本人の平均寿命は女性が87.05歳、男性が80.79歳で、いずれも、これまでで最も長くなりました。

海外と比べると、女性は香港をわずかに下回る2位で、4年連続の1位はならず、男性も順位を1つ下げて4位でした。

厚 生労働省によりますと、去年の日本人の平均寿命は女性が87.05歳、男性が80.79歳で、おととしと比べて女性は0.22歳、男性は0.29歳上回 り、いずれも、これまでで最も長くなりました。女性と男性の平均寿命の差は6.26歳で、おととしより0.07歳縮まりました。

平均寿命が公表されている主な国や地域の最新のデータと比べると、女性は日本がおととしまで3年連続で1位でしたが、香港を0.27歳下回って2位となりました。

また、男性も1位は香港、2位がアイスランドとスイスで、日本は順位を1つ下げて4位でした。

平均寿命が延びていることについて、厚生労働省は「医療技術が進歩するなかで健康志向が高まり、その相乗効果で平均寿命は世界的にもトップクラスの状況が続いている。

心身ともに元気なお年寄りが増えていて、さらに今後も寿命は延びる可能性がある」と分析しています。

朝陽27回生(今年60歳)の平均寿命は

女性88.4歳 男性82.8歳 デス  (^_^;)

 

理系夫のための豚汁レシピ

 少し前になりますが、「理系のための豚汁レシピ」が話題になったのを知っていますか?

 調理開始から始まり、入れる調味料や手順を細かに、順序良く、かつ論理的に示したこのレシピは、これまでのレシピの概念を覆す斬新さから多くの人の目にとまりました。(Conobie・ひろこママ)

出典:https://twitter.com/repli_nexus6/status/564418903598592001

 私の夫もtwitterでこのレシピを見つけると、「これ、面白くない!?」と、興味深々。エンジニアとして働く夫には面白く、かつ分かりやすいものだったようです。 続きを読む

性差心理学

Bluebella.com

男性が思い描く完璧な女性像と、女性が思い描く完璧な女性像は必ずしも同じではない。

そこでランジェリーブランドのBluebellaが、それぞれが考える“理想の女性の体”についてのアンケートを実施。

男女の好みの違いがハッキリとわかる結果になった。

Bluebella.com

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毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

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憲法学者・小林節さん

新宿高校1966年度卒

ぐるっと首都圏・母校をたずねる:東京都立新宿高校/7

苦悩の日々が「強さ」導く 小林節さん /東京 – 毎日新聞

 昨年6月の衆院憲法審査会で安保法案を「違憲」と断じ、10日投開票された参院選では「国民怒りの声」代表として各地を駆け回った憲法学者で慶応大名誉教授の小林節さん(67)=1966年度卒。

舌鋒(ぜっぽう)鋭い論客という現在の姿からは想像が難しいが、高校時代は「コンプレックスだらけで、現実から逃げ回っていた」という。悩み抜いた青春の日々を語ってもらった。

 出身の新宿区立淀橋中は、成績の良い生徒を都立戸山高か新宿高に振り分けていて、新宿高には受動的に入りました。

予習・復習の習慣を身につけてなかったから、授業についていけない。WS000000

それと、自分には生まれつき左手に指がない障害があって、それが「みにくいアヒルの子」のように思えて。

思春期でしょ。女性を意識するから、姿に欠点があることは当時の自分にとって致命傷でした。

 1年の夏に館山の臨海教室に参加しましたが、僕は泳げないから、遠泳に参加せず浜辺でずっと見ていた。

家に帰ったら顔にシミがたくさんできて、すごみのある顔になっていた。

シミは今も取れずそのままです。それが臨海教室の思い出です。

 2年あたりから、授業は好きな英語と政治経済だけ出て、あとはクラスメートに代返を頼んでいました。新宿御苑に壁の穴から侵入して過ごしたり、新聞部の部室で、全国の高校から送られる学校新聞を読んで過ごしたり。

