野球

札幌市のお役所仕事

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▲札幌ドーム 建物は立派だが運営組織は腐敗の極み

ハム俯瞰

▲北海道ボールパークのイメージ図

北海道日本ハムファイターズは11月5日、2023年3月に開業予定の北海道北広島市の運動公園に建設する「北海道ボールパーク」(仮称)について華やかに発表した。

建設費は600億円、収容人数は3万5000人に上る。

ドーム型ではなく開閉型の三角屋根、センター後方の壁は全面ガラスという斬新なデザイン。フィールドは天然芝だ。

37ヘクタールという広大な敷地に5000台の駐車場を設け、公園やキャンプ場も整備する。

驚くのは観客席上段に露天風呂をもうけること。温泉に浸かりながら試合が見られる。

野球専門の球場だが、観戦目的でない観客も呼べる総合レジャーパークの位置付けだ。

北広島市は歓喜に沸くが、課題は交通。同市は札幌市の南隣。札幌市は札幌ドーム(豊平区)近くまで伸びていた市営地下鉄東豊線を南へ延伸する計画はない。

ボールパークの建設予定地はJRの北広島駅から遠く、新駅の建設を要望しているがJR北海道は財政難だ。

北広島市も庁舎を新築したばかりの上、9月の地震での液状化被害や、道路や駅周辺の整備などが財政を圧迫する。

 

市長が大馬鹿!」と怒る札幌市民 

 一方、「お宝球団」に去られる札幌市。ある市職員OBが怒りを込める。 

「秋元(克広)市長以下、札幌市役所が大馬鹿だったというしかない。

札幌ドームの運営組織は、札幌市役所の腐敗天下りどもが牛耳り、危機感などまったく無い。

『どうせ日ハムが頭を下げてくるんだろう』と高を括っていたんですよ。

今後、ドームは閑古鳥が鳴き、市で唯一黒字だった東豊線も赤字になるでしょう。

馬鹿を見るのは納税者の札幌市民ですよ」 

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2004年から札幌を拠点にしたファイターズは、第三セクター「札幌ドーム株式会社」からドームを「リース」していた。

しかし、年間リース代は9億円。さらにグッズなどの売り上げもすべて市に吸い上げられる。

イベントなどのたびにトレーニング機器を片付けたりしなければならず、そうした費用も球団持ち。

市に払う金は20数億円に上ったが、球団の値下げ要求を市は聞かないどころか値上げまでした。

金銭面だけではない。ファウルグラウンドが広すぎ、ベンチからホームベースまで歩く距離も他球場の倍ある。

観客席の傾斜も29度と急過ぎるが、最大の問題はグラウンド。

コンクリートの上にロール巻にした人工芝を広げただけで堅く、選手が膝を痛める危険も高かった。

選手たちは「(人工芝上で)膝からのスライディングなどは絶対にしない」と話し改善を要望していたが、札幌市の辞書に「アスリートファースト」はないのか、無視された。

Jリーグ、コンサドーレ札幌の試合では隣の屋外競技場の天然芝をドーム内に移動させているのに。

こうした対応に業を煮やした球団は「独自建設」をちらつかせていた。

札幌市の対応を批判しない、北海道の腐敗御用マスコミ 

2016年5月、北海道新聞のスクープでファイターズの新球場構想が表面化する。

慌てた札幌市はドームの野球専門化提案もしたが折り合いがつかない。

そこで2017年の4月、新球場建設地として道立産業共進会場と北海道大学構内の2カ所を提案したが、面積不足や大学の反対などで頓挫した。

その後、1972年の札幌五輪会場だった真駒内公園が浮上する。

実はこの頃、札幌市は2026年冬季五輪の誘致を表明、懸念されたがスピードスケートの会場は帯広市にすることにした。

昨年12月には札幌市がファイターズに示した案での真駒内公園での検討を決めた。しかし周辺住民の反対が強かった。

結局、北広島市での建設が決まり、ファイターズはついにドームから去ることになった。

 

渡辺恒雄 死去?

