▲安田講堂を横から見上げたところ (^_^;)
80【ヒストリー】
貧しい育ちの大川隆法こと中川隆 「洗脳の科学」を研究して「幸福の科学」を起業する 宗教カルトを転々とした父親
貧しい生まれだが頭が良くて成り上がっていく
ソフトバンクの孫正義(←)を思い出しますね
貧しさやコンプレックスには
人を駆り立てる上昇パワーもありますが
どこか不安定な影のようなものも感じさせます
無教会派、生長の家、共産党、新興宗教GLAなど
宗教カルトを転々とした父親、中川忠義の人生が
中川隆(大川隆法)の人生に、大きな影響を与えたのは間違いなさそうです
父親のカルト体験から「カルト教祖はイケる!」と確信した商社マン中川隆(大川隆法)は
持ち前の頭脳を生かして「洗脳の科学」を研究し実践しました
((((;゚д゚))))
「幸福の科学」の教祖、大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。
地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていた。
その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。
麻布台のボロ家に身を寄せた一家は、思い思いの働きで貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。
だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。共産党に入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。
そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をした。
その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、
どんな小さな学校であっても、
一番だけは違うよ。
どんな狭い地域社会においても、
一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。
中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。
君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、
誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
佐野眞一著『幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち』から
古本屋で県民性の本を買う
いつも前を通る古本屋には、店先の百円コーナーに大量の本が並べてあります
昨日、ふと立ち止まって見ていたら、上のような古本があったので買いました(他に4冊、ぜんぶ1冊100円)
以前に買った本が大量に「積ん読」になっていたりするので、最近は本を買うことが少なくなりました
しかも大抵の本は、アマゾンで注文すればすぐに(1~2日くらい)で送られてくるので、街の本屋で買うことは本当に少なくなった
そのせいで本屋が壊滅的に減っているのは悲しいことなのですが、やはりアマゾンの便利さにはなかなか勝てない(文明とは「便利さ」のことだと思います)
上の本は、昭和42年(1967年)発行ですから、半世紀以上も前の本です
当時の日本全国の県民性を扱っています
私は歴史がダイスキで、その中でも特に普通の人々(平民とか農民とか庶民)の生活や生き方の習慣、世界観がどんなだったかに興味があります
柳田國男(→)や折口信夫らによって始められた民俗学のテーマですね
千葉県の佐倉市には、国立歴史民俗博物館(↓)というのがあって、日本の各時代の風俗習慣を実物展示しています
10年くらい前に見学に行ったのですが、展示量が膨大でとても1日では見切れず、また行きたいと思っています
今でも我々の日々の生活やものの見方考え方には、江戸時代やそれ以前から続く風俗習慣が根強く残っていて面白い
しかも風俗習慣には地域性があって、今でも関東と関西では別の国かと思うようなことがありますよね
これをさらに細かく分けて「県民性」として見ているのが本書のテーマです
交通や通信が発達して、県民性がだんだん薄れていくのは社会の必然ですが、完全に消え去るには、まだ長い時間(何世紀も)かかるような気がします
(^_^;)
国立歴史民俗博物館
坂本龍一 音楽の歴史 新宿高校から東京藝大へ
71歳を迎え、記念発売される『坂本龍一 音楽の歴史』より、彼の足跡を一部抜粋。
三島由紀夫の担当編集者でもあった父・坂本一亀の長男として生まれた。
1970年、新宿高校を経て東京藝大に入学した日々を辿る。
(^_^;)
復活!特撮分科会「特撮クイーンは誰か?」
中国コロナもようやく収まりつつある今日このごろ
永らくお休みだった特撮分科会が復活!しました
2/15の夕方から、場所は池袋のカラオケ「コートダジュール」
木下さんが準備してくださったDVD動画を、お店のディスプレイに流して、特撮議論に花が咲きました
木下さんの準備資料もスゴかった!
幹事の山潤さん、会場紹介の大野さん、ありがとー
(^_^;)
▲今回の分科会の議題「特撮クイーンは誰か?」
1位 : 出演作最多7作妖艶な、水野久美
2位 : 井野先生押し清純な、藤山陽子
3位 : 今見ても美しい、白川由美
(八千草薫は他と比べられない別格)
▲水野久美
▲藤山陽子
▲白川由美
▲別格の八千草薫が主演女優「ガス人間第一号」
▲「ガス人間第一号」予告編
▲山潤さんのご両親のコンサート・パンフレットに挟まっていた昔の切符
いわゆる「硬券」という、厚いボール紙で出来た切符
昭和29年5月7日、JRの電車が「省線」と呼ばれていて
まだ券売機も自動改札も無い時代ですね
田町から乗って、10円で両国まで行けた!
