昭和を代表する永遠の美女ですね
井野先生 情報ありがとうございます (^_^;)
昭和を代表する永遠の美女ですね
井野先生 情報ありがとうございます (^_^;)
このビルには、いろいろ思い出があります。
もう30年以上も前ですが、スポーツクラブの「エグザス」が出来て、その事業展開のお手伝いをしました。隣のビル(確か「サンクレストビル」だったかな?)に出来たてのエグザス青山店があって、そのお店をモデル店舗にしてマーケット分析をしたり、店舗オペレーションをマニュアル化したり。
地下にイタリアンのサバティーニがあった。
青山ベルコモンズは外側も面白いけど、内部に吹き抜けがあって楽しいビルでしたね。こうゆう遊び心のある建築は、黒川さんみたいな実力のある、良い意味でのワガママが通せる建築家でないと無理でしょう。
普通は建築主の経済性計算に押されて、無難な設計になっちゃう (^_^;)
2014年3月に閉館した商業施設「青山ベルコモンズ」の跡地で三菱地所が開発を進める「(仮称)北青山二丁目計画」の完工予定まで約1年となった。
1976(昭和51)年、当時アパレルチェーン大手だった「鈴屋」(だからベルコモンズ)が施設開発を手掛け、青山通りと外苑西通りが交わる青山三丁目交差点角にオープンした青山ベルコモンズ。
建築家・黒川紀章が設計を担当。
先鋭的なファッションブランドや飲食店、文化施設が入居するファッションビルとして注目を集め、青山エリアのランドマークになっていた。
開発計画は2017年12月に着工し、青山ベルコモンズの歴史性を踏まえ、「多種多様」な人が交流する空間を目指し、地上20階・地下2階、延べ床面積約2万2910.61平方メートルの施設に、オフィス・ホテル・商業ゾーンを整備する。
▲ベルコモンズ 取り壊し完了 (T_T)
2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴い新国立競技場の建設も進む青山エリアのにぎわいを見据え、容積・形態の制限を緩和する都の統一的基準を設けた「総合設計制度」を活用。
ホテルは、国内外でホテル・レストランを展開する「Plan・Do・See」(千代田区)が運営する。
現代的な設計の外観は、ガラスファサードのデザインに加え、低層部を「緑豊かで開放的な空間」とし、圧迫感を抑え周囲の街並みや景観との調和を目指す。
1階・2階は店舗、5階~15階はオフィスが入り、商業区画は「青山ベルコモンズの系譜を継ぐ商業ラインアップ」を予定。
オフィスフロアは、コワーキング機能も備えるという。地下2階は駐車場。
3階~4階、16~20階に入るホテルは、3階にイベントスペースを設けるほか、訪日外国人向けにさまざまなジャンルの飲食店を用意。
ルーフトップはレストラン・バーテラススペースとなる。客室数は42室、客室サイズは約30~60平方メートル。
2020年上期の開業を予定する。
入居テナント向けのBCP(事業継続)対策で、非常用発電機や防災備蓄倉庫を備え、北側広場には災害時に温かい食事などが提供できる「かまどベンチ」を設置。
屋上に設置する太陽光パネルから建物内に電気を供給し、環境にも配慮する。
▲遠近法を無視したパース (^_^;)
某国の「将軍様」のヘアスタイルに
とてもよく似てますね (^_^;)
ほとんど見かけることがなくなったダイヤル式の「黒電話」。
そんな電話機が展示されている博物館が、ネット上で話題になっています。
使い方も解説されていて、実際に触れることもできます。
子どもたちに人気の展示について学芸員に話を聞きました。
黒電話が展示されているのは、奈良県立民俗博物館(大和郡山市)です。
回線はつながっていませんが、実際に触ることができ、電話のかけ方もイラスト付きでこんな風に解説しています。
「1960年代に登場した電話。数字が書いてあるダイヤルの穴に指を入れて右へ回す。指止めの位置まで回したら指をはなす。これをくり返して番号を入力します」
ツイッターでこの展示が紹介されると、
「博物館入りとは!」
「自分が生きた化石になった気がした」
といった驚きの声が上がっています。
「6年前に常設展として『昔のくらし』を新設したときから展示しています」と話すのは、学芸員の茶谷まりえさん。
「昔のくらし」では、黒電話以外にも炭火アイロンや糸車、真空管テレビなど、かつて家の中で使われていたものを展示しています。
電話機については、磁石式から黒電話、プッシュ式への変遷がわかるよう並べたコーナーもあります。