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  読売新聞の独裁者、渡辺恒雄氏が亡くなった

   との未確認情報が、11月17日午前10時現在

  流れてますね  ((((;゚д゚))))

 

 

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渡邉 恒雄(わたなべ つねお )

1926年〈大正15年〉5月30日 生まれ。

日本の新聞記者、実業家。

株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。

勲等は旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られる。

株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などを歴任した。

自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアにおいて「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては、渡邉自身が認めている。

他に「メディア界のドン」「政界フィクサー」「野球界の癌」とも呼ばれている。

 


お盆休み前後で、どこか長閑なムードが漂う8月中旬。

ごく一部の読売関係者は極限の緊張状態にあった。

「主筆が8月16日に自宅で酒を飲んで転び、首を骨折。

 すぐさま病院の集中治療室に運び込まれた」

 ほかならぬ、渡辺恒雄読売新聞グループ本社代表取締役主筆(92)の非常事態である。

関係者の受けた急報は、こう続く。

「一時はもち直して一般病棟に移されたものの、18日になって容態が急変し、

 ふたたび集中治療室に入っている」

 容態急変。読売上層部に激震が走ったのは言うまでもない。

4年前にも自宅で酔って転び、腕を骨折して1カ月あまり入院。

重病説が流れたことがある。

しかし、今回は骨折が枢要部なだけに、重篤のレベルはその比ではない。

年齢も年齢だ(92歳)。

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▲脳が大きい渡辺恒夫

TOKYO, JAPAN - JANUARY 22 : Tokyo 2020 President Yoshiro Mori and IOC Vice President, Chairman of the Coordination Commission for the Game of XXXII Olympiad Tokyo 2020 John Coates (not seen) attend a press conference in Tokyo, Japan, on January 22, 2016. (Photo by David Mareuil/Anadolu Agency/Getty Images)

▲脳が小さい森喜朗

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▲極端に脳が大きかった大村益次郎 幕末の軍事天才

ほとんど宇宙人 (^_^;)

読売関係者が続ける。

「主筆の入院は社員に伏せられていましたが、

 嗅ぎつけたメディアがあったようです。

その社は、訃報の予定稿まで準備したとも聞こえてきました」

メディア界に君臨し、政治をも動かしてきたドン。

コトの真相を読売新聞グループ本社広報部に訊ねると、主筆自らのコメントとして以下の回答を寄せた。

「自宅で転倒して頸椎の一部を骨折し、入院しています。

 幸い脊髄に損傷はなく、医師からは1カ月ほどで退院できると言われています」

 広報部も、

「一般病棟で治療を受けながら、業務書類に目を通すなど順調に回復しています」

と強調する。

ただ、一部とはいえ、頸椎を骨折するとどうなるのか――。

名古屋第二赤十字病院の整形外科医、飛田哲朗氏によれば、

「頸椎が折れると食事をしたり痰を切る力が衰えます。

結果的に、痰が肺に詰まる誤嚥性肺炎のリスクが急増するのです。

一般論ですが、度合いの軽重を問わず、

65歳以上で頸椎を損傷すると、1年以内に28%が亡くなる

との研究結果もあるほどです」

そして彼はいま、65歳ではなく、92歳である。

主筆の容態を、読売上層部は固唾を呑んで見守っている。

「週刊新潮」2018年8月30日秋初月増大号


ナベツネが亡くなったんじゃないか?

読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄氏の死亡説が昨晩からネット上に流れ、大きな騒ぎになっている。

今朝にはジャーナリストの田中稔氏も〈昨晩、渡辺恒雄氏が亡くなったとみられる。

読売は安倍総理の帰国まで公表したくないようでなかなか認めないが、各社、予定稿準備しているとの情報。

〉とTwitterに投稿。

その後、Yahoo!のランキングでも「渡辺恒雄」がトレンド1位となる事態に。

しかし、その一方で、新聞やテレビはいまだ一切、このことに触れていない。

どういうことなのか。全国紙の政治部記者に問い合わせてみた。

「じつは、昨日、読売本社で緊急のグループ幹部会議がおこなわれたという情報が飛び込んできた。そこから“ナベツネに何かあったのでは”という話が広がり、各社、取材に動きはじめたんです。ただ、いま現在は緊急幹部会が開かれたという話以上の情報がなく、まだ裏は取れていない。しかし、一方で健在を裏付ける具体的な情報も取れない。ナベツネも92歳ですから、なにがあってもおかしくない。それで、各社も訃報の予定稿準備や裏取り取材に走り回っているという状況です」

 ナベツネをめぐっては、夏ごろから「体調不安説」が流れていた。

渡邉氏は今年8月中旬、自宅で転倒して頸椎の一部を骨折して入院。読売新聞社は当初公表していなかったが、週刊誌が取材に動いたことから、同月20日に読売新聞社が入院の事実を公表。