建国パレード表参道2023と裏原宿、明治神宮
江戸のお座敷芸「かっぽれ」
このところ、こうの紫さん(←)を中心に、YouTubeで小唄長唄などの古典邦楽をBGM的に聴いているのですが、この「かっぽれ」もその中の名曲のひとつです
もともと大道芸だったので、他のお座敷芸に比べると飾り気が少なく、いかにも庶民の芸能という感じがしますね
上の動画のおばさん(師匠?)の、ノリの良さには感動します
江戸時代のちょっと豊かな町人は、こんなお座敷芸を楽しみながら、のんびり飲んだり食ったりしていたのでしょうか
日本の江戸時代260年は、世界史でもまれに見る長く平和が続いた時代で、「パクス・トクガワーナ」などと呼ばれたりもします
芭蕉に代表される江戸の都会的な文人たちは、「軽み」というものを重視し、重々しく深刻ぶることを田舎臭いものとして嫌いました
何ごとも壮大な体系を構築して重々しく深刻ぶるドイツ流の学問が明治日本で重視されたのは、明治政府の高官たちの多くが、薩長の田舎侍出身だったからかもしれません
人生なんて長いようで実は短いんだから、深刻ぶってないで軽いノリで楽しんだ方がいいんだよと、江戸っ子は考えていたのかな
(^_^;)
東京科学大学 東京工業大学と東京医科歯科大学の統合後の名称
東京工業大学学長の益一哉 東京医科歯科大学学長の田中雄二郎
東京科学大学
どっかの新駅の駅名(→)みたいな変な名称にならないかと心配していたのですが、割と無難な名称に決まって安心しました
私は昨年末に応募して「先端研究大学」を提案しました
提案しておいて何ですが、先端とか卓越みたいな、レベルの高さを表す形容詞的な言葉は、時代が経過すると安っぽい方に意味が変化(陳腐化、インフレ化)するという避けられない問題があります
かつて「高等学校」とは、文字通り「高等な学校」という意味で、これから帝国大学(専門課程)に進む予定の当時の超エリート(高級官僚予備軍)たちが、その前に寮生活で青春の一時期を過ごしながら(旧制高校は全寮制だった)、人生いかに生きるべきかを思索し、「高度な一般教養」を身につける場だったのですが、戦後の学校制度改革(旧制高校→新制大学教養課程、旧制中学→新制高校)などを経て、いま高等学校(高校)という言葉の意味は、かなり下がっているのはご存じの通り
旧制第一高等学校(現在の東京大学)の寮歌に、「栄華の巷低く見て」(↑)という一節があります
旧制高等学校と言えば、明治初期の創立から昭和23年の旧制高等学校廃止までの卒業生総数が20万人くらいしかいない、まさに当時の日本人社会の上位1%以下の、超エリート養成所でした
この「栄華の巷(ちまた)低く見て」の一節には、自分たちが国家社会を支えリードしていくんだという、優秀な若者らしい気負いや気取り(一種のエリート臭)があり、そのためには実社会の実利を離れた知識や学問を尊重し、俗世間の垢にまみれた発想を廃すべきだという精神貴族的な主張が強く感じられます
かつての旧制高等学校では、例えば哲学みたいな浮世離れした、日常生活にすぐ役立たないことこそ「高度な一般教養」として尊ばれたので、そのせいか今でも高校のカリキュラムには、実用性に乏しい内容が多く残っているような気がします
古文漢文や微分積分(みんな最後に「ブン」が付きますね)より、もっと実用的な、クルマの運転法、パソコンの基礎知識、マネー運用法、行政サービスの利用法など、大人の社会生活に必要な実用知識技能を高校で教えるべきだという意見は根強いのですが、教育の世界はとにかくガチガチ保守的ですので、まったく実現していませんね
古文漢文や数学の教師たちが、失業して食っていけなくなると困るからかもしれず、何ごとも既得権益を壊すのは難しい
東京工業大学の創設時の名称は「東京職工学校」で、何だか今「職工」と聞くと非常に安っぽく感じますが、当時の「職工」は高級技術者という意味でした
東京医科歯科大学は、かつては「東京医学歯学専門学校」という名称で、大学ではありませんでした
明治時代の帝国大学医学部は医学研究者(研究医)を養成する場で、開業医などの臨床医はそれより一段下の医学専門学校で養成するというのが、明治政府の方針だったようです
