1日の利用者が約340万人と日本一多い新宿駅で、大工事が進んでいる。
南口では線路の上に人工地盤を設け、改札や広場、タクシーやバス乗 り場を備えたターミナルができる。
商業施設のある高層ビルも建設予定だ。
誕生から127年、転機を迎えた新宿駅のこれからと、秘めた歴史を探った。
■改札・広場・停車スペース備えた新駅舎
JR新宿駅の南口改札を出ると、目の前に工事中の建物が見えてきた。かつて正面にはっきりと見えていたNTTドコモ代々木ビルは、特徴的な尖塔(せんとう)部分が少し見えるだけ。南口の風景はこの数年で大きく変わっていた。この武骨な建物はいったい何なのか。
「駅と広場、交通拠点を兼ね備えた新駅舎です。交通結節点と呼んでいます」。国土交通省東京国道事務所の泉達也・新宿プロジェクト調整官が解説する。
泉調整官によると駅舎は4階まであり、1階がJRのホームと連絡通路、2階が改札となる。2階には駅施設と歩行者広場が整備され、サザンテラスや甲州街道(国道20号)、JR南口改札とフラットでつながる。
3階はタクシーや一般車が乗り入れ、4階に高速路線バスの乗降スペースができる。タクシーは40台超、一般車も10台以上が乗り降りできるようになる。バスは30台ほど待機できるという。これらはすべて、2016年春の完成を見込んでいる。
泉さんに内部を案内してもらった。中に入るとよくわかるが、既に建物の骨格はできあがっている。甲州街道から分岐する車路もその骨組みはできていた。確かに人と車がスムーズに流れるように設計されている。
■交通結節点の上にも建物 ホールや子育て支援施設に
交通結節点の4階部分に立って周囲を見渡すと、すぐ目の前に基礎工事が行われている場所があった。この部分はどうなるのだろう。泉さんに聞くと、JR東日本のビルができるらしい。どんなビルになるのか、同社に尋ねてみた。
「地上33階、高さ170メートルの複合ビルになります」。担当者が答えてくれた。「新南口ビル(仮称)」といい、1階から5階部分には商業施設、上層階はオフィスとなる。ビルの完成は交通結節点と同じく2016年春を予定しているという。
同社は交通結節点の上にも3層の建物を計画している。「席数300ほどの多目的ホールや子育て支援施設などを検討中」とのことだった。
現在、甲州街道の南側にはJRの改札が2カ所ある。サザンテラス口と新南口だ。これらの改札は交通結節点完成後はどうなるのか。
「サザンテラス口はなくなり、甲州街道沿いに1カ所、新たに改札を設置する予定です。新南口は少し動きます。これらのほかにもう1カ所、新南口ビル方面にも設置する予定です」(建設工事部)
すべてが完成すれば、新宿駅周辺の人の流れが大きく変わりそうだ。
■南口改札前、橋ができたのは大正時代
いよいよ姿を現し始めた交通結節点。そもそもの出発点は老朽化した橋の整備だった。
南口に面した甲州街道は橋の上を走っている。改札前の交差点に立つと時々揺れるので、ここが橋の上だとわかる。道路の下はJR線で、この部分は「跨(こ)線橋」と呼ばれている。
橋が架けられたのはなんと1925年(大正14年)。80年以上も前だ。その後何度か拡幅工事を行い、現在の姿となった。
大正年間に架けられた橋は老朽化が進み、耐震性に問題があった。そこで1990年代半ばに橋の架け替え計画が浮上。計画を進めるうち、「新宿駅周辺の問題をまとめて解決する大規模整備の話に発展した」(国土交通省東京国道事務所の泉調整官)という。
当時、新宿駅周辺ではいくつかの課題があった。「橋の老朽化」「狭い歩道」「タクシーやトラック、一般車の停車による渋滞とそれがもたらす交通事故」「点在する路線バスの停留所」などだ。これらを一気に解決するアイデアが交通結節点の新設だったのだ。
巨大な人工地盤を、膨大な人々が行き来する駅の線路の上に築く――。2000年から始まった工事は難航を極めた。「工事ができるのは終電から始発までの3時間だけ。綿密な計画と人海戦術で乗り切った」とJR東の担当者は振り返る。
橋の架け替えは今年度中にはすべて完了する予定。かつて5メートルしかなかった歩道も8メートルに広がった。将来的には最大15メートルまで広げる計画だ。車やバスを交通結節点に誘導することで、甲州街道や地域の交通渋滞は改善する見込みだ。
■新宿区と渋谷区にまたがる新宿駅、今後は渋谷化?