〈一般病棟で治療を受けながら、業務書類に目を通すなど順調に回復している〉

とした。

しかし、「週刊新潮」(新潮社)8月30日増大号(8月22日発売)は「一時はもち直して一般病棟に移されたものの、18日になって容態が急変し、ふたたび集中治療室に入っている」という関係者のコメントを掲載していた。

その後、退院したという発表もなく、表に姿を見せることもなくなっている。

ナベツネといえば、政界だけでなく巨人軍に大きな動きがあると必ず取材に応じ、コメントを出してきたが、今回、高橋由伸監督の辞任、原辰徳監督の就任に至る過程でもナベツネの肉声はまったく伝わってこなかった。

そんなところに、今回、読売グループの緊急幹部会議が開かれたという情報が入ってきたため「すわ」となったということのようだ。

さらに昨日、読売ジャイアンツの原辰徳監督が秋季キャンプ地の宮崎県から選手たちを残して「所用のため」として一足先に帰京したことから、「原監督が急に帰ってきたということは、やはりナベツネに何かあったのでは」と憶測に拍車をかけた。

「原監督の件はともかく、読売グループに重大な異変が起きているのは間違いない。ただ、それがナベツネの健康状態に関するものかは正直、わからない。一方では、長嶋茂雄・終身名誉監督にかかわることじゃないかという声もある」(週刊誌記者)

 現段階では情報の真偽について判断できる状態にないが、いずれにしても、今回のメディアの慌てぶりをみて、再認識したのは、マスコミにとってのナベツネの存在の大きさだ。

甲子園見学

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第100回全国高校野球選手権記念大会(5日開幕・甲子園球場)の出場校による甲子園見学が31日、スタートし、春夏通じて初出場の白山(三重)の女性部長・川本牧子氏(40)が打席に立ってスイングし、大会関係者に制止される場面があった。

例年の甲子園練習が、今大会は56校と出場校が多く、甲子園見学に切り替えられた。

選手たちはグラウンドを見学し、ボールを使わずにボール回しのふりやシャドーピッチをする中、それまで選手たちを見守っていた川本部長は、ナインや東拓司監督(41)から招かれるようにグラウンドへ。

白いポロシャツに紺のスカート、野球帽姿で右打席に入り1回スイングをしてみせた。

チーム全員は大喜びだったが、すぐに大会関係者に制止、注意を受けた。

川本部長は「監督がぜひぜひ、という感じだったので…。でも、打席に立ってはいけないと注意されました」と肩をすくめた。

そして「試合のための見学会なので、私が立ってはいけないところですよね」と反省し「かなり怒られましたよ」と肩を落とした。

日本高野連の竹中雅彦事務局長は「今回の見学会は、背番号をつけていない選手やそのほかの人はグラウンド内には入れない、という規則だったので。女性だからダメ、というわけではない」と説明していた。

なお、川本部長は小学生時代に少年野球チームに所属。中学、高校でソフトボール部だった。

普段は部員にノックを打つことなどは「自主練の時など、年に2日くらいです」と話している。

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 学生野球支配老人

  規則愛好者多々  (^_^;)

井手峻さん

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学生野球資格回復制度の改定により、元プロの高校野球指導者も年々増えつつある。

そのなかでも、東大からプロに入り、コーチを経て、球団代表にまで上り詰めた異色の経歴の持ち主がいる。

半世紀近くにわたり中日の屋台骨を支えた井手峻(いで・たかし、74)は現在、母校・都立新宿高校でコーチとして指導にあたっている。

選手、指導者、フロントとして歩んだ野球人生と、高校野球の指導者としての今の夢を語った。

「野球がうまいという自覚は全くなかったな。当時は今以上にプロアマの接触が全くない時代。ドラフトのときにいきなり電話がかかってきて、びっくりしたのをよく覚えています」

