80【ヒストリー】

艦内神社

▲戦艦「三笠」の艦内神社

 

海上自衛隊の多くの護衛艦の内部には、艦内神社があります

上の写真のように、神社というより神棚といった感じですが、小さいながらも神様が祀られており、祭日には盛装した艦長や幹部がお参りすることもあるそうです

戦前の旧帝国海軍から受け継がれた伝統

実際いざ戦闘となれば命がけ、生きるか死ぬかは運次第という側面もあることを考えると、「神だのみ」したくなる心情は理解できます

とは言っても、自衛隊は国(政府)の組織ですから、政教分離の原則に反する訳にもいきませんので、それなりの配慮もあるようです

(^_^;)

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新宿高校(旧制六中)の興国の鐘

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▲日本海海戦(日露戦争)における戦艦三笠と東郷平八郎 左上はZ旗

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▲記念館「三笠

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卑弥呼の愛犬?

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で出土した3世紀前半の犬が復元され、桜井市立埋蔵文化財センターと市役所で公開されている

邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の愛犬ではないか?

とも考えられており、愛称募集には1300件を超える応募という人気ぶり

卑弥呼について、いわゆる魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は

「年すでに長大なるも夫なし。見る者少なし」

と記しており、人前に姿を見せない霊能力を持った女性だったようだ

女王といえば華やかなイメージもあるが、愛犬で孤独を癒やす老女の姿もイメージできる

犬を飼っている人が認知症になるリスクは飼っていない人よりも低いそうだし、「歩くの大好き」ではない人でも、犬に誘われて毎日歩くのが習慣(犬の散歩)になっている人も多い

邪馬台国と言えば「どこにあったか?」が昔から古代史論争の大テーマ

九州説と近畿説があるが、そのほか日本中のあらゆる場所が候補地になっていて、「邪馬台国は火星にあった」などというトンデモ説もある

古代史は分からないことが多く、誰でも好き勝手な説を唱えることが出来るので、それが古代史の魅力にもなっている

私は作家の松本清張がダイスキで、最初は推理小説を楽しんでいたんだけど、彼は古代史関係も大量に書いていて(古代史専門の大学教授もタジタジになるほど詳しかった)、それで私も一時、古代史にのめりこみました

確かに古代史は謎だらけなので、読んでいると推理小説みたいです

邪馬台国近畿説なら、纒向遺跡は最有力の候補地になります

纒向遺跡は非常に巨大な遺跡で、現在把握されているだけでも300万平米もあり、発掘史料から察するに、単なる自然発生的な集落ではなく、「計画された都市」らしい

纒向遺跡の中にある箸墓(はしはか)古墳は、「卑弥呼の墓」ではないかとも言われている

卑弥呼という名前は、当時の「ひのみこ」という呼び名を、魏志倭人伝を書いた中国人が漢字表記したものだと考えられている

多分「日の巫女」で、太陽神(アマテラス?)に仕える霊能者としての役割を当時の日本人が説明し、それを聴いた中国人が固有名詞(人名)だと受け取めて、魏志倭人伝に当て字で「卑弥呼」と書いたのだろう(当時の日本には、文字は無かったらしい)

すでに弥生時代、水田農業(コメ作り)が始まっていた日本で、日当たりと日陰ではコメの育ちがまったく違うことから、「コメを実らせる元」として太陽を崇拝していたのではないかな?

現在の日本の国旗(日の丸)だって、太陽崇拝の旗だ

日本人とコメの付き合いは長いね

(^_^;)~♪


▲箸墓古墳

日本海海戦120年

海上自衛隊の1等海曹や海曹長で作る「横須賀上級海曹会」220人が5/24、横須賀市の記念艦「三笠」で甲板清掃を行った

戦艦「三笠」は、1905年5/27-28、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を旗艦を含めて撃滅した、日本海軍連合艦隊の旗艦

ロシアは、ウクライナ戦争でも、旗艦「モスクワ」を撃沈されている

ロシアは元々陸軍国なので、海軍が弱いのは仕方ないのかな

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退職代行サービス

春の訪れとともに、新社会人たちが一斉に社会への第一歩を踏み出す一方で、早くも「仕事を辞めたい」という声も出ている

そんな新社会人のあいだで急増しているのが「退職代行サービス」の利用

退職代行会社「モームリ」には、毎日数十件のペースで依頼が殺到している

退職手続きくらい自分でしろ!と考える中高年も多いだろう

でも自分のしてきたことを専門業者に任せるのは、人類の歴史の大きな流れだ

その方が便利だし、人間は便利にはなかなか逆らえない!