一応出席していることになっているから卒業はできたけれど、3年の成績は学年430人中402番。担任から「大学に行くだけが人生じゃない」と言われました。

 高校時代は逃げ回っていた日々。一方で「きちんと生きなくちゃ」という悩みを熟成した期間でもありました。生きているのがいやだけど、死ぬ勇気もない。死ぬ勇気がないなら生きていくしかねえな、と。

何より自分を産んで育ててくれた母親に悪い。母が、私という障害児を産んでしまったために、親戚から「うちの面汚し」と言われていたのを知っていたので。

 卒業後は浪人する羽目になって、そこから反転攻勢しました。子どもの頃の目標である弁護士になろうと思いました。

小学校の同級生の父親に苦学して弁護士になった人がいて、その人に「小林君、負けてる人を助けるのが弁護士なんだ」と言われ、なりたいと思ったんです。慶応大に入学した後はひたすら勉強し、大学は首席で卒業しました。

 憲法学者は、差別された人や迫害された人に光をあてる職業です。被差別事件に関わっても、誰も僕のことを警戒しない。

一見すると障害者だから仲間と認めてもらえるし、外見の問題だけでなく、高校時代に心の修羅場をくぐっているからだと思います。

 昨年6月、衆院憲法審査会で安保関連法案に「違憲」を突きつけた翌日の夕方、記者から「学生団体のSEALDs(シールズ)が機動隊に植え込みに追い込まれている」と言われ、許せないと思って国会前に行き、街頭演説をしました。

憲法で認められた表現の自由で、誰にも迷惑をかけてない。子どもたちに「いいんだよ、これはやっていいんだ」と見せたかった。

 今の自分は孤立を恐れない、非常に自立した人間だと思います。それは、逃げ回っていた高校時代、自分という条件から逃げ切れないことを発見したからです。

代返してくれた仲間と、代返を見逃してくれた教師。そんな新宿高のおおらかで雑な雰囲気。その校風が、今の「強い自分」の原点に導いてくれたような気がします。

高校3年間は、本当に深いところでの哲学的決断をするための、迷っている時間をくれた場所です。

 

臨海教室で大遠泳 連帯感と達成感経験

 小林さんが思い出を語った臨海教室は、初代校長が掲げた「学校、家庭、同窓生、生徒が一体となった大家族主義」という理念を具体化する行事として1922年から始まった、同校を代表する伝統行事だ。

当初は希望者のみが参加したが、57年からは全員参加となり、1年生が夏休み期間中に3泊4日で、千葉県館山市にある同校の館山寮で過ごす形式になった。

 期間中は携帯電話使用禁止。各部屋にはテレビも冷房もない寮での集団生活で、生徒は心身ともに鍛えられる。

メインイベントは3日目の「大遠泳」だ。

寮の前の浜をスタートして約1キロ離れた大賀海岸まで平泳ぎで完泳を目指す。

生徒は泳力別に事前練習をし、水泳部の卒業生もボランティアで参加する。

手厚い指導と協力体制により、これまで無事故。最近10年は約9割の高い完泳率を誇る。

 水泳部OBとして約30年にわたり指導にあたってきた鈴木仁志さん(48)=85年度卒=は、臨海教室で味わった仲間との連帯感と遠泳の達成感を後輩にも経験してほしいと思い、参加を続ける。

鈴木さんは「泳ぎの不安な生徒もいる中、皆で無事ゴールした時の喜びは他ではできない経験」と魅力を語り、「今後も伝統を受け継いでほしい」と話す。

新宿高の「大家族主義」は、臨海教室として今も引き継がれている。

永六輔 死去

ent1607110003-p1放送作家の草分け的存在で、マルチタレントとしてテレビ、ラジオで幅広く活躍した永六輔(えい・ろくすけ、本名・孝雄=たかお=)さんが7日に死去したことが11日、分かった。83歳だった。

