43【文学読書】

重傷ではない?

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横綱日馬富士(33=伊勢ケ浜)が、同じモンゴル出身で平幕の貴ノ岩(27=貴乃花)に起こした暴行問題で、日本相撲協会の危機管理委員会の調査で、頭部などを負傷した貴ノ岩の診断内容が重傷ではないことを17日、診断した医師が明かした。

重傷であるように報道されていることに驚いている」とのコメントも出した。

診断書を作成した医師が思わぬ重傷報道に、くぎを刺した格好だ。

九州場所6日目の打ち出し後、日本相撲協会の春日野広報部長(元関脇栃乃和歌)が1枚のリリースを報道陣に配布した上で説明した。

九州場所2日目の13日に公表された、貴ノ岩の診断書について危機管理委員会がこの日までに、診断書を作成した医師に診断根拠などを確認。

まず、診断書の病名4にある「右中頭蓋底骨折、髄液漏の疑いの解釈の違いを指摘。

頭蓋底骨折が確定診断のように受け止められたが「疑い」は「頭蓋底骨折」と「髄液漏」の双方にかかるという。

また疑いと診断した、その頭蓋骨骨折は過去に生じた可能性もあり、今回の傷害との因果関係が分からないため「念のため」に出した診断だった。

髄液漏れについても、実際に漏れた事実はなく今後、生じる可能性は極めてまれという。

診断書にあるように受傷は10月26日で、同病院には今月5日から9日まで入院。

全治2週間程度」「その間に状態が安定すれば仕事復帰可能」としている。

その点についても今回の調査で病院側は、2週間という期間は受傷時からのもの(8日まで)で、相撲を取ることを含め仕事に支障がないと判断し9日には退院したという。

リリースの最後は「重傷であるように報道されていることに驚いている」の言葉で締めくくられている。

現状で貴ノ岩は相撲を取れるとも解釈でき、場所中も2日目までは朝の稽古場に姿を見せていたという証言もある。

全休すれば十両に陥落するが、頭と頭がぶつかり合う相撲で大事を取っての休場判断、となれば口を差し挟むものでもない。

貴乃花親方(元横綱)は2日目に「診断書に書いてある通り。あのままで、それ以上はない」と話し、多くは語らなかった。

いずれにせよ提出された診断書を再度、詳細確認すること自体が暴行問題の大きさを物語っている。

そして診断書公表遅れを含め、貴ノ岩の師匠である貴乃花親方の一刻も早い説明が待たれるところだ。

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親方衆のドロドロの人間関係は どこの組織でもあることですが

 「頭蓋骨骨折で、全治2週間」 これに違和感がありました

なにごともまず 事実確認が大切ですね 報道機関さん!  (^_^;)

 

ワクチンが足りない

今シーズンのインフルエンザのワクチンについて、東京の医師の団体が緊急のアンケート調査を行ったところ、 回答した医師の65%が「足りない」と答えたことがわかりました。

厚生労働省は、メーカーが出荷を早められるよう対策をしているとしています。

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今シーズン製造されるインフルエンザワクチンは、昨シーズンに使用された量を下回る見通しで、東京保険医協会は先月、小児科と内科の医師の会員およそ3500人に対して緊急のアンケート調査を実施し、およそ750人から回答を得ました。

それによりますと、「インフルエンザワクチンが足りない」と回答したのは65%で、「足りている」の35%を大きく上回りました。

昨シーズンのワクチンの納入量と比較した質問では、「少ない」と答えた医師は67%で、 この回答の中では「2割少ない」が27%、「3割少ない」が21%、「5割少ない」が14%となっています。

接種に際しての対応としては、「例年どおり接種できている」が33%、 「ふだんの患者を優先し新規の希望者は断っている」としたのが21%、「定期接種の高齢者を優先している」が14%などとなっています。

東京保険医協会は、ワクチンの供給体制の抜本的な改善に取り組むことや、 再発防止策を明らかにすることなどを求める要望書を1日、厚生労働省に送りました。

厚生労働省は、今月から出荷量が徐々に増える見通しであるほか、 一部のワクチンの検査を前倒ししてメーカーが出荷を早められるよう対策をしているとしています。

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インフルエンザのワクチン 受けたことないです

 パソコンのワクチンソフトなら 入れてるけど  (^_^;)

 

石田純一 63歳

E1444971638927_0f5b_1俳優・石田純一63歳の今も色男として名を馳せる。

91年のフジテレビ『結婚の理想と現実』、93年の日本テレビ『大人のキス』など、なんだか自身を重ね合わせるドラマを始め、90年代には多くのトレンディドラマに出演し人気を博した。

だが、どちらかというとその活躍の場はドラマよりもワイドショーにあったのではないだろうか?

石田純一といえば、いまだに語り継がれるのが「不倫は文化」発言。

ちなみに、筆者が持つ90年代ゴシップ誌では

「不倫ってそんなに悪いことなんですか?