いろいろメンドウだし、気まずい場面もありそうな退職手続きを専門家に任せるのは、合理的な判断かもしれない

衣食住も、かつてはすべて自分で作っていたはずだ

家も竪穴住居のころ(わずか1000年くらい前)は自分(または家族)が作っていたが、やがて大工などの専門業者が登場した

つい数十年前まで、家族の衣服を作り修繕すること(裁縫)は、一家の主婦の必須能力だった

料理の腕前は、今でも未婚の若い女性を評価する要素の一つかもしれないが、無くても何とかなるし、レンジでチンすれば、たいていの「料理」は作れる

キッチンの無い住宅物件(すべて外食)というのも増えている

分業による専門化は、技術の高度化をもたらし、素人の出る幕は減っていく

それでも自分でする!という人もいて、それは趣味の世界になっていく

趣味で自分の家を自分で作る人は今でも時々いるし、修理改善レベルで部分的に実行すればDIYという趣味だ(実益も兼ねているが)

果たして「退職代行サービス」は、世の中に定着するのだろうか?

自分で退職手続きを進めるのは、趣味の世界になっていくのだろうか?

(・_・?)

▲男のヘアスタイルが現代風すぎるような気がするなぁ

この時代に美容室や床屋さんは無いと思うんだけど (^_^;)

「退職代行はあり? なし?」へ

映画「グリーンブック」

私は映画が好きだけど、観るなら映画館より自宅で一人で観る方が好き、そして字幕より吹替が好き

昨日観たこの映画、2018年のアメリカ映画、とても良かったので少し書きます

1960年代の米国で、成功してカーネギーホールの中の豪華ルームに住む黒人ピアニストが、まだ黒人差別が根強い南部への公演ツアーを計画する(非常に勇気のいること)

▲ニューヨークにあるカーネギーホール

▲カーネギーホールの中にある、黒人ピアニストの住居スペース

▲現在の非白人比率マップ

「黒人は畑で肉体労働する奴隷」という意識の強い南部に、経済的に成功した黒人が行けば、現地の白人たちから激しい反感を買い、何をされるか分からない

そこでピアニストは運転手兼用心棒に、粗野でがさつ、少々ケンカっ早いイタリア系を雇い、2人でクルマに乗って危険な公演ツアーという珍道中をする

このイタリア系というところもポイントで、白人だがアングロサクソンなどから差別されがちなイタリア系

刑事コロンボも主人公が「安月給のさえない」イタリア系の刑事で、成功した富裕な犯人(多くはアングロサクソン)を追い詰めるという設定が、米国庶民に大ウケ(たぶん、成功者の転落を見る庶民の爽快感なんだろね)

「安月給のさえない」を強調するツールが、ヨレヨレのコート、そしてボロボロのクルマ

黒人差別という重苦しくなりがちなテーマだが、ユーモラスに描いていて、時々泣かせる場面もある

経済力と弱点の両方を持つ少し気難しい男が、まったく異なる育ち境遇のがさつな男を助っ人として雇い、やがてふたりの間に友情が芽生えるというストーリーは、先日観た「最強のふたり」に通じる

「グリーンブック」とは、黒人でも泊まれるホテルをリストアップした旅行ガイド本

当時、米国の多くのホテルは白人専用で、黒人の泊まれるホテルはごく限られており、ゴキブリが這い回るような劣悪な環境だった

ピアニストはそれを覚悟で、南部への公演ツアーに出る

それから現在までの60年余り、公民権運動などによる差別撤廃が時代の流れとなるが、その裏で米国の貧しい白人たちは白人としての特権を次々に奪われ、経済的にも追い詰められて不満が鬱積していく

