新宿高校ご出身の皆さんなら
ご存じの内容も多いかもしれませんが
新宿の歴史をまとめた動画です
(^_^;)
新宿高校ご出身の皆さんなら
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新宿の歴史をまとめた動画です
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▲靖国神社
朝陽同窓会の「朝陽」の元になったのが、明治天皇の御製(和歌)ということは、新宿高校ご出身の方ならご存じだと思います
さしのぼる 朝日のごとく さわやかに
もたまほしきは 心なりけり
あえて現代語に訳せば
空高く昇って行く朝日のように、いつもすがすがしく
明るく、さわやかな心を持ちたいものです
それで先日3/29、靖国神社にお花見に行ったら、よく似た御製(和歌)がありました
明治天皇は和歌が大好きだった(生涯に5万首をつくった)ので、よく似た和歌もあるということなのでしょうね
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東京駅の両脇にある、品川駅と上野駅
新幹線停車駅としての位置づけは似ているのですが、性格は対照的です
品川駅は高層ビルが続々と建設され、大企業の本社が並ぶ丸の内や大手町のようなビジネス街への道をひた走っています
それに比べて上野駅は変化が乏しく、発展に取り残された印象すらあります
でも歩いて見ると、面白くて楽しいのは上野駅周辺かもしれません
日本の芸術の中心としての上野公園に、不思議な活気のあるアメ屋横町、少し歩けば下町情緒の残る浅草につながる
これ以外にも山手線には、新橋、渋谷、新宿、池袋など、個性的な駅がいっぱい並んでいます
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人工知能(AI)の最先端、ChatGPTをつかってみました
上の画像は「坂本龍一の新宿高校時代について」とChatGPT3.5に質問したときに返って来た回答です
ChatGPTは英語ベースですから、ChatGPT内部では、私の日本語の質問を英語に翻訳し、それについてChatGPTが英語で回答し、さらにその回答を日本語に翻訳している訳です
そんなことを感じさせないほど素早く、自然な日本語で回答しています
回答の文章は、Googleあたりで調べたどこかのWebサイトの文章なのではないか?という疑惑が出る訳ですが、その辺はすでに調査されていて、ChatGPTの回答文はWeb上のどこにも存在しない全く新しい文章であることが明らかになっています
もちろん元になっている知識ベースは、ChatGPTがWebなどの情報源から「学習」した情報(数兆項目と言われている)なのですが、それを換骨奪胎、新しく作り直している訳です
生きた人間だって、その人が過去に学習した知識を再編成して文章を書いたりしているのですから、事情は同じです
単に知識(情報)を回答するだけなら、Google検索よりちょっと便利かなという程度なのですが(それでもGoogleは強力なライバル出現に、猛烈な危機意識を持っている)、問題は知識を用いた判断や創造の能力です
今回つかったChatGPT3.5の判断力は、人間で言えばまだ小中学生レベルだろうと言われてますが、今月(2023年4月)公開されたChatGPT 4は、すでに高校生~大学生レベルの能力を持っているようです
試しにMBAや司法試験を受験させたところ、上位で合格したそうです
既存の大量の専門知識をつかって判断を下す仕事(医師や弁護士も含まれます)が人工知能に置き換わる時代が目の前に迫っています
人工知能が実用化された時代に、真っ先に変革を迫られるのは、教育の世界だと思います
今のところ学校教師は、論文作成でChatGPTを用いることを禁止するとか、牧歌的でピントのズレた対応をしていますが、いずれ「人工知能を使いこなす能力」が人間の能力の核心になるのは間違いないでしょう
毎年同じことを教える生活を長年繰り返し、無競争でぬるま湯に浸かってアタマがボケた公立高校などの学校教師に「人工知能を使いこなす能力」など期待できません
いっそのこと、既存の学校教師を全員クビにして、教育者の役割を人工知能に果たしてもらうのがよいのかもしれません(これは冗談で言っているのではない)
人工知能が人類に幸福をもたらす万能ツールになるか、破滅に導く悪魔の兵器になるか、それを決めるのは21世紀の人類に課せられた使命です
核分裂反応の技術だって、原子力発電所で夢のエネルギー源にもなり得ますが、赤組(中露韓北)の頭のおかしいボケ老人の独裁者(→)が使えば、人類を破滅させることも出来ます
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【ChatGPTの回答】坂本龍一(Ryuichi Sakamoto)は、1952年1月17日に東京都中野区で生まれました。彼は、高校時代を東京都新宿区にある新宿高等学校で過ごしました。
当時、新宿高校は音楽の名門校として知られており、坂本龍一も音楽科に進学しました。彼はピアノを専攻し、才能を発揮していました。高校時代から作曲や編曲にも取り組んでいたといわれています。
また、坂本龍一は高校時代に、後に「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」として知られるグループのメンバーである高橋幸宏と出会っています。高橋との交流が後の坂本の音楽活動に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
