▲池辺晋一郎(新宿高校OB)作曲
水戸出身で立花隆とは家が近く、幼なじみ
▲池辺晋一郎(新宿高校OB)作曲
水戸出身で立花隆とは家が近く、幼なじみ
新宿駅の構内図を3Dで再現
https://satoshi7190.github.io/Shinjuku-indoor-threejs-demo/
ガザ地区にテロ集団ハマスが作った地下通路網は、これよりはるかに複雑なんだろうけど、もう壊滅状態なんだろうね
深さ80m、長さ500kmもあるんだそうです
世界一アタマの良いユダヤ人(イスラエル)のことだから、たぶん3Dマップを作って、細かく分析していたと思うよ
東京の地下鉄で一番深い大江戸線の六本木駅ホームは、深さ42m(地下7階)
地上からエスカレーターで降りていくと、その深さが実感できます
ガザ地区とイスラエルの境界にある地下障壁は、深さ20mしか無いので、それより深いところでイスラエル側にもトンネルを掘って侵入していたんでしょうね
地中貫通ミサイル「バンカーバスター」は、厚さ6mのコンクリートも突き破り、深さ60mまで貫通し、通常の地下施設であれば深さ150~200mまで破壊力をもつそうです
((((;゚д゚))))
▲カーネギーホール
買収額は141億ドル(約2兆円)
USスチールは122年の歴史を誇り、かつて世界最大の企業でした
米国を代表していた大企業が海外勢に買収されるというのは、米国人にとっても感慨深いようで、米国でも大きく報じられています
「中国ではなく日本の企業に買収されて良かった」
と感じているかもしれません
いま中国は不動産バブルの破裂で、それどころではないと思いますけどね
日本でも東芝が、海外ファンドに買収されそうになってましたね
私も理系出身なので、友人が何人も東芝に就職しました
いま「半導体JAPAN」復活の流れに乗って、東芝が大復活して欲しいものです
USスチールは1901年の大合併で誕生しました
日本製鉄の前身の八幡製鉄も1901年の設立
良きライバルと言いたいところですが、かつての八幡製鉄から見たら、USスチールは雲の上の存在でした
USスチールの設立に深く関与したのが、鉄鋼王カーネギー(←)
日本で言えば、新一万円札の顔、渋沢栄一みたいな人
NYのカーネギーホールで有名です(↑↓)
カーネギーホールで演奏することは、世界の演奏家の夢
ピアニストのルービンシュタイン(→)が、ニューヨークで道を歩いているときに観光客から
カーネギーホールへの道
を尋ねられ
Practice, practice, and practice.
(練習して、練習して、さらに練習してください)
と答えたという逸話は余りにも有名
歩行者には5分で行ける道のりでも、演奏家には遠い遠い、さらに遠い道のようです
鉄鋼王カーネギーにも、次のような有名な逸話があります
母親と一緒に市場へ買い物に行ったカーネギー坊や
果物屋に山積みされていたサクランボに見入る
気付いた果物屋のおじさんが
「一つかみ、あげるよ」
しかしカーネギー坊や、手を出さない
おじさん「サクランボ、嫌い?」
坊や「好き」 でも手を出さない
おじさんは不思議そうな顔で、サクランボをつかんで坊やの帽子に入れてやる
帰宅後に母親が「どうして自分で取らなかったの?」と尋ねると、カーネギー坊や
「おじさんの手の方が大きかったから」
さすが大実業家、ガキのころからシタタカだったようです
この種の逸話は、伝言ゲームで話が盛られていくので、どこまでホントか知らんけど
(^_^;)
▲カーネギーホールの内部
▲哲学堂公園
「君たちはどう生きるか」を書いた吉野源三郎が東大哲学科を出ているので思い出したのですが、中野区にある哲学堂公園を作った井上円了(いのうええんりょう、→)という人がいます
東洋大学の創設者で、新潟県長岡市のお寺の跡取りとして生まれましたが、東大哲学科を出て、寺を継がずに哲学者になり、明治大正の思想界に大きな影響を与えました
私の親が長岡市(旧山古志村)出身なので、今でも長岡には親戚が多く、長岡出身の井上円了に親しみを感じます
明治大正時代の哲学者というと堅物の学者先生を思い浮かべるかもしれないが、実はこの円了先生なかなかユーモアや遊び心のある人で、哲学の傍ら妖怪の研究もしている
「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるを思い出しますが、円了先生は妖怪というものを正面から「哲学的に」研究しています
今で言う民俗学のような研究もしていた訳です
都内には井上円了の事績が2つあります
哲学堂公園 中野区 釈迦、孔子、ソクラテス、カントをまつった「四聖堂」がある
東洋大学 文京区 キャンパス内に「井上円了記念博物館」がある
どちらもまだ行ったことがないので、近々歩いてみたいと思っています
(^_^;)
今週の 米国 映画収益ランキングで、
1位:「君たちはどう生きるか」
3位:「ゴジラ-1.0」
トップ3に日本映画2本は、ちょっとした快挙かな?