その貧しい白人の鬱積した不満に着目して(利用して)大統領になったのがトランプ

副大統領バンスの著書「ヒルビリー・エレジー」の副題は

アメリカの繁栄から取り残された白人たち

元大統領オバマが、このピアニストに重なって見えた

人種別の出生率の違いや移民の流入などによって、米国の白人比率は下がり続けている

白人が米国の少数民族になる日は、そんなに遠くない

現在のトランプ政権の政策は、白人層の「最後の抵抗」にも見えてくる

この映画には実話が背景にあり、「最強のふたり」と同様、二人は生涯親友でありつづけた

(^_^;)~♪

石川太郎先生の研究(2)ハルマヘラ・メモリー

3/15に書いた当ブログ記事「石川太郎先生の研究(1)」のつづきです

あの記事を読んだ徳永パパから、太郎先生は陸軍将校だったと教えていただき、海軍将校だったという私の記憶は間違っていたようでビックリしました

新宿高校時代の生物の授業中、太郎先生の雑談に軍艦や南の島の体験談が多かったので、私が勝手に海軍将校だと思い込んでいただけみたいです

また熊さんからは

「俳優の池部良が、ハルマヘラ・メモリーという本を書いていて、どうも太郎先生と同じ時期に同じ島に居たらしい」

と教えていただき、さっそく池部良の著書「ハルマヘラ・メモリー」を入手して、いま読み終えました

池部良(1918-2010)は、往年の超イケメン映画スターですが、エッセイストとしても有名

そのせいか「ハルマヘラ・メモリー」は大変読みやすい文章で、372ページもある分厚い本ですが、退屈することなく今日一日で一気に読み終えました

文章は淡々としているのですが、それがかえって最前線の臨場感を高めているように感じました

以下、その読後感です

池部良が1918年生まれ、太郎先生が1917年頃の生まれというほぼ同世代で、二人の軍隊経験は驚くほど重なっているようです

どちらも軍隊や戦争にはまったく関係ない世界(映画俳優や生物学研究者)から26歳ころに徴兵され、大卒だったので予備士官学校へ進んで、見習い将校を経て将校(陸軍少尉)になります

陸軍少尉として、中国大陸の北京の近く(保定パオティン)にいて、そこから任地替え(転進)で南方のハルマヘラ島に移って終戦を迎えられたようです

ここまで軍隊経歴が似ていると、ひょっとしてお二人は、戦地(保定やハルマヘラ島)で出会っていたのかもしれませんね

今日、池部良の「ハルマヘラ・メモリー」を読みながら、太郎先生の若き日の戦争体験談を読んでいるような気持ちになりました

極寒の保定から熱帯のハルマヘラ島への移動は、狭い船内にぎゅうぎゅう詰めの輸送船団に乗って行くのですが、途中にはアメリカの潜水艦がウヨウヨしている海域を通ります

日米間の太平洋戦争は、最終的には原爆投下で決着がついた訳ですが、その前にレーダー技術で決定的な差がついていたようです

米軍が数百キロも先の日本軍艦の位置を正確に把握していたのに対して、日本軍は双眼鏡によって目に見える範囲しか分からない

偵察機もあったでしょうが、これは「点の探索」で、広い太平洋をカバーすることなど不可能

現代戦では、科学技術力のわずかな差が、国家や民族の運命を決します(2番じゃダメなんです)

その結果、多くの輸送船が米軍魚雷の餌食となって沈没し、一日に2000人もの将兵が海の藻屑となる話なども出て来ます

池部良の乗った輸送船も魚雷を受けて沈没しますが、海に投げ出された池部良は10時間以上も海面を漂いながら、日本海軍の駆逐艦に救助されて九死に一生を得ます

その駆逐艦に乗って、次の任地であるハルマヘラ島の守備任務につきます

太郎先生の雑談には、輸送船沈没の話は無かったような気がするから、太郎先生の乗った輸送船は、無事にハルマヘラ島へたどり着いたのかな?

米軍の作戦は、太平洋上の一つの島を占領したら、そこに飛行場を建設して次の島を狙う、というような着実な「島づたい戦略」で、この侵攻コース上の島にいた日本軍守備隊は、ほぼすべて全滅しています

池部良のいた(たぶん太郎先生もいた)ハルマヘラ島は、この米軍侵攻コースからわずかに外れていたので、激しい攻撃(艦砲射撃、航空機による爆撃や機銃掃射)を受けますが、かろうじて全滅は免れます

楽園のような南の島でのんびりしていると、その数秒後には耳をつんざくような爆裂音や射撃音が鳴り響き、一気に地獄の戦場と化する場面の描写は、なかなかの臨場感があります

