●日時 : 2020年 3/20(金・祝日)13:00開演予定
●会場 : 七生公会堂
〒191-0032 日野市三沢3-50-1
京王線 高幡不動駅から徒歩5分
さっそく来年の手帳に
書いておきましょう (^_^;)
さっそく来年の手帳に
書いておきましょう (^_^;)
12月22日、東京都新宿区の都立新宿高校で「ティーボール教室」が行われた。
新宿高校はこれまでも「Shinjukuベースボールアカデミー」などの社会貢献活動を行ってきたが、今回は日本高野連の「200年構想」の「普及 子ども向けティーボール教室の開催」に準拠した、日本高野連公認のイベントだ。
当初はグラウンドでの開催を予定していたが雨の予報があったために、急遽大体育館で行われた。
田久保裕之監督は「初めてのことだから、何人が集まるか不安」と話したが、約20人の未就学児童が保護者に伴われて参加した。
田久保監督は軽妙な「お話」で、子どもたちをリラックスさせる。
命令口調ではなく「語りかける」口調だ。
まずは、ウォーミングアップとしてダッシュ、ベースランニング。
最初の段階で「ベースを回る」という経験をさせるのは、最後のティーボールゲームを理解させる上で非常に有効だ。
続いて柔らかいボールを使ってボール投げ。
自分でキャッチ、弾ませてキャッチ、そして選手のお兄さんとキャッチボール。
さらに転がるボールを「パクっ」と掴む体験も。
子供たちはボールを使う基本的な動作を身に着けた。
さらにボールを使った「的あてゲーム」「玉入れゲーム」この段階まで来ると、子どもはボールを自分から争って取りに行き、自分から進んで競技に取り組むようになる。
いよいよバッティング。まず選手が、フルスイングでボールをホームランを披露。
そして子どもたちはティーに置かれたボールを打っていく。
バッティングは、未就学児童でも個人差が出やすい。
特に女の子はティーのボールにバットが当たらないことが多い。
そこで田久保監督は段ボール箱の上にティーを置きボールを置いてバットで打たせる「箱ティー」も考案した。バットも少し太めにした。
これで、みんながボールでバットを打つ体験ができるようになった。
ティーボール教室の進行は田久保監督が行ったが、選手たちはイベントの趣旨をよく理解し、子どもがいいプレーをしたら褒めたり、ハイタッチをするなど大いに盛り上げた。
このイベントが、高校球児にとってどんな意義があるのかをよく理解していることが見て取れた。
最後は「どか点ティーボール」。
2面でゲームが行われた。
バットを使うゲームでは、子どもが打ったあとにバットを放り投げるのが危険だ。
今回は、コーンを倒し、その中にバットを入れる動作を子どもたちに教え込んだ。
攻撃側は子どもたち。守備側は子どもたちと選手。
1塁1点、2塁2点、3塁3点、本塁まで帰ってくれば4点が入る。走者は残らないスタイル。
子どもたちは歓声を上げて塁を回った。
通常、ティーボールでは、ゲームの当初は「塁の回り方がわからない」子どもが続出し、それを教えるのに少し時間がかかるが、ウォーミングアップでベースランニングを教えていたので、子どもたちはスムーズに塁を回ることができた。
小さいことのようだが、こうした工夫が、イベントの進行をさらにスムーズにする。
どちらが点が多く入ったかを競い、1時間20分でイベントは終了した。
途中で2回、給水タイムもしっかり取られた。
最後に記念撮影、そして今回は公認イベントで予算があったので、ボール、バット、コーンを使ったティーを子どもたちにプレゼントした。これも重要なポイントだ。
こうした体験は一過性のものに終わりがちだが、ボールやバットを持ち帰ることで、家でもこうした遊びに親しむことができる。
イベント後の保護者のアンケートでは「楽しかった」「子どもがこんなに楽しそうにしているのを久しぶりに見た」「お兄さん、お姉さんが優しかった」「野球ってこんなに楽しかったんだ」などのコメントが寄せられ、評判も上々だった。
こうした取り組みは「200年構想」発表以降、全国で行われているが「誰のための、何のための取り組みなのか」を選手がはっきり理解することがポイントになる。
新宿高校の取り組みは、自分たちが大好きな野球の楽しさを子どもたちにも伝えようという熱意がはっきり見て取れたのが有意義だった。
毛沢東時代の集団ヒステリー(文化大革命)で
知識人を大量虐殺した中国は 民度が劇的に低下し
ウソと裏切りが日常化してしまった ((((;゚д゚))))