私はまだどちらも見てないので、内容についてどうこう言えません
「君たちはどう生きるか」(↑)は、吉野源三郎が1937年に出した哲学的な小説
1937年(昭和12年)は、盧溝橋事件が起きて日中が全面戦争に突入し、日米関係が緊迫の度を高めていたころです
そんな86年も前の本を、いまアニメ化しようと考えた宮崎駿監督(→)
よほど思い入れのある本なんでしょうかね?
著者の吉野源三郎という人は、東大哲学科を出て、何を思ったか26歳で陸軍に入り、2年後に辞めてからは反戦活動を始める
戦前に元陸軍将校が反戦活動をするのだから、軍や政府の上層部からにらまれるよね
もう少し後になって第二次大戦末期、時の首相の東條英機(→)は、気に入らない奴(特に左翼=共産主義者)を片っ端から徴兵して、危険な最前線に送るという手段を使った
その結果、若い人はもちろん、かなりの年配者でも最前線で亡くなったり、死ぬような苦労をした
私が東條英機を好きになれない最大の理由がこれだ
自分の周りにゴマすりイエスマンばかり集めて出世させ、優秀な人材を煙たがって左遷したのもこいつ
人間のちっぽけさ丸出しで、とても一国の首相とは思えない
今でもこんなトップのいる組織は、方向性や活力を失ってダメになりやすい
出陣学徒壮行会で「天皇陛下バンザイ」を叫んだのもこいつ(→)
こんな奴に送られて最前線へ出陣させられた学徒たちが気の毒だ
吉野源三郎も年齢的に最前線に送られておかしくなかったのだが(終戦時46歳)、運よくそうはならなかったようだ
もう少し若かったら、元軍人なんだから、間違いなく最前線送りだったと思う
戦前の左翼は命がけの覚悟が必要だったし、立派な人物も多かった
現在のふやけたパヨクとはまるで違う
戦後の吉野源三郎は、岩波書店で岩波新書や雑誌「世界」の創刊に携わり、当時の左翼運動の先頭に立った
戦後25年間くらいは左翼(共産主義)運動が盛んで、全学連などの学生が暴れまくり、日本も共産化しそうになったことがある
その最若年層に坂本龍一もいて、新宿高校で暴れていた
戦争に負けた日本(吉田茂内閣)は、米国中心の自由主義陣営と講和して国際社会に再デビューした
このとき吉野源三郎など左翼陣営は、ソ連や中国など共産国を含んだ講和を主張していた
この左翼陣営の主張が通っていたら、やがて左翼運動が盛り上がった1960年ころに日本が共産化して、現在の中国や北朝鮮のような暗黒独裁体制の共産主義国家になっていた可能性もあって恐ろしい
このころ、安倍ちゃんの祖父の岸信介首相が
「共産勢力に勝つためなら、何でも利用しよう!」
ということで、カルト宗教の統一教会(反共団体だった)に接近し、これが今に至る自民党と統一教会の腐れ縁になった
実際、共産革命を主張する全学連が国会を取り囲み(↓)、岸信介も命の危険を感じた
今では信じがたいが、日本が共産化するかどうか、紙一重だった
▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)
統一教会のおかげも少しはあったのか不明だが、日本は共産化を免れた
当時の大学生の多くや坂本龍一は、共産革命の成功を本気で信じていた
その熱っぽい雰囲気は、柴田翔「されどわれらが日々」を読むと伝わってくる
第二次大戦中の英国首相チャーチル(→)は
「ヒトラーに勝つためなら、悪魔とでも手を組む!」
と言ったらしい(史実かどうか知らんけど)
まさに岸信介はそれを実行し、共産主義者に勝つために、悪魔(統一教会)と手を組んだ
チャーチルも岸信介も、相当な悪党だと思うが、東條英機よりははるかに人間が大きい
政治とは結局、力(パワー)の世界なのだから、必要とあらば猫の手でも悪魔の手でも借りるくらいの器の大きい悪党じゃなきゃいけないと思う
黒船に乗ってペリーが日本に来てから170年、日本という国は随分と危険な橋を渡りながら現在に至っているのだなぁと思います
それでも何とか乗り切って来れたのは、徳川時代260年の天下太平の世で培われた民度の高さがあったからかな?
