60【旅と散歩】

松沢病院を歩く

今日は大田くんを囲む会で、世田谷区の日帰り温泉「SPA成城」へ

ここは1年前の今頃にも同じ仲間で来ている

渋谷と明大前を経由して、京王線八幡山駅で降り、都立松沢病院の中を歩く

私は心理学とか精神医学関係の本を読むことが多いので、この病院の名前はよく知っていたが、中を歩くのは今日が初めて

実に広大な敷地で、大学のキャンパスみたい

中には農園もある

「なんで病院に畑?」

と思ったら、そうゆう精神療法だった

自然作業療法というのだそうだ

周辺の地価を考えると、とんでもなく高コストな療法だね

まあ、土いじりが心の安らぎにつながるのは何となく分かる

私もプランター(角形の植木鉢)でベランダ農園を少しやっているが、多少の癒やしにはなっているような気がする

上の院内マップに「医療観察法病棟」というのがあるが、これがいわゆる重症患者の入る病棟で、主に重大な他害行為を行った者が入ることになっている

重症の精神病患者に精神医療を施して社会復帰を目指すということになっているが、周囲の人に危険(他害行為)を及ぼしかねない者を、場合によっては強制入院(措置入院など)させて「社会から隔離する」機能があることは否定できない

殺人、傷害、暴行、放火、強姦などの重大犯罪(他害行為)を犯した者が、裁判の過程で心神喪失を認められると、刑罰(死刑や刑務所収監)を免除される替わりに強制入院させられたりする

今日は八幡山駅から松沢病院の中へ散歩して、この医療観察法病棟のすぐ脇も歩いたんだけど、途中に何のチェックもなくて誰でも自由に来れちゃう!

もちろん本当に危険な患者は、ちゃんと鉄格子のある隔離空間に入ってるとは思うけどね

なんか、大ヒット映画「羊たちの沈黙」のレクター博士を思い出してしまうよ

 

いま春日武彦さんという精神科医の書いた一般向けの本を読んでいるんだけど、そんな精神科病棟のやや不気味な、時には面白い修羅場がいっぱい出てくる(すでに十数冊読んだ)

春日さんは、松沢病院で精神科医として勤務していたこともある

この春日さんと、ホラー作家の平山夢明さんが組んで書いた対談本「狂いの構造」シリーズは、メチャ面白くてハマっています

精神医療とホラー(恐怖)小説は、親和性が高い

この春日さん、本の中で自分の心の異常さを、正直にドンドン書いちゃうんだよね

例えば、彼は甲殻類恐怖症で、海老とかカニを食べられない

美味しそうな海老の天ぷらも、彼は食べることが出来ない

それどころか、触れたり近寄ったりすることも出来ないし、考えただけで虫酸が走る

普通の人がゴキブリに感じるような嫌悪感を、甲殻類に対して感じるらしい

しかもその恐怖の原因が、春日さん本人にもよく分からない

恐怖は人間の最も根源的な感情(脳の最下層レイヤーに位置している)なので、その奥は計り知れないほど深く、精神科医の知力をもってしても、自分の恐怖の中身を極め尽くすことは出来ないようだ

精神科医が、自分は高いところに立って患者を見下ろしながら解説するんじゃなくて、自分もかなり狂ってるという立場で解説するから、春日さんの本は面白いのかもしれない

私の勝手な感想だが、精神科医とか心理学者には、高知能だが少々アブナイ人が多いような気がする

人間という生き物は、みんな多かれ少なかれどこか心に狂ったところを持っているのが普通なので、その典型例(極端例)としての精神病について知ることは、自分観察(内省や内観)も含めて、人間観察の深みを増すためにとても有益だと思っています

もし、まったくどこも狂っていない人がいたとしたら、その人は超少数派という意味で「異常な人」かもしれない

もともと人間に対して「異常」という言葉をつかう場合

1)少数派(社会の多数派とは、何かが異なっている)

2)社会不適合(正常な社会生活が送れない、送りにくい)

という二つの意味が含まれている

前者は単なる多い少ないの単純かつ広い概念だが、後者には周囲や本人に実害が伴うという意味で範囲の狭い概念だ

ただ、社会のルールや慣習は多数派に合わせて作られたものがほとんどだから、少数派は社会不適合を起こして、狭い意味での「異常」にもされやすい

たとえば、毎日バスタブ入浴する習慣が無い国(日本以外のほとんどの国がそうだ)に留学した日本人学生は、「水を大量に浪費する」として、寄宿舎の管理人から文句を言われることがある

毎日風呂に入った方が清潔だとか気持ちがいいとか主張しても通用せず、実害が有っても無くても、少数派は異端視や攻撃の対象になり、「一つ目村に迷い込んだ、目が二つある化け物」と見なされやすい

 

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帰りに大好きな回転寿司「元祖寿司」へ行こうと思って渋谷へ寄る

元祖寿司は川崎店や蒲田店によく行くんだけど、渋谷店は100円台の安い皿がほとんど廻ってなくて、高い皿ばかり (T_T)

