萌慧ちゃんとGトリオを組んでいる
ゆりあちゃん(チエロ)と
理紗子ちゃんも登場(22分あたり) (^_^;)
萌慧ちゃんとGトリオを組んでいる
ゆりあちゃん(チエロ)と
理紗子ちゃんも登場(22分あたり) (^_^;)
じめじめ梅雨の雨降りもイヤだけど
梅雨が明けて また去年みたいな猛暑なら
それもイヤだなぁ (^_^;)
お寿司ダイスキ!
お寿司屋が増えるのは
大歓迎! (^_^;)
回転寿司チェーン最大手、あきんどスシローが経営するスシローが突如戦略を転換。
東京都心部の山手線沿線に重点的に出店する計画を発表したことが、大きな波紋を呼んでいる。
これまで、4大寿司チェーンの
スシロー、くら寿司、はま寿司、かっぱ寿司
は、いずれも家賃の安いロードサイドに駐車場付きの大型店を出してきた。
回転レーンと寿司ロボットを活用した効率性の高さと、スケールメリットによる有利な仕入れで、基本
「1皿2個のにぎり寿司が100円」
という低価格を実現してきた。
ところが、そのスシローが、都心部の駅前にも出店を加速するというのだ。
現状、東京の都心部は、
築地喜代村「すしざんまい」
立ち食いのにっぱん「魚がし日本一」
サカイ総業「廻る元祖寿司」
といったように、数店から数十店の中小チェーンが駅前繁華街に共存する状態にある。
しかし、スシローが本格的に進出するとなると、他のライバル3チェーンも負けじと出店してくる事態も想定され、都内の業界地図が数年のうちに塗り替わる可能性も出てきた。
▲故美空ひばりさんの家政婦の3人
辻村あさ子、斎藤千恵子、関口範子
いい話だなぁ~
ひばりさん お元気なら今82歳
戦後の歌謡界が生んだ 二番目の天才
一番はもちろん 藤圭子 (T_T)
日本の戦後歌謡史に大きな足跡を残した美空ひばり。
6月24日は30回目の命日に当たる。
生前のまま残る東京・目黒区青葉台の自宅(現在は、美空ひばり記念館)には、住み込みで働いていた「おのり」「ちーこ」「あさこ」が今も住んでいる。
ひばり邸の「三婆」(さんばば)とも「妖精」とも呼ばれる3人。
ひばりの死後30年たっても、あのころのまま「『お嬢さん』が生きていた時と同じように」と暮らし続けている。
3人の朝は午前6時、仏前で火打ち石を打つことから始まる。
公私にわたってひばりを支えた母、喜美枝が、舞台へ向かう娘のために祈りを込めた習わしだった。
母の没後は、ひばりが仏前で打つようになって、その習慣を3人が引き継いだ。
耳のいいひばりは、台所のテーブルを動かす、わずかな音でも目を覚ました。
だから静かに、お嬢さんを起こさないように朝食の支度をする。
「今朝の食事はいかがでしたか」。
食事を担当してきた「あさこ」が仏前で尋ねる。
返事はない。
だが「おいしかったよ」という言葉を夢想して、あさこはひとり、うれしくなる。
日中は、自宅に併設する記念館をファンが訪ねてくる。
身近で見てきたひばりの素顔を今に伝える「語り部」としての役割が、3人の仕事だ。
「お客さんに『ひばりさんがここにいて、迎えてくれたみたいだわ』
なんて言われると、本当にうれしくて」
現場で付き人を務めた「おのり」の笑みがこぼれる。
ひばりの主演映画やコンサートの録画を3人で見る。
映像に合わせて誰ともなく歌い出す。
かわいらしい衣装や小物を見れば「お嬢さん、こういうの好きよね」などと語り合う。
「飽きる? いいえ、お嬢さんの話題は次から次に出てきますから」。
おのりとともに現場の付き人だった「ちーこ」が破顔する。
現在のひばり邸を新築する際、3人に個室を、という話もあった。
だが、固辞してそのまま、豪邸の隅っこ、10畳の和室で川の字になって寝る。
「お嬢さんが夢に出てくることは、ほとんどありません。夢でもいいからお話ししたいのに。なぜでしょう」と3人は口をそろえる。
長年、公私にわたって芸能活動を支えた3人を、ひばりは生前、とても大切にした。
ひばりの死後、誰も「辞める」と言わなかった。
「出て行け」とも言われなかった。
付き人として、ひばりと暮らしたあのころのまま、昨日と同じ今日を生きていたら、いつのまにか30年がたった。
これからのことなど考えたこともない。
明日も今日のように生きるつもりだという。
3人の夢、生きがいは、昔も今も「お嬢さんのそばにいること」。
おのりは言う。
「たった一つの願いがかなった人生です。私たちは本当に幸せです」
(以上、敬称略)
「おのり」こと関口範子さんは1940年(昭15)、「ちーこ」こと斎藤千恵子さんは37年、ともに東京都で生まれた。
「あさこ」こと辻村あさ子さんは50年生まれで静岡県出身。
いずれも熱烈なひばりファンだったが、ひばりの母、喜美枝さんに声をかけられて、住み込みで働くようになった。
おのりは商社勤務を経て61年、ちーこは66年から、ともに付き人に。
あさこは農協勤務を経て73年から料理係を務めた。
それぞれのあだ名は、ひばりがつけた。
現在は、東京都目黒区の美空ひばり記念館(旧ひばり邸)で案内係としても働いている。
チーズケーキ大好き!
