70【浮き世】

あれから半世紀

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11/25は「あの事件」から半世紀です

日本が生んだ戦後最大の文学的天才が、現実を相手にした行動では、なぜ児戯にも似た杜撰極まる方法で命を落としたのか?

今となっては藪の中だが、おそらく三島は事件の非成功を百も承知で、あえて自らの悲劇的な死への舞台装置として、あの事件を利用したのだろう

ニーチェといい、三島といい、なぜ天才は「悲劇」にかくもこだわるのだろうか?

下の文章は、宮崎正弘氏による書評です

(^_^;)

 

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あれから五十年が閲したとは思えないほど、須臾の時間だった。

昨日の出来事のように、フト生前の三島、森田両氏と会話している(夢の中で)。

おりしも書店に行くと三島本が並びだした。

それもかなりの数である。

「定番」の人々の回想録という周期はおわって、三島事件から後に生まれた世代が、それぞれのアングルから三島由紀夫の世界に挑んでいる。

たまたま日本経済新聞にも「三島五十年」のシリーズが特集され、宮本亜門、宮台真司、吉田大八、熊野純彦など新世代が、それなりの三島を語っていて、視野狭窄、ピント外れ、マニアック、哲学的ブンガク論だったり、しかし、それぞれに光る一行がある。

第一周期は三島と直接付き合った人たちの交友録的評伝の列だった。

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林房雄、石原慎太郎、佐伯彰一、奥野健男、坊城俊民、三谷信、渋沢龍彦らが続き、第二周期は客観的な評伝へと移る。

猪瀬直樹、村松剛、スコット・ストークス、ジョン・ネイサン、松本健一、そして編集担当だった川島勝、小島千加子。

異色は堂本正樹、野坂昭如、福島次郎、岩下尚史氏らの作品だった。

加えて文学的見地からは田中美代子、松本徹ら夥しい人が三島を語ったのだ。

最近では三島と直接付き合った自衛隊OBが退役後の感想をのべたものに加わって、杉山隆男、浜崎洋介氏らの出色の三島論もでてきた。

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ともかく半世紀も経つと、あの驚天動地の三島事件をかくも冷静に見直し、くわえて三島文学に対して、一般的な、通俗な評伝を越えた、ある種冷徹な評価ができるのか、と本書を読み終えて、全体を貫く客観性にまず感心した。

著者の佐藤秀明氏は「前意味論的」と分析方法を断っているが、本書は相対的には意味論である。

さすがに三島文学館の館長を兼任する著者は、四谷の生家を探し当て、死後の評論のなかからも、珠玉を選ぶ一方で、間違いもただしていく。

たとえば、秋山駿は

 

「死後も成長し続ける作家」

 

と三島を評した名言を残したが、これはドストエフスキーの言葉がオリジナルだという。

三島が少年時代から憧れ続けたのは「悲劇的なもの」だった

初期の作品群を一覧しても、美しき夭折への、名状しがたい憧憬に満ちている。

衝動的な渇仰が『花ざかりの森』にも『軽皇子と衣織姫』にも、底辺に流れ、漂う。

「前意味論的な欲動」と著者は言う。

処女作と遺作には静謐が共通する。

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昭和四十三年の『太陽と鉄』の最終章には、「身を挺している」「悲劇的なもの」という語彙に加えて「栄光と死」を望んでいると書かれている。

村松剛は「決意を彼が公にした最初の文章だった」と『三島由紀夫の世界』で見抜いた。

しかし『悲劇的なもの』と『身を挺している』という言葉は『仮面の告白』で出てくるのだ。

佐藤は

「職業作家として出発した記念碑的な作品に書いた言葉を、二十年後に死の予感を告白する文章に織り込んだのは、意図してのことであろう」

と分析していて研究者としての慧眼が冴える。

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また『憂国』はまさに悲劇的イロニーに充ち満ちた短編だが、

「作品の意匠は全く異なるが、『潮騒』の幸福感に通じている」

とする。

なるほど、そういわれてみればそうかもしれない。

気になった箇所は三島が机上の空論的に皇居突入計画を立てたという、これは生前も耳にした風説で、当時評者(宮崎)の耳にも聞こえてきたが、佐藤氏はこの顛末を文献的に振り返り、関係者の著作も紐解いている。

真相は薮の中、計画を打ち明けられた自衛隊は冗談だろうと、その場では同調するフリをしたのだろうと評者は想像する。

げんに富士学校へひとりで入隊時に対応した幹部は、三島のクーデター計画を聴いて

「私らは役人ですから」

と冷ややかに言い放ち、以後、明確に距離を置いた。

現在の自衛隊にクーデターを望むこと自体が妄想である。

それは体験入隊を通じて、三島はいやというほどに体得していた。

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まして楯の会を始末に負えぬ存在と考えていた財界の桜田武や自民党は、冷笑したフシが濃厚。