坂本龍一は、高校を卒業した後、東京芸術大学音楽学部に進学し、音楽家としての道を歩むことになりました。
【ChatGPTの回答】坂本龍一は、新宿高校時代から音楽に熱心に取り組んでいたことで知られています。彼は、高校時代にクラシック音楽やジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽に触れ、自身の音楽性を形成していったと言われています。
また、高校時代には、音楽活動だけでなく映画制作にも携わっていました。坂本は、高校時代に友人と共同で制作した映画「アサルト少女」の音楽を担当し、自らも出演しています。
坂本は高校時代から優れた音楽家として認知されており、在学中には数々の賞を受賞しています。例えば、高校2年生の時には、日本放送協会(NHK)主催の「全国学校音楽コンクール」でピアノ部門の最優秀賞を受賞しています。
坂本の音楽的な才能は、高校時代にさらに磨かれ、その後の音楽活動に大きく貢献しました。彼は、新宿高校時代に培った音楽的な感性や知識を基に、独創的な音楽を生み出していったのです。
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上の【ChatGPTの回答】に、少し変なところが
ありますが、気がつきましたか? (^_^;)
新宿高校在学中に、当時吹き荒れていた全共闘運動に巻き込まれてパヨクに染まり、パヨクによる洗脳が生涯とけなかった
音楽家としての世界的な名声をパヨクに利用されて、パヨクの集会などに登場しているのを見るのは痛々しかった
「芸術は長く、人生は短し」Ars longa,vita brevis
この「Ars(英語でart)」という単語は、日本語の「芸術」よりも意味が広く、技術や学問など「○○術」「○○道」と呼ばれるような諸芸一般を差す言葉なので、
「道は長く、生は短し」
と訳す方がふさわしいかもしれません
それにしても「道」という漢字には、
なぜ「首」が含まれているのか?
「芸術は長く、人生は短し」を分かりやすく言い直したのが、
ガンジー(→)の名言と言われている
明日死ぬと思って今日を生きよ
永遠に生きるつもりで今日学べ
ではないかと思います
佐藤一斎も似たようなことを言っていて
若くして学べば、壮して成すあり。
壮して学べば、老いて衰えず。
老いて学べば、死して朽ちず。
ご冥福をお祈りします
(T_T)
坂本龍一さんが、先月28日、亡くなりました。71歳。
幼少期からピアノと作曲を学び、新宿高校を経て藝大に入学。
藝大大学院を修了後、1978年にミュージシャンの細野晴臣さん、高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」として、アルバムを発表し、当時最新の電子楽器を使った斬新な音楽性で“テクノポップ”という新たなジャンルを築きました。
1988年には、映画「ラストエンペラー」の音楽でアカデミー賞作曲賞を受賞したほか、グラミー賞など数々の賞を受賞して国際的な評価を高めました。
2014年、中咽頭がんと診断され、治療後に音楽活動を再開しましたが、2021年に新たに直腸がんが見つかったことを公表していました。
癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした。
坂本さんが好んだ一節
芸術は長く、人生は短し
Ars longa,vita brevis
少し前から新橋駅前のSL周辺を工事していて、何だろな?と思っていたのですが、これ(高輪築堤)だったんですね
昨年秋に日本の鉄道開通150周年を迎え、鉄道開通時からある品川駅や新橋駅では、いろいろな行事が行われて、これもその一環のようです
150年以上前の日本人は鉄道など見たこともなかったので、明治政府で鉄道整備責任者になった大隈重信(早稲田大学の創立者、→)たちは鉄道用地の確保に非常に苦労しました
そのため都心の新橋品川間は、東京湾の浅瀬を埋め立てて線路(高輪築堤)をつくりました
日本に初めて出来た鉄道がいきなり海上を走るというのも奇抜で、下の絵(↓)のように対岸の高輪海岸には見物客が押し寄せ、小舟に乗って見物している人たちもいますね
港区高輪エリアは今でも高台ですが、高台に登るための道に手すりとして縄が張ってあり、それで高縄(たかなわ)と呼ばれていたそうで、それがいつの間にか高輪に変化しました
その後、東京湾の埋め立てが進んだために、海上だったはずの線路の周辺は地上になってしまい、高輪ゲートウェイ駅の工事で高輪築堤が出土した訳です
わずか150年前のものですから、1000年以上前の遺跡や歴史的建造物がいくらでもある日本では、余り大騒ぎするほどのものではありません
保存に手間をかけすぎると、現在の工事の障害になります
地元の港区には、あの有名なマック赤坂(←、本名:戸並誠、となみまこと)というタレント(?)港区議もいます
この人、これでも京都大学出身なんですよね
ちゃんと港区赤坂のマンションにお住まいです
港区長には区役所職員上がりの武井雅昭区長(↓)がいて、地味な実務家としてソツなく区政をこなしています
(^_^;)
▲高縄鉄道の図
右側の高台が高縄(高輪)で見物客が集まっています
右上の線路が地上に上陸しているあたりが現在の品川駅
左上の沖合には、お台場や黒船(?)まで描かれています
1世紀半前の1872年、鉄道開業時の線路を敷くため、東京湾の海上に築かれた高輪築堤(たかなわちくてい)。