作詞家として、

坂本九「見上げてごらん夜の星を」

「上を向いて歩こう」

梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」

などのヒット曲を手掛けた。

北島三郎「帰ろかな」

など、作曲家の中村八大さんと組んだ楽曲も多く、永さん、中村さん、坂本さんのトリオは「六八九トリオ」とも呼ばれた。

東京都出身。高校在学中からNHKラジオに投稿していたコントを放送作家の三木鶏郎氏に認められ、放送作家としての活動を始めた。

ラジオに加え、テレビ草創期から番組の企画や構成を手掛け、NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」などの人気番組を送り出した。 続きを読む

ザ・ピーナッツの妹 死去

ent1607110002-p1「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒット曲で知られる双子の歌手「ザ・ピーナッツ」の妹、伊藤ユミ(いとう・ゆみ、本名・月子=つきこ)さんが5月18日に死去していたことが7月11日、分かった。75歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。

伊藤さんは昭和16年、愛知県生まれ。

双子の姉、エミさんとともに「ザ・ピーナッツ」を結成し、34年に「可愛い花」でレコードデビューした。

卓越した歌唱力とハーモニーの美しさで注目され、音楽バラエティー番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」に出演。

「情熱の花」「ふりむかないで」など数々のヒット曲を送り出し、高度成長を背景にテレビの普及とともにお茶の間の人気者となった。

NHK紅白歌合戦には34年から49年にかけて16回連続出場。

映画にも活躍の場を広げ、「クレージー黄金作戦」などに出演した。

特に、36年の特撮映画 「モスラ」では、双子の妖精「小美人」を演じて話題を集めた。

アメリカのテレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演するなど海外でも活動した。

日本の歌謡界のトップを走り続けたが、50年に芸能界を引退。

以来、メディアからは遠ざかった生活を送っていた。 続きを読む

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000レストランジャーナリスト・犬養裕美子さん

新宿高校1977年度卒

毎日新聞

 東京都立新宿高校の特徴として、多くの卒業生が挙げるのが「ナンバーワンよりオンリーワン」という校風。

卒業生にもさまざまな分野の「オンリーワン」を 輩出している。

日本初の「レストランジャーナリスト」として活躍する犬養裕美子さん(56)=1977年度卒=もその一人。

「かっこ悪くてもやり通す」と いう新宿高校魂をたたき込まれたという学校生活を語った。

 学校は都会のど真ん中にありながら、男子が女子の2倍いてバンカラな雰囲気でした。

私もおしゃれは大好きでしたが、学校ではジャージー。男よりも男っぽくて、男子からは「イヌケイ」と呼ばれ、全く女扱いされませんでした。

 部活は中学から続けていたバスケット部に入りました。

練習が厳しくて有名で、一番つらかったのは福島での夏合宿。暑さと練習がきつくて胃が痛くなったの を覚えています。

そのかいあってか、3年春の都大会では私立の強豪がひしめく中、公立ながらベスト16に入り、やったことは報われるんだと思いました。

 部活後に毎日通ったのは、通学路にあった「ねえちゃん屋」。

いわゆる昔からの駄菓子屋で、体育部系の生徒のたまり場でした。15人ほど入れば満杯になる小さな店。コッペパンにマーガリンを塗ってジャムをつけた、1個50円くらいのジャムパンをみんなで食べた。

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毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000俳優、元参院議員・中村敦夫さん(76)