1982年4月5日、坂本龍一&忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」がオリコンのシングルチャート1位を獲得した。
1982年といえば、私が大学を卒業した年である。
在学中にアルバイトをしていたCBSソニー(当時)のTさんから「就職するのならば新しくできる会社がいい」と薦められ、できたばかりのロンドンレコードを受け、何度かの面接の後、なんとか合格。
4月から入社する予定だった。
社会人になるそれまで、いわゆる卒業旅行として、以前お世話になった、LAで「ハリウッド・ミュージック・ストア」を営んでいるMさんのところへ3か月ほど行く予定を立てていた。
そんな矢先、「邦楽第1弾を2月に出すことになったので、1月からアルバイトとして来てほしい」とロンドンレコードから連絡があった。
渋々、ソ連大使館の脇にあった就職先の会社へ行くと、その邦楽第1弾はYMOの坂本龍一さんとRCサクセションの忌野清志郎さんのコラボレーションだという。
「へえ、YMOとRCとはすごいじゃん」というのが、大学卒業前のアルバイトとしての実感だった。
1月上旬に新入社員となる我々(と言っても3人だが)が集められた時点で、すでにレコーディングは終わっており、ミックスの作業をしているという新富町の音響ハウスに連れて行かれた。
そこにはちょうど夕食のお弁当を食べている牧村憲一さんがいた。
挨拶をすると、「いやあ、今回僕は仲人役ですから」と言って自己紹介をされた。
牧村さんは資生堂のCM音楽のディレクターであり、またレコード原盤のディレクターという立場であった。
そこで初めて「い・け・な・いルージュマジック」とB面の「明・る・い・よ」を聴いた。
聴き終わると、スタジオにいたみんなの顔が“パアッ”と明るくなったのを憶えている。
さて、最初の私の仕事は宣伝だった。
邦楽第1弾であるこの「い・け・な・いルージュマジック」を各媒体に売り込むことである。
そして、ロンドンレコードからの宣伝請負人として吉見佑子さんが小さいけれども大きな声でさっそうと現れた。吉見さんに連れられて、出版社を中心にいろいろなところを回ったものだ。
当時、写真週刊誌の先行雑誌であったFOCUSが売れ行きを伸ばしていた。
何とかFOCUSの記事を取れないものかと宣伝会議でも議題に上がり、集英社なども担当していた私がFOCUSへ出向き、売り込むこととなった。
アポイントを取り、会ったのは記事を担当するフリーの記者であった。
今となっては誰だったのか知る由もないのだが。
使う写真は十文字美信さんが撮った宣伝用のポスターを使うことで合意した。
当然、記者としては内容を面白くしようとする。
曲も認知もされ、プロモーションビデオもかなり流れて話題になっていたので、そのPVのことをかなり取材された。
当時、「い・け・な・いプロジェクト」では撮影時のエピソードとして「撮影に使ったお金はすべて本物で、なぜか2万円がなくなっていた」というストーリーを作り、我々はそれを使っていた(2万円が紛失したのは本当の話で、その2万円は牧村さんが個人的に立て替えたそうだ)。
取材する記者に「撮影後、2万円が紛失していたのだけれど、それはもしかしたら清志郎の仕業かもしれないですね。いや、真相はわからないのですよ」と、なんとなくその場を盛り上げるプロモーショントークの延長のように言ってしまった。
FOCUSでの記事は掲載され、ヒットを後押しするための有効な宣伝となり、私はミッションを達成。
当時の役員から「これが欲しかったんだよ! ごちそうするぞ」と言っていただき、吉見さんからも「犬も歩けば棒に当たるのね」とおほめの言葉をいただいた。
しかし、後日、忌野清志郎さんの所属事務所の社長である奥田義行さんが会社にそのFOCUSを持ってやって来た。
ずいぶんとご立腹で、記事の中の「2万円は忌野清志郎が持って行ったことが判明した。
坂本龍一は新宿高校で、忌野清志郎は日野高校。その育ちの違い」という、正確な文面は覚えていないが、そこの部分に赤線を引いて何やら宣伝部長に言っている。
そこから聞こえたのは「これは杉岡がやったことですから」。
「え?! そりゃないでしょう!」初めて味わう大人の社会の仕組み。
だいたい、新宿高校と日野高校で何の育ちの違いがあるのか訳が分からない。
当時は原稿の事前確認なんてことはまったくできなかった。
まあ、そんなことも今となっては40年ほど前の楽しい思い出だ。