そして戦況悪化の暗いムードが支配する中で、ある日突然、玉音放送が流れて戦争が終わります

その終戦の描写も実に淡々としていて、著者のある種の諦念のようなものを感じさせる

池部良は(たぶん太郎先生も)昭和18~19年という敗色濃いころに徴兵されて、大卒だったので予備士官学校へ進んで、わずかな軍事教育や訓練を経て見習い士官から将校(陸軍少尉)になります

旧日本軍の階級制度は、大きく3段階に分かれていました

国や時代によって各階級の呼び名は違っていますが、どこの国の軍隊組織でもこの3段階の構造は似たようなもので、原則として指揮命令権限を持つのが将校です

兵士(兵卒):二等兵~兵長

下士官:伍長、軍曹、曹長

准尉(見習い士官)

将校(士官):少尉~大将

戦争末期になると軍人不足を補うために、軍隊経験が皆無の大卒(当時の大卒は少数派)も、学徒動員などで徴兵されました

その中には池部良や太郎先生のように、軍隊入隊後に予備士官学校に入り、見習い士官(准尉)を経て「にわか仕立ての将校」(最初は少尉)になる人たちもいました

この予備士官学校での成績や適性に難があると、将校ではなく下士官にされたそうです

一方、軍隊(陸軍)には、もともと市谷にあった陸軍士官学校出身の「本格的な将校」(職業軍人)がいて、上記の「にわか将校」を素人扱いして馬鹿にします

この「本格将校」(職業軍人)には、陸軍幼年学校などを経て、子どものころから軍人になることを目指してきた「軍人一筋」の人たちが多かった

この人たちから見れば、つい2~3年前まで映画俳優や生物学研究者などしていた連中が、陸軍将校として自分たちと同一視されることに耐えられなかったようです

この「本格将校」による「にわか将校」いじめは、かなり露骨に行われていたようで、本書の中でもたびたび描写されています

さらに戦争末期には、一般国民の30代40代といった、それまで年齢的に徴兵されなかった高年齢の男も、兵士不足を補うために徴兵されます

企業の管理職や、中小企業の社長をしていたような社会的地位のある男たちも、有無を言わさず徴兵され、二等兵として軍隊の最底辺のみじめな存在となって戦場へ送られるといった「悲劇」も少なからず生じました

また軍隊には長年いるが、士官学校などの学歴が無いために将校になれない、といったベテラン兵士や下士官も大勢います

すると当然ですが、まだ20代後半の経験不足な「にわか将校」が、自分より年上の、時には父親ほどの年齢の人生経験豊富な兵士(兵卒)や下士官を何十人も統率して指揮命令することになります

今でも年功序列を否定して能力主義を標榜する企業では、年上の部下との接し方に悩む若い上司がいますが、それと似たような現象が旧日本軍の内部でも生じていました

「年上の兵士」たちから見れば、自分たちの方が戦場経験も人生経験もははるかに豊富ですから、経験の乏しい学歴だけの「にわか将校」に対して、素直な気持ちになれないのも理解できます

上にいる「本格将校」(職業軍人)たちからは素人扱いで馬鹿にされ、軍隊の階級的には下にいるはずの「年上の兵士」たちからは、面従腹背の陰湿な抵抗に遭うという板挟み状態

しかも戦況は悪化の一途で、日本が戦争に勝つ見通しはまったく持てない

そんな絶望的状況でのメンタルを、太郎先生が87歳の時に出席した新宿高校同期会のスピーチで

「・・・人生振り返ってみると孤独だった

 軍隊でも孤独だった

と表現したのではないかと推察します

本書の中にも、著者(池部良)の戦場での孤独感が滲み出ています

軍隊組織内で置かれた立場から来る肉体的な厳しさや惨めさでは、将校より兵士の方がツラかったと思います

ただ、兵士にはすぐ近くに同じ立場の兵士が大勢いる

一方、新米の将校はたいてい小隊(10~30人くらいの兵士)を率いる訳ですから、同じ立場の人間(小隊長)には隣の小隊へ行かないと会えないので、小隊の中では常に孤独です

