1967年 – 東龍太郎都知事時代、小尾乕雄(おびとらお)教育長の主導によって都立高校入試に学校群制度が採用されることとなった。
1966年4月に同制度の構想を公表、7月に導入を正式決定、1967年2月に同制度による第1回入試を実施と、構想の公表から入試実施まで1年足らずであった。
詰込教育批判への対応から学力試験の科目数が9科目から3科目へと削減され、9科目の内申と学力試験とを実質的に同等に評価することとなった。
同時に、第二志望を認めるしくみをなくし、不合格者は学区内での成績いかんにかかわらず都立高へは進学させないこととなった。
学校群制度は美濃部亮吉都知事時代にそのまま引き継がれ、鈴木俊一都知事時代の1981年まで存続した。
* 制度導入の背景として、受験戦争の過熱があった。とりわけ、旧制時代のナンバースクールをはじめとする名門校には、希望者が殺到していた。住民票を当該校学区内に移しての越境入学が常態となり、都民からは不満の声が上がっていた。
* 都立の特権進学校をなくし八ヶ岳的に進学実績がなだらかになることを狙ったものと云われているが、国立や私立高校、ひいては私立中学へ受験生が流出し都立高校の進学実績が全般的に低下することになった。
また、これ以降、15歳どころか12歳の春を泣かせることになり受験競争の年齢が更に下がることになった。
あるいは当初の多様性を狙いとするのなら国私立も含めた大枠からの施行であるべきところ、単に国私立の特権校をつくりだしただけだ、などとの批判も根強く、学校群施行前から指摘されていた。
つまり社会科学的見地からも選択肢の多い東京など大都市圏では特にその実効性を上げ難いことが云われていた。
内申点の重視は、中学生の部活動加入を高め、また偏差値による輪切りが見られるようになるなど、戦後民主主義の思想的潮流と同時に当時の管理教育の時代背景があることも見逃せない。
* 学校群編成にあたり、旧制中学系と旧制高女系の一流校は基本的に同一の群とされ、名門校の温存が図られた。その結果、学校群内の学力は均質になったものの、今度は学校群間に格差が発生した。
第二志望が認められなくなったため、高学力の難関学校群不合格者はいわゆる滑り止め高などの私立高校へ流出することとなった。
また、もともと校風の全く異なる学校(学校群以前において、旧制中学系高校は男子、高女系は女子の定員比率が高く設定され、旧制以来の校風が残されていた)同士を組み合わせたため、本来の志望校以外に振り分けられた場合の違和感は大きく、多くの都立棄権者を出すことになった。
* 学校群制度は、その内容から俗に「日比谷潰し」と称された。同校は九段及び三田と学校群「11群」を形成したが、
(1)他の主要学校群がおよそ二校なのに比して三校で群を形成、
(2)受験生の意思による単独での学校選択が出来なくなったこと(その他に部活動に関しても、入学後は野球をする意志のある者は当時野球部が存在しなかった三田には入学しないであろう)、
(3)住民抄本提出の義務等など学区外からの越境入学が難しくなり受験出来る者が限られたこともあり、志願者層の変化が起こったこと、
(4)1965年の進学指導中止を申渡す「第1次小尾通達」もあり、学園紛争の影響下、都立各校では進学指導を中止する動きが広まったことや補習科の廃止など、教える側の熱意が奪われたこともあり教育内容面での変化も起きたこと、
(5)新中間層の出現など大衆受験社会の到来もあり時代的に国私立の中高一貫校の台頭など進学ルートの多様化が既に見られたこと
など、その他の要因(学校個々の文化資本、ドーナツ化現象etc)もあるにせよ東大合格者数トップの座を失い、以後も同じ都立高である西や戸山等と比較しても急速に東大合格者数上位校からもその名が消えることになった。
1977年 – 文部省から国公立中学・高等学校に「ゆとり教育」の方針が打ち出される。
1982年 – 学校群制度廃止。