「どうする家康」終わっちゃったね
(^_^;)
* * * * * * *
追伸 大河ドラマ「どうする家康」の最終回
北川景子演じる茶々が、燃え上がる大坂城と血まみれの顔で最期に掃き捨てたセリフ
「つまらぬ国になるであろう」
「正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ
人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける」
「やさしくて、卑屈な、かよわき者の国に」
まさにニーチェの言った「畜群」そのもの
器の大きい悪党のいない国ですね
(;´Д`)
▲映画「君たちはどう生きるか」予告編(2023年)
▲学徒出陣壮行会(明治神宮外苑、1943年)
▲全学連の安保闘争デモ隊(1960年)
▲品川駅中央通路
東京の品川駅周辺が、さらに大きく変貌しつつあります
もともと品川駅の港南口には東京湾に面した倉庫が多くて、そこで働く港湾労働者や運送トラックの街、つまり肉体労働者の街でした
25年くらい前から品川インターシティなどの再開発が始まり、港南口にはソニー本社(→)、NTTデータ、キヤノン、ニコンなど、大企業のオフィスビルが次々に出来ました
今では、ちょっとした丸の内や大手町のようなオフィス街が形成されています
多くの倉庫跡地には高層マンションが林立して、現在ではタワマン街になっています
そしてごく最近、さらに大規模な再開発が品川駅周辺で進んでいます
リニア中央新幹線の始発駅建設(静岡県知事→が必死になって邪魔してますけどね)
JR品川駅と駅ビルの大改造(今までの高輪口駅ビルがショボ過ぎました)
高輪ゲートウェイ駅(↓)周辺の再開発(大型駅ビル、いくつも建設中)
高輪口の旧ホテルパシフィック跡地再開発(トヨタの東京本社などが出来ます)
京急とJRのホーム平面化工事(京急がJRと同じ1階へ下がってホームが1本増えますが、品川駅を出て横浜方面へ向かう京急線は、スグに急坂を登ることになります)
京急八ッ山橋跨線橋の掛替工事(「開かずの踏切」と言われていた京急八ッ山橋踏切が、立体交差で便利になりそう)
北品川駅周辺の再開発(★下の記事がこれです)
などが並行して進行中で、あと数年で品川駅周辺は、さらに大きく変貌します
▲高輪ゲートウェイ駅
ほとんど「品川駅の中にある」と言っていいほど品川駅に近い
なお品川駅の南側に「北品川駅」があったり、「品川駅」なのに品川区ではなく港区にあったりとか、いろいろ歴史的な事情があって面白いですよ
下の地図にある「くら寿司」は、我が家から近いので、ときどき食べに行きます
この北品川駅の近くを旧東海道が走っていて、江戸時代を感じさせるレトロな商店街になってます
(^_^;)
* * * * * * *
東京都品川区の「品川浦周辺地区再開発協議会」は、JR品川駅南側周辺で三つの再開発準備組合を2023年10月下旬に設立しました。
約13ヘクタールの敷地を三つの街区に分けて、再開発ビルなどの建設を検討します。
対象区域は北品川一丁目と東品川一丁目にまたがるエリアです。
屋形船(→)や釣り船が停泊する品川浦を囲むように南、西、北の3街区に分かれ、うち西街区は京急本線の北品川駅が立地します。
北側はJR品川駅や同駅東口地区の再開発で整備した品川インターシティなどの高層ビル群が近接しています。
南街区
面積-約40,000㎡
準備組合-品川浦周辺南地区市街地再開発準備組合
準備組合設立-2023年10月28日
事業協力者-旭化成不レジデンス、東京建物、日鉄興和不動産、三菱地所グループ、五洋建設、大林組、東急不動産
北街区
面積-約60,000㎡
準備組合-品川浦周辺北地区市街地再開発準備組合