ネパールの首都はカトマンズ、昨今は中国人が闊歩し、日本食レス
大声で騒いでいるのは中国
カトマンズは地震に襲われて一時、中国人ツアーが姿を消し、ネパールに平穏が訪れていたが、またもや中国人が舞い戻ってきた。
カトマンズと中国の幾つかの都市とは直行便で結ば
12月23日、カトマンズ警察が中国人ハッカー犯罪者集団のアジ
かれらはVISAカ
インドネシアで85名、カンボジアのシアヌークビルでも大がかり
一方、米国ではハッカー「ゴールドサン」(黄金の太陽)という暗
一年八ヶ月、
凶悪な中国人犯罪者・愈平安のハッキングで被害を受けた企業はクアルコム、航空・防
凶悪な中国人犯罪者・愈平安はマルウェアのブローカーで、コンピューターを遠隔操作できる
マルウェア「Sakula」は数千万人の個人情報が漏えいした米健康保険大手ア
中国人民解放軍ならびに中国国家安全省が、日米欧企業のハイテク技術を盗
中国外務省は「関知していない」としらを切り、「我々はいかなる
日常的にウソをつく中国政府の言い分を信じる人はいない。
今はタイの一番よい季節なので
気持ちは分からんでもないけど
次回はちゃんと休暇を取ってね (^_^;)
虚偽の届け出で市議会議会運営委員会を欠席し、タイへ旅行していた兵庫県姫路市議会議員の井川一善(49)=自民、3期目=が帰国し、23日の議運委で
「公務より私的なことを優先させてしまった」
と釈明した。
「一から出直したい」
と述べて議員辞職は否定した。
井川市議は所属する議運委で
「市民の名誉と市議会の信頼を失墜させてしまった。後悔しかない」
と謝罪。
旅行した理由について
「バンコク在住の十数年来、世話になっている人の健康状態が悪いと聞き、見舞いをするため」
と述べた。
議運委の委員の辞職を市議会議長に申し出て、受理された。
井川市議は今月16日付で議運委員長に対して文書で
「病院で検査をするため」
とする虚偽の届け出をし、20日の議運委を欠席。
19日に同居する女性らと一緒にタイのバンコクへ向かい、22日に帰国した。
立憲民主党の衆院議員、強姦魔・初鹿明博は20日、強制わいせつの疑いで書類送検されたことを受け、同日付で離党届を提出したと発表した。
報道各社宛ての文書で強姦魔・初鹿明博は「捜査機関の判断を待つ身でありますが、このような事態を招いたことに鑑み、離党届を提出しました」とした。
強姦魔・初鹿明博を巡っては2015年5月、タクシー内で知人女性にわいせつな行為をしたとして、警視庁葛西署が今月10日に書類送検した。
新宿高校出身こじのりさんの ライブスケジュールです
ライブ情報のご提供 ありがとうございます (^_^;)
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
2019年も師走。ツアーも11月で一段落、都内であれやこれや
寒かったり暖かかったり、いかがお過ごしですか。
暇だ暇だと言っていたらAキオさんが仕事を作ってくれました。あ
1月も2月も暇です(以下略)(笑)。
演奏以外のこと、教本や、DTMなど、これからでも、何かしっか
とも思っています。CD(もはや配信?)も、そろそろ新しいこと
ライブスケジュールを送信します。明日19のピアノは小池さんで
Website(訂正済み)と、前回のスケジュールに記載ミスが
今年もたくさんの方にお世話になりました。
ありがとうございました。
開けて、2020年、進化しつつ、面白い展開を目指したいと思い
ライブへのお越しをおまちしています。
どうぞ、よろしくおねがいいたします。
小島 のり子
kojinori★mac.com ★を@に
Website kojinori.com
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なかなかいいです (^_^;)
創部100年目でプロ出身者は初めてとなる。
今月、東大野球部監督に就任した井手峻監督(75)である。
同大OBの井手監督は、1966年第2次ドラフト3位で同大出身2人目のプロ野球選手として中日に入団。
10年間の現役生活を終えた後は二軍監督やコーチを歴任、さらに球団代表などフロントの要職を務めるなど、50年近くにわたり、プロの世界に身を置いた。
2015年2月に退団後、東京都立新宿高校で特別コーチとなり、このたび母校で指揮を執ることに。
指導への情熱が衰えることを知らない井手監督に、話を聞いた。
球場近くで“単身赴任”
――東大の監督になったいきさつは?