都立新宿高校を卒業後、1年浪人を経て東大に入学。

六大学では通算4勝を挙げたが、卒業後は三菱商事に内定が決まっていた。

突然のプロからの指名には、大きく心が揺らいだという。

「やっぱり勉強と野球の両立は苦労した。プロは野球だけでいいというもんだから。商社は優秀な人材がたくさんいる。私なんかは全然ダメだったと思うよ(笑い)」

ドラフト制施行翌年の指名で中日に入団すると、ルーキーイヤーにリリーフとして初勝利。

前年に大洋漁業からプロ入りした新治伸治と投げ合い、史上唯一の“東大出身対決”を制したが、投手としてはこの1勝に終わった。

野手転向後は守備固めや代走で出場を重ね、1973年には公式戦唯一の本塁打を決勝打で飾った。

「編成に回ってからは、新人によく『まずはオレを超せよ』と言ったもの。投手なら1勝、野手なら1本ですから」。

プロ10年を機に、現役を引退。すると1年を待たず呼び戻され、今度は10年、コーチや二軍監督を歴任した。その後のフロント入りは自然な流れだったという。

「誰も認めてくれないかもしれないが、高木(守道)さんと権藤(博)さんを組ませたのが、私の一番の功績だと思ってる。ドラゴンズ最高の野手と最高の投手が、プレーオフ(CS)でジャイアンツを追い詰めた(2012年)。夢は果たせなかったかもしれないが、あれが集大成です。投手も内野も外野もやったし、選手も指導者もフロントもやった。本当に恵まれた野球人生でした」

50年近く在籍した中日を15年に退団。現在は母校、都立新宿に戻り、高校生の指導にあたる。

「現役のときは直感でやってて、やっと理屈で野球がわかるようになったのに、体力的にはもう限界。やってみせられない、ノックもできない。私もこのぐらいの知識を持ってやってみたかった。だから、今の子たちにそれを伝えられれば」

約半世紀にわたり、選手、コーチ、フロントとして中日を支えた“陰のミスタードラゴンズ”は、唯一無二の経験を次の世代に伝えていく。

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 見た目も 生き方も

  カッコイイじいさんだなぁ  (^_^;)

 

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井手峻 いで・たかし

1944年2月13日生まれ、佐賀県唐津市出身。

都立新宿高校入学後、本格的に野球を始める。

東大では六大学通算4勝。

66年、第2次ドラフト3位で中日に入団、前年の新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロとして注目を集める。

76年に現役引退。その後二軍コーチ、二軍監督、一軍コーチを歴任し、87年からフロント入り。

92年に一軍コーチに復帰すると、96年以降は再びフロントに。2013年に球団代表。

15年に退任、現在は母校の都立新宿高校でコーチとして指導にあたる。

175センチ、70キロ。右投げ右打ち。

イチロー

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シアトル・マリナーズのジェリー・ディポトGM(49)は、5月3日(日本時間5月4日)、イチロー外野手(44)が球団の特別補佐に就任した経緯や思いなどを語った。

マリナーズ球団はこの日、イチローが球団の特別補佐に就任したと発表。

ベンチ入りの25人枠から外れ、選手としては今季の残り試合は出場しない。

チームに同行し、練習しながら選手らをサポートする。

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 まさに ミスター・レジェンド!  (^_^;)

 

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新宿高校の野球部

 

都内でも有数の進学校として知られる都立新宿高校

■「自主・自律」の校訓を胸に文武両道を目指す
東京都新宿区にある東京都立新宿高等学校。東京大、一橋大、筑波大などの難関国公立大学の合格者も多数輩出する進学校の一つとしても知られている都立校だ。学校に掲げられる「自主・自律」の校訓に基づき、多くの部活動が文武両道を目標に日々の活動に励んでいる。

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 グラウンドの 地価の高さでは

  日本一かもしれませんね  (^_^;)

 

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新宿高校の野球教室

野球教室は、新宿高校硬式野球部の田久保裕之監督の挨拶からスタートし、前半は遊び感覚で行えるようなゲームを行った。

筑波大学准教授の川村 卓氏が考案したというこのゲームは、普段小学生が手にしてる軟式ボールではなく、柔らかい素材のボールを採用し、守備も素手で行えるもの。

野球のルールを基にゲームは作られているのだが、打球の方向へ全員が動くなど、チーム全員が楽しく参加できるようなアレンジがされており、チームが得点を決める度に大きな歓声が聞かれた。

また、「ホームランを打つ喜びを小学生にもっと体験させてあげたい」という思いから、ゲームフィールドはあえて狭く設定されており、ある小学生の保護者が「普段からこれくらいホームラン見れたらいいですね」と語るほど、たくさんのホームランが飛び出した。

参加した小学生からは「簡単にできて楽しかった」「お兄さんはみんな優しかった」といった声が聞かれ、大満足の様子だった。

後半はグラウンドを離れ、教室で座学を行った。

野球教室に座学取り入れたのは、同校が進学校であることを野球教室にも活かしたいという田久保監督の意向からで、毎日勉強に励む高校生が、勉強やスコアの付け方を小学生に丁寧に指導した。

