野球

大谷翔平選手 超パワフル15号

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 私は野球にあまり興味が無いし

  ほとんど見ることも無いのですが

 それでもピッチャーでもある彼の活躍を

  ニュースで見て驚いています

 (^_^;)

 

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大谷翔平選手の超パワフル15号が話題になっていました。

レンジャース戦で先発出場した大谷翔平選手は、今季トップクラスの速度である117mph(約188.3キロ)という打足で、15号3ラン本塁打を放って米国を驚かせています。

そんな大谷翔平選手のパワーを象徴する本塁打に、海外からは驚きの声が寄せられていました。

 

海外の反応:

海外の名無しさん

スイングのスピードがやべぇ。

海外の名無しさん

スローモーションでもスイングが速いんだけど。

海外の名無しさん

MVPやサイ・ヤングの可能性のあるピッチャーなんて、生まれてから見たことないよ。

海外の名無しさん

なんで観客のほうがアナウンサーよりもうるさいの。

海外の名無しさん

アナウンサーのサヨナラの発音がめっちゃ良くなってるよw

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海外の名無しさん

これでMVPじゃないなんてあり得ないでしょ。
誰にも出来ないことをやって、良いピッチャーであり、すごいバッターだよ。
俺はレンジャーズファンだけどね。

海外の名無しさん

バットの音を聞いたかよ。
ゴルフクラブみたい。
この子は強すぎだよ!!!

海外の名無しさん

こんなに速くフィールドから出ていくボールは初めて見たよ。
彼のスイングはマジカルだね。

海外の名無しさん

1956年からベースボールファンだけど、大谷ほどすごいプレイヤーは初めて見るよ
世代に一人のプレイヤーだね。
マントル以来の最高のレフトスイングで、ドライスデールとギブソン以来のベストピッチャーだわ。

海外の名無しさん

いつボールに当たったの?
どこに行った?
あぁ、右の壁を超えてるよ。

海外の名無しさん

コアに当たってないから、手がしびれてたみたいだね。
どんだけぇ。

海外の名無しさん

40年ぶりに、また野球を見始めたよ。
最高だね。

海外の名無しさん

みんながマスクをせずに楽しい時間を過ごしてるのが見られて最高だよ。

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海外の名無しさん

この人はイチローとマツイを合わせたみたい。
しかもピッチャーも出来るという。
MLB史上でも最強のプレイヤーかもしれない。

海外の名無しさん

数年前は、田中やダルビッシュすら二刀流は無理だって言ってたのに。
エンゼルスのマネージャーもここまでは期待してなかったと思う。
それが今では、生きた漫画キャラになってる。
見てるだけで楽しいよ!
健康を維持して長くプレーしてね。

海外の名無しさん

大谷のバッティングを見られることを期待して、ジャイアンツ戦のチケットを買ったよ。
美しいスウィングだな。

海外の名無しさん

エンゼルスがあまり強くないのが残念だよ。
トラウトと大谷をプレーオフで見たいのに。

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海外の名無しさん

右翼ホームランって大谷にはかなり珍しいよ。

海外の名無しさん

仕事中にエンゼルスが買ってるという通知が入ったから、大谷が何かすごいことをしてるんだろうと思ったけど。
その通りだったね!
彼はマジでモンスターだよ

海外の名無しさん

エンゼルスは外野の人たちを保護するネットを張らないの?
こんなんミサイルだよ。

海外の名無しさん

ゴジラ・マツイ以上の名前って何なの?

海外の名無しさん

↑超サイヤ人・オオタニ

海外の名無しさん

今年は自信がめっちゃついてきてるのが分かるね。
ボスみたいにバットを降ろしてるよ。

海外の名無しさん

↑以前は必死で走ってたのを覚えてるよ。
ホームランじゃないと思ってたのは、アリーナで彼だけだったのにw

海外の名無しさん

ホームランダービーで彼を見たいよ。

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海外の名無しさん

3月に彼がMVPになるのに賭けたよ
当たれば100ドルが2500ドルになる。

海外の名無しさん

二球目でこれをやってたら、118mphにはなってただろうな。

海外の名無しさん

ブラディのほうがリーグのホームランでは勝ってるけどね。

海外の名無しさん

↑ブラディはすごいけど、ピッチャーは出来ないし、ホームランも1本差だよ。
どちらも大好きだけどね!

