久々に「太田くんを囲む会」の飲み会です
会の前後に、新宿高校周辺と、大崎~品川を歩きました
ゴジラのポスターもいっぱいあります
(^_^;)~♪
久々に「太田くんを囲む会」の飲み会です
会の前後に、新宿高校周辺と、大崎~品川を歩きました
ゴジラのポスターもいっぱいあります
(^_^;)~♪
新宿駅で見つけたという光景
三角コーンを繋ぐポールが、三角形状に仕切られている
なぜ三角形なんだろう? (・_・?)
その理由の推測が、X(旧twitter)で話題になっているそうです
「三角形は形が安定」という性質を利用している訳で、鉄橋とか建物などで使われるトラス構造ですね
多角形の中で、三角形だけ
でも上の写真、よーく見ると、三角形じゃない場所もあって、厳密なトラス構造ではないね(その必要もないだろうけど)
さて、今年2月に品川駅の近くに、京急線の新しい八ツ山鉄橋が架けられました
あらかじめ京急品川駅の上で組み立てた鉄橋を、深夜にJR線路の上に移動させる(送り出し工法)という、面白い工事でした
(^_^;)~♪
Youtube動画 スマホは横にしてご覧ください
2年半ほど前にも、八王子市役所にクマ出没しましたね
下の地図で分かるように、八王子市は市の半分近くが山岳地帯ですが、今回のクマも近くに小中学校もある市街地に出没しました
八王子市は、旧東京府(現東京都)において、旧東京市(現23区)に次いで2番目に「市」になりました
推計人口は58万人で、鳥取県とほぼ同じ
別名「桑都(そうと)」と呼ばれていて、伝統的に絹織物や養蚕業が盛ん
多摩ファミの定期演奏会で毎年行ってます
最近、ハマ研(横浜を研究する会)で横浜をいろいろ歩いたりしていると、幕末から明治以降にかけて、絹織物の輸出で横浜が大発展した事が分かります
その絹織物は、桑都八王子から大量に運ばれたようで、明治41年には八王子と横浜を結ぶ鉄道「横浜線」もできています
(^_^;)~♪
* * * * * * *
追伸 上の記事を5/13に書きましたが、八王子市役所は、クマ対策のプロジェクトチームを立ち上げました
それから、クマは時速50キロで走れるので、上の地図で障害物が少ない多摩川の河川敷を走ると、すぐに府中市、調布市、さらに世田谷区とかへ出没する可能性もあります
((((;゚д゚))))
第1回ということは、今年から新たに始まったイベントのようです
山潤さんが、「タマリンバ」で
マリンバを演奏の予定
「ゆざわ」と言っても、越後湯沢ではありません
高幡不動、多摩動物公園、京王百草園が近いね
事前申込は不要だそうです
「日野札所巡りの会」というのがあるみたいなのでググったら
日野市の札所・七福神めぐりにオススメの神社お寺まとめ7件 | ホトカミ
というページがありました
(^_^;)~♪
前記事(同窓会誌「朝陽」来ましたね)で、牛丼「すき家」の創業者である小川賢太郞さん(新宿高校19回生)に触れましたので、そのつづきを書きます
上の絵は、牛丼「すき家」のお店の壁に大きく描かれています
私は「すき家」の牛丼がダイスキなので、この絵は前からよく見ておなじみなのですが、先日の
で、実際に横浜の街を歩いて
上の絵で人々が立っている場所は「象の鼻」だ!
ということに気付きました
それで当時の絵を探したら、ありました!
もう、そのものズバリ、牛丼「すき家」の店内壁画は、この絵を元にしてるのは間違いなさそうです
遠くに高台(港の見える丘公園のあたり)があって、右に海岸通り、これは現在の山下公園のあたりでしょう
となると上の絵で人々が立っている場所は、「象の鼻」以外あり得ない!
▲開港当時の「象の鼻」
▲現在の「象の鼻」
ではなぜ、牛丼「すき家」の店内には、開港当時の横浜の絵を飾っているのか?