準備組合設立-2023年10月30日
事業協力者-旭化成不レジデンス、日鉄興和不動産、三菱地所グループ、清水建設、大林組、京浜急行電鉄、住友不動産、中央日本土地建物、東急不動産、長谷工不動産
西街区
面積-約35,000㎡
準備組合-品川浦周辺西地区市街地再開発準備組合
準備組合設立-2023年10月31日
事業協力者-旭化成不レジデンス、日鉄興和不動産、三菱地所グループ、五洋建設、清水建設、京浜急行電鉄
▲林芙美子展
▲林芙美子の書斎
林芙美子(→)の代表作「放浪記」を読んだ
新潮文庫で576ページという、やや長い作品で、第一部、第二部、第三部に分かれている
第一部を読み始めると、話があちこち飛んで時系列が混乱しているような、ストーリー性が弱いような印象があって、はっきり言って読みにくい
これが原因で、途中で読むのを断念する人も多いらしい
話の途中に沢山の詩が入っているので、自伝的作品でありながら、詩作前後の背景解説付き詩集といった感じ
それでも何とか第一部を読み終え、一晩寝たら頭の中が少し整理されたのか、翌日に読んだ第二部以降は分かり易かったし、急に面白くなった
自伝的作品と言っても、中心は芙美子が20代の若く貧しかった時代の話
それも半端ない貧しさで、毎日の食べものを手に入れるのに汲々としている
空腹なのにお金が無く、下宿の下の階に忍び込み、炊事場で味噌汁を盗んで飲む場面には唖然とする
その中でも読書だけは、まさに寸暇を見つけて続けており、本当に文学が大好きなのがズキズキ伝わってくる
今からちょうど120年前の、明治36年(1903年)生まれなので、私から見ると祖父祖母の時代と重なる
この時代の貧しい家庭の子どもが小学校を卒業すると、男の子は丁稚奉公、女の子は女中奉公などに出るのが普通で、小卒で社会に出るのが当たり前の時代だった
大学へ行くのが珍しくもない現在のような豊かな社会になったのは、1960年代の高度成長以降のわずか半世紀ちょっとで、日本の歴史から言ったらごくごく最近の話なのだ
芙美子は小学生のころから、親と一緒に行商をしており、今で言えば飛び込み営業のような仕事もする貧しい家庭の子どもだった
旧制中学(女の子は女学校)へ進学できるのは、富裕な家庭の子どもに限られていた
そんな時代だったが、小学校の教師が芙美子の文学的才能を発見し、そのすすめもあって女学校に進学する
親からの支援はほとんど期待できず、
「昼は女学校で、夜はバイト」
「周囲はお金持ちのお嬢さまばかり」
という十代のキツイ4年間を過したはずなのだが、その辺の苦労話が本書には少ない
もしかすると、キツイながらも結構楽しい女学校生活を送っていたのかもしれないし、芙美子にはそんな精神的たくましさ(生命力)がある
芙美子自身も、芙美子の母親も男運が悪くて、つまり非常に稼ぎの悪い男とばかりくっついて、この辺の男関係や貧困生活の苦労話が哀愁を帯びている
確かに明日をも知れぬ毎日、赤貧洗うがごとしの毎日なのだが、その割に芙美子本人は余り深く悩んだりせず、「お金が無い無い」と言いながらもあっけらかんと毎日を送っており、たくましい生命力を感じさせる
おそらく「何も無い者の強み」というのか、もうこれ以上落ちようがない境遇のもたらす不思議な安心感のようなものがあったのかもしれない
雑貨の行商のような仕事から始まって職を転々とし、カフェーの女給(今ならキャバ嬢?)もしていて、この辺の描写が森光子(→)の有名な舞台「放浪記」で詳しく演じられていたらしい
舞台を生で見ることはなかったが、舞台を記録した動画が手元にあるので、「放浪記」の映画とともに近日中に観たいと思っている
実は、私が以前に住んでいたマンションの上の方の階に森光子が住んでいて、エレベーターで時々一緒になったりしていたのだが、話しかけたりお近づきになることはなかった(少しもったいなかったかな)