人の上に立つということは、孤独を引き受けることです

今では私もこんな悟ったようなことを書いてますが、これも歳のなせるわざで、20代の太郎先生にはキツかっただろうなぁと思います

戦前の日本の軍隊を描いた映画やドラマなどでは、やたらと激怒して部下を殴ったりする凶暴な軍人がよく登場します

すべての軍人がそうだった訳ではなく、池部良「ハルマヘラ・メモリー」の中には、まともな心を持った優しい軍人も少なからず登場しますし、池部良もその一人

しかしその一方で、軍隊映画そのままの凶暴な軍人がいたことも事実

部下(兵士)に厳しくすることは、軍隊組織の規律維持や精神のゆるみを防止する上で、ある水準までは合理化されますが、その水準を超えて残忍さを出す者も出てくる

今でも警察や検察の取り調べなどで社会問題化しますが、人間が組織や権力を背負って無力な個人に対応したとき、少なからぬ人間は、その深層心理に潜む残忍さを剥き出しにします

人権意識の希薄な途上国や共産独裁国では、ごくありふれた風景です

企業の上司による部下へのいじめ(パワハラ)も、似たような精神構造でしょう

だれの心の中にも、この残忍さは潜んでいます

敗戦の玉音放送が流れて数か月後に、生き残った将兵を日本へ送り返す船(復員船)の中で兵士たちが暴動を起こし、戦争中に部下に凶暴だった上官を海に放り込むといった復讐事件も起きていたようです

敗戦による武装解除で軍隊という枠組みが消滅した訳ですから、当然に起こり得る上下逆転現象で、ギロチンこそ使いませんが、フランス革命のあとの旧貴族の運命と似ています

池部良「ハルマヘラ・メモリー」は、1997年の出版で、池部良79歳の作品

79歳とは思えぬ生き生きとした詳細な描写は、池部良が晩年まで旺盛な知的活動をしていたことを感じさせます

ただし一部には著者の記憶の変化などのせいか、必ずしもすべて事実通りではなく、あるいは本を面白くするための脚色(フィクション)かと思われる部分もある

また中には、残酷すぎて本に書けないこともあったのではないか?と思われるところもある

たぶん太郎先生の雑談でも、残酷すぎて高校生には聴かせられないことがあったのではないか?と推察いたします

(;´Д`) ウウウ

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漫画訳・雨月物語「白峰」

「漫画訳・雨月物語」という本を読みました

元になっている「雨月物語」は、江戸時代の作家、上田秋成の作品で、日本の中世を背景にしたホラー(怪談)話を9話ほど集めています

私は映画でも小説でも、ホラー系ダイスキ!なので、ついつい引き込まれます

つい最近も、春日武彦という精神科医の書いたホラー系の本にのめりこんだばかり

「雨月物語」は、石川淳が現代語に訳してますし、映画にもなってるので、その名前をご存じの方も多いかと思います

マンガですからスグ読めたんですが、その9つあるホラー話の冒頭に「白峯」という話があり、崇徳院と歌人の西行が、あの世とこの世の壁を越えて語り合うというオカルトっぽい内容です

崇徳院は、日本の三大怨霊(おんりょう)として有名な崇徳(すとく)天皇で、歴代の天皇の中でも最も不幸な死に方をした人

この世に未練と恨みを残して死んだために成仏できず、いろいろと厄介な「祟り(たたり)」を巻き起こして生者を苦しめる、と信じられてきました

能の「松山天狗」も、これを題材にしています

この祟りという考え方は、日本人の心性の非常に深いところにあって、日本の歴史に大きな影響を与えているだけでなく、実は我々現代日本人のメンタリティにも大きな影響を及ぼしています

祟りと似たようなものに「言霊(ことだま)」があり、

何かの悪い言葉を口にすると、それが現実化する

という一種の信仰

今でも、誰かが悪い(ネガティブな)言葉を発すると

「そんな縁起でもないこと言うな!」

などとたしなめる人がよくいますよね

自己啓発系の成功哲学には

「常に前向き、建設的な言葉を発していれば

 それはいずれ現実化して成功できる!」

というプラス思考(ポジティブ・シンキング)の考え方がありますが、それのネガティブ・バージョンでしょうか?