牛丼「すき家」の創業者である小川賢太郞さん(新宿高校19回生)は、石川県の出身ですが、「すき家」の第1号店は、生麦駅の近くだった
生麦駅は、川崎と横浜の中間にありますから、横浜に縁が深い
そしてここから先は、まだ十分な事実確認をしていないので、私の推理になります
若いころの小川賢太郞さんは共産主義にハマっていたので、20歳代のほとんどを
港湾肉体労働者(沖仲仕)の組織化(オルグ)
に費やしています
いまでは想像することも難しいのですが、当時(1968年ころ)は、優秀な学生が全共闘運動に参加して革命を夢見るのは「当然」のことでした
1968年、小川賢太郞さんは20歳
日本が高度成長で、どんどん豊かになっていった時代
1969年にはアポロ11号が月面着陸、1970年には前回の大阪万博があったりして、お祭り気分もあった
でもまだ日本には、多くの貧困が残っていた
小川賢太郞さんは、共産主義に見切りをつけて実業家になってからも、社会における「貧困の解決」を自分の人生テーマにしていたようです
▲アポロ11号が月面着陸 1969年
▲前回の大阪万博 1970年
▲沖仲仕
「港湾」労働者の組織化(オルグ)ですから、主な活動場所が横浜だったであろうことは容易に想像できます
青春の情熱を注ぎ込んだ地である横浜
その近くに、「すき家」の第1号店を出し、今なお「すき家」の店内に横浜の絵を飾っている
小川賢太郞さんの横浜に対する思い入れが伝わって来ます
そうなると、
彼の20歳代の活動内容を知りたい!
となるのですが、この辺の情報が意外に無いんです
ズバリ「伝記 小川賢太郞」のような本があれば一番いいけど、先月4/7にお亡くなりになったばかりで、まだ出てないみたい
wikiに経歴の概略が書いてありますが、ほとんどは牛丼業界に飛び込んだ30歳代以降で、20歳代の活動にはほとんど触れてない
共産党活動と言っても戦後ですから、それほど非合法なことはしてないと思いますが、港湾肉体労働者(沖仲仕)を雇っている荷役会社からすれば、共産党オルグは「招かざる客」で、ドロドロの戦いもあったのかもしれない
という訳で、小川賢太郞さんの20歳代についての情報を、これからWebやYoutubeなどでコマメに探していこうと思っています
(^_^;)~♪
昨日5/7のトラゲー研(大井町トラックス&高輪ゲートウェイシティを研究する会)
大井町トラックスが思っていたより広くて疲れたので、高輪ゲートウェイシティは延期にして、大崎のサイゼリアで中学友人Uちゃんとノンビリ飲みました
ここの最大のウリは、上のような「山手線の車庫」を見下ろせること
朝夕の通勤時間帯に活躍する山手線
昼間や夜間は、ここで眠ったり整備を受けたりしています
(^_^;)~♪
* * * * * * *
10年前の動画なので、現在の「電子レンジみたいな顔の山手線」が導入され始めたころですね
これ(↓)は、最近の動画
もっといろいろ見たい人は、ここをクリック
半年前に、平井から錦糸町まで歩きました
この時も、旧中川をチラっと見ています
昨日5/4は、平井から旧中川に沿って立石まで歩きました
どちらも、平井駅からスタート
旧中川の川べりは、上の写真のように、最高の散歩コースです
▼半年前に歩いたコース(平井から錦糸町まで)
▼昨日5/4歩いたコース(平井から立石まで)
(^_^;)~♪
今朝起きてベランダに出たら、ちょうどクルーズ船が虹橋(レインボーブリッジ)をくぐって出て行くところでした
ちょっと見ると左へ進んでいるようにも見えますが、しばらく見ていると実はゆっくり右へ進んでいて、東京湾外へ出て行くところみたい
右下にタグボートみたいな小さな船も見えますから、方向転換の最中だったのかもしれません