海外の名無しさん

彼のハイライトはいつ見ても楽しくなるよ。

 

清原 執行猶予満了

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 覚せい剤について知る人はみな

  「絶対に絶つことは出来ない」と言いますから

 本当に絶つことに成功したのなら

  大変な精神力だと思います  (^_^;)

 

2016年に覚せい剤取締法違反で有罪判決を受けた清原和博氏(52)は15日、執行猶予が満了したことを報告した。

この日刊行された清原氏の著書「薬物依存症」を出版した株式会社文藝春秋が、マスコミ各社に宛てたFAXで清原氏のコメントを公表した。

清原氏は

「私、清原和博は本日6月15日をもちまして、覚せい剤取締法違反に対する、懲役2年6カ月、執行猶予4年を満了することとなりました」

と報告した。

「私を支えてくださっていた野球ファンの皆様、野球関係者の皆様、報道関係者の皆様、私に個人的に関わっていただいた皆様に、多大なるご心配をおかけしましたことを、あらめてお詫び申しあげます」

と謝意を述べた。さらに

「逮捕されてからこの4年間で私自身がどのように変われたのか、実感や自信を持てずにいるというのが正直なところです」

と近況を報告。

「ただ、自分の行為を悔いる日々の中で、これまで私がいかに多くの人の力によって生かされていたのかという事実に気づきました。薬物依存症の治療を進める中で、薬物の恐ろしさ、この病気の実態を知り、人と繋がっていくこと、人に助けてもらうことの大切さを知りました。生きがいを見つけようとする中で、清原和博という人間がいかに野球によって救われてきたかということを再認識しました」

と胸中を明かした。そして

「薬物との戦いに終わりはありませんが、私はこれからの人生を薬物依存症で苦しむ人たちと、野球界、とくに私自身の原点でもあります高校野球に捧げたいと考えております」

と誓った。また、清原氏は

「不安、絶望、微かな希望。これが今の僕の全てです 清原和博」

と直筆メッセージも寄せた。

▼逮捕直後

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新宿高校でティーボール教室

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12月22日、東京都新宿区の都立新宿高校で「ティーボール教室」が行われた。

新宿高校はこれまでも「Shinjukuベースボールアカデミー」などの社会貢献活動を行ってきたが、今回は日本高野連の「200年構想」の「普及 子ども向けティーボール教室の開催」に準拠した、日本高野連公認のイベントだ。

当初はグラウンドでの開催を予定していたが雨の予報があったために、急遽大体育館で行われた。

田久保裕之監督は「初めてのことだから、何人が集まるか不安」と話したが、約20人の未就学児童が保護者に伴われて参加した。

田久保監督は軽妙な「お話」で、子どもたちをリラックスさせる。

命令口調ではなく「語りかける」口調だ。

まずは、ウォーミングアップとしてダッシュ、ベースランニング。

最初の段階で「ベースを回る」という経験をさせるのは、最後のティーボールゲームを理解させる上で非常に有効だ。

続いて柔らかいボールを使ってボール投げ。

自分でキャッチ、弾ませてキャッチ、そして選手のお兄さんとキャッチボール。

さらに転がるボールを「パクっ」と掴む体験も。

子供たちはボールを使う基本的な動作を身に着けた。

さらにボールを使った「的あてゲーム」「玉入れゲーム」この段階まで来ると、子どもはボールを自分から争って取りに行き、自分から進んで競技に取り組むようになる。

いよいよバッティング。まず選手が、フルスイングでボールをホームランを披露。

そして子どもたちはティーに置かれたボールを打っていく。

バッティングは、未就学児童でも個人差が出やすい。

特に女の子はティーのボールにバットが当たらないことが多い。

そこで田久保監督は段ボール箱の上にティーを置きボールを置いてバットで打たせる「箱ティー」も考案した。バットも少し太めにした。

これで、みんながボールでバットを打つ体験ができるようになった。

ティーボール教室の進行は田久保監督が行ったが、選手たちはイベントの趣旨をよく理解し、子どもがいいプレーをしたら褒めたり、ハイタッチをするなど大いに盛り上げた。

このイベントが、高校球児にとってどんな意義があるのかをよく理解していることが見て取れた。

最後は「どか点ティーボール」。

2面でゲームが行われた。

バットを使うゲームでは、子どもが打ったあとにバットを放り投げるのが危険だ。

今回は、コーンを倒し、その中にバットを入れる動作を子どもたちに教え込んだ。

攻撃側は子どもたち。守備側は子どもたちと選手。

1塁1点、2塁2点、3塁3点、本塁まで帰ってくれば4点が入る。走者は残らないスタイル。

子どもたちは歓声を上げて塁を回った。

通常、ティーボールでは、ゲームの当初は「塁の回り方がわからない」子どもが続出し、それを教えるのに少し時間がかかるが、ウォーミングアップでベースランニングを教えていたので、子どもたちはスムーズに塁を回ることができた。

小さいことのようだが、こうした工夫が、イベントの進行をさらにスムーズにする。

どちらが点が多く入ったかを競い、1時間20分でイベントは終了した。

途中で2回、給水タイムもしっかり取られた。

最後に記念撮影、そして今回は公認イベントで予算があったので、ボール、バット、コーンを使ったティーを子どもたちにプレゼントした。これも重要なポイントだ。

こうした体験は一過性のものに終わりがちだが、ボールやバットを持ち帰ることで、家でもこうした