ますます東京が世界一の
グルメタウンになります (^_^;)
“バスクチーズケーキ”が大ブームです。
その火付け役として知られるのが、2018年7月5日に東京・白金高輪にオープンしたバスクチーズケーキ専門店『GAZTA(ガスタ)』。
開店初日から長蛇の列ができ、またたく間に連日1,000個を売りつくす超人気店に。
今ではテレビを始め、各メディアでひっぱりだこ。
その爆発的な人気の波に乗って、他店からも「バスク風チーズケーキ」が続々と発売されているのはご存知の通り。
最近ではコンビニにも登場して話題になりましたね。
というわけで、この一年で “バスク”と名がつくチーズケーキがバンバン登場するなど、にわかに活況を呈しています。しかし、ちょっと待った!
バスク地方といえば、スペインとフランスにまたがるエリア。
実はここに「バスクチーズケーキ」なるスイーツはありませんし、そもそもチーズケーキが名物でもないんです。
え、どういうことなの? と疑問に思われる方もいらっしゃることと思いますので説明しておきますと…。
そもそも火付け役である白金『GAZTA』の「バスクチーズケーキ」の元になったのは、バスク地方の古都サン・セバスチャンにある『LA VINA(ラ・ヴィーニャ)』という人気バルのチーズケーキなのです。
このチーズケーキ、誕生して約30年間、世界各国の美食家たちが絶賛し続けている逸品。
▲『ラ・ヴィーニャ』のチーズケーキ(tarta de queso)
そのレシピは、一家相伝のため門外不出。
いかなる有名パティシェがお願いしても一切お断り、だったのですが、なんと、一人の日本人パティシェがレシピを直伝されたのです。
そのレシピを再現し、「バスクチーズケーキ」と名づけて、日本で発売を開始したのが『GAZTA』というわけ。
つまり「バスクチーズケーキ」は、『ラ・ヴィーニャ』の味であり、すなわち『GAZTA』の味なのです。
そこでバスクチーズケーキの“本物”とは何かを探るべく、『GAZTA』のシェフ戸谷尚弘さんにお話を伺ってきました。
美味しさの秘訣は木棚にあり?
▲『GAZTA』のバスクチーズケーキ(15cm)4,320円(税込)
サン・セバスチャンは、人口わずか18万人の小都市。
その小さな街に、ミシュラン3ツ星や星付きレストランが多数存在し、世界中から美食家が訪れます。
その美食家たちが、必ず訪れるバルが『ラ・ヴィーニャ』。
▲1958年創業の『ラ・ヴィーニャ』
お目当ては、チーズケーキ「tarta de queso」です。
▲サン・セバスチャン『ラ・ヴィーニャ』のチーズケーキは直径21cm
このチーズケーキ、ルックスから独特です。
直径21cmの大きなホールで、表面はところどころ焼き色が付き、見るからにフワッフワ。
そしてカットすると、中はなめらかで重厚なクリームがしっとりトロ~リと流れ出てくるよう。
食べてみると、ベイクドでもないし、レアでもない、スフレでもない、誰もが「こんなチーズケーキ食べたことない」と口をそろえる逸品です。
この稀有な食感と濃厚な味わいに、誰もが憧れるわけです。
なぜこんなに魅力的な食感なのか?