それを再現した長さ22メートル、高さ1メートルの石垣が3月15日、東京・JR新橋駅前のSL広場に登場した。
地元の東京都港区による鉄道開業150周年の記念事業。
高輪築堤を解体した石を使い、新橋駅前のモニュメントとして親しまれているSLの土台として整備した。
品川駅周辺の再開発工事に伴い4年前に発掘された、高輪築堤の第七橋梁きょうりょう橋台部に使われていた安山岩267個を使って、実物のように30度の傾斜をつけた。
披露式典で、港区長の武井雅昭(→)は、日本初の鉄道が新橋—横浜間で開通したことに触れながら「鉄道発祥の地を一層、発信したい」とあいさつした。
地元・愛宕一之部連合町会会長の丸哲夫(81)も「SL広場に歴史的価値が加わった」と喜んだ。
港区によると、高輪築堤の実物の石を使ったモニュメントができるのは、明治新政府で鉄道整備の責任者だった大隈重信の故郷、佐賀県の県立博物館、東京・豊洲の広場に続いて3例目。
港区は、現地保存が一部にとどまっている築堤について、より広範囲な保存の必要性を訴えていきたいとしている。
▲虹橋(レインボーブリッジ)とお台場
▲安田講堂を横から見上げたところ (^_^;)
貧しい生まれだが頭が良くて成り上がっていく
ソフトバンクの孫正義(←)を思い出しますね
貧しさやコンプレックスには
人を駆り立てる上昇パワーもありますが
どこか不安定な影のようなものも感じさせます
無教会派、生長の家、共産党、新興宗教GLAなど
宗教カルトを転々とした父親、中川忠義の人生が
中川隆(大川隆法)の人生に、大きな影響を与えたのは間違いなさそうです
父親のカルト体験から「カルト教祖はイケる!」と確信した商社マン中川隆(大川隆法)は
持ち前の頭脳を生かして「洗脳の科学」を研究し実践しました
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「幸福の科学」の教祖、大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。
地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていた。
その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。
麻布台のボロ家に身を寄せた一家は、思い思いの働きで貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。
だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。共産党に入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。
そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をした。
その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、
どんな小さな学校であっても、
一番だけは違うよ。
どんな狭い地域社会においても、
一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。
中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。
君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、
誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
佐野眞一著『幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち』から
いつも前を通る古本屋には、店先の百円コーナーに大量の本が並べてあります
昨日、ふと立ち止まって見ていたら、上のような古本があったので買いました(他に4冊、ぜんぶ1冊100円)
以前に買った本が大量に「積ん読」になっていたりするので、最近は本を買うことが少なくなりました
しかも大抵の本は、アマゾンで注文すればすぐに(1~2日くらい)で送られてくるので、街の本屋で買うことは本当に少なくなった
そのせいで本屋が壊滅的に減っているのは悲しいことなのですが、やはりアマゾンの便利さにはなかなか勝てない(文明とは「便利さ」のことだと思います)
上の本は、昭和42年(1967年)発行ですから、半世紀以上も前の本です
当時の日本全国の県民性を扱っています
私は歴史がダイスキで、その中でも特に普通の人々(平民とか農民とか庶民)の生活や生き方の習慣、世界観がどんなだったかに興味があります
柳田國男(→)や折口信夫らによって始められた民俗学のテーマですね
千葉県の佐倉市には、国立歴史民俗博物館(↓)というのがあって、日本の各時代の風俗習慣を実物展示しています
10年くらい前に見学に行ったのですが、展示量が膨大でとても1日では見切れず、また行きたいと思っています
今でも我々の日々の生活やものの見方考え方には、江戸時代やそれ以前から続く風俗習慣が根強く残っていて面白い
しかも風俗習慣には地域性があって、今でも関東と関西では別の国かと思うようなことがありますよね
これをさらに細かく分けて「県民性」として見ているのが本書のテーマです
交通や通信が発達して、県民性がだんだん薄れていくのは社会の必然ですが、完全に消え去るには、まだ長い時間(何世紀も)かかるような気がします
(^_^;)
国立歴史民俗博物館