不倫も文化ですから。

シェイクスピアや太宰治が書いているのも不倫の話だし、

世界的な偉人は、みな不倫をしてるでしょう?」

と逆ギレ気味のコメントも拾われている。

96年の秋に女優・長谷川理恵との不倫が発覚。写真週刊誌に密会をスクープされ、一躍時の人となった際の「迷言」だ。

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不倫文学の大御所 渡辺淳一

 「現代において純愛と呼べるのは、不倫しかない」

などと言ってますね  (^_^;)

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渡辺淳一:「不倫なんかをしても、利益も何もない。もう危険なだけですよ。それでも懸命に愛し合っているんだから、それは純愛に決まってるじゃないですか」

 

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台湾人の歌舞伎町

kabukichobook_thum630【書評】『台湾人の歌舞伎町 新宿、もうひとつの戦後史』/稲葉佳子 青池憲司・著/紀伊國屋書店/1800円+税

【評者】与那原恵(ノンフィクションライター)

終戦直後の新宿歌舞伎町あたりは焼け野原だった、と話していたのは、故種村季弘さん(ドイツ文学者)である。

私が子どものころ、歌舞伎町は映画を見に行くところで、帰りにロシア料理店に寄るのが楽しみだった。

父に連れられて何度か行った沖縄料理屋「南風」は女優の嘉手納清美の実家だと知られていて、在京沖縄人が集う店だった。

この歌舞伎町がかつて野原だったとは想像もつかなかったが、たしかに昔の歌舞伎町には「新開地」の雰囲気が残っていた。

戦前は小さな商家や住宅が混在し、高等女学校があった旧角筈一丁目北町だが、空襲により空白地帯となった。

終戦後、この一帯を興行街にする計画が立ち上がる。

歌舞伎劇場の建設が予定され、町名も「歌舞伎町」に変更された。

結局、歌舞伎劇場建設は頓挫したものの、映画館や娯楽施設がつくられ、その周辺に個性的な飲食店が誕生していった。

こうした歌舞伎町の発展には台湾人の活躍があったことを本書は明らかにしていく。

名曲喫茶「スカラ座」や「らんぶる」、そして「風林会館」や「アシベ会館」などの創業者は台湾人であったことに私は驚いた。

著者は丁寧な聞き取りと資料調査を重ね、ドラマに満ちた「もうひとつの歌舞伎町史」を描きだす。

台湾人創業者の多くは、戦前から日本に「内地留学」していた若者たちだ。

日本統治下にあった台湾から留学をすることができた彼らは、富裕な家に生まれたインテリ青年だが、終戦により裸一貫となってしまう。

台湾の政治状況も混乱をきわめており、日本にとどまらざるを得なくなった彼らは、まず新宿西口の闇市マーケットで商売を始めるのだが、やがて閉鎖されてしまう。

そこで、新しく生まれたまち歌舞伎町に活路を見出していったのだ。

台湾人華僑のネットワークや金融組織なども興味深いが、彼らのビジネス哲学は利益を求めるだけではなく、人が集う場としての魅力、広い意味でのまちの文化をつくろうとした気概を感じる。

※週刊ポスト2017年11月3日号

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 らんぶる創業者が台湾人とは

  知りませんでした (^_^;)

 

海道東征

clm1709200005-p1新保祐司(しんぽゆうじ) 文芸批評家、都留文科大学教授

福岡県の柳川市を初めて訪ねた。詩人、北原白秋の故郷である。

北原白秋作詩・信時潔作曲の交声曲「海道東征」については、これまで度々書いてきたけれども、信時潔を論じることが多くて、作詩をした白秋のことはあまり触れてこなかった。

しかし、この名曲を深く味わうためには、やはり白秋という大詩人と白秋が作詩した8章に及ぶ大作について考えなくてはならない。

ということで、今回の柳川への旅になった。

 

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朝陽同窓会総会

朝陽同窓会総会
日時:平成29年5月27日(土)14:00~
場所:新宿高校

記念講演:「わが愛憎の画家たち・・美術記者40年
講演者:芥川喜好氏(新宿高校19回生)(読売新聞編集委員)

1948年長野県に生まれ、東京に育つ。読売新聞編集委員。日本大学芸術学部講師。

1972年早稲田大学文学部美術史学科卒業、読売新聞社入社。

水戸支局をへて東京本社文化部で美術展評、日曜版美術連載企画などを担当。連載は通算25年、1124回に及ぶ。

うち11年続いた「日本の四季」で1992年度日本記者クラブ賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000元新宿高教師・佐藤喜一さん

新宿高校1948年度卒

 東京都立新宿高校の長い歴史の中には、多くの名物教師が存在した。新制高校第1期の卒業生で、国語教師として24年間母校の教壇に立った佐藤喜一さん (86)=1948年度卒=もその一人。「新宿高のレジェンド」が、30年にわたる母校の日々を語った。

 生まれは東京都の北区十条。池袋にあった豊島師範付属小に通い、同級生が多く行ったので新宿高の前身の旧制府立六中に進学を決めました。入学した年は 1943(昭和18)年4月の戦中期。入学式翌日は明治神宮に参拝。朝礼の時はまず皇居遥拝(ようはい)、続いて新宿御苑に最敬礼でした。