日本人が幕末明治以降、西欧文明に接してほぼ2世紀

表面的には「自由」「権利」「進歩」みたいな西欧型の合理的概念に慣れています

でも日本人の心の深いところには、祟りや怨霊、言霊のような心性を脈々と残している

それは時には、スピリチュアルなものに引き込まれる動機にもなったりして(若い女性に多い)、メンタル面を重視した企業のマーケティング戦略にも影響を及ぼしたりする

崇徳院はこの世に恨みを残して死にますが、その元になった政治的事件が保元の乱

日本史上の有名な事件で、大学受験の受験科目に日本史を選んだ方はよくご存じだと思いますが、私は理系だったので今回改めて保元の乱について調べました

この事件(乱)は、天皇家の跡継ぎ問題から始まっていて、現代の愛子さまと秋篠宮の関係を思い起こしてしまいます

結局、後白河天皇方が勝ち、崇徳上皇(崇徳院)は破れて讃岐(現代の香川県)へ流され、二度と京(みやこ)を見ることなく亡くなります

このとき、両軍の戦略立案を担ったのが

崇徳方の藤原頼長(敗者)

後白河方の藤原通憲(信西)(勝者)

両者ともスゴい切れ者で、現代の官僚なんかによくいる秀才タイプ

ただし、頼長は藤原氏の中でも主流派(嫡流)に生まれたエートコのボンボン

信西はそうではなかったので、自分も藤原氏でありながら藤原氏主流派に恨みを持ち、保元の乱に勝利すると着々と藤原氏主流派つぶしを始めます

その信西も、数年後の平治の乱に破れて死に、首はさらしものに

保元の乱は後白河天皇方が勝ったとは言いながら、実は本当の勝者は武士でした

乱の勝敗を決したのは武士の軍事力だったので、当然と言えば当然です

この事件からのち、政治の実権は徐々に武士へ移り、天皇家と摂関家(藤原氏主流)はパワーを失って「飾り物」になっていきます

その意味で保元の乱は、時代が古代から中世へ移り変わる画期的な事件でした

少し大ざっぱな言い方をすると、世界に多くの国家や民族がある中で、歴史的に中世という時代をきちんと経ているのは西欧と日本だけで、ほぼ現代の先進国と一致します

これを偶然と見るか、歴史の必然と見るか、なかなか面白いところです

(^_^;)~♪

「漫画訳・雨月物語」白峰へ(PDF・19MB)

石川太郎先生の研究(1)

▲我々27回生の卒業30周年同窓会(2005年)の太郎先生

87歳にしてこの背筋まっすぐの凛とした姿勢は、帝国海軍仕込み?

▲これは1年A組クラス会(2006年)にご出席の有賀先生

 

今日、昼寝をしていたら、夢の中に石川太郎先生が登場しました

最近はほぼ毎日昼寝をし、昼寝も夜寝も同じくらいの長さ

どちらも4時間くらいになってます

長時間続けて眠れないのは、年のせいでしょうかねー(トイレも近いし)

睡眠不足は重大な悪質ストレス要因で、

悪質ストレスは、免疫系を破壊して、ガン細胞の暴走を促す!

と私は信じているので、睡眠はタップリとるようにしています

具体的には、よほど重大な用事が無い限り

眠気を催したら、ためらうことなく、スグ横になる

自然に目覚めるまで、ひたすら眠る(約4時間)

という、昼夜2サイクル(合計8時間)の睡眠パターン

現役世代には無理な、リタイア世代だけに許された、ゼイタクなライフスタイルかもしれませんね

スペインには、シエスタという昼寝の習慣があるそうですが、我が日本も見習ったらどうかなぁ

いま太郎先生にお会いしたら

「70前の若造が、たるんどる!」

とか怒られるかな?

 

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夢の細かい内容はスグに忘れたのですが、太郎先生のことを思い出しながら、以下に少し書いてみることにします

新宿高校時代に太郎先生の生物の授業を受けた方はご存じのことですが、太郎先生は海軍将校となって第二次大戦に従軍されています

(この辺の記憶が、先週の「横須賀・軍艦クルーズ」とつながって、夢になったのかもしれませんね)

太郎先生は新宿高校での生物の授業中に、この戦争体験を「雑談」として語り、時として授業時間の大半が「雑談」になることも多々ありました

その体験談が非常に面白い(興味深い)ものだったので、新宿高校卒業生の間では

新宿高校最大の名物教師

として語り継がれています

我々新宿高校卒業生にとって「太郎」と言えば、麻生太郎、山本太郎、河野太郎などではなく、石川太郎先生しかいないのです

あの名物授業を録音しておいて、いま聴きたかったなぁ

いま考えてみますと、太郎先生は年齢的に、1943年(昭和18年)の「学徒出陣」で戦場に向かう運命になったのではないか?と推察します

それまで男子大学生は兵役法により、26歳まで徴兵を猶予されていましたが、敗色濃い戦時体制下ではこの猶予が撤廃され、20歳以上の文系学生が徴兵の対象となりました

そこでひとつ疑問が生じます

なぜ理系(生物学)の太郎先生が、学徒出陣することになったのか?