渋谷はインバウンド外人が多いので、観光地価格になっている

帰りの渋谷駅ハチ公改札が超大混雑で、並ばないと駅に入れない

「他の改札へまわってくださーい!」

と駅員が必死になって叫んでいた

で、西口改札にまわったら、ここだけ旧駅舎ビルの一部が残っていて、何とも異様な感じ

なんだか東日本大震災の津波に襲われて、残ったビルの残骸といった風情

周囲は渋谷駅大改造で、工事現場の中に駅があるみたいだ

今日は、あちこち歩いて、合計1.8万歩

少し疲れたなぁ~

うっかり、大田くんを囲む会の集合写真を撮るのを忘れてしまった

(^_^;)~♪

謹賀新年 & ハッピー・ヴァレンタイン~♪

朝陽27会の皆さま あけましておめでとうございます

いろいろなことがメンドウになりつつある今日このごろ

当ブログの新年のご挨拶も9日になってしまいました

そうしているうちに、立花さんからコンサートのお知らせ(↓)をいただきました

ありがとうございます!

もうすぐヴァレンタイン、時のたつのは早いですねぇ

(^_^;)~♪

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お元気ですか?

本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

恒例?になりましたヴァレンタインコンサートのお知らせです。

29() 14:00開演、ガルバホール(西新宿)にて。

アール・ヌーヴォー様式のガウディ風サロンは不思議な空間。

是非お出かけください。心よりお待ち申し上げます。

チケットのお問い合わせは

bartoshi★a.toshima.ne.jp または baritoshi112★gmail.com

まで宜しくお願い致します。(★を@に)

立花・高橋

品川駅は海岸にあった

品川駅の近くにある物流博物館では、いま鉄道古写真展が開催されています

上の写真の、ビーチ沿いに建つ小洒落た建物、今から130年以上も前の品川駅です

新橋横浜間に鉄道が正式開業する前に、品川横浜間で試験運転をしたので、横浜駅とともに日本で最も古くからある駅です

線路用地取得難で海岸沿いや海上(高輪築堤)に線路を作り、駅も海岸のすぐ近くで、駅前はすぐに海岸です

写真左上に見えるのが現在の三田(田町)のあたりで、幕末まで薩摩藩の江戸屋敷などがあり、幕府との間でドンパチあった場所です

その奥に見えるのが皇居(江戸城)、その右が江戸の下町でしょうか?

海岸に沿って東海道があり、大名行列や旅人など、江戸時代から賑わっていたエリアです

上の写真の右側、品川駅の南側に少し行くと、東海道の最初の宿場町「品川宿」がありました

その近くには鈴ヶ森刑場があり、江戸時代220年間に10~20万人が処刑されました

仮に15万人とすると、年に680人、毎日2人くらい死刑になっていた計算になります

有名な放火犯人、八百屋お七が処刑されたのもここです

現在のような科学捜査など無い時代で、自白させるための拷問も許されていましたから、冤罪も多かったと思われます

品川宿は江戸市街の入口にあたり、東海道を通って江戸に流入してくる人々に

「悪いことをすると、こうなるぞ!」

という警告(見せしめ)の役割も果たして、江戸の治安維持をはかっていました

今でも品川駅の近くには「旧海岸通り」という道路がありますが、今では周辺が埋め立てられて、近くに海は見えません

品川駅の場所は、上の写真の当時から変わっていませんが、周辺が激変した訳です

上の写真の右側の海が埋め立てられて(大正~戦前)、現在の港区港南エリアが出来ました

私が現在住んでいる場所は、数十年前まで海でした

品川駅は今、高輪ゲートウェイ駅周辺(来年春に本格開業)と共に大規模工事が進められていて、大きく変貌しつつあります

(^_^;)~♪

フシギな写真

何だかフシギな感じのする写真ですね

羽田に着陸体勢のJAL機

加工写真ではなく、実写のようです

どこから撮影したんだろう?

(・_・?)

種明かしはこちら

 

日本到着3日後に神社参拝したマッカーサー

▲鶴岡八幡宮の社務所日誌

前日(9/1)欠勤して記録に残った木村仕女

直前(8/31)に挙式したカップルもいる

戦後の日本の占領政策を主導した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)は、1945年8月30日に厚木飛行場に降り立った。

3日後の9月2日午前に東京湾上の米戦艦ミズーリ号で行われた歴史的な降伏文書調印式に出席した。

この後、同日午後3時半ごろ「幕僚十二名を帯同」して鶴岡八幡宮を参拝し、日本語を話せる将校が御朱印や破魔矢13本を買い求めたことが社務所日誌に記されている。

マッカーサーは当時の宮司に「私は40年前にも参拝したことがある」と語って境内を懐かしそうに眺め、応接室での休憩を勧められると「ありがとう。今日は急ぐから」と辞退した。