レシピを伝授された『GAZTA』の代表・戸谷尚弘さんによると、
「食材や配合などにも工夫があるけれど、“火入れ”に非常に特徴がある」
と言います。
▲『ラ・ヴィーニャ』のチーズケーキはカットして提供される
『ラ・ヴィーニャ』では、元となる液体を型に流し込み、高温で一気に焼き上げます。
するとスフレのようにフワフワに膨らみます。
そこでオーブンから取り出して粗熱を取り、型から外します。
でもまだ完成ではありません。この時点では、中央は液状です。
「その状態で、木の棚に置いて休ませるんです。熱伝導が緩やかに進む木棚に置くと、余熱でじんわりと中に火が入っていきます。さらに、この棚はチーズケーキ専用。下部に穴が開いています。1つの穴の上に1つのチーズケーキを置くことで、その穴から適度に水分が蒸発し、あの独特な食感を生み出すのです」(戸谷さん)
▲『ラ・ヴィーニャ』の棚。穴が開いているのがポイント
この方法を白金高輪の『GAZTA』でも忠実に再現しており、店内左手の棚を見れば、ずらりと穴が開いた木棚を目にすることができます。
▲『GAZTA』の木棚
▲『GAZTA』の「バスクチーズケーキ」
また、本家『ラ・ヴィーニャ』と『GAZTA』のチーズケーキがいかに同じ味なのかは、食べ方にも現れています。
「バルのお客さんは、お酒とチーズケーキを一緒に楽しむ人が多いんです。観察していると、塩やコショウを振りかけたり、デザートワインやシェリー酒をかけたりして食べている。これ、やってみると、実によく合います。その自由な食べ方を日本に伝えたいと思って、オープン後に、岩塩やメープルシロップをトッピングとして販売し始めました。これが非常に評判なのです」
『GAZTA』では、岩塩とメープルシロップもトッピングとして販売している。
カナダ産のオーガニックメープルシロップ110円、フランス ブルターニュの岩塩60円
食材、配合、焼き方、そして食べ方まで、元祖バスクチーズケーキの『ラ・ヴィーニャ』を再現し、その美味しさを伝える『GAZTA』。
ちなみに塩でいただくと、ワインとの相性が抜群になりますし、メープルシロップをかけると、柔らかな甘さと香りが加わってより至極の味わいになります。
まだ食べたことがない人は、この“本物”のバスクチーズケーキの味をぜひお試しください。
(取材・文◎土原亜子)
●SHOP INFO
店名:GAZTA(ガスタ)
住:東京都港区白金1-14-10
TEL:03-3440-7495
営:9:00~19:00(売り切れ次第終了)
休:月(※月曜祝日の場合は翌火曜休)
http://gazta.jp/
あくまでも構想段階ですので
100%必ず実現する
とは限りません (^_^;)
東京・渋谷区の外郭団体の一般社団法人「渋谷未来デザイン」は13日、同区で行われたイベントで、民間主導で都立代々木公園内に多目的に使えるサッカースタジアムの建設を目指すことを発表した。
「スクランブルスタジアム」と名付けられた構想では、サッカーだけでなく、ライブやイベント会場、さらには防災拠点としての機能も備える。
パネリストとして出席した日本サッカー協会相談役の川淵三郎氏(81)も賛同した。
渋谷区が出資する「渋谷未来デザイン」は主催するイベントで、スクランブルスタジアム構想を発表。
渋谷の象徴・スクランブル交差点をヒントに、多様な人が行き交い、多用な使い方ができるスタジアムを民間の力でつくることを目標に掲げた。
建設地は複数駅から徒歩10分前後でアクセスできる代々木公園内の南部で、球技場や野外ステージなど既存施設がある付近。
緑地を削る必要はなく、3~4万人規模を想定している。
イメージ図は、12年11月の最初の新国立競技場のコンペで最終選考まで残った建築家・田根剛氏(39)が作成。
公園の自然と調和したデザインになっている。20年東京五輪後の着工を目指す。
実現すれば、東京23区内初の大規模サッカースタジアムとなる。
客席とピッチの距離が近いことで、より臨場感を味わうことができる。
出席した川淵氏も「これまでの日本にはない、世界に冠たるスタジアムができることを願っている。全面的に協力していきたい」と支援を約束。
どのクラブを誘致するかは未定だが、東京都がホームタウンのFC東京であれば集客も見込める。
ライブやイベント会場としても活用していく方針で、スポーツとエンタメの発信地となる。
防災拠点としても意義は大きい。同公園は災害時の避難場所に指定されており、最大10万人の受け入れが予想される。
発案者の金山淳吾理事は「災害時にはトイレの確保にもつながるし、VIPルームやビジネスルームを開放して、被災者を受け入れることができる」と効果について話した。
まだ構想段階だが、渋谷区民、東京都民の意見を積極的に取り入れながら実現を目指していく。
東京の天気予報です (^_^;)
吐き気のするような事件!