もちろん大女優なのだが、すぐ近くで見ると小柄なおばあさんといった感じ
こんな人が20代のカフェーの女給の役をやるのかなと不思議に思った
カフェーの女給をテーマにした文学と言えば永井荷風なのだが、彼はカフェーのお客となる金持ちの中年男で、芙美子はカフェーで働く貧しくて若い女という、まったく正反対の立場
荷風が足繁く通った銀座のカフェー「タイガー」の名は「放浪記」にも登場するが、荷風と芙美子が同じ店内で客と女給として同席したことは、たぶん無かったようだ
本書「放浪記」全体を読んだ印象としては、21世紀の今なら何の違和感もなく普通に生きていそうな現代的感覚の女性が、たまたま運悪く1世紀前に生まれてしまったような感じがする
「エセー」を書いたモンテーニュは、「中世に生まれた近代人」などと言われているが、彼は貴族だったので経済的な苦労はしていない
以前に瀬戸内寂聴(→)の動画を見ていたら、
「若い頃はいろいろ苦労したけど、
だんだん時代が私に追いついてきたので、
いまは生きるのがとても楽になりました」
というようなことを言っていた
芙美子の場合、時代が彼女に追いつくことは無かったのかもしれないが、たまたま雑誌に連載した「放浪記」(第一部)が人気となって、単行本もベストセラーになった
またたくまに文壇の寵児となり、貧困を抜け出して経済的成功も手に入れた
この辺の事情は、ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」を連想させる
19世紀の英国の売れない作家が、お金のためにしたくもない仕事をしたり、書きたくも無い雑文を書いたりして貧しく暮らしていたが、ある日遠い親戚の遺産が転がり込み、本当に書きたい作品だけを書くという恵まれた書斎生活に移行した喜びにあふれている
ジョブズ(→)は「適度なレベルのお金」( some money )が手に入ったら、それ以上のお金は人生にとって大切ではないと言ったが、その「適度なレベルのお金」すら無いとかなり悲惨な人生になるので、運良くそれが手に入った時の喜びは非常に大きいようだ
ただ芙美子の場合、出版社に原稿を持ち込んで断られたりした貧困時代の記憶のせいか、どんな仕事でも断ることなくガツガツ引き受けるので、同時代の同業者(作家)たちからは「仕事を奪う女」として嫌われていたそうだ
およそ人間には
遠くから見ると立派な人物なのだが、近くで付き合うとイヤな奴・・・(1)
遠くから見ると悪党だが、近くで付き合うとすごくいい人・・・(2)
の2種類がいるようだ
政治家で言えば(1)は中曽根康弘、(2)は田中角栄(→)と言われているが、どうなのだろうか
芙美子は、(2)のタイプだったのかもしれない
冒頭の新潮文庫の表紙に書かれた有名な言葉
「花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かりき」
は、芙美子の貧しくて苦しい前半生を象徴しているとされているが、作家の村岡花子に送った芙美子からの手紙に書かれた下の文章こそ、彼女の生命力を象徴している
「多かりき」と「多かれど」の違いに注目してください
経済的な成功を手に入れた芙美子は、新宿区に豪邸を建て、画家の男(手塚緑敏、→)と幸せな家庭生活を送っていた
だが、どんな仕事でも断ることなくガツガツ引き受けることで無理をし過ぎたせいか、1951年(昭和26年)にわずか47歳であっけなく急逝(心臓麻痺)
みじか過ぎる花のいのちを散らしてしまった
仕事の無理もあるが、若い頃の貧困による劣悪な食生活で栄養が偏り、免疫力が低下していたのではないだろうか