「前任の浜田監督が契約更新の時期を迎え、今回はOBから公募しようということになった。何年か前なら自ら立候補しましたが、年齢のこともあるし、立候補は控えようと考えていた。そんな中、私の同級生が背中を押してくれ、ご指名いただいた。50年間、いろいろな野球を見てきて、勉強してきたことを還元したいと考えていた。持っているもの全てを吐き出してから死のうと思ってますよ(笑い)」
――就任して2週間。監督としての1日は?
「朝8時から正午ごろまで全体練習、午後は個別練習という形で、指導しています。まずは部員たちの名前を覚えること。今は4年生が卒業したので、部員は70人ほど。名簿を見ながら、名前と顔を一致させて。主将が気遣ってくれ、部員たちは練習用ユニホームの背中にみんな名前を書いてくれました」
――監督になるにあたり奥さまにご相談は?
「一言、『やりたいんでしょ?』と(笑い)。監督をやるにあたり、誰より妻に理解してもらわないといけない。朝のことなど考えて、東大球場(東京・文京区)の近くに小さい部屋を借りました。中日に在籍時もずっと名古屋で単身赴任をしていた。退団して関東に戻り、2人で余生を……というところだったから、私のワガママを聞いてくれた妻には感謝しています。自炊ができないから、普段は外食。でも、ちゃんと栄養も取らないとと思って、時間に余裕がある時は(都内の)自宅に帰って、妻と一緒に食事をすることもあります」
――以前から母校で指導をしたい気持ちはあったと。
「中日で10年間の現役生活を終えた直後に、延べ3週間ほど東大で指導をしたことがある。当時は大した知識はなかったですが、当時の部員たちは私が話すことを砂漠に水が染み込むように聞いてくれて。その時の快感は今も残っている。もう一回、東大で指導者をやってみたいと。中日を15年に退団し、11月上旬まで約2年、都立新宿高校で特別コーチをやらせてもらい、いろんな子供たちと接した。公式戦ではなかなか勝てなかったですが、初歩からやらないといけなかった子も、体が大きくなり、野球ができるようになる。進歩の度合いはプロとは違う。そこに面白さを感じていました」
せめて80歳までは、まずは42連敗を止める
――中日には選手、指導者、フロントの要職として約50年間在籍。
「見てきたもの、教わったものをどう還元できるか、ずっと考えています。ただ、プロの一流選手がこういう意図をもってプレーしているというような話はできても、とくにプロの打撃は“神秘的”な部分が8割を占めると思っている。感覚的なことですよね。打席で投手と対峙する中で、どの球を狙って、どう打つか。相手投手の心境、心理はどうか。これは言葉で言っても理解することは難しい。まして東大生は理詰めが好きです。まずは基本を徹底的にやり、体の仕組みを理解し、ロボットのようにというか、教科書通りにというか、プレーできるようになってほしい」
――どんな野球を?