後年、間違った記事を見受けるが、撮影で使用されたお金は一部を除きそのほとんどはダミーのお札。
もちろん、清志郎が2万円を持って帰ったという事実もない。すべては私の若さゆえのことである。
【著者】杉岡中(すぎおか・あたる)
「大人のMusic Calendar」編集長。
ロンドンレコードでRCサクセション、坂本龍一を担当。
MIDIレコードを経て角川書店へ入社。
「月刊カドカワ」、「The寂聴」「月刊短歌」などの編集長を務める。
現在は「大人のMusic Calendar」の傍ら、ニッポン放送のサイト「1242.com」で編集を担当。
また瀬戸内寂聴等の書籍プロデュースを行っている。
昭和に続いて「和」が入りましたね
和を以って貴しと為す
聖徳太子の素晴らしい理想です (^_^;)
日本政府は1日午前の臨時閣議で、新しい元号を「令和」に決めた。
「れいわ」と読む。
菅義偉官房長官が記者会見で公表した。
出典は日本の古典「万葉集」とした。
中国古典(漢籍)ではなく日本の古典から採ったのは確認できる限り初めて。
今上天皇陛下の退位に伴い5月1日午前0時から新元号「令和」に切り替わる。
平成は1989年1月8日からの30年4カ月で幕を閉じる。
関係者によると、政府は元号に関する懇談会などで「令和」を含む計6案を提示した。
中国古典を出典とする案もあったという。
令和は万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文、
「初春の令月にして気淑く風和ぎ、
梅は鏡前の粉を披き、
蘭(らん)は珮(はい)後の香を薫らす」
から引用した。
新元号公表後、安倍晋三首相は記者会見で談話を発表し、令和について
「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ、
という意味が込められている」
と説明した。
出典とした万葉集に関しては「我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書だ」と述べた。
先日の内田裕也さんに続き
アウトローの巨星が消えてゆく (T_T)
俳優・萩原健一=本名・萩原敬三=さんが26日午前10時30分、都内の病院で亡くなっていたことが28日、分かった。68歳。所属事務所が書面で発表した。
病名はGIST(消化管間質腫瘍)。2011年からひそかに闘病していたが、本人の強い要望で病名の公表を控えていた。妻でモデルのリカ(本名・理加)さんが最期を看取ったという。
葬儀は家族のみで営まれ、都内の斎場で27日に荼毘(だび)に付された。
萩原さんは1950年7月26日生まれ、埼玉県出身。
65年に結成したばかりのザ・テンプターズにボーカリストとして加わる。
テンプターズはグループサウンズの先輩であるザ・スパイダースと同じスパイダクションに所属し、67年10月、シングル「忘れ得ぬ君」でデビュー。
68年には「神様お願い」「エメラルドの伝説」が大ヒットし、萩原さんは「ショーケン」の愛称で、ザ・タイガースの「ジュリー」こと沢田研二と並ぶアイドル的な人気を博した。
グループサウンズのブームは短く、テンプターズは70年に解散。
萩原さんは71年にテンプターズの大口広司、タイガースの沢田、岸部一徳、スパイダースの大野克夫、井上尭之とニューロックのスーパーグループ「PYG」を結成。
「自由に歩いて愛して」などの名曲を残すが、PYGは自然消滅する。
75年、ファーストソロアルバム「惚れた」を発表。
ソロでは「愚か者よ」、映画「竜二」の主題歌「ララバイ」やBOROのカバー「大阪で生まれた女」などの名曲、柳ジョージ&レイニーウッドがバックバンドの「熱狂・雷舞」や、井上、ミッキー吉野ら豪華メンバーでの「アンドレ・マルロー・ライブ」など、ライブアルバムの名盤を残した。
2017年5月には東京と大阪のビルボードライブで50周年ライブを行っている。
俳優としては、72年に出演した「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事役、同年の映画「約束」で鮮烈な印象を残し、ドラマ「傷だらけの天使」、「前略おふくろ様」、「祭りばやしが聞こえる」や映画「股旅」、「青春の蹉跌」などで、政治運動が挫折した70年代の若者のアイコンになった。
映画では「八つ墓村」、「影武者」などの大ヒット作に出演し、83、86年には日本アカデミー優秀主演男優賞を受賞。