そこで三島は法螺吹きの田中清玄にも自衛隊への斡旋を頼んだとか、虚実こもごもだが、三島が「愛国者」となのる軍人OBや自衛隊幹部、財界の有力者に課した「リトマス試験紙」だったのではないのか、というのが評者の見立てである。

というのも、この皇居突入計画を聴いて以後、距離を置き始めた人が多かったからだ。

ついで三島が吹聴していたのは治安出動を契機とするクーデター計画で、仄聞していた限り、だれも本気とはとっておらず、文豪ミシマの独特のアフォリズム、いや何かの芝居なのかと誤認した。

じつは評者、このあたりの経緯を村松剛氏や編集者、そして楯の会の会員ながらも三島とは距離を置いた学生達から聴いており、その本気度と計画の杜撰さとの整合性を不安に思ったものだった。

そのあとに森田必勝が学生長になって本格的に計画立案に加わり実現性のたかい、綿密な行動計画へ移っていくのである。

佐藤氏はこう言う。

「(戯曲『わが友ヒトラー』にでてくる)レームと突撃隊は、明らかに三島と楯の会を表している。楯の会など政治の権謀術数から見れば、子供騙しの集団でしかないことを作者(三島)は知っている。しかし同時に三島は、レームの単純な盲信が『神々の特質』であることも知り、この戯曲であっさりと粛正される『三度の飯よりも兵隊ごっこが好き』なレームを、戯画化したうえで憧れている」(182p)。

冷徹な、あまりに冷徹なほどの客観性で、本書は一貫している。

「宮崎正弘の国際情勢解題」より

 

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▼三島由紀夫は、ものすごい猫好きでした (^_^;)

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今日ホテルにチェックインしたらくれました

(^_^;)

怒る能力

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路線バスに対し執拗にクラクションを鳴らすなどあおり運転をしたとして、三重県志摩市の50歳の男が書類送検されました。

書類送検されたのは、志摩市に住む無職の50歳の男です。

警察によりますと男は今年7月、志摩市志摩町の国道260号線などで車を運転中、前を走る路線バスに対しておよそ2.6キロにわたり、パッシングやクラクションを鳴らすなどした上、前に割り込み進行を妨害した疑いが持たれています。

当時、バスに客は乗っておらず、バスのドライブレコーダーに男の車があおり運転をする様子が映っていたということです。

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調べに対し男は

「バスとすれ違う際、進路を譲ったのに

 挨拶や会釈がなかった

 文句を言いたかったので追いかけた」

と容疑を認めています。

 

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こんな詰まらない、どうでもいいことで、ここまで怒ることが出来るというのは、一種の能力ではないかとさえ思えてきます

怒るべき時に怒り、そうではない時には怒らない、というのが正常な状態

しかし世の中には「そうではない時にも怒る」という、いわゆる導火線が短い人もけっこういて、あおり運転とか、さまざまなトラブルを引き起こしています

こうゆう人は、何か全く関係ない怒り(たいていは自分自身に対する怒り)を深層心理に抱えてイライラしていて、それを吐き出す口実を常に探している場合が多いようです

逆に「怒るべき時にも怒らない」という人もいて、いわゆる温厚な人、従順な人ということなのでしょうけれども、これが行き過ぎると、何かちょっと物足りない感じ、あえて言えば怒る能力の欠落した感じがすることもあります

(^_^;)

 

焼肉の和民

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 創業者でなければ出来ない

  思い切った決断ですね

 私は焼肉ダイスキなので 大歓迎です!

  (^_^;)

 

居酒屋大手の「ワタミ」は外食事業の新しいブランドのメイン事業となる焼き肉のチェーン店を立ち上げました。

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「居酒屋の和民を全店

 焼肉の和民に転換します!」

 (ワタミ 渡邉美樹会長、→)

「ワタミ」はメインブランドである「居酒屋 和民」全店を「焼肉の和民」に転換すると発表しました。

来年度末までに直営店全店にあたる21店舗と「鳥メロ」などグループのおよそ3割にあたる120店舗を転換していくということです。

看板メニューの「ワタミカルビ」は牛から1%しかとれない希少部位で、390円と低価格で提供します。

お肉は新型コロナウイルスの感染対策として配膳ロボットやレーンで運ぶことで、居酒屋業態と比べ接触機会を8割減らすことができるとしています。

ワタミは新型コロナの感染拡大の影響で8月の売上高は前の年の同じ月と比べて36%に減少。

需要の回復は戻っても7割程度だと見ていて、家族など少人数で楽しめる業態への転換を図った形です。

 

米大統領選ディベート

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開始から80分くらい

司会「バイデンさん、トランプ氏の最後の質問への回答をどうぞ」

バイデン「最後の質問?もう忘れちゃったよ」

司会「経済です、コストです」

バイデン「経済・・・」

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 どっちが勝つのか分かりませんけど

  認知症の老人に特有の独特の表情

 バイデンさんの顔に現れているように見えて

  何だか少々不安になります

 ((((;゚д゚))))

 

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京都のスタバ

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 一見さんお断り

  なんて言われないかなぁ?