先日、山潤さんが乗ったクルーズ船よりも小さいみたいで、虹橋の橋げたまでかなり余裕がありそう
虹橋を支える柱の下にあるのが、湾岸署の警備艇(パトボート)置き場みたいです
▼少し引くと、こんな感じ
我が家のベランダに立つと、タワマン群のスキマから、虹橋(レインボーブリッジ)が見えます
今朝は雨模様なので、写真がボケてますけどね
虹橋の下は、クルーズ船、九州などへのフェリー、伊豆諸島などへの東海汽船、東京湾遊覧船、屋形船、貨物船など、いろいろな船が毎日いっぱい通りますが、その他に
モノレール(浜松町→羽田)
新幹線(東京駅→大井車庫)
クルマ(夢橋、首都高湾岸線、バス車庫)
飛行機(羽田を飛び立ってスグ)
も見えます
乗り物好きの私としては、ちょっとウレシイ
窓の近くに双眼鏡を置いて、ときどきながめて楽しんでます
Youtubeには、羽田空港ライブ映像というのがいくつもあって、これを見ていると、いま離陸したばかりの飛行機が、1~2分後に窓から見えたりします
(^_^;)~♪
▲「夢橋」と書いたけど「虹橋」です (^_^;) ウッカリ
日本一人口の少ない県である鳥取県の人口が、52万人を割りました
世の中には田舎好きの人もいるでしょうけど、私は圧倒的に都会好き
田舎の散歩は好きだけど、それはたまに行くから良いのであって、そこにずっと永住する気にはなれません
だから田舎の人口が減っていくのは、何となく理解できる
人生の後半に入って、のんびり田舎で暮らしたいというのは分からなくもないけど、10代20代の若者が田舎から出たくないというのは、美しい郷土愛と言うより、心の活力が少し欠けてないかい?と心配になる
で、表題の比較ですけど
鳥取県52万人 世田谷区95万人
となっていて、大ざっぱに言えば、鳥取県は世田谷区の半分
▲少し前のデータです▼
鳥取県はお隣の島根県と合併して、「鳥島県」とかになったら、知事も一人で済むし、行政コストが削減できそう
ただ、同じ島根県の中でも出雲人と石見人では気風がエラく違っていたりするから、合併なんてとんでもなくて、むしろ
出雲県と石見県に分けてくれ!
という意見も出そう(たぶんもう出てるはず)
出雲は「いずも」、石見は「いわみ」と読みます
島根県(岩見地方)出身の森鴎外は、死に臨んで
余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス
と遺言していて、何となく
出雲人と一緒にされてたまるか!
というような気魄を感じます
森鴎外は文豪であると同時に、東大医学部卒業後ドイツに留学して軍医総監をつとめたほどの人だから、国際的な教養や視野もあったはずですが、わずか100年くらい前でも「日本人である前に石見人」という帰属意識が強かったようです
出雲人:忍耐強い、真面目、温厚、引っ込み思案、排他的、陰湿、石橋を叩いても渡らない、保守的
石見人:飽きっぽい、適当、激情、目立ちたがり、開放的、単純、ロクにモノを考えず実行、革新的
これが事実なら、まさに水と油で、
ひとつの県の中にゲルマン系とラテン系が住んでいる
と言っても過言ではない(やっかいな県だね)
逆に、鳥取県や島根県の倍近くもある世田谷区は、デカ過ぎるので分割案とかもありそう
でもそうなると、練馬区とか大田区とか人口上位の区もバリバリ分割をめざして(政治家にとって区長や区議のポストが増えるのは歓迎?)、簡単には済みそうもない
もちろんそこに住むのなら、人口より中身が重要ですけどね
* * * * * * *
4/9に中学友人Uちゃんとハマ研(横浜を歩く)をして、そのとき
大阪府と大阪市には合併話として
「大阪都構想」があるのに