新宿高校1957年度卒

 旧制府立六中時代から全国屈指の進学校だった都立新宿高校。

 俳優で元参院議員の中村敦夫さん(76)=1957年度卒=の在校時は激しい受験競争の真っ ただ中だったという。

 「なじめず、変わり者だった」という中村さんに、その後の俳優業や政治家へとつながる高校時代の経験を聞いた。

 生まれは東京ですが、小中学校は新聞記者だった父親の仕事の関係で福島県におり、県立磐城高校に入学しました。

 東京出身の母の希望もあり、1年の夏に都立高校の編入試験を受けました。

 新宿高と戸山高の両方受かってどちらか迷いましたが、校舎に入る時に、戸山は靴をぬがなければならない。

 スリッパを持っていなかったら怒られたけど、新宿は古い校舎で土足のまま上がれた。

 礼儀作法がうるさくなさそうで自分に合っていると思い、新宿高に決めました。

 当時は毎年100人が東大に入るような進学校。レベルが高くてびっくりしました。

 最初の英語の試験でシェークスピアが出た。100点満点で10点以上 取ったらまあまあみたいな難問で、自分は10点ちょっと、周りも20点も取れない。

 一人だけ60点取った岩田昌征という生徒がいて、覚えています。彼は後 にユーゴスラビアの専門家として大学で教えていると聞きました。

 学校はとにかく競争しなくちゃいけないという雰囲気があった。

 朝の通学時間は、新宿駅南口から学校まで、学生帽をかぶった男子生徒が辞書を見ながら ダーッと列を作って歩く。

 社会のエスタブリッシュメントへの道を競い合うような雰囲気に拒絶感があり、なじめませんでした。

 高校生活はたくさんの本や映画に親しみました。

 コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」は自分のポジションを言い当ててもらったように感じて、とことん 読みました。

 映画は週1回は名画座に通いました。一番印象に残っているのは「天井桟敷の人々」。当時の名優が総出演で、それは夢中で見ました。

 学校に隣接していた新宿御苑には毎日弁当を持って行きました。

 障害物競走みたいに校庭の塀を乗り越えて入って。本当は入り口があったのですが、新宿高生は「第三のグラウンド」と呼んで、自由に行き来していました。

 俳優になって「木枯し紋次郎」の紋次郎役で当たった後に、小説を書いたりニュース番組のキャスターや政治家にもなり、分野横断的にいろいろやりました。

 一貫しているのは、時代認識と世界観の「表現者」であるということです。

 高校3年間は、セットされた道を進む「順応型の秀才」のためのコースで、そうじゃない自分のような人間は独力で道を探していくしかなかった。

 しんどい人生だけど、そっちのほうが面白いと気付いた。それは反面教師としての、あの学校のおかげです。

 今の時代は混乱の極致で、軸になるものがない。

 僕がこれからできるのは、遠慮せずにはっきりものを言うこと。

 自分の確信したことをさまざまな手段で伝える「表現者」としての人生を、全うしたいと思います。

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身近な存在、新宿御苑 第三のグラウンド?

 中村敦夫さんがお昼を食べに毎日通ったという、学校に隣接する新宿御苑。旧制六中として発足時には、当時、宮内省御料地だった御苑内の一角に初代校舎が建設されるなど、新宿高との結びつきは強い。

 かつて学校と御苑は壁一つを隔てて隣接しており、生徒は「第三のグラウンド」と呼んで日常的に壁を乗り越え「侵入」していた。戦後になると生徒の仕業 か、壁には出入りできるほどの大きさの穴が複数開き、1962年度の卒業アルバムには、穴から笑顔を見せる生徒の姿が掲載されている=写真・新宿高朝陽同 窓会提供。

 同窓会によると、要人が出席する式典が開かれる当日に、生徒が入って補導され、翌日の朝礼で当時の校長が「入るなら別の日に入れ!」と一喝したなど、御 苑にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。男性元教諭は「御苑の豊かな緑があったから、都心のど真ん中にありながらも生徒は学問に励み、健やかに過ご せたのではないか」と言う。

 2004年に現在の3代目校舎に移転し、御苑との間に道路建設工事が始まると、生徒が行き来することはなくなった。07年からは「奉仕」授業の一環とし て、生徒は年数回、御苑内の清掃や除草を実施している。創立から90年以上経た今も、御苑は生徒に親しまれている。=次回は31日に掲載します

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なかむら・あつお

 1940年生まれ。東京外国語大中退。63年俳優座入団。72年、連続テレビ時代劇「木枯し紋次郎」の紋次郎役に抜てきされ大ブレーク。以降多くのドラ マの主演を務める。83年、小説「チェンマイの首」で文筆活動開始。84年から情報番組「地球発22時」のキャスターとして、数十カ国で海外取材を経験。 98年参院議員に初当選。2004年政界引退。今年5月、徳島の寺院で出家得度した。