 (^_^;)

 

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読書 倭国大乱と吉野ケ里

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福岡と佐賀の間に吉野ケ里遺跡というのがある

1980年代に工業団地の造成で地面を掘り返したら、弥生時代の巨大な遺跡、おそらく当時のクニが現れた

邪馬台国が見つかった!?ということで、当時はマスコミでも大きく取り上げ、毎日1万人以上の見学者が訪れた

周囲に深さ2~3メートルの堀を設けて防御を固めた、日本には珍しい城塞都市国家で、当時が古代の戦国時代(倭国大乱)であったことが分かる

遺跡内の墓からは、戦闘で傷ついたと思われる遺骨が数多く見つかっている

結局、邪馬台国ではないという結論になったが、50ヘクタールもある巨大遺跡は、今では吉野ケ里遺跡記念公園として整備されている

本書は、1989年に行われた歴史学者6人によるシンポジウムをまとめたもの

一般向けの公開討論なので、学会での討論に比べると穏やかなものだとは思うが、邪馬台国の場所についての議論にも関わるので、かなり熱っぽい議論になっている

(^_^;)

 

 

オーケストラ・ノット演奏会

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オーケストラ・ノット ファイナル演奏会

9月26日(土)

開場: 18:15 / 開演: 19:00

杉並公会堂 大ホール

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プログラム

スメタナ 交響詩「わが祖国」 全曲

 

出演者

指揮: 山上紘生(東京藝大院1年)

ピアノ独奏: 嘉屋翔太(東京音大 ピアノ演奏家エクセレンスコース2年)

 

みどころ

振替公演ではウイズ・コロナの状況での感染拡大防止策を講じておりますのでご安心してご来場ください。

詳細はここをクリック

これまでのノット演奏会

統計でウソをつく方法

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 上のグラフを見て 違和感を感じない人は

  今すぐ病院へ行って

 脳か目の検査を 受けた方がいいです

  ((((;゚д゚))))

 

上のグラフは、9月17日放送のテレビニュース番組「テレポートプラス」で用いられた。

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番組では、三浦麻子・大阪大教授や平石界・慶應義塾大准教授らの研究グループが今年3月~4月にかけて、日本、アメリカ、イギリス、中国、イタリアの5か国を対象にした新型コロナの意識調査を、フリップで取り上げた。

フリップでは、「新型コロナウイルスに感染した人がいたとしたら、それは本人のせいだと思う」との項目への各国の回答結果を横棒グラフで示している。

日本は「そう思う」(「非常にそう思う」「ややそう思う」「どちらかといえばそう思う」の合計)が15.25%と、「欧米の3~4倍」との吹き出しをつけた。

一方、そう思わない(「まったくそう思わない」「あまりそう思わない」「どちらかといえばそう思わない」の合計)は84.75%だった。

しかし、グラフの目盛りは80%~100%の間のみ示し、棒の面積の大半を占める「そう思う」が多数派だと錯覚しやすい見た目になっていた。

もちろん、マスコミお得意の「印象操作」なのは間違いない。

 

大阪都

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▲大阪市が消えて、区の独立性を、市レベルまで高める

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大阪の気取らないところは好きだけど

 「都」と呼ぶには 都会的洗練

少々足りないような気がするんだよね

  (^_^;)

 

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吉村大阪知事(→)は9/23に記者会見を開き、

10/11に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問う

とした。

松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。

行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。

問題は「都」という名称なのだ。

「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。

から、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。

そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである

ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。

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七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大難波宮があった。

しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。

遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。

667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京  (持統天皇)
710 平城京  (元明天皇)
784 長岡京  (桓武天皇)
794 平安京  (桓武天皇)

大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる

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現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。

近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。

遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。

交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。

この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。

しかし近江大津京は短命に終わった。

最大の理由は九州の大宰府に水城や山城を構築したこと。

これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。

最初から臨時の皇居という印象だった。

そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。

天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。

ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。

京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。

昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。

小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。

日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。

その「遅刻」(水時計)が境内にある。

近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。

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ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、

あきのたの かりほのいほの とまをあらみ

わがころもでは つゆにぬれつつ

 (秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、

  冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)

壬申の乱で勝利した天武天皇(大海皇子)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。

近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。

天武天皇と持統天皇は夫婦である。

この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。

天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。

さて難波宮のことである。

歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。

長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。

「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。

堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。

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つまり、大阪は首都というより商都である。

水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。

縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。

周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。

石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?

戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。

いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。

難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。

それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。

実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。

この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。

ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。

すなわち難波宮は副都だったのだ。

だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。

副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。

エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。

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いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような史的考察が一片もないのである。

(宮崎正弘の国際情勢解題より)