52【スポーツ】
ベイノア君「新人王」獲得

新宿高校66回生H組のベイノア君が、10月10日(月)後楽園ホールで行われたキックボクシング・ウェルター級新人王決定戦において、延長判定3-0で勝利し、見事新人王を獲得しました。
「ブラックパンサー“ベイノア”」というリングネームを持つベイノア君の今後から目が離せません。
「オリンピック・パラリンピック フラッグ掲揚式」で母校音楽部が演奏
平成28年9月21日(水)18時から都庁前都民広場(荒天の場合は都民ホール)で行われる、東京オリンピックのキックオフイベントである「オリンピック・パラリンピック フラッグ掲揚式」で新宿高校の音楽部が演奏を披露します。
詳しくはこちら東京都のサイトをご覧ください。
当日の「オリンピック・パラリンピックフラッグ掲揚式」を観に行かれた稲見一政さん(24回 朝陽合唱団チーフマネジャー)から、下記報告がありました。
当日18時から、都庁都民広場にて「オリンピック・パラリンピックフラッグ掲揚式」が開催され、母校音楽部が東京消防庁音楽隊の演奏で「オリンピック讃歌」を歌いました。 掲揚式は都内すべての市区町村に旗を披露する「フラッグツアー」のキックオフイベントで、今何かと話題の小池都知事のご挨拶や、リオで活躍したアスリート達のフォトセッション等で盛況なセレモニーとなりました。
小生はリハーサルから見ていたのですが、その頃はまばらだった観衆もさすがに本番では会場が満杯状態になり、その中でオリンピック旗の入場の際に音楽部が歌った「オリンピック讃歌」はとても印象的でした。
新宿高校出身キックボクサー
新宿高校66回生H組のベイノア君が10月10日(月)に後楽園ホールで、キックボクシングのウエルター級新人王決勝戦に出場します。
リングネームは「ブラックパンサー”ベイノア”」(極真会館所属)です。
極真空手仕込みの多彩な蹴り技とパワーを武器とする注目の逸材。
極真会館東京城北支部所属で2015年西東京大会準優勝、2014城西カップ準優勝などの実績を極真空手で持ち、キックではPETER AERTS SPIRITプレ世界大会選抜トーナメント-70kg級で優勝した。
上の写真は、今年5月のJ-NETWORKでプロデビュー。結果は見事2RKO勝ち。
館山寮見学ツアー
平成28年8月18日(木)、台風が関東東岸にあって時折強い雨に見舞われる中、22名の参加者を得て館山寮の見学ツアーが実施された。幸い見学中は雨に遭うことも無く、厳しい暑さの館山寮を満喫した。
館山寮の厨房は老朽化が激しく、換気も悪く、劣悪な環境にあり、特に夏期には厨房が40℃を超える高温となり熱中症などが心配され、改修が喫緊の課題となっていた。
これにたいし、朝陽同窓会では、新宿高校創立100周年記念募金および朝陽会の資金を元に、館山寮の厨房・食堂の改修を行った。
見学者一同、猛暑にあって、さっそくに食堂に新設されたエアコンのありがたさに感謝であった。
新宿高校前からバスで 続きを読む
訃報 元横綱 千代の富士

大相撲で史上3位の優勝31度を誇り、昭和から平成にかけて一時代を築いた元横綱千代の富士の九重親方(本名秋元貢=あきもと・みつぐ)が31日、膵臓がんのため東京都内で死去した。
九重部屋関係者が明らかにした。61歳。北海道福島町出身。
九重親方は精悍な顔つきと筋肉質の体から「ウルフ」の愛称で呼ばれた。
1970年秋場所初 土俵。81年名古屋場所後に第58代横綱に昇進した。
小兵ながら左前まわしを引いての寄り、豪快な上手投げで土俵に君臨し「小さな大横綱」と称された。
昭 和以降3位の53連勝など数々の記録を残し、89年には角界で初めて国民栄誉賞を受賞した。
91年夏場所限りで現役を引退後、92年4月から九重部屋を継承。
大関千代大海らを育て、2008年に初めて日本相撲協会理事となり、以降は事業部長や審判部長などを務めた。
15年には膵臓がんの手術を受けた。
余りにも早すぎる死 (T_T)
ポケモンGO
世界中で社会現象を巻き起こしているモバイル向けゲーム「Pokémon GO(ポケモンGO)」が、ついに日本でもリリースされました。