その他の主な出演作に「誘拐報道」、「もどり川」、「極道の妻たち 三代目姐」、「いつかギラギラする日」、「居酒屋ゆうれい」がある。
ドラマでは「豆腐屋直次郎の裏の顔」、「課長サンの厄年」、「外科医柊又三郎」や大河ドラマ「太平記」、「元禄繚乱」、「利家とまつ」などに出演。
近年もNHKのドラマ「鴨川食堂」(16年)、「不惑のスクラム」(18年)で大きな存在感を示していた。
著書に「ショーケン」、「不良のススメ」、「日本映画『監督・俳優』論」(共著)がある。
日本の鉄道は 本当に素晴らしいんですけど
地方の各駅停車が だんだん減ってきているのが
青春18きっぷファンとしては 少々残念です (^_^;)
日本を定期的に訪れている筆者(英国人 Colin Joyce)は数年前、都内に「上野東京ライン」という新しいJRの路線ができたことに気がついた。
上野駅と東京駅はすでに結ばれていなかったか? そう思い、やや困惑した
なるほど、それは都心を走り抜け、5つの都県を一度も乗り換えることなく縦断できる路線であることが分かった。
複数の路線を結ぶ難しい事業を見事に成し遂げたことで、乗客の利便性は高まり、世界最先端の日本の公共交通はさらに良くなった。
南北270キロメートルにも及ぶ鉄道路線の名称に、徒歩で行き来できる都心の2つの駅名を使うのは、かなり控え目な名称に思えた。
しかし、それこそ日本人が自分たちの大きな業績を正しく評価しない、「平成」という時代の典型だった。
平成で成長した日本サッカー
同世代の日本人と違い、筆者は平成以外の日本を知らない。
1992年に英国から来た私には、バブルの記憶も、昭和への郷愁もない。
平成時代に対して日本人の多くが抱く「停滞」さらに言えば「後退の時代」という見方を理解しつつも、自分でそう感じることはなかった。
私は、自分が出会ったこの国に深く感銘を受け、特筆すべき改善する力や、遅れを巻き返す能力に目を見張っていた。
後者の例として挙げられるのはサッカーだ。
私が学生として神戸に初来日した当時、日本はサッカーの「へき地」だった。
しかし、1993年のJリーグ発足は日本を強豪国へと押し上げた。
日本代表は実力をつけ、国内リーグの人気は高い。
スタジアムは素晴らしく、サポーター層も磐石。
欧州に渡ってトップリーグでプレーできるようになった選手もいる。
関西を代表するクラブチームといえば「ガンバ大阪」。
1993年当時、そう思っていたことを覚えている。
大阪にもう1つ、さらに神戸、京都にもクラブができる余地があるなど想像もしなかった。
これはすべて一世代の間に起きたことだ。
おっと、2002年に日韓が共催したワールドカップ(W杯)の成功に言及し忘れるところだった。
複雑な直通運転の謎
日本について語り出すと、申し訳ないが鉄道の話が止まらなくなる。
運賃が高く、時刻表は当てにならず、腹立たしいほど遅れがちで、運休することもある(そして休暇シーズンには代行バスに切り替わる)英国に比べ、日本の鉄道の旅がどんなに素晴らしいか、皆に伝えたくて仕方がない。
来日当時、この国の鉄道システムはすでに十分素晴らしかった。
北は盛岡、南は博多までしか新幹線が延びていないのは当然のことと受け入れていた。
日本の大部分がカバーされていると感じたし、そこから先に行きたければ、特急列車に乗り換えるか、最初から飛行機を利用すればいいと考えていた。
都内を電車で移動するにも、JR山手線を乗り降りして私鉄のターミナル駅間を行き来するのをわずらわしいと思ったことはなかった(何しろ山手線は3分おきにやってくる恐るべき電車だ)。
しかし、そこに「上野東京ライン」が登場した。
他にも直通運転の路線が増えた。
電車に乗ったら途中で別の会社が運行する路線に変わり、その先はおそらくまた別の会社が運行している。
技術的な問題をどう解決したのかは言うまでもなく、運賃をどう分け合っているのか、どの会社が運転手に給料を払っているのか、私にはまったく見当もつかない。
1つではなかった本州と四国を結ぶ橋
1988年に開通した瀬戸大橋も偉業だと感じた。
行きは電車、帰りは大型トラックをヒッチハイクして橋を往復した。
そして英国に住む家族に、5つの島にまたがるこの驚くべき「2階建て橋」について手紙を書いた。
日本は本州と四国を結ぶ橋を完成させた──。
当時はそれで終わりだと思い込んでいた。
もう1つの連絡橋プロジェクトが進行していた事実に気づかなかったのは、そのせいだろう(後に3つ目の橋建設も始まる)。
