若者はSNSのメッセージに句読点を使わないそうだ
句読点に「冷たい印象」を受けるという感性があることに、今まで気が付かなかった
かつての口語文と文語文の違いのようなものを、若者は敏感に感じ取っているのだろうか?
別に若者ぶるつもりは無いが、私も文末の句点(。)を余り使わないというクセがある
当ブログ「観潮亭日乗」を長くご覧いただいている閲覧者の方ならお気づきかもしれないが、記事の文章が大きく分けて
(1)私の意見(原則として文字色はオレンジ色)
(2)よそからの引用(青っぽい文字色)
に分かれている
引用が長くなりそうな場合は、「詳細はここをクリック」で元情報へ飛ばす
(1)と(2)の間には、(^_^;)などの顔文字(これもオレンジ色)を入れることが多いが、これは単なる私の趣味
そして(1)では、句点(。)を使わず、その代わりに改行する
いや、むしろ改行する方が先で、改行していれば文末の句点(。)は無くてもいいだろうという考えだ
なぜ改行するのかと問われると、これにはいろいろ私の文章作成のクセが絡んでいるのだが、若い頃から文章を書くのに「アウトライナー(アウトライン・プロセッサー)」を使っていることが大きい
アウトライナーは、ワープロソフトの一種で、文章を構造的に書いてゆくのに便利なソフトだ
大雑把に言えば、箇条書きを階層化したようなワープロ、という感じ
これは慣れると超便利で、手放せなくなる
少しまとまった文章を書くときは、アウトライナーに目次のような、文章の大枠(構造)を入力する
そして、少しずつ構造を細分化し、内容(文章)を肉付けしていく
世の中にはスゴい天才がいて、この作業をすべて脳内で済ませて、いきなり1行目の1文字目からサラサラと書いていき、推敲することもなく、それが最終原稿になるという人もいるらしい
モーツアルトの作曲がそんな感じで、曲の最初から順番に、五線紙にいきなりスラスラと書いていったという話を聞いたことがある
モーツアルトが五線紙に書き始める時点で、彼のアタマの中には、曲全体が完成している訳だ
しかも、その曲全体の完成が、一瞬のヒラメキで行われたとか言われているので、天才というものは恐ろしい
私は天才じゃないので、まず構造を作り、それから肉付けをする
アウトライナーで文章を書くときの肉付け作業は、箇条書きした文章の断片を、上にやったり下にやったり、くっつけたり切り離したりしながら、文章全体の構造の中に位置づけていく
このときの文章の断片はすべて箇条書きだ(そうじゃないと自由に動かせない)
アウトライナーのソフトウェアにはいろいろあって、好みが分かれるのだが、私はいま「workflowy」というアウトライナーを主に使っている
これはデータが常にクラウド上にバックアップされているので、データを失う心配が無い
常にPCと全く同じデータをスマホからも見れて、読んだり書いたりも出来る
こんな便利なアウトライナーなのだが、意外と使っている人は少ない
日本人にはアウトライナーは向かない、などという「暴論」を吐く人もいる
「句読点を嫌う若者」から脱線してしまったが、日記(日乗)というものは、この脱線が面白いんじゃないかな?
(^_^;)
若者はメッセージで句読点をつけないし、好印象を持たない。
ネット上で拡散するこうした話題の背景にあるものは何か。
文筆家の御田寺圭さんによると
「若者は、句読点がある“文書”を目にすると、
自分の責任を追及されているような、
詰問に近いニュアンスを感じ取り嫌う」
それは、句読点(が用いられた文章)には「冷たい印象」を受けてしまうからだという。
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