iOSとAndroidの両方のプラットフォームでリリースされています。
大逆転 都立小山台高校
新宿高校1999年度卒
第98回全国高校野球選手権大会東東京大会で15日、都立の雄、小山台が初回に奪われた10点をはねかえし、立教池袋を下した。
劇的な試合のヒーローは、八回に逆転満塁ホームランを放った宮川慶悟内野手(17)だった。
八回1死満塁。3点差で打席が回ってきた。
「とにかくヒットを狙って、来た球は全部打ち返す」。
高めの直球を振り抜くと、打球はレフトスタンドへ突き刺さ る逆転満塁弾に。
大歓声が渦巻く中、一塁を回ったときに塁審が手を回しているのをみて、ようやくホームランと気づいた。
「ベンチに戻るまで実感はなかっ た」。
10点差をひっくり返した起死回生の一打は、無我夢中だった。
小学1年から野球を始め、高校も野球ができる学校を選んだ。 続きを読む
毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ
憲法学者・小林節さん
新宿高校1966年度卒
ぐるっと首都圏・母校をたずねる:東京都立新宿高校/7
苦悩の日々が「強さ」導く 小林節さん /東京 – 毎日新聞
昨年6月の衆院憲法審査会で安保法案を「違憲」と断じ、10日投開票された参院選では「国民怒りの声」代表として各地を駆け回った憲法学者で慶応大名誉教授の小林節さん(67)=1966年度卒。
舌鋒(ぜっぽう)鋭い論客という現在の姿からは想像が難しいが、高校時代は「コンプレックスだらけで、現実から逃げ回っていた」という。悩み抜いた青春の日々を語ってもらった。
出身の新宿区立淀橋中は、成績の良い生徒を都立戸山高か新宿高に振り分けていて、新宿高には受動的に入りました。
予習・復習の習慣を身につけてなかったから、授業についていけない。
それと、自分には生まれつき左手に指がない障害があって、それが「みにくいアヒルの子」のように思えて。
思春期でしょ。女性を意識するから、姿に欠点があることは当時の自分にとって致命傷でした。
1年の夏に館山の臨海教室に参加しましたが、僕は泳げないから、遠泳に参加せず浜辺でずっと見ていた。
家に帰ったら顔にシミがたくさんできて、すごみのある顔になっていた。
シミは今も取れずそのままです。それが臨海教室の思い出です。
2年あたりから、授業は好きな英語と政治経済だけ出て、あとはクラスメートに代返を頼んでいました。新宿御苑に壁の穴から侵入して過ごしたり、新聞部の部室で、全国の高校から送られる学校新聞を読んで過ごしたり。
一応出席していることになっているから卒業はできたけれど、3年の成績は学年430人中402番。担任から「大学に行くだけが人生じゃない」と言われました。
高校時代は逃げ回っていた日々。一方で「きちんと生きなくちゃ」という悩みを熟成した期間でもありました。生きているのがいやだけど、死ぬ勇気もない。死ぬ勇気がないなら生きていくしかねえな、と。
何より自分を産んで育ててくれた母親に悪い。母が、私という障害児を産んでしまったために、親戚から「うちの面汚し」と言われていたのを知っていたので。
卒業後は浪人する羽目になって、そこから反転攻勢しました。子どもの頃の目標である弁護士になろうと思いました。
小学校の同級生の父親に苦学して弁護士になった人がいて、その人に「小林君、負けてる人を助けるのが弁護士なんだ」と言われ、なりたいと思ったんです。慶応大に入学した後はひたすら勉強し、大学は首席で卒業しました。
憲法学者は、差別された人や迫害された人に光をあてる職業です。被差別事件に関わっても、誰も僕のことを警戒しない。
一見すると障害者だから仲間と認めてもらえるし、外見の問題だけでなく、高校時代に心の修羅場をくぐっているからだと思います。
昨年6月、衆院憲法審査会で安保関連法案に「違憲」を突きつけた翌日の夕方、記者から「学生団体のSEALDs(シールズ)が機動隊に植え込みに追い込まれている」と言われ、許せないと思って国会前に行き、街頭演説をしました。
憲法で認められた表現の自由で、誰にも迷惑をかけてない。子どもたちに「いいんだよ、これはやっていいんだ」と見せたかった。