「最初のミーティングで話したのは、チーム打率・250を目指し、これを研究課題にしようと。秋季リーグは打率・165。真っすぐ、変化球、甘い球が来た時にしっかり振れるように。走塁面では例えばゴロゴー。全員が完璧にできるように。大事なのは判断。足を動かし、どうやって“見る”のか、“見た”後に行くのか行かないのか。こういうものは実際にやって覚えないとダメ。そのことを教えてくれたのが中日の先輩である中利夫さん(元中日監督)」
――どんなことを教わったのですか?
「現役引退後、一軍外野守備走塁コーチに就任した1978年当時の監督が中さん。キャンプの際、シーズン中に起こる可能性があるプレーは全部、やらせてくれと言われた。自分自身、代走で使われることがあり、スチールの練習をしたことはあっても、走塁技術に関する知識がなかった。引退した後、もっといろんなことを勉強していれば、もっといいプレーができたかもしれないと思った。あとは、権藤博さんや鹿島忠、山崎武司といった中日OBに投手のこと、野手のこと、練習方法やメニューの内容などアドバイスをもらいました」
――東大といえば、日本最高峰の頭脳集団。
「勉強は一番かもしれませんが、スポーツって、うまい人の方が頭がよさそうに見える。ただ、理解するのは速いと思うので、そこに体がついてくれば、上手になるのは早いかもしれない。東大野球部の4年間で燃え尽きてもいい、というくらいの気持ちがあってもいいと思っている。卒業後も野球を続ける人もいるが、野球を終える部員の方が多いと思う。公式戦に限れば、1年間で20試合として、4年間で80試合だけ。出し惜しみをしていたら、もったいない。4年間、基本をしっかりやっておけば、もし将来、子供たちに野球を教えるとなった時に役に立つはずです」
――75歳という年齢で監督を務める。体力維持の秘訣は?
「とくに何も(笑い)。中日を退団してからは動くことっていったら、ゴルフをちょっとやっていたくらいで。お酒はだいぶ減りましたね。毎晩飲んではいるけど、食事をおいしく食べるために少し飲む、という感じで。ビール、日本酒、ワインかな。ウイスキーや焼酎のようなロングドリンクは飲まないですね」
――5年後には80歳。
「せめて80まではやりたいですね。これまでためてきたものをなるべく早く、吐き出して。それが勝ちにつながれば最高です。まずは、17年秋から続く42連敗を止めて、1勝すること。早大や慶大など、ライバル5大学にどうにかして一泡吹かせたい」
(聞き手=藤本幸宏/日刊ゲンダイ)
羽田空港は都心から近くて とても便利です
不便な成田空港は 貨物専用空港にして
旅客は羽田に 集約して欲しいです (^_^;)
東京・羽田空港。
展望デッキの目の前をさまざまな飛行機が轟音(ごうおん)を響かせ飛び立っていく。
方角は同じでも、それぞれ違った軌道を描き、風に翼を乗せていった。
羽田空港の歴史は1931(昭和6)年、53ヘクタールの敷地に1本の滑走路を敷いた「東京飛行場」から始まる。
戦後、米軍に接収されるなどしたが55(昭和30)年に空港ターミナルがオープン。
そして、日本の経済成長、人口増加に合わせ拡張と再開発を重ねてきた。
海外渡航の自由化、ビートルズ来日、ジャンボ初飛行…。
羽田空港はエポックメーキングな出来事の舞台となった。
今や約1500ヘクタールの敷地に3つの旅客ターミナル、4本の滑走路を備え、面積、発着回数、乗降客数いずれも日本最大の空港だ。
国内、国際線を合わせて1日に計約1200回の発着が行われる
朝から夕方まで離着陸する航空機を撮影した。
空気が澄んだ日、午前8時半から午後5時まで、羽田空港の滑走路を離着陸した計70機を、三脚を据えて撮影した。
すべて同じ画角で撮った機体を、その軌道上で1機につき1枚切り抜いて合成してみた。
するとそこには、大空を埋め尽くさんばかりに混雑する首都の玄関口の姿が現れた。
2020年夏、選手や観客がこの空港に降り立ち、東京五輪・パラリンピックへの熱い第一歩を踏み出していく。
▲1972(昭和47)年の羽田空港