宮司は初対面の印象を「実に穏やかで終始、敬虔(けいけん)な態度で感服した」と話した。

この40年前、青年将校時代のマッカーサーは在日米大使館付き武官だった父の副官として来日。

日露戦争で活躍した東郷平八郎や大山巌、乃木希典と面会した経験もあったとされる。

吉田さんは「武士道で説かれる倫理観や潔さを日本の名将から教わり、武士や軍人の崇敬を受ける鶴岡八幡宮を敬う気持ちを持ったのだろう」と参拝の背景を推し量る

▲連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー

▲東京湾上の米戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書調印式

このつい半月ほど前まで、血で血を洗う激戦を繰り広げたが、勝敗確定後は互いに紳士的に対応することができた日米という文明世界

それから80年近くたっても、靖国神社に落書きするなど、日本国民の神経を逆撫でするような悪質な嫌がらせをしつこく続けている、反日赤組(中露韓北)という野蛮世界

この雲泥ほどの民度の差は、これから数十年、数百年、ひょっとすると5000年たっても埋まらないのかもしれませんね

(^_^;)

▲靖国神社に落書きする中国人 2024年6月1日

 

阿波踊りの達人

昨日今日と連日35度を超える猛暑ですが、そろそろ夏祭りの季節ですね

私はお祭りダイスキで、日本全国の主なお祭りはほとんど見に行ってるんですが、そんな数ある日本の夏祭りの筆頭は、やはり阿波踊りだと思います

世の中が不安定になり、

庶民にストレスが鬱積すると、日本人は集団で踊り出す

と言われています

日本中の老若男女が突然、仕事も家も放り出して踊りの列に加わり、伊勢神宮をめざしたりする(おかげまいり

明和のおかげまいり(1771年)では、300~400万人が伊勢に殺到した(当時の人口は約2200万人)

そんな集団乱舞の最後が、幕末に大流行した「ええじゃないか踊り

民衆のストレスが爆発した狂気という側面もあるのですが、旅支度も無しで急に伊勢をめざしたりする踊り衆に対して沿道の住民は概ね好意的で、食事や寝る場所を提供したり、けっこう牧歌的なほのぼのとした側面もあったようです

「ええじゃないか踊り」の雰囲気を最も良く伝えているのが阿波踊

だと言われています

集団のシンクロナイズが重要な女踊りに比べると、男踊りは個人芸の世界

子供の頃から阿波踊りの世界にどっぷり浸かって生きてきた地元徳島の老人には、上の動画のような、まさに芸術の域に達したような阿波踊りの達人がいっぱいいるようです

私は直接見たことは無いのですが、かつて東京など大都会に花街が隆盛を誇ったころ、その料亭でお客さんたちをもてなすお座敷衆の中に、芸者さんとは別に

幇間(ほうかん)と呼ばれる男性の職業

がありました

この幇間という職業は、「たいこもち」とか「男芸者」「太夫衆(たゆうしゅう)」などとも呼ばれますが、世の中で最も極めることが難しい職業

女性の芸者さんは、若くて美人ならそのお色気だけでもお客は満足しますが、男芸者である幇間は色気なしでお客をもてなし満足させる訳ですから、並大抵ではない

そんな幇間さんたちが、お座敷でどんな芸を披露したのか?

私は見たことないので良くは知りませんが、きっと上の動画のような粋な踊りも披露していたのではないかと想像します

花街の衰退とともに、幇間という職業もほぼ絶滅してしまったのが非常に残念です

咲き誇りし花街文化、風と共に去りぬ

谷崎潤一郎に「幇間」という短編小説があります

(^_^;)~♪

▲ええじゃないか踊り

▲映画「ええじゃないか」予告編

追伸

じいさんの年季の入った踊りもいいけど

やっぱキレイな女性の踊りは最高ですね

(^_^;)

 

半世紀前の遠足

▲半世紀前の遠足の写真   ▼今月の写真

 

数日前(7/2)に小田原の大雄山(最乗寺・道了尊)を歩きました

ここの参道は、いい感じの散歩(軽いハイキング)コースなので、これまでにも何回か歩いてます

ここはアジサイが群生していて、ちょうど咲きごろでキレイだった

そしたら、徳永パパから

「新宿高校1年のときに、遠足で行ってる」

とのご指摘をいただきました

私はすっかり忘れてたんだけど、探したら上の写真(1年A組)がありました

そしてその下が、数日前(7/2)に撮った同じ位置の写真

橋はそのままだけど、後ろの樹木が半世紀間でずいぶん変化してる

左下に物理の有賀先生が写っていて、超なつかしい!

私は理系で物理ダイスキだったので、先生の授業は強く印象に残っています

2006年に1年A組のクラス会があって、担任だった有賀先生もご出席

「人生、したいことをして生きる。これが大事だと思いますよ」

とおっしゃっていたのが印象に残っています

有賀先生はこの6年後にご逝去なさっています

(T_T)

▲2006年の有賀先生 1年A組クラス会にて

追伸

半世紀前の遠足の写真、私は一番上の1枚しか見つからなかったけど、他の写真をお持ちの方がいらしたら、ご提供いただけるとウレシイです

(^_^;) chouyou27@mkosugi.com