 勉強もしましたが、軍事訓練が多かった。夏休みは陸軍の兵営で行軍などの訓練。中学2年の時には勤労動員で軍需工場へ行きました。給料は月給30円。戦後に支払われたけど、物価が急に上がり、焼け石に水でした。

 終戦後、学校は一変しました。それまで「お国のために」というのに、急に「民主主義とは」なんて。不信感を持ちました。授業はあってもテキストがない。英語の木村武雄先生は小泉八雲の怪談をガリ版刷りにしてオリジナルのテキストを作ってくれました。

 戦後、部活動も始まりました。鉄道が好きだったので、仲間と鉄道研究会を作り、部品を集めて「Oゲージ」の鉄道模型を作り文化祭で走らせました。

 学校近 くの伊勢丹本店が接収され進駐軍の宿舎でした。部活で帰りが遅くなった夕暮れ、校門を出ようとすると派手な化粧をして米軍兵士を相手とする女性がたむろし ている。ちらりと横目で見ながら「負けたんだ」とつぶやいたものです。

 49年、旧制中学から新制高校に変わった都立第六高(50年に新宿高に校名変更)の第1期生として卒業し、鉄道のエンジニアになりたくて、東京都立大工 学部に入学。その後、教養課程で学んだ文学の方に興味を持って、国文学専攻で卒業、さらに修士課程まで進み、国語教師になりました。

 都立富士高を経て青山高で教えていたころ、新宿の5代目校長の沢登哲一先生が、「母校に帰って来いよ」と声をかけてくださった。そして、先生が退職され た63年春から母校で働くようになったんです。沢登校長は名物校長の誉れ高き方。豪放磊落(らいらく)でお酒好き、教員にも心酔者が多かった。

 先生方もユニークな方が多かったです。いろいろな教員がいる中でも一致していたのは、「私たちの職場は私たちできちんと運営していく」というところで す。当時教頭は教員の中から互選していました。校務分掌も、一切教師が決めました。そういう自主的な校務運営が、自主性を尊重する新宿高の校風を育てたよ うに私は思います。

 教師としての私を支えてくれた言葉があります。「学ぶとはこころにまことを刻むこと。教えるとはともに未来を語ること」。フランスの詩人ルイ・アラゴン の言葉です。必ずしも、この通りに実践したとも思っていませんが、一人一人の可能性の灯を、いかにしたら美しく燃焼させることができるか、考えながら生き てきたつもりです。

 新宿高の魅力は、御苑のみどりから知らず知らずのうちに薫陶を受けているといったところでしょうか。旧制六中校歌の一節に「木々の翠(みどり)を見やり つつ 学ぶ心の清きかな」とあります。これがとってもいい。都心の真ん中にありながら、御苑のみどりを感じながら、朝日のごとくさわやかな生徒たちと過ご せたことは、実にありがたい人生だったと思っています。

記憶に残る「名物先生」 ユニークな授業で慕われ

 新宿高校には多くの生徒が記憶にとどめる「名物先生」が多数在籍した。兼職が認められた時代は進学塾講師を兼任したり、専門性を磨いて大学の教授に転職した先生も。10年、20年と長期在籍する先生も数多くいた。

 1970年から20年間在籍した音楽担当教諭の野村満男さん(81)は、日本のチェンバロ製作・研究の第一人者としての顔も持つ。「基本はバロック音楽 にあり」との思いから、関わりの深いチェンバロを使った指導を思い立ち、試行錯誤の末、手作りで完成させたのがきっかけ。生徒に実際にチェンバロを製作さ せてバッハを演奏させ、評判を呼んだ。坂本龍一さんの教育実習の際の指導教官も務めるなど、多くの音楽家を育てた。

 50年から22年間在籍した英語担当の澤正雄さん(故人)といえば、名物「くるくるとん」。教え子の斎藤成(はかる)さん(61)=72年度卒=による と、ペンをくるくる回して出席簿に落とし、そこに名前のある生徒から当てて授業を始めたことから、この異名がついた。

 毎回、当てられた生徒の悲鳴や当たらなかった生徒の安堵(あんど)の声が教室に響いたという。慕う生徒も多く、退職後、卒業生有志が澤さんにまつわる本 を2冊自主出版した。斎藤さんは「生徒を優しく厳しく見つめてくださり、感謝している」と振り返る。=次回は最終回。26日に、卒業生の読者からいただい た「私の思い出」を掲載します


卒業生「私の思い出」募集

 都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。300字程度で学校生活や恩師、友人の思い出、またその後の人生に 与えた影響などをお書きください。卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地方部 首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jp.へ。いただいた「思い出」は毎日新聞やニュースサイトで紹 介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。


さとう・きいち

 1930年東京生まれ。東京都立大学大学院修士課程(近代日本文学専攻)修了。新宿高での教え子には芥川賞作家の絲山秋子さんもいる。退職後は駿台予備 学校講師などを務め、現在は鉄道エッセイストとして活躍。著書に「汽笛のけむり 今いずこ」(第25回交通図書賞受賞)など。