恥ずかしいことに、神戸から四国まで、岡山を通らずバスで行けたことに驚いたのはそれから10年後のことだ。
同じく東京湾アクアライン連絡道の建設も、2003年ごろ飛行機から見るまで気づかなかった。
橋梁部がトンネルに変わって海中にもぐる部分が、なぜ水であふれないのかはいまだに謎だ。
「平成日本」は総じて安定
平成の30年間に日本が直面した深刻な問題を、軽んじるつもりはない。
自然災害、政財界のスキャンダル、増大する政府債務、終身雇用の崩壊と非正規労働者の増加、高まる自殺率、少子高齢化など枚挙にいとまがない。
いずれもこの国が解決しなくてならない重大な問題であり、日本で記者をしていた頃は、深く憂慮しながら取材をした。
しかし、平成日本に暮らした1人として、この国の社会は総じて安定しており、回復力と対応力を備えているとも感じていた。
経済危機が、ロンドンで起きた暴動のような社会の不安定化につながらなかったことをうれしく思っていた(私が物心ついてから、大きな暴動だけでも4回起きている)。
最後にもう1つ、日本で不思議だったのは外国人観光客が少ないことだった。
英国は、1990年代初めまでに年間2000万人の観光客を受け入れていた。
卓越した観光資源と交通インフラを備えた魅力的な国であるにもかかわらず、日本の実績は明らかに実力を下回っていた。
今はそれがどうなったか。私がここで話すまでもないだろう。
筆者 コリン・ジョイス(Colin Joyce)
英エセックスを拠点に活動するジャーナリスト。
オックスフォード大学卒業後、日本語を学ぶため1992年に来日。
埼玉県の高校で英語を教えた後、週刊誌ニューズウィーク日本版に4年間、英紙デイリー・テレグラフ東京支局に7年間勤務した。
15年に及ぶ日本での生活をもとにした「『ニッポン社会』入門──英国人記者の抱腹レポート」(NHK生活人新書)、「マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの<すきま>」(同)などの著書がある。
*本コラムは、ロイターに掲載され、筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
英国人でコリンと言うと
どうしても、コリン・ウィルソンを
思い出してしまいます (^_^;)
日比谷線沿線に住んでるので
多くの皆さんから「大丈夫か?」と
お問い合わせいただきましたが
あのとき私は寝てました ((((;゚д゚))))
13人が死亡、6千人以上が重軽症を負った平成7年のオウム真理教による地下鉄サリン事件から24年となった20日、多くの被害が出た東京メトロ霞ケ関駅(東京都千代田区)で、駅員が黙祷(もくとう)した。
昨年7月にはオウム真理教元教祖の通名・麻原彰晃(死刑執行時63)ら、教団による一連の事件に関わった計13人の死刑が執行された。
サリン被害者の遺族も霞ケ関駅を訪れ、献花。
霞ケ関駅のほか、小伝馬町駅、築地駅など犠牲者が出た駅には、一般向けの献花台が用意された。
事件では、麻原彰晃の指示を受け、実行役の元教団幹部が、都心を走る地下鉄5車両に猛毒のサリンをまいた。
うわさのチャンネル ゴッドねえちゃん
せんだみつお なつかしいなぁ (^_^;)
覆面のプロレスラー「ザ・デストロイヤー」として日米で活躍したリチャード・ベイヤーさんが7日、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。
息子のカートさんがフェイスブックで明らかにした。詳しい死因は明らかにされていない。
バファロー出身。1954年にレスラーとなった当時は覆面を使わず本名で活動していたが、62年にザ・デストロイヤーのリングネームになってから米内外で人気が出た。
得意技の「4の字固め」で相手を苦しめた。
63年に初訪日し、東京で行われた力道山との試合のテレビ中継は視聴率64%を記録するなど、日本に空前のプロレスブームを巻き起こした。
バラエティー番組にも登場してお茶の間の人気者となった。
これが素顔→
引退後はバファロー郊外に戻って体育教師に。
日米のレスリング選手の育成に取り組むなどスポーツ交流に貢献し、東日本大震災の被災者支援も行った。
2017年秋の叙勲で旭日双光章を受章。
18年2月にバファローで開かれた記念式典には白い覆面を着けて臨んだ。
その後の記者会見では、東京五輪に合わせた訪日への意欲を見せていた。
戦後の東京で
最も光彩を放った街は
新宿かもしれませんね (^_^;)