小学生への授業の準備は、田久保監督は何も指示を出さずに、すべて選手やマージャー達だけで行ったそうだ。

久保監督は「配布するプリントやパワーポイントには、私は目を通していなかったが、しっかりと出来ていました。また、筆記用具を忘れた子ども達のために、予備の筆記用具も自分たちで考えて用意していた。本当に良くやったと思います」と笑顔で語り、選手やマネージャーを労った。

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学校の先生とは思えないような

マーケティングセンスのある監督ですね  (^_^;)

 

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夏の甲子園

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 7月8日、夏の甲子園の予選となる高校野球の東・西東京大会が開幕する。

 都立新宿高校を率いるのは同校OBの田久保裕之さん(35)。

 かつて「学生監督」として同校を指導したが、今春の異動で今度は教員監督として母校に戻ってきた。

 長年の夢がかなった田久保さんは、後輩とともに、チーム目標の3勝を目指す。

 「オラーッ、もう一球~!」「リズム、リズム!」。

 新宿御苑と新宿タカシマヤが間近に見える新宿高校のグラウンドに、田久保さんの大声が響き渡る。

 田久保さんは2000年に同校を卒業すると「母校の体育教師になりたい」と、日本体育大に進学。

 すぐに新宿高校の野球部監督になり「学生監督」として注目された。

 その後、念願の教員になり、10年に小山台高校の助監督に就任。

 チームは14年春のセンバツに、21世紀枠で出場を果たした。

 今年3月末、母校への異動が決定。

 小山台の大田原弘幸校長から「みんなが母校に行きたいが、実現するのは一握り。チャンスを逃すな」と背中を押された。

 現在は1年の担任と体育教諭として勤務しながら、野球部で監督を務める。

 東大野球部で活躍し中日球団代表も務めた新宿高校OB井手峻さんを外部コーチに迎え、小山台時代に学んだ狭いグラウンドで効率良く練習できるメニューを取り入れるなど、早くも手腕を発揮している。

 田久保さんは「自分は日本一幸せな教員。夏の大会は、3年生と同じ最後の夏という気持ちで臨む」と意気込む。

 主将の吉田壮吾さん(18)は「田久保先生は、僕たちが野球だけに集中できる環境を整えてくれる。『都立だから』という言い訳が、いい意味で通用しなくなった」と喜ぶ。

 マネジャーの高安柚奈さん(18)も「元々、OB総会などで知っていたので、最初からなじんでいます」と、歓迎している。

 新宿高校は7月9日、郁文館と対戦する。

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<高校野球東東京大会:郁文館4−1新宿>◇7月9日◇1回戦◇江戸川
新宿高校・梅原猛投手(3年)の力投は実らなかった。先発し7安打4失点完投。終盤で足をつりながらも投げきったが、勝利の女神はほほえまなかった。
5月から、OBで中日元球団代表の井手峻氏が外部コーチとして招聘(しょうへい)された。梅原は「最後の大会なので自分以外投げさせないという気で投げました。井手さんから『気負う必要はない』と言われたことを思い出して落ち着いて投げられました」と言った。今春から母校に戻った田久保裕之監督は「3年生がよく頑張った。梅原の気迫の守りは、後輩たちにしっかりメッセージとして伝わっているはず」と話した。
 郁文堂という出版社がありましたね
ドイツ語の教科書とか出してる (^_^;)

野球部 戸山戦で圧勝

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サイドノックを行う、新宿高校の田久保裕之監督

高校野球の最終目標は甲子園出場である。それは、万人の認めるところであろう。

しかし、高校野球の担う役割はそれだけではない。歴史と伝統を継承して受け継いでいかなくてはならないものもある。

それを今の若い世代がどのように甘受して、次の世代へ継承していかれるのか、そうした伝統を育んでいく作業も大事な要素ともいえるのだ。

東京都では、学制改革以前の旧制時代にあった府立中学の歴史を背負うナンバースクールが今も都立の進学校として存在している。

その時代には文武両道を前面に掲げていた。

その歴史を新時代になっても継承していこうと、旧制府立六中の新宿高校が四中の戸山高校と、1956(昭和31)年から野球だけではなく、あらゆる運動部で総合定期戦として対抗戦を開催。

毎年、駒沢オリンピック公園を借り切って開催されている。

今年は6月1日に開催されたが、野球の対抗戦は駒沢球場で行われ、中盤に猛打が爆発した新宿が6回コールドゲームで戸山に勝利。

新宿は昨年、サヨナラ負けした悔しさがあっただけに、意地の雪辱を果たしたとも言える。

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【戸山】竹原大輔、合田幸弘―金子草太
【新宿】梅原猛―吉田壮吾 続きを読む