ところでこの交通結節点、住所を見ると新宿区ではなく渋谷区となっている。新宿駅なのに渋谷区とはこれいかに、と思って地図を確認してみる と、甲州街道付近に区の境界線が引かれていた。ホームを見ても、16番線までのうち、埼京線や成田エクスプレスなど1番線から6番線の大半は渋谷区に属し ている。これまで新宿駅といえば新宿区に位置する東口や西口が中心だったが、南口がにぎわい、人が集まるようになれば、新宿駅の重心が渋谷区側に移ってい くかもしれない。
それにしてもなぜ、日本を代表するターミナル駅である新宿駅が、新宿区の外れにあるのか。経緯を探るべく、新宿歴史博物館を訪れた。
江戸時代、新宿は「内藤新宿」という江戸の外れの宿場町として知られていた。現在の四谷4丁目から新宿3丁目にかけてのエリアだ。当時はここが街の中心地だった。
1885年(明治18年)、日本鉄道品川線(山手線の前身)が「品川―赤羽」間で開通した。このとき新宿に中間駅を設置することになった。 しかし「当時、鉄道駅は嫌われていました」と学芸員の後藤理加さんは指摘する。1985年(昭和60年)に国鉄新宿駅が編さんした「新宿駅100年のあゆ み」にこんな記述がある。
「当時は鉄道が敷かれると、街道筋の宿場の客が奪われるとか、機関車の煤(ばい)煙で田畑が荒らされるとかいわれ、各地で鉄道建設が忌みきらわれていた」
こんな理由で、町外れの何もない原っぱに駅が新設されたのだ。当時、新宿駅の利用者は1日に50人ほど。雨の日はゼロのこともあったらしい。
■堤康次郎氏経営の遊園地があった
そんな場末の新宿駅が飛躍のきっかけをつかんだのが1889年(明治22年)。「新宿―立川」間に甲武鉄道(中央線の前身)が開通し、新宿 駅が2つの路線の接続駅となった。1903年(明治36年)には市内への路面電車、1915年(大正4年)には京王電気軌道(現・京王電鉄)がそれぞれ開 通し、着々とターミナル駅としての地歩を固めていった。
新宿の地位を一気に高めたのが1923年(大正12年)の関東大震災。「被害が少なかった新宿や郊外に多くの人が移り住み、駅の利用者が増 えました。ちょうどそのころ三越や伊勢丹などの百貨店も進出してきて、東口を中心に一気に開けていったのです」(後藤さん)。新宿歴史博物館では10月 27日から企画展「新宿を支える企業の歴史」を予定している。
当時の新宿には遊園地もあった。その名も「新宿園」。どんな遊園地だったのか。
新宿歴史博物館がまとめた冊子「ステイション新宿」に詳しく載っていた。開園は1924年(大正13年)。西武グループの創始者、堤康次郎氏が設立した箱根土地(のちのコクド)が経営していたという。
新宿園の売りは劇場や映画館で催す各種の演目で、童話劇やチャップリン主演の映画などを上映していた。しかし入場者は伸びず、1926年に は閉鎖に追い込まれる。跡地は住宅地として分譲され、高級住宅街となった。現在の新宿5丁目の一角で、かつて厚生年金会館があった場所の西側だ。訪れてみ ると、厚年会館の跡地は空き地のままで、新宿園があったと思われる場所にはビルが立ち並んでいた。
■40年前の「大新宿構想」、時を経て実現
10年以上の歳月をかけて整備されてきた交通結節点。実は、40年ほど前に似たような構想が国鉄内で描かれていた。
1975年(昭和50年)に発表された「将来の”大”新宿駅の構想」という論文がある。筆者は国鉄の調査課にいた市川政治氏。そこに構想の全貌が書かれていた(「鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション4 東京圏国電輸送1960~70」に再掲載)。
構想の核は3つのターミナル。新宿駅ホームの地下に広い公共空間として整備する「北部ターミナル」。甲州街道の南側に設ける「中央ターミナル」。そして代々木駅側に位置する「南部ターミナル」だ。
3つのターミナルは地下1階の大通路と3階に設けた人工広場でつながる。地下3階には上越新幹線など新幹線の駅を設ける。甲州街道の南側にあった貨物駅の上には30階程度の「総合交通センタービル」を建設する、というプランだった。
中央ターミナルは交通結節点として結実した。総合交通センタービルは実現しなかったが、貨物駅の跡地にはタカシマヤタイムズスクエアができ た。新幹線の新宿乗り入れは幻となったが、構想発表後、地下鉄3路線が新宿に乗り入れるなどターミナル機能は強化された。開発の方向性は変わっていない。
1990年代半ば、甲州街道の橋の架け替え計画が浮上した際、この構想の存在が、議論の方向性に影響したのかもしれない。