実は理系でも一部の学科では学徒出陣の対象となった、という情報もあります

確かに同じ理系でも、機械や電気みたいな工学系ならともかく、生物みたいな理学系は、戦争遂行や兵器製造との関係が薄そうです

当時、生物兵器や化学兵器の研究もしていたはずだけど、それはたぶん医学系や薬学系、応用化学系が担うはず

この辺の詳しい事情、もしご存じの方がいたら教えてください

▲出陣学徒壮行会 1943年(昭和18年) 元は白黒だがAIでカラー化

太郎先生は戦争から生還して、31年9か月間(昭和21年8月~昭和53年3月)、生物の先生として新宿高校で教鞭を執られました

我々27回生は、その最後に近い3年間、太郎先生に接する機会があった訳です

下の写真は、我々が入学するずっと前、太郎先生が新宿高校へ赴任した直後の撮影ではないかと思われます

まだ若々しい太郎先生(おそらく30歳代前半くらい)が写っています

周囲の理科の先生たちの、いかにも学者っぽい、ややひ弱な感じに対して、太郎先生の堂々たる面構えや雰囲気は、「さすが元帝国軍人!」と言いたくなります(私だけの感想かな?)

我が敬愛する物理の有賀先生は、やや不敵な笑みを浮かべているようにも見えます

有賀先生は、私の新宿高校1年の時のクラス担任で、有賀先生の授業が面白くて私は物理がダイスキになり、そのまま人生の途中まで理系人生を突っ走りました

「コレ、大事ですからね、コレ!」、思い出します

そのうち太郎先生に続き、「有賀健治先生の研究」も書きたいなぁ (^_^;)

 

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さて、当ブログの2013年8月8日に「古稀記念文集」という記事があります

これには、新宿高校12回生(我々よりも15年上)が古稀記念文集を発行したときの経緯などが書かれています

その中で12回生の同期会(2012年ころ)に来賓として出席なさった石川太郎先生のことが書かれています

石川先生は95歳、中野先生が92歳と、御高齢になられたことでもあり、それぞれお体にご不自由を感ずる日々を過ごされておられるそうです。

石川先生は視力が弱くなって、相手の顔が丸く霞んでいる程度にしか見えなくなっておられる由。

また中野先生におかれては、歩行に困難を覚える外、発声もままならなくなられているので、スピーチは控えたいとのご意向でした。

斯様に、ご不自由なお体を押してまでも、先生方のご参加が得られるのも、この七夕会が文集発刊に象徴されるような絆を保ち続けているからではないで しょうか?

スピーチの中で石川先生は、

「・・・人生振り返ってみると孤独だった。

軍隊でも孤独だった。

そして今外山中学の同窓会で生き残っているのは、自分を含めて たった4人。

孤独だねー」

と言われながらも、若い奥さまの温かな早めのお迎えを受けて(森さん・功刀さん談)4時頃お帰りになられました。

この「外山中学」とは、どこの学校?

旧制府立四中(都立戸山高校)を「戸山中学」と呼んで、それが誤植されたのか?

スピーチの中で3回も「孤独」という言葉を発した95歳の太郎先生

親しい人たちが次々に鬼籍に入る寂しさか?

勝手な想像ですが、戦場で戦友など多くの親しい人たちの死ぬ場面に遭遇し、それが太郎先生の人生観や孤独感に何らかの影響を及ぼしたのか?