そのことが医学専門学校(医専)出身の医者の学歴コンプレックスになり、戦後の学制改革などで、みんな「大学医学部」に格上げされてゴッチャになってしまいました
今回決まった東京科学大学の「科学」は、単純に(専門の)領域を表す名詞的な言葉で、レベルの高さを表す形容詞的な意味合いは無いですから、名称陳腐化(インフレ化)の危険は少ないと言えそうです
類似の既存大学名として私立の「東京理科大学」があって、こちらの英語名は、「Tokyo University of Science」であって、完全にカブるので「Institute of Science Tokyo」にしたのでしょうね
東京工業大学の従来の英語名「Tokyo Institute of Technology」は、略するとTITになるのですが、このTITという単語には「乳首」という意味があって、東工大関係者は長年、英語論文などでこの英語略称を使うことに多少の抵抗を感じていましたから、今回やっと解決しそうです
日本政府の兆円単位の大学ファンドからタップリ研究費をいただいて、ノーベル賞を量産し、明日の新産業をバリバリ生み出していって欲しいものです
(^_^;)
2024年度に統合を目指す東京工業大学と東京医科歯科大学は、新大学の名称を「東京科学大学」にすると公表しました。
両校は昨年末、新大学名の提案を公募し、それを参考にしながら新大学にふさわしい名称を検討してきました。
その結果、新名称を「東京科学大学」として大学設置・学校法人審議会へ提出することで合意し、両校のホームページで公表しました。
英語表記は「Institute of Science Tokyo」で、略称は「科学大」です。
両校は統合のうえ、「国際卓越研究大学」の認定を目指していて、認定されれば日本政府の10兆円規模の「大学ファンド」から多額の支援を受けられるようになります。
東京都府中市 人気漫画「ちはやふる」の街
青梅と青海は文字も読みも超似ているので、青海駅に行くつもりで青梅駅に行ってしまったという悲劇が、時々発生するそうです
片道2時間かかりますから、確実に半日ツブレて、予定が滅茶苦茶になりますね
さすがに東京都府中市と間違えて、広島県府中市まで行ってしまうアワテ者は少ないと思いますが、東京都の府中市役所には、広島県府中市についての問い合わせ電話とか、しょっちゅうらしいですよ
日本の都道府県とか市区町村の境界線って、かなり複雑に曲がりくねってますよね
日本は歴史の長い国なので、「いろいろ複雑な事情」が反映されてるのだと思います
アメリカの州の境界線は超単純で、何でもシンプルな基準を作って割り切ってしまうアメリカ人の合理的な気風や、いかにも荒っぽい西部劇の時代を感じます
ワイオミング州とかコロラド州、四角い紙に印刷するには、紙の無駄が少なくて良さそう
原住民のインディアンには、それぞれの土地に対する愛着や、「いろいろ複雑な事情」があったと思いますが、白人との土地の奪い合いの戦争に負ければ、そんな愛着や事情は一切無視されて、狭い居留地に強制移住させられました
日本人が日本の国土にどれほど愛着を持っていても、一度でもロシアとの戦争に負ければ、そんな愛着は一切無視されて、日本人は全員、極寒のシベリア奥地に強制移住させられ、戦争になれば真っ先に最前線へ送られて、虫けらのように死ぬ訳です
競技かるたを題材にした人気漫画「ちはやふる」は、主人公の女子高生と幼なじみが府中市に暮らす設定。
主人公らが所属する、かるた会「府中白波会」は、実在の「府中白妙会」がモデル。
大國魂神社に初詣する場面も。
府中市の名前の由来は、奈良時代から平安時代の約四百年間、武蔵国の役所「国府」(↓)があったため。
府中市は人口26万人で、新宿から西へ約22キロ。
競馬場や刑務所のほか、農工大と外語大の二つの国立大キャンパスも。
広島県にも「府中市」がある。
広島県府中市も備後国の国府があった。
2006年に北海道伊達市と同名の福島県伊達市が誕生するまで、「府中市」は約50年間、国内で唯一の同じ漢字の市名だった。
市制施行は広島では1954年3月31日で、東京では同年翌日の4月1日。
わずか1日違いになったのは偶然か。
▼多摩ファミ定演、もうすぐです
ワクワク (^_^;)~♪
歳末の東海七福神と鈴ヶ森刑場跡を歩く