犯人・岩崎隆一の殺害動機が全く分からない
子供たちとの間に何かあったのか? ((((;゚д゚))))
川崎市多摩区登戸新町の路上で28日朝、同区の私立カリタス小学校の児童らが殺傷された事件。
神奈川県警は、刃物を持った51歳の岩崎隆一に襲われて死亡した2人の身元について、
同小6年の栗林華子さん(11)(東京都多摩市)、
別の児童の保護者で国家公務員の小山智史さん(39)(東京都世田谷区)
と確認されたと発表した。
小山智史(おやま・さとし)さんは、外務省職員という。
事件では、死亡した2人のほか、児童15人、保護者1人が重軽傷を負った。
その後、さらに別の児童1人もけがをしていたことが分かり、負傷者は計17人になった。
神奈川県私学振興課によると、カリタス小学校(内藤貞子校長)は、学校法人カリタス学園が1963年に設立した。
カトリック教育を重視し、系列の幼稚園や中学校、高校がある。
昨年度の児童数は647人(男子63人、女子584人)。
小田急線・JR線の登戸駅から学園まで、スクールバスを運行している。
いつも通り、学校へ向かおうとしていた児童が突然の惨劇に見舞われた。
川崎市の路上で28日午前、児童らが岩崎隆一に刃物で襲われ、多数の死傷者が出た事件。
犯人の岩崎隆一はそう叫んでいたという。
子供らはおびえた様子を見せ、呆(ほう)然(ぜん)と立ち尽くした。
「一体何が…」。血だまりが残る現場には衝撃が走った。
「娘の洋服は血がべったりつき、帽子やバッグも血まみれだった」
現場で襲われたという私立カリタス小1年の女児(6)の父親(46)は声を震わせた。
父親によると、女児はスクールバスの集合場所で襲われた。
午前8時40分ごろに救護場所に駆けつけると、女児は切られた唇を治療中だったという。
命に別条はなかったが、会話できるような状態ではなかった。
周囲には横たわる子供や大人がいて、泣き声も上がっていたという。
「とにかく病院に急ぎたい」。父親は足早に現場を後にした。
現場にいた男性は、岩崎隆一の興奮したような大きな叫び声を聞いたという。
別の住民の男性(67)によると、現場近くのバス停は、カリタス小の通学バスの集合場所になっており、毎朝、多くの児童が集まっていた。
多数のけが人を目撃したといい、「一体何があったのか…」と不安そうに語った。
近所に住む別の男性(52)は午前8時ごろ、けたたましいサイレンの音で自宅を飛び出した。
現場近くのコンビニエンスストア前で、路上に横たわる負傷者を目の当たりにした。
女性が救命措置を受けていたが
「出血が激しく、周辺が血の海のようになっていた」
女性のそばには、足と腕を負傷した児童が座り込み、手当を受けていた。
近くの路上ではスーツ姿の男性が倒れ込み、心臓マッサージを受けていた。
別の男性もぐったりして、あおむけに倒れ、救急隊が必死に声をかけながら治療していたという。
現場から100メートルほどの場所に住む40代の女性は
「バス停の前でスーツ姿の男性が倒れていて辺りが血だらけだった。意識はないようだった。周りには子供たちが20~30人くらいいて、泣き叫ぶわけでもなく言葉を失って突っ立っていた」
と話した。
岩崎隆一容疑者(51)は、児童らを刺した後に、自分の首を刃物で切って死亡した。
岩崎隆一の住所は、川崎市麻生区多摩美1丁目20。
近所の住民とはほとんど接触がなく、岩崎隆一について知っている人はほとんどいないとみられる。
ただ、小中学校の同級生によると、岩崎隆一は
「突然ブチ切れる性格だった」
という。
岩崎隆一と小中学校で同級生だった男性によると、昔から一見、おとなしいが、何か気に入らないことがあると、突然ブチ切れて暴れる。
まわりのもの、ごみ箱とかいす、机などをけって、先生を困らせていた。
気に入らないことというのも、ささいなことで、「靴をそろえて」と言われたくらいでも、ブチ切れて大暴れしたり、豹変(ひょうへん)したりしていた。