芙美子が急死した場所は、食レポ(グルメ紀行文)を書くために訪れたうなぎ屋で、芙美子はすでに超人気作家になっていたのに、そんな新人ライターがするような雑仕事まで引き受けていた
それで「仕事を奪う女」として文壇からは嫌われていて、芙美子の告別式では葬儀委員長をつとめた川端康成(→)が
故人は、文学的生命を保つため、他に対して
時にはひどいこともしたのでありますが
しかし、後二、三時間もすれば
故人は灰となってしまいます。
死は一切の罪悪を消滅させますから
どうか故人を許して貰いたいと思います
と弔辞を述べて、参列していた多くの芙美子ファンの涙を誘った
芙美子が一緒に暮らした手塚緑敏は、画家としての才能は開花せず、彼女の作家収入に依存して、今で言う「主夫」として暮らしていた
今ならそんな夫婦は珍しくないが、何しろ1世紀近くも前なので、周囲からは「髪結いの亭主」とか「甲斐性なし」「ヒモ」とか言われて白い目で見られていたかもしれない
でも手塚緑敏はそんなことを気にせず、右上の写真のように芙美子と仲良く楽しく暮らしていたようで、芙美子と同様に「たまたま運悪く1世紀前に生まれてしまった」現代的感覚の持ち主だったようだ
芙美子は1903年に生まれ、その前半生は極貧の中で生き、27歳(1930年)から「放浪記」が売れに売れて極貧から脱し、多くの仕事と実直な夫(緑敏)に囲まれて、充実した後半生(約20年間)を生きた
芙美子が建てて手塚緑敏との楽しい生活を送った豪邸は、現在は林芙美子記念館として公開されている
近日中に尋ねてみたいと思っている
(^_^;)
▲ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ(Michel Eyquem de Montaigne)
昨日ジョブズの最後の言葉から死について書いたので、そのつづきを書く
大学受験のころ、英文解釈の英文に下のような文章があった
我々の多くは、100年前にはこの世に存在していなかった
我々の多くは、100年後にはこの世に存在していないだろう
ではなぜ、前半を悲しまず、後半だけを悲しむのか?
当たり前じゃないかと感じる人も多いかもしれないが、私にはなぜか心に刺さり、記憶に残って長く気になっていたが、その時は誰の文章なのか分からなかった
それから20年以上たったある日、読書をしていたら、その文章にぶつかった
16世紀ルネサンス期のフランスの哲学者モンテーニュの言葉で、彼の代表作「エセー」の中の文章だった
彼はワインの産地で有名なフランス南西部の中心都市ボルドーの近くの、モンテーニュ村の貴族の息子だった
彼の家が支配している村なので、彼の名前と同じ村名になっている
さほど大貴族と言うほどではなかったようだが、フランス革命より2世紀以上も前のフランス貴族の生活は、非常にぜいたくなものだった
彼がまだ幼いころ、専門の目覚まし楽団がいて、目覚めの音楽を毎朝演奏していた
目覚ましベルのような荒々しい音で目覚めると、脳の発育に良くないと親が考えたようだ
最初はごく静かな音楽から始め、彼が目覚めるまで少しずつ音量を上げ、彼が目覚めてからもしばらく演奏を続ける
まさにアンシャンレジーム期の、貴族の優雅さの極致のような生活だ
現在の超高級ホテルで、このようなサービスを提供したら面白いと思うのだが、まだ眠っている部屋に楽団が入って来るのを嫌がる人も多かろう
彼の父親(ボルドー市長を務めたこともある)は息子の教育に熱心な教育パパだったようで、家庭教師をやとって彼に当時の学問教養を広く身につけさせた
当時すでにラテン語は日常語ではなかったが、彼の父は家庭教師にフランス語の使用を禁じ、ラテン語だけで彼を教育した
当時の学問教養は、ほぼすべてラテン語で書かれていたので、そのための配慮だった
おかげで彼は、ラテン語をフランス語と同様に、母国語としてあやつれるようになった
彼は成長して裁判官になり、ボルドー高等裁判所(パルルマン)で働いた
しかし彼は裁判官の仕事に飽き(貴族は飽き易い)、37歳の時に退職して故郷のモンテーニュ村に帰り、屋敷の中に書庫を兼ねた読書室(librairie)を設けて読書生活に入った
▲モンテーニュの読書室(librairie)
天井の梁(はり)に、古典文献からとった格言名言が書かれている
彼の読書室はモンテーニュ村に現存している
一度尋ねてみたいと思っているのだが、コロナのせいで延び延びになっている
右の写真(→)は、モンテーニュの屋敷の片隅にある塔で、この3階に彼の読書室がある
彼が生きた時代は16世紀の後半で、日本で言えば戦国時代、織田信長の生きた時代と重なる
今より平均寿命が短かったとはいえ、37歳でご隠居さんのような生活に入るのは、かなり早かったはずだ
ただ、当時の貴族は生まれてから死ぬまでずっとご隠居さんみたいな生活の人もいたので、特に問題はなかったようだ
それからの彼は、モンテーニュ村の領地管理という必要最低限の雑務(ビジネス)以外は、この読書室にこもってギリシャ、ローマの古典を広く渉猟(しょうりょう)し、その合間に「エセー」という本を書いた
当時のフランスは宗教戦争のまっただ中で、カトリック勢力とプロテスタント勢力が、血で血を洗うような抗争を続けていた
時には彼の屋敷に暴徒がなだれこむような事件も発生しているが、彼は穏健な思想だったので、カトリックとプロテスタントの両派から信頼されており、のちに一時ボルドー市長をつとめて両派の調整もしている
彼はそんな両派の抗争からは距離を置いて、読書室での静かな読書と執筆の生活を続けた
まあ、働く必要のない貴族だからできた生活と言えばその通り
だが現在の平和で自由で豊かな日本で「適度なレベルのお金(some money)」があったら、誰でもその気になれば実現可能な生活かもしれない
彼はカトリック教徒だったが、「エセー」には宗教的記述が乏しく、この時代の人としては驚くほど合理精神に貫かれている
武人と文人という違いはあるが、合理精神のカタマリのような信長とモンテーニュが出会っていたら面白かったのではないかと思う(モンテーニュは信長より1歳年上)
彼はラテン語の達人だったが、「エセー」は日常語のフランス語で書いた
そのせいか広く読まれて、ちょっとしたベストセラーになった
当時のフランス国王とも親しく、国王が彼の屋敷に泊まりに来て夜遅くまで語り明かしたり、彼がパリまで遊びに行って国王と会ったりもしていた
フランス国王アンリ3世→
モンテーニュは、国王アンリ3世の「侍従」という立場だったが、常に近くにいて臣従していた訳ではない
国王のアドバイザーやコンサルタントのような立場だったと思われる
書名の「エセー」は、エッセイ(随筆)の語源となっており、もともとは「試み」や「企て」という意味
彼は自分という実験台を通して、散文形式で率直に思いつくままに、人間という存在を描写してみようと「試み」た
「エセー」は現在、日本語訳されて岩波文庫にも入っており、全6巻2224頁という大部の作品だが、体系もストーリーもなく、思いつくままのバラバラなテーマで書かれた本なので最初から通して読む必要はなく、好きな所から読み始めても楽しめる
だから夜眠る前に「エセー」を開き、適当なページから眠くなるまで読むというのを習慣にしている人も多く、私もその一人だ
冒頭に「ではなぜ、前半を悲しまず、後半だけを悲しむのか?」と書いたが、これだけを読むと唐突な感じで納得できる人は少ないと思う
だが、彼の「エセー」に読み親しんでいると、この考え方(哲学)が心に染み込んできて、死が余り怖くなくなるような気がするのだ
(^_^;)