今の自分は孤立を恐れない、非常に自立した人間だと思います。それは、逃げ回っていた高校時代、自分という条件から逃げ切れないことを発見したからです。
代返してくれた仲間と、代返を見逃してくれた教師。そんな新宿高のおおらかで雑な雰囲気。その校風が、今の「強い自分」の原点に導いてくれたような気がします。
高校3年間は、本当に深いところでの哲学的決断をするための、迷っている時間をくれた場所です。
臨海教室で大遠泳 連帯感と達成感経験
小林さんが思い出を語った臨海教室は、初代校長が掲げた「学校、家庭、同窓生、生徒が一体となった大家族主義」という理念を具体化する行事として1922年から始まった、同校を代表する伝統行事だ。
当初は希望者のみが参加したが、57年からは全員参加となり、1年生が夏休み期間中に3泊4日で、千葉県館山市にある同校の館山寮で過ごす形式になった。
期間中は携帯電話使用禁止。各部屋にはテレビも冷房もない寮での集団生活で、生徒は心身ともに鍛えられる。
メインイベントは3日目の「大遠泳」だ。
寮の前の浜をスタートして約1キロ離れた大賀海岸まで平泳ぎで完泳を目指す。
生徒は泳力別に事前練習をし、水泳部の卒業生もボランティアで参加する。
手厚い指導と協力体制により、これまで無事故。最近10年は約9割の高い完泳率を誇る。
水泳部OBとして約30年にわたり指導にあたってきた鈴木仁志さん(48)=85年度卒=は、臨海教室で味わった仲間との連帯感と遠泳の達成感を後輩にも経験してほしいと思い、参加を続ける。
鈴木さんは「泳ぎの不安な生徒もいる中、皆で無事ゴールした時の喜びは他ではできない経験」と魅力を語り、「今後も伝統を受け継いでほしい」と話す。
新宿高の「大家族主義」は、臨海教室として今も引き継がれている。
毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ
新宿高校1999年度卒
夏の高校野球の季節がやってくる。
東京都立新宿高校の硬式野球部は、部のOBが監督として指導するのが伝統だった。
現都立小山台高野球部助監督の田久保 裕之さん(34)=1999年度卒=は、新宿高を卒業後、すぐに母校の学生監督に就任し6年務め、教員になった後の小山台高では、同校を都立初のセンバツ 出場に導いた。
高校時代を「毎日がドラマだった」と振り返る熱血先生の田久保さんに、9年にわたった新宿高生活を聞いた。
野球は5歳の頃、阪神ファンの父と1歳上の兄の影響で始めました。
公立中学野球部だった1年生の時に、顧問の先生に「野球も勉強も頑張れるところ」と勧 められ、新宿に入学しました。
野球部でのポジションは1番ライトで、部長。仲間に恵まれ、チームワークも抜群で、3年の春と夏はシード校でした。
3年春の都大会4回戦で強豪の早稲田実業とあたり、七回に一塁からホームインする際、クロスプレーで左足が肉離れした。そのまま足を引きずり守備につきましたが、すぐに交代。チームは逆転サヨナラで負けました。
夏の大会はテープをぐるぐる巻きの状態で出場。3試合ノーヒットで終わり、満足にプレーできず、仲間に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
今思えば甲子園を十分狙えるチームでしたが、当時はただがむしゃらで、どこかに「甲子園は遠い」という諦めもありました。
卒業後は「こんな楽しい高校生活が3年間ではもったいない。ドラマの続きを見たい」と、高校の教員を目指しました。
日本体育大入学後、すぐ母校の監督に なりました。大学4年間は朝、跳び起きて母校の朝練行って、大学へ行って、放課後また母校で練習して、という生活でした。
卒業後は都立高の非常勤講師をしながら監督を続け、6年目の1月、教員採用試験を控え、選手に夏の大会で引退すると伝えました。
その初戦の対戦相手に、 キャプテンの森田慎くんが長年のライバル校の都立戸山高(新宿区)を引き当てた。しかも開幕戦です。
森田くんは「田久保さん、いい(引退の)舞台を用意し ましたよ」とニヤッと笑った。