あの授業中の饒舌だった太郎先生の、心の奥底が少しうかがえるような気がします

最後の「若い奥さま」というところに救いが感じられる

当ブログの2015年5月11日の記事「訃報 石川太郎先生」によると、3年間ほど自宅療養をされた後、2015年2月17日、奥様に看取られて、安らかに息を引き取られたとあります(享年97)

▲上記同期会(2012年ころ)の記念写真

▲少しボケてますが、中心部を拡大

左が多分、石川太郎先生(95) 一人おいて中野先生(92)

2012年の時点で太郎先生は95歳、すると生年は1917年ころで、1943年の学徒出陣の時に26歳くらいですから、まさに学徒出陣の対象者に該当します

もしかすると学徒出陣ではなく、徴兵猶予が切れた26歳でスグに戦地へ送られたのかもしれません

この「26歳で戦場へ」という仮説が正しいとすると、太郎先生の戦場体験は1943~1945の、長くても2年間程度だったはず

そこからあれだけの「雑談」が生み出された訳で、この2年間ほどの戦場体験の重みが感じられます

 

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ここに、「新宿高校歴代クラス担任一覧」という資料があります

これによると、太郎先生がクラス担任を引き受けたのは3回だけということが分かります

この資料は卒業時(3年生)のクラスなので、これとは別に入学時(1年生)のクラスがあります

いずれにしても、太郎先生の31年余の新宿高校在任期間を考えると、クラス担任の回数が少ないのかな?とも思いますが、上の先生のスピーチにある「孤独」と何やらつながってくるような気もいたします

また、我々が入学する前に全学連など反体制学生運動の影響を受けて、我々より少し上の世代(坂本龍一とか)が大暴れしました

新宿高校の校内もかなり荒れたのですが、それと太郎先生の「孤独」には何か関係がないかな?、などと勝手に想像してみたりもします

何しろ、国のために若者たちが命を捧げた時代、それからわずか20年ちょっとで、若者たちが国をぶっ壊そうと暴れていた時代

その二つを、目の前の出来事として、肉眼で見た太郎先生

今から思えば、どっちもスゴい時代だったと思います

▲国会を取り囲んだデモ隊(1960年)

右奥に出来たばかりの東京タワー(1958年完成)

 

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当ブログ1973年3月11日の記事に「石川太郎先生  読書雑感」という記事があります

我々27回生が新宿高校2年のころ、太郎先生56歳くらいの文章です

菜根譚を「老人の読む本」と断定しているところが、いかにも太郎先生

砲声やエンジンの音まで実感がわく」というところに、生の戦場体験を感じます

保定(パオティン)は、北京の近くの街ですから、海軍将校も軍艦に乗るばかりでなく、陸地のかなり奥深くでも戦ったのですね

▼拡大図

▲「保定城」でググったら、上のような城門の写真がありました

太郎先生は80年前の戦争中に、この城門を見たのでしょうか?

私の乏しい記憶や当ブログの過去記事からいろいろ書いてみました

記事中の私の記憶違いや誤解のご指摘、あるいは太郎先生に関する追加の情報やエピソードなど、hp@mkosugi.com までご提供いただけるとウレシイです

(^_^;)~♪

健児の歌 

 

黎明の雲を破り さしいづる日のごと
明けし生気充てり 我等六中健児
いざ燃えよ朝日のごと 母校の光世にあらはせ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

湧き出る若き力 揺るがぬ意思もて
奮闘と努力やまず 我等六中健児
いざ進め撓まず往け 校旗を四方に輝かせよ
興国の鐘は響けり 興国の旗あがれり

 

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JR横須賀駅には階段が無い

▲JR横須賀駅

萩原さんから「JR横須賀駅には階段が無い」と教えてもらったので、

120年以上の歴史あるJR横須賀駅、階段が全くない理由は?

というサイトを閲覧したら、JR横須賀駅だけでなく、横須賀の街の歴史など、いろいろ分かりました

たしかに階段が無いが、その理由には2説あり

黒船にビックリした幕末~明治の日本は、近代的な造船所の必要に迫られた

そこで登場するのが小栗上野介忠順(2027年のNHK大河ドラマ主人公)

造船所建設指導で来日したのが、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーで、公園の名前になっている

1871(明治4)年に「横須賀造船所」第1号ドックが完成

横須賀駅に1番線が無い理由、などなど

ちなみに先日乗り降りしたのは京浜急行の横須賀中央駅で、こっちが横須賀市街の中心にあり、JR横須賀駅はやや街外れにあります

(^_^;)~♪

▲明治18年発行の横須賀絵図 軍港見学者向けお土産

 

▲ヴェルニー公園

詳細はここをクリック

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