神奈川県と横浜市の合併話は出ないね
という話題になりました
人口で言えば、神奈川県は大阪府より大きく、横浜市は大阪市より大きいんですけど
「お住まいは?」と尋ねられたら「横浜市!」と答えて
絶対に「神奈川県」とは言わないらしい横浜市民
が、そんなアホな合併話に乗る訳ないよね
おそらく「小田原あたりと一緒にされてたまるか!」という、森鴎外みたいな心理があるのかもね
(^_^;)~♪
先日のハマ研(横浜歴史散歩)で知った高島嘉右衛門の伝記
高木彬光(ミステリー作家)著
「横浜」をつくった男 易聖・高島嘉右衛門の生涯
いま読み終えました
前述の通り、大実業家でありながら占い師という不思議な男の人生
■佐賀鍋島藩とのご縁
当時(幕末)の鍋島藩には、鍋島直正という名君がいて、この殿様(別名閑叟公かんそうこう)が若き日の高島嘉右衛門の人物を見抜いてチャンスを与えていきます
例えば、日本にやってきた「異人」たちが日本の焼き物(陶磁器)を好むことから、佐賀特産の伊万里焼などのお店(鍋島藩の直営店のようなもの)を横浜に出す
その店の経営を任されたのが、若き日の高島嘉右衛門で、ここで商才を発揮して実業家としての実績と人脈を築き、横浜との関係を深めていく
■裁定取引に手を出して投獄
ここで彼は、当時の金と銀の内外価格差による裁定取引(アービトラージ)に目をつけて手を出すが、これが幕府の国禁に触れて捕まります
実はこの裁定取引、「異人」が主導して、日本の金(ゴールド)が大量に国外流出するという、日本にとって巨大な損失となる大事件でした
ボロ儲けした「異人」たちはうまくたちまわってお構いなしだったり海外へ逃げたり
つられて手を出した高島嘉右衛門が罪人となるという、やや不運な巡り合わせ
総じて日本の警察検察は、日本人には威張りまくるが外国人に甘く、今でも外国人犯罪者に「不起訴」を出しまくって日本国民の怒りを買っています
■獄中で易経に出会う
結局、6年間の地獄のような獄中生活を味わう訳ですが、その獄中にたまたまあった「易経」(えききょう)の本を暗記するほど熟読して占いの世界にハマリます
江戸時代までの学問と言えば、まず四書五経で、その五経の筆頭にあるのが易経
現代人の感覚から言うと、
なぜ占いの本がそんなに重要な位置づけなのか?
フシギですが、とにかく東洋思想では占いを非常に重要視していたようです
シャバに出た高島嘉右衛門は、商才と占いの知識を活用して、明治政府要人との間に人脈を築き、大実業家への道を邁進します
政治家は先の見えない状況で重大な決断を迫られることが多いので、占いに関心が高かったようです
特に伊藤博文との関係は極めて濃厚!
伊藤博文が大陸へ行く直前、占いで凶相だと言って止めるのですが、それを振り切って旅立った伊藤博文は暗殺されてしまう
■ガス灯
先日の横浜歴史散歩で馬車道を歩いていたら、店の前に今でもガス灯を灯しているフレンチレストランがあったんです
馬車道ですから昔の「馬の水飲み場」があって、それを見ていたらお店の人が出て来て、「この街灯は今でもガスを送って光ってるんだよ」と教えてくれました
その時は予備知識が無かったので、「今でもガス灯をともしてるなんて面白い店だなぁ」なんて思っただけでした
ところがこの場所(馬車道十番館)には、かつて高島嘉右衛門の自宅があって、ガス灯の会社を運営(ガスを供給)していた場所だったようです
高島嘉右衛門は、横浜や東京に街灯(ガス灯)を広めました
街灯など無く夜は漆黒の闇、提灯(ちょうちん)をぶら下げて歩くしかなかった当時の日本人
街灯を見て「まるで昼間のようだ!」と驚いたようです
(^_^;)~♪
▲夜はこんな感じ 今でもガスの光が輝いてる