試合は「新宿ダービー」として盛り上がりました。
ほぼ満員の神宮球場で、結果は七回コールド勝ち。それが監督として夏の大会 初勝利でした。
ちょうど翌日は朝から教員採用試験で、大忙しでした。その大会では3回戦まで進みました。最後の夏に後輩たちからすごいプレゼントをもらい ました。
翌年、念願の教員になり、2010年から小山台高に赴任。硬式野球部の助監督になりました。
チームは14年春のセンバツに21世紀枠で出場しました。結 果は1回戦敗退。期待に応える試合ができず悔しかったですが、やはり甲子園はすばらしく、敗戦から得たものも大きかったです。
監督の魅力は、教室や机上の勉強だけでは見えない、生徒の土壇場の底力を見られることです。
自分の高校時代の後悔から、生徒には「甲子園に行きたい」ではなく「行くんだ」と思わせることがスタートラインだと肝に銘じています。
私には夢があります。いつか、母校に戻るチャンスがあったら、監督として甲子園に導きたい。
地元の伊勢丹、高島屋、小田急百貨店、京王百貨店に「新宿高 出場おめでとう」の垂れ幕がかかり、地元の方が喜び、全国の皆さんに新宿高を知ってもらえれば−−。
そのために今は修行中です。
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19〜74歳のOB 現役より先に「甲子園」
戦前の旧制六中時代に創部され、終戦直後には都大会決勝まで進んだこともある新宿高硬式野球部。2008年には田久保さんも参加するOBチーム「マスターズ新宿」が誕生し、現役より一足先に甲子園出場を果たしている。
チームは硬式野球部OB会「朝陽白球会」の、20歳から79歳の約100人が選手登録。月1回ほど企業のグラウンドなどを借りて活動している。
「マスターズ甲子園」は、元高校球児たちが世代を超えて出身校別にチームを結成し、地区予選を経て甲子園の舞台に立つ大会だ。
09年、チームは都予選を 勝ち抜き、現役チームが手にしたことのない甲子園切符をつかんだ。
翌年11月の試合当日、徳島・鳴門高との対戦では、代打や細かい守備交代で、参加した 19歳から74歳の50人全員が試合に出場。
試合には負けたが、アルプススタンドでは駆けつけた同窓会メンバーが大いに盛り上がった。
OBの宮崎直道さん(62)=1971年度卒=は、「長年の夢がかない、最高の気分でした」と振り返る。
現在、チームは2度目の出場を目指し、練習に励 む。
一方で、過去にはマスターズの甲子園出場に発奮した現役チームが後に甲子園初出場を果たした例もあり、先輩たちは現役生の奮起にも期待を寄せる。
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卒業生「私の思い出」募集
都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。
300字程度で、学校生活や恩師、友人との思い出、またその後の人 生に与えた影響などをお書きください。
卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地 方部首都圏版「母校」係(住所不要)へ。
メールの場合はshuto@mainichi.co.jpへ。
いただいた「思い出」は、毎日新聞やニュースサイト で紹介することがあります。
新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。
ツイッター @mainichi_shuto
フェイスブック 毎日新聞 首都圏版
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たくぼ・ひろゆき
1981年東京都生まれ。
日本体育大体育学部卒業。2006年都立園芸高、10年同小山台高定時制課程教諭。
都立園芸高では部員9人の軟式野球部監督、 小山台高では硬式野球部助監督。
12年から、野球指導に関わる若手教員のレベルアップを目的に、「東京高校ベースボール若手会」(通称TKB)を主催し、 定期的に勉強会を開催している。