駅の東口と西口の往来が不便なJR新宿駅で、東西を自由に行き来できる通路の工事が、四月にも始まる。
現在、同駅の東西出口にある改札を移動し、 二〇二〇年ごろと予想される完成後は、切符がなくても通れるようになる。
JRだけで一日約百五十万人が乗降するマンモス駅は、周辺を回遊する人波も大きく なりそうだ。
商業施設が並ぶ東口と高層ビル群がある西口を直結する通り道は現在、「中央通路」と「北通路」があるが、東西各二カ所、計四カ所の出口はすべて改 札。
改札を通らずに行き来するには、北通路のさらに北約八十メートルを並行する東京メトロ丸ノ内線側の地下通路などを使うが、自由通路が完成すれば二分程度短縮できる。
JR東日本や新宿区によると、自由通路は北通路を改修して造る。
駅の地下一階部分に当たり、長さ約百メートル。東西の両端にある改札を通路の南側に移し、幅も現在の十七メートルから二十五メートルに広げる。
事業費は約百十五億円を見込み、JR東と区、国がほぼ三分の一ずつ負担する。
自由通路は、地元商店街などが「駅周辺の回遊性が高まることで、街の活性化につながる」と設置を要望。
〇八年に区とJR東が基本協定を結び、事業を進めてきた。終電後、始発までのわずかな時間で作業するため、工期は八年近くに及ぶ。
JR東は事業に合わせ、一階部分に当たる線路やホームを支える盛り土を掘削。柱を新たに設けるなどして、地下一階に大きな空間(面積約三千平方メートル)を造る予定。
この空間は、JR東が品川、東京駅などで展開する構内型の商業施設になるとの見方もあり、地元商店街は「利用者を囲い込むのでは」と動向を注視している。
JR東は「今のところ新空間の利用法は決まっていない。仮に商業展開することになっても、自由通路で東西の街に駅利用者を誘導できるようにする」と説明している。
内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、
「四谷新宿馬の糞の中で あやめ咲くとはしほらしい」
(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。
これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅となるも、1772年(明和9年)には復活している。
歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。
このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。
また成覚寺は、遊女などの投げ込み寺であった。
投げ込み寺と言えば 三ノ輪の浄閑寺 (T_T)
元禄12年(1699年)に新しい宿場「内藤新宿」が開設された
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。
甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。
現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。