中学になると、岩崎隆一がブチ切れて機嫌が悪くなる回数は増えたように感じた。
「近くの友達に殴りかかって、よくトラブルになっていた。
ケンカしても、いつも負けるのは岩崎隆一。
なぜ機嫌が悪くなるのか、何が気に入らないのか、よくわからなかった。
そういう性格だから近寄る人もいなくなって、いつも一人でいた印象」
友人は、高校以降は岩崎隆一がどこにいったのかは知らないといい、ほとんどかかわらないようにしたという。
「報道で、朝はあいさつして普通だったのに、突然刃物で襲った
とあったが、昔の突然ブチ切れる性格が頭をよぎりました」
岩崎容疑者の近くに住む女性はこう話す。
「家はいつも閉め切っていて、家族とか一緒に住んでいる人がいる気配がない」
近隣の男性も
「近くだけど、人が住んでいるということも知らなかった」
と話した。
事件のあった28日夜、岩崎容疑者の家には捜査員とみられる男性4人が、パイプ椅子や傘、蚊取り線香などを持って入っていった。
▼岩崎隆一の自宅 川崎市麻生区多摩美1丁目20
亡くなった小山智史さんは外務省の職員で、ビルマ語の専門家として省外でも知られた存在だった。
外務省のホームページなどによると、大学入学当時、アジアに関心があった小山さんは、
「一般に知られていない珍しい言語を学びたい」
とビルマ語を選択。
在学中に初めてミャンマーを訪問するなどし、平成16年に外務省に入省した。
研修を経て約3年間、在ミャンマー日本大使館で勤務し、要人が訪問すると通訳を担った。
帰国後は、大臣クラス以上の通訳を務めることを期待されるビルマ語の通訳担当官も務め、25年にノーベル平和賞受賞者のアウン・サン・スー・チーさんが訪日した際にも同行した。
小山さんがかつて所属した外務省の南東アジア第1課では、ニュースを目にしたとみられる職員らが、目元をハンカチで押さえる姿もあった。
元上司の男性職員は、
「最高級に優秀な事務官だった。ミャンマーの専門家が少ない中、
一人で3人分の仕事をしていた」
と振り返り、
「人柄もすごく良く、慕われていた。子供をかばったのだろう。
犯人を許すことはできない」
と声を震わせた。
子供の送迎時に事件に巻き込まれたとみられる小山さん。
小山さんの自宅近くに住む女性は、
「優しいパパで、お嬢さんとよく遊んでいた。信じられない」
と涙ぐんだ。
地元民によると
「登戸という街はJR南武線と小田急電鉄が乗り入れる駅を背景に、近年は住宅街として発展を遂げてきた。
被害に遭った児童が通うカリタス小学校はカトリック系の名門私立小学校で、小学校までは共学だが、系列の中学校と高校は女子校。
大手広告代理店や、医者、弁護士など裕福な家庭の子供が行く学校として知られ、都内から通う子も多い」
多数の卒業生が麻布中学校や開成中学校といった名門校に進学している。
「現在の登戸は人気の住宅街であるが、かつては治安が悪いことでその名が知られていました。
戦後、溝の口を中心に登戸にも闇市が広がっており、その後の再開発で整備されたものの、いまだにその面影が残っている場所もある」
この地域をよく知る人間は
「河川敷にはホームレスも住んでいましたし、小さいコリアンタウンも点在していましたね。
僕たちがヤンチャな頃は、よくコリアンタウンに住んでいた人間と揉めていましたね。
川崎から登戸に掛けては結構治安が悪くて、今でこそ武蔵小杉、溝の口などは発展していますが、住宅街とはいえ登戸は夜も暗くて取り残されているイメージです」
と話す。
元々この周辺は、日本でも有数のコリアンタウンであった。川崎の京浜工業地帯などを背景に労働者が集まり、街を形成したという歴史的な背景があるからだ。
今でもその名残を残す場所は数多くある。
先日の豊洲で萌慧ちゃんを聴く会で感じましたが
かつての江戸下町イメージだった江東区は
いまや未来都市に変貌しつつあります (^_^;)