80【ヒストリー】

「横浜」をつくった男

先日のハマ研(横浜歴史散歩)で知った高島嘉右衛門の伝記

高木彬光(ミステリー作家)著

「横浜」をつくった男 易聖・高島嘉右衛門の生涯

いま読み終えました

前述の通り、大実業家でありながら占い師という不思議な男の人生

■佐賀鍋島藩とのご縁

当時(幕末)の鍋島藩には、鍋島直正という名君がいて、この殿様(別名閑叟公かんそうこう)が若き日の高島嘉右衛門の人物を見抜いてチャンスを与えていきます

例えば、日本にやってきた「異人」たちが日本の焼き物(陶磁器)を好むことから、佐賀特産の伊万里焼などのお店(鍋島藩の直営店のようなもの)を横浜に出す

その店の経営を任されたのが、若き日の高島嘉右衛門で、ここで商才を発揮して実業家としての実績と人脈を築き、横浜との関係を深めていく

■裁定取引に手を出して投獄

ここで彼は、当時の金と銀の内外価格差による裁定取引(アービトラージ)に目をつけて手を出すが、これが幕府の国禁に触れて捕まります

実はこの裁定取引、「異人」が主導して、日本の金(ゴールド)が大量に国外流出するという、日本にとって巨大な損失となる大事件でした

ボロ儲けした「異人」たちはうまくたちまわってお構いなしだったり海外へ逃げたり

つられて手を出した高島嘉右衛門が罪人となるという、やや不運な巡り合わせ

総じて日本の警察検察は、日本人には威張りまくるが外国人に甘く、今でも外国人犯罪者に「不起訴」を出しまくって日本国民の怒りを買っています

■獄中で易経に出会う

結局、6年間の地獄のような獄中生活を味わう訳ですが、その獄中にたまたまあった「易経」(えききょう)の本を暗記するほど熟読して占いの世界にハマリます

江戸時代までの学問と言えば、まず四書五経で、その五経の筆頭にあるのが易経

現代人の感覚から言うと、

なぜ占いの本がそんなに重要な位置づけなのか?

フシギですが、とにかく東洋思想では占いを非常に重要視していたようです

シャバに出た高島嘉右衛門は、商才と占いの知識を活用して、明治政府要人との間に人脈を築き、大実業家への道を邁進します

政治家は先の見えない状況で重大な決断を迫られることが多いので、占いに関心が高かったようです

特に伊藤博文との関係は極めて濃厚!

伊藤博文が大陸へ行く直前、占いで凶相だと言って止めるのですが、それを振り切って旅立った伊藤博文は暗殺されてしまう

■ガス灯

先日の横浜歴史散歩で馬車道を歩いていたら、店の前に今でもガス灯を灯しているフレンチレストランがあったんです

馬車道ですから昔の「馬の水飲み場」があって、それを見ていたらお店の人が出て来て、「この街灯は今でもガスを送って光ってるんだよ」と教えてくれました

その時は予備知識が無かったので、「今でもガス灯をともしてるなんて面白い店だなぁ」なんて思っただけでした

ところがこの場所(馬車道十番館)には、かつて高島嘉右衛門の自宅があって、ガス灯の会社を運営(ガスを供給)していた場所だったようです

高島嘉右衛門は、横浜や東京に街灯(ガス灯)を広めました

街灯など無く夜は漆黒の闇、提灯(ちょうちん)をぶら下げて歩くしかなかった当時の日本人

街灯を見て「まるで昼間のようだ!」と驚いたようです

(^_^;)~♪

馬車道十番館

▲夜はこんな感じ 今でもガスの光が輝いてる

ハマ研(横浜を研究する会)

▲「象の鼻」は横浜の歴史を知る上で重要なスポット

今回、象の鼻の上も歩きました

昨日4/9、中学友人Uちゃん(横浜在住)と一緒に、「横浜の港と駅の歴史を散策する会」を開催いたしました

横浜を研究する会なので、略称「ハマ研

まあ、「ブラタモリ」みたいなことをした訳です

私にとっては、前日の「離宮を歩く」に続く、連日の「ハマハマ散歩」でした

150年(我々の人生の倍ちょっと)ほど前には、わずか100軒ほどの家しか無かった寒村「横浜村

それが、世界でも有数の巨大都市に成長した訳で、そこにはワクワクするような歴史ドラマがある(あった)はずという問題意識からスタートしました

さらに個人的なことを言えば、自宅近くの品川駅から横浜駅までわずか17分なのに、私は横浜の街をよく知らない!

それで「横浜の土地勘を養いたい」という動機もあります

ここはオフィス街、ここは飲み屋街、ここは住宅街みたいな、それぞれのエリアの性格や雰囲気、魅力的なポイントなどを大まかに知っておきたいんです

さらにその街の歴史も知れば、散歩の楽しさも増すだろうという考え

それで今回は、横浜在住で「ハマの小市民」を自称する中学友人Uちゃんにご同行いただきました

最初の地図は明治初めの横浜ですが、長崎の出島を大きくしたような「島」

左側の川(中村川)は人工的に作った掘り割りなので、元々は小さな半島(砂州)でした

徳川幕府が「異人」を恐れて、何とか「」の中に隔離しようとした苦肉の策

当時は水戸学などの尊皇攘夷思想が流行していて、攘夷(外敵を追い払え!)という物騒な連中(テロリスト)がいっぱいいましたから、そいつらから「異人」を守るという意図もありました

実際このころ、生麦事件のような、「異人」が襲われる事件が多発しています

「島」を隔離するために、周囲の橋には関所を置いたので島の中は「関内(かんない)」と呼ばれ、島の外側は「関外」(かんがい)でした

やがて貿易のもたらす巨大なビジネスチャンスに、「異人」も日本人も群がるように寄ってきて、横浜の街を発展させていきます

周囲の海はどんどん埋め立てられて、関内と関外の区別はあいまいになり、街は際限なく拡大していく

そんな中に、高島嘉右衛門という、ケタ外れに面白い男がいました

海を埋め立てて鉄道を敷き、ガス灯を灯し、横浜の発展に偉大な功績を残します

下の地図の上の方の高台に屋敷を構え、そこから下界に広がる海とその先に広がる横浜の街の発展を眺めながら上機嫌だったそうです

やがてその高台は「高島台」と呼ばれるようになります

上の地図で「鉄道線路」とあるのは、もともと海(入り江)だった場所を高島嘉右衛門が埋め立てて、ここに日本初の鉄道(新橋横浜間)が通ります

現在の横浜駅も、この海(入り江)を埋め立てた場所にあります

最初の横浜駅」というのは、現在の桜木町駅で、これと品川駅が

1872年(明治5年)10月1日、日本で最初に開業した「駅」(当時は「停車場」)

ということになります

新橋駅は同年10月14日開業ですから、「日本で最初の鉄道」は厳密に言うと、最初の13日間だけ「品川横浜間」でした

新橋から横浜まで30キロくらいで、歩けば丸1日かかります

これが鉄道で53分(現在は30分くらい)ですから、所要時間10分の1

東海道新幹線ができた当時、在来線特急に比べて所要時間2分の1でしたから、「10分の1」というのは当時の人にとって衝撃的だったと思います

上の写真は、前日の「浜離宮を歩く(花見)」で通った、開業当時の新橋駅(復元)で、最初の横浜駅もほぼ同じデザインでした

まだ頭はちょんまげ、腰に刀を差した武士もいた時代に、よくこれだけの建物を作ったものです

もちろん設計したのは、当時の「異人」さんですけどね

当時の駅のホームとレールも復元されてますよ(↓)

そして更にビックリするのが、この高島嘉右衛門さん、占いで有名な高島易断」の教祖なんですね

実業家にして占い師という何ともフシギな男、それが高島嘉右衛門

この人の人生、いろいろ調べてみたくなりました

それで探したら

高木彬光 『横浜をつくった男 易聖・高島嘉右衛門の生涯』 光文社文庫

持田鋼一郎 『高島易断を創った男』 新潮新書

松田裕之 『高島嘉右衛門 横浜政商の実業史』 日本経済評論社

これから、ワクワクしながら読むツモリ

高木彬光ってミステリー作家だから、面白く書いてそう

高島嘉右衛門の名前は、

地名「高島台」 横浜市神奈川区

地名「高島」 横浜市西区

駅名「新高島」 みなとみらい線

駅名「高島町」 横浜市営地下鉄

駅名「高島町」 東急東横線 2004年に駅廃止

などに残っています

なお横浜駅西口前にあるデパートの高島屋は、高島嘉右衛門とは関係ないそうです

高島嘉右衛門をよく知らない人の中には、上記の地名や駅名の「高島」が、デパートの高島屋にちなむものだと思ってる人もいるかもね

(^_^;)~♪

▲赤い線が歩いたルート

散歩の詳細へ(写真360枚)

石川太郎先生の研究

▲我々27回生の卒業30周年同窓会(2005年)の太郎先生

87歳にしてこの背筋まっすぐの凛とした姿勢は、帝国海軍仕込み?

今日、昼寝をしていたら、夢の中に石川太郎先生が登場しました

最近はほぼ毎日昼寝をし、昼寝も夜寝も同じくらいの長さ

どちらも4時間くらいになっています

長時間続けて眠れないのは、年のせいでしょうかねー?

睡眠不足は重大な悪質ストレス要因で、

悪質ストレスは、免疫系を破壊して、ガン細胞の暴走を促す!

と私は信じているので、睡眠はタップリとるようにしています

具体的には、よほど重大な用事が無い限り

眠気を催したら、ためらうことなくスグ横になる

自然に目覚めるまで、ひたすら眠る(約4時間)

という、昼夜2サイクル(合計8時間)の睡眠パターン

現役世代には無理な、リタイア世代だけに許された、ゼイタクなライフスタイルかもしれませんね

スペインには、シエスタという昼寝の習慣があるそうですが、我が日本も見習ったらどうかなぁ

いま太郎先生にお会いしたら「70前の若造が、たるんどる!」とか怒られるかな?

 

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夢の細かい内容はスグに忘れたのですが、太郎先生のことを思い出しながら、以下に少し書いてみることにします

新宿高校時代に太郎先生の生物の授業を受けた方はご存じのことですが、太郎先生は海軍将校となって第二次大戦に従軍されています

(この辺の記憶が、先週の「横須賀・軍艦クルーズ」とつながって、夢になったのかもしれませんね)

太郎先生は新宿高校での生物の授業中に、この戦争体験を「雑談」として語り、時として授業時間の大半が「雑談」になることも多々ありました

その体験談が非常に興味深いものだったので、新宿高校卒業生の間では

新宿高校最大の名物教師

として語り継がれています

あの名物授業を録音しておいて、いま聴きたかったなぁと思います

いま考えてみますと、太郎先生は年齢的に、1943年(昭和18年)の「学徒出陣」で戦場に向かう運命になったのではないか?と推察します

それまで男子大学生は兵役法により、26歳まで徴兵を猶予されていましたが、敗色濃い戦時体制下ではこの猶予が撤廃され、20歳以上の文系学生が徴兵の対象となりました

そこでひとつ疑問が生じます

なぜ理系(生物学)の太郎先生が、学徒出陣することになったのか?

実は理系でも一部の学科では学徒出陣の対象となった、という情報もあります

この辺の事情、もしご存じの方がいたら教えてください

▲出陣学徒壮行会 1943年(昭和18年) 元は白黒だがAIでカラー化

太郎先生は戦争から生還して、31年9か月間(昭和21年8月~昭和53年3月)、生物の先生として新宿高校に在籍されました

我々27回生は、その最後に近い3年間、太郎先生に接する機会があった訳です

下の写真は、我々が入学するずっと前、太郎先生が新宿高校へ赴任した直後の撮影ではないかと思われます

まだ若々しい太郎先生(おそらく30歳代前半くらい)が写っています

周囲の先生たちの、いかにも学者っぽい、ややひ弱な感じに対して、太郎先生の堂々たる面構えや雰囲気は、「さすが元帝国海軍将校!」と言いたくなります(私だけの感想かな?)

我が敬愛する物理の有賀先生は、やや不適な笑みを浮かべているようにも見えます

有賀先生は、私の新宿高校1年の時のクラス担任で、有賀先生の授業が面白くて私は物理がダイスキになり、そのまま人生の途中まで理系人生を突っ走りました

そのうち太郎先生に続き、「有賀健治先生の研究」も書きたいなぁ (^_^;)

 

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さて、当ブログの2013年8月8日に「古稀記念文集」という記事があります

これには、新宿高校12回生(我々よりも15年上)が古稀記念文集を発行したときの経緯などが書かれていますが、その中で12回生の同期会(2012年ころ)に来賓として出席なさった石川太郎先生のことが書かれています

石川先生は95歳、中野先生が92歳と、御高齢になられたことでもあり、それぞれお体にご不自由を感ずる日々を過ごされておられるそうです。

石川先生は視力が弱くなって、相手の顔が丸く霞んでいる程度にしか見えなくなっておられる由。

また中野先生におかれては、歩行に困難を覚える外、発声もままならなくなられているので、スピーチは控えたいとのご意向でした。

斯様に、ご不自由なお体を押してまでも、先生方のご参加が得られるのも、この七夕会が文集発刊に象徴されるような絆を保ち続けているからではないで しょうか?

スピーチの中で石川先生は、

「・・・人生振り返ってみると孤独だった。

軍隊でも孤独だった。

そして今外山中学の同窓会で生き残っているのは、自分を含めて たった4人。

孤独だねー」

と言われながらも、若い奥さまの温かな早めのお迎えを受けて(森さん・功刀さん談)4時頃お帰りになられました。

スピーチの中で3回も「孤独」という言葉を発した太郎先生

勝手な推測ですが、戦争で親しい人たちの多くの死に遭遇し、それが太郎先生の人生観に何らかの影響を及ぼしたのか?

あの授業中の饒舌だった太郎先生の、心の奥底が少しうかがえるような気がします

最後の「若い奥さま」というところに救いが感じられます

当ブログの2015年5月11日の記事「訃報 石川太郎先生」によると、3年間ほど自宅療養をされた後、2015年2月17日、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたとあります(享年97)

▲上記同期会(2012年ころ)の記念写真

▲中心部を拡大 左が多分、石川太郎先生(95) 一人おいて中野先生(92)

2012年の時点で太郎先生は95歳、すると生年は1917年ころで、1943年の学徒出陣の時に26歳くらいですから、まさに学徒出陣の対象者に該当します

もしかすると学徒出陣ではなく、徴兵猶予が切れた26歳でスグに戦地へ送られたのかもしれません

 

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ここに、「新宿高校歴代クラス担任一覧」という資料があります

これによると、太郎先生がクラス担任を引き受けたのは3回だけということが分かります

この資料は卒業時(3年生)のクラスなので、これとは別に入学時(1年生)のクラスがあります

いずれにしても、太郎先生の31年余の在任期間を考えると、クラス担任の回数が少ないのかな?とも思いますが、上の先生のスピーチにある「孤独」と何やらつながってくるような気もいたします

また、我々が入学する前に全学連など反体制学生運動の影響を受けて、我々より少し上の世代(坂本龍一とか)が大暴れして、新宿高校の校内もかなり荒れたのですが、それと太郎先生の「孤独」には何か関係がないかな?、などと勝手に想像してみたりします

何しろ、国のために若者たちが命を捧げた時代からわずか20年ちょっとで、若者たちが国をぶっ壊そうと暴れていたのですからね

今から思えば、どっちもスゴい時代だったと思います

▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)

右奥に出来たばかりの東京タワー(1958年完成)

 

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当ブログ1973年3月11日の記事に石川太郎先生  読書雑感という記事があります

我々27回生が新宿高校2年のころ、太郎先生56歳くらいの文章です

私の乏しい記憶や当ブログの過去記事からいろいろ書いてみましたが、これ以外に太郎先生に関する情報やエピソードなどご存じなら、hp@mkosugi.com までお知らせいただけると幸いです

(^_^;)~♪

新宿駅の3Dマップ

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新宿駅の構内図を3Dで再現

https://satoshi7190.github.io/Shinjuku-indoor-threejs-demo/

 

ガザ地区にテロ集団ハマスが作った地下通路網は、これよりはるかに複雑なんだろうけど、もう壊滅状態なんだろうね

深さ80m、長さ500kmもあるんだそうです

世界一アタマの良いユダヤ人(イスラエル)のことだから、たぶん3Dマップを作って、細かく分析していたと思うよ

詳細はここをクリック

 

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東京の地下鉄で一番深い大江戸線の六本木駅ホームは、深さ42m(地下7階)

地上からエスカレーターで降りていくと、その深さが実感できます

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ガザ地区とイスラエルの境界にある地下障壁は、深さ20mしか無いので、それより深いところでイスラエル側にもトンネルを掘って侵入していたんでしょうね

地中貫通ミサイル「バンカーバスター」は、厚さ6mのコンクリートも突き破り、深さ60mまで貫通し、通常の地下施設であれば深さ150~200mまで破壊力をもつそうです

((((;゚д゚))))

 

日本製鉄 USスチールを買収

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▲カーネギーホール

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日本製鉄が、米鉄鋼大手USスチールを買収します

買収額は141億ドル(約2兆円)

USスチールは122年の歴史を誇り、かつて世界最大の企業でした

米国を代表していた大企業が海外勢に買収されるというのは、米国人にとっても感慨深いようで、米国でも大きく報じられています

「中国ではなく日本の企業に買収されて良かった」

と感じているかもしれません

いま中国は不動産バブルの破裂で、それどころではないと思いますけどね

日本でも東芝が、海外ファンドに買収されそうになってましたね

私も理系出身なので、友人が何人も東芝に就職しました

いま「半導体JAPAN」復活の流れに乗って、東芝が大復活して欲しいものです

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USスチールは1901年の大合併で誕生しました

日本製鉄の前身の八幡製鉄も1901年の設立

良きライバルと言いたいところですが、かつての八幡製鉄から見たら、USスチールは雲の上の存在でした

USスチールの設立に深く関与したのが、鉄鋼王カーネギー(←)

日本で言えば、新一万円札の顔、渋沢栄一みたいな人

NYのカーネギーホールで有名です(↑↓)

カーネギーホールで演奏することは、世界の演奏家の夢

Pianist Arthur Rubinstein ontvangt gouden tulp van RCA, Amsterdam, Arthur Rubinstein ontvangt gouden tulp *8 november 1971ピアニストのルービンシュタイン(→)が、ニューヨークで道を歩いているときに観光客から

カーネギーホールへの道

を尋ねられ

Practice, practice, and practice.

(練習して、練習して、さらに練習してください)

と答えたという逸話は余りにも有名

歩行者には5分で行ける道のりでも、演奏家には遠い遠い、さらに遠い道のようです

鉄鋼王カーネギーにも、次のような有名な逸話があります

母親と一緒に市場へ買い物に行ったカーネギー坊や

果物屋に山積みされていたサクランボに見入る

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気付いた果物屋のおじさんが

「一つかみ、あげるよ」

しかしカーネギー坊や、手を出さない

おじさん「サクランボ、嫌い?」

坊や「好き」 でも手を出さない

おじさんは不思議そうな顔で、サクランボをつかんで坊やの帽子に入れてやる

帰宅後に母親が「どうして自分で取らなかったの?」と尋ねると、カーネギー坊や

「おじさんの手の方が大きかったから」

さすが大実業家、ガキのころからシタタカだったようです

この種の逸話は、伝言ゲームで話が盛られていくので、どこまでホントか知らんけど

(^_^;)

 

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▲カーネギーホールの内部

 

哲学堂公園と井上円了 そして妖怪

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▲哲学堂公園

 

「君たちはどう生きるか」を書いた吉野源三郎が東大哲学科を出ているので思い出したのですが、中野区にある哲学堂公園を作った井上円了(いのうええんりょう、→)という人がいます

東洋大学の創設者で、新潟県長岡市のお寺の跡取りとして生まれましたが、東大哲学科を出て、寺を継がずに哲学者になり、明治大正の思想界に大きな影響を与えました

私の親が長岡市(旧山古志村)出身なので、今でも長岡には親戚が多く、長岡出身の井上円了に親しみを感じます

明治大正時代の哲学者というと堅物の学者先生を思い浮かべるかもしれないが、実はこの円了先生なかなかユーモアや遊び心のある人で、哲学の傍ら妖怪の研究もしている

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「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるを思い出しますが、円了先生は妖怪というものを正面から「哲学的に」研究しています

今で言う民俗学のような研究もしていた訳です

都内には井上円了の事績が2つあります

哲学堂公園 中野区 釈迦、孔子、ソクラテス、カントをまつった「四聖堂」がある

東洋大学 文京区 キャンパス内に「井上円了記念博物館」がある

どちらもまだ行ったことがないので、近々歩いてみたいと思っています

(^_^;)