92【東京近郊エリア】
荷風64歳の大みそか
断腸亭日乗、昭和17年大みそかの日記
荷風数え64歳 戦争で生活しにくさが増し
長生きはしたくなし などと言っている
でも79歳まで生きたけど
(^_^;)

荷風が芸者であった関根歌(芸者名、鈴龍、すずろう)を身請けするのは、荷風48歳(昭和2年)のときである。
映画「濹東綺譚」にも、「おうた」として登場する。
断腸亭日乗によれば、自分はすでに老いたので妾を囲うこともないが、21歳のお歌がしきりに芸者をやめたいと願うし、借金もわずか五百円程度だから身請けしたとしている。
だが、それは照れ隠しで、老境にさしかかった荷風(当時の48歳は初老)は、若いお歌に惚れた。
40年以上続いた荷風の日記「断腸亭日乗」の面白いところは、荷風が人を褒めなかったこと。
いや、けなしてばっかりだ。
その荷風が日乗で褒めた回数を数えたことはないが、荷風の研究家によれば、10回にも満たないらしい。
その荷風が珍しく、お歌を褒めている。
お歌は、荷風が足掛け5年間に渡り、最も長く付き合った愛人で、荷風はお歌のことを、
「最近では、かくの如き妾気質(めかけかたぎ)も珍らしき(中略)
かくの如き可憐なる女に行会いしは、誠に老後の幸福といふべし」
(『断腸亭日乗』 昭和3(1928)年2月5日)
と、荷風らしい言い方で最上級の賛辞を与えている。
さらに荷風は、お歌が世の悪風に染まらず、活動写真も好まず、針仕事や拭き掃除に精を出し、一日中たすきを外すことがなく、昔より下町の女によく見られる世帯持の上手なる女のようだ、などと褒めまくるのである。
これは、荷風とお歌の相性がよかったのではないかと思う。
いかにカサノヴァ荷風とはいえ、富松や八重次のような本物の芸者(芸のある玄人)と毎日膝を突き合わせていれば、疲れるのかもしれない。
それに対し、お歌のように日陰者でありながら着物の一枚も欲しいと云わない女性は、荷風にとって砂漠のオアシスのようなものであったのだろう。
だから、お歌が勤めていた川岸屋(芸妓屋)があった麹町3番町(現在の九段そば)の近くに最初は間借りさせていたが、荷風が住んでいた偏奇館のそばに移らせている。
現在の六本木一丁目あたり、日比谷線神谷町駅の近くの2階建て。
何も荷風の自宅である偏奇館の近くなら、一人暮らしの自宅に同居させればよいと思うのだが、偏奇館は世間に知られていたから都合が悪く、荷風はお歌の引越先を隠れ家として「壺中庵」と名付けた。
荷風は若いころ、慶応大学文学部の教授をしていたが、妾宅から教室へ出かけることも多かった。
日乗には壺中庵記として、陽が高くなっても
「雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、
つきせぬ戯れのやりつづけも、誰はばからぬこのかくれ家」
とある。
淫靡な世界が垣間見れる、さすが荷風先生。
だから、お歌が待合を持ちたいと望んだときの荷風は、新婚の亭主のように、お歌のために炊事道具や客用の食器などを揃える。
ところが、そのお歌との蜜月も3年で終わる。
結局、荷風は一か所に停泊する船ではなかった。
* * * * * * * * * *
上の文章では、荷風がお歌に飽きて捨てたような印象を持つかもしれないが、実はお歌には年齢の近い恋人が出来ていた
しかし世話になった荷風にそれを切り出しにくく、ついに仮病を使って、荷風に諦めさせる作戦に出た
荷風はお歌を心配して知人の医者に見せるが、なんとお歌はその医者をもダマし通して、「もう長くはあるまい」などという誤診をさせる
まったく
「恋愛において、女は常にプロだが、男はアマチュアである」
というフランス人の言葉が思い出される
しかし別れた後も荷風とお歌は、時々会って旧交を温め、荷風が亡くなるまで、大人の関係を持続させている
いい話だなぁ
(^_^;)
山手線メロディ
いつも何気なく聞いてたけど
こんなに色々あるんですね
(^_^;)
読書 断腸亭日乗
永井荷風の全集は、かなり以前にヤフー・オークションで、古本を非常に安く買った
全30巻もある大全集なので、とても一時に読めるものではなく、気が向いたときに気が向いた作品を拾い読みしている状況で、まだ未読部分が多い
荷風と言えば「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)が有名で、荷風数え39歳から亡くなる直前まで書き続けた日記
全集の第21巻から第26巻までが日乗にあてられている
近現代日本の日記文学として最高峰と言われている
日乗を始めた直後に、麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)に「偏奇館」(ぺんきかん)という洋館を建て、自由気ままに一人暮らしの自由を楽しんだ
私が麻布に住もうと思ったのは、これの影響が大きい
以前に「濹東綺譚」(ぼくとうきたん)という映画がヒットしたが、その中には偏奇館でのエピソードが種々盛り込まれている
日乗を時々紐解いて、現在の私と同じころの年齢に、荷風が何を考え、何をしていたかを読むのは、とても楽しい
と言っても、荷風の晩年は第二次大戦と重なり、世の中の雰囲気は暗く陰鬱だ
それでも、文人である荷風にとって書斎の中は別世界で、優雅な精神世界に暮らしつつ、女遊びにも余念がなかった(荷風は金持ちで女好きだった)
ちなみに、映画「濹東綺譚」の荷風役は津川雅彦
実にハマリ役で、スケベなインテリ中年を演じさせたら、この人の右に出る者はいない
秋吉久美子と共演した映画「ひとひらの雪」(→、渡辺淳一原作)も良かったなぁ
荷風数え67歳、昭和20年3月9日の東京大空襲で偏奇館は焼亡、書斎も蔵書も灰燼に帰し、荷風は日乗をカバンに収めて、火の中を逃げ回る
空襲を生き延びた荷風は、79歳まで生きて日乗を書き続けたので、まだ当分は楽しめそうだ
(^_^;)
「断腸亭日乗」昭和20年3月9日
映画「濹東綺譚」
ファイルサイズが大きいので、スマホの場合、WIFI利用をオススメします (^_^;)
読書 つげ忠男選集
つげ義春は大好きな漫画家の一人で、彼の作品はほとんど、何度も読んだ
そのつげ義春の弟が、本書の作者のつげ忠男
その作品選集10冊を、一気に読んだ
つげ忠男アウトロー選集1~どぶ街~
つげ忠男アウトロー選集2~無頼の街~
つげ忠男アウトロー選集3~無頼平野~
つげ忠男アウトロー選集4~狼の伝説~
つげ忠男アウトロー選集5~流れ者たち~
つげ忠男昭和選集1~きなこ屋のばあさん~
つげ忠男昭和選集2~雨季~
つげ忠男昭和選集3~夜よゆるやかに~
つげ忠男昭和選集4~遠い夏の風景~
つげ忠男昭和選集5~ある予感~
絵のタッチは兄義春と似ているが、雰囲気は兄より暗く鬱屈して乾いている
忠男は一時、血液銀行で働き、その経験が作品の中に何度も登場する
血液銀行は、今は無くなったが、「売血所」とも呼ばれ、輸血用や血液製剤の原料として血液を買い取る場所で、社会の底辺の人間がその日の食費やギャンブル代のために、自分の血液を売りに集まった
兄義春(←、左)も相当に暗いのだが、そこにはある種の温かみもある
弟忠男(←、右)はそれよるはるかに暗く、冷たく、乾いていて、何とも救いが無い雰囲気が漂っている
第二次大戦の敗戦からすぐというこの時代の日本は、社会全体が暗くて貧しかったし、それはこの選集の中にも濃厚に表現されている
兄弟が育ったのは、昭和20年代、高度成長前の貧しい時代の東京下町、そのまた特に貧しいエリア
将来に希望を持てない鬱屈した時代精神が感じられる
つげ義春のマンガにも出てくるが、この兄弟の父親は早くに亡くなっている
母親の再婚相手である病気がちの義父は残酷な性格の男で、つげ兄弟はひどい児童虐待を受けて育った
正式な美術教育はおろか、家庭の貧しさから義務教育にすら満足に通えなかった兄弟が、二人ともプロの漫画家になっているのは、まさに兄弟共通の才能の成せるところなのだろう
今回も一気に10冊、まったく退屈せずに読めたということは、漫画家としての非凡な才能を感じる
特にアウトロー選集は、社会の掃きだめのような貧しくて暗い街が主な背景になっていて、日常的に暴力と退廃と背徳が横行するハードボイルド的な作品集
全体に、夢と現実が織り交ざったようなシュールな話が多い
兄つげ義春は、睡眠中にみた夢を漫画化したが、その影響は弟忠男と蛭子能収に及んでいる
(^_^;)
立皇嗣宣明の儀
アメリカ大統領選挙で
すっかりカスんでしまった
秋篠宮殿下の立皇嗣宣明の儀
最近は深酒が過ぎて依存症の危険も
((((;゚д゚))))
▼ロング・バージョン
読書 ゲゲゲのゲーテ
妖怪マンガの水木しげるの愛読書がゲーテだった
カントやヘーゲル、ニーチェやショーペンハウエルも読んだが、ゲーテが一番「性に合った」らしい
「ヴィルヘルム・マイスター」や「ファウスト」より、「ゲーテとの対話」が好みだという
片腕を失った戦地にも持って行った
作品よりもゲーテの人間性や生き方が好きなのだろう
人生訓の本家のようなゲーテなので、マンガが売れなくて極貧の時代を乗り切るパワーも、ゲーテから得ていたようだ
したくもない戦争に狩り出されたので、終戦のときに本当に自由を感じたという
人生で最も大切なことは「好きなことをすること」と信じる
そして寝ることが好きだから、マンガが売れて余裕が出来てからは、毎日好きなだけ寝ているそうだ
「葉隠」の山本常朝に似ている
(^_^;)
世田谷・杉並の真っすぐ道路
今回、九州や広島を旅したんですけど、特に博多の街の道路が広いのが印象に残りました
道がまっすぐで、車道だけでなく歩道も広いので、歩いていてとても気持ちがいい
これは「太閤の町割り」と言われる、豊臣秀吉による都市計画のおかげだそうです
秀吉の若い頃の、大らかな性格が伝わってきます
一方、東京は徳川家康が作った町ですが、道が狭くてぐにゃぐにゃ曲がっている
これは猜疑心の強い家康が、敵から攻められた場合を考えて、わざと攻めにくい都市計画をしたことに関係があるらしい
用心深い家康のおかげで、日本人は世界でもまれに見る260年間もの長い平和を享受した訳ですが、都市計画には向いてない性格だったようです
(^_^;)
* * * * * * * * * *
世田谷区と杉並区にわたって、8km以上続く一直線の道路があります。
都道に指定されているこの道路、成り立ちは大正時代までさかのぼります。
地図で都内を見ていると、小田急の祖師ヶ谷大蔵駅付近から丸ノ内線の新高円寺駅付近まで、一直線に道路が走っているのが見えます。
この道路は東京都道・高円寺砧浄水場線に指定されています。
現地に行くと、大部分がセンターラインのない狭い道路ですが、ほぼ全線が直線のため、道路がはるか遠くまで続いていくのを見通すことができます。
東京の街並みは武蔵野台地とそれを川が浸食していった地形の関係で起伏が大きく、道路もその起伏に合わせてほとんどが曲がりくねっています。
にもかかわらず、この直線道路はどうしてこんなにもまっすぐ走っているのでしょうか。
実はこの道路の真下には、「荒玉水道」と呼ばれる直径1.1mの水道管が通っています。
荒玉水道はさかのぼること大正時代、増加する東京の人口の水需要に対応するため、多摩川で取水した水を都内に送るのを目的に設置工事が始まりました。
そして、埋設水道管の敷地を歩行者道として活用したのが、この直線道路のはじまりです。
現在は自動車も通行可能となっていますが、水道管への荷重を考慮し、重量制限が掛けられていたり、ラバーポールによって物理的に幅員が制限されているところがあります。
また、狭隘な道路のため、一部区間では一方通行となっています。
この道路を東急バスや小田急バスのバス路線が通っていますが、重量制限のある区間を走る路線は、小型バスで運行されています。
原宿渋谷を歩く
古川庭園を歩く
今日は「都民の日」で、東京都が運営している公園とか動物園が無料公開なので、まだ行ったことのない「古河庭園」へ行ってみました
足尾銅山などを経営していた古河財閥の当主のお屋敷だった場所ですが、戦後の財閥解体でGHQが接収し、さらに国の所有になりました
その後は荒れるままになっていて、幽霊屋敷などと呼ばれていた時期もあったそうですが、1980年ころに東京都に貸し出され、公園として整備されました
もう少しするとバラの花や紅葉が美しいみたいですけど、今日はまだ早かった
近くには、第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けた柳沢吉保のお屋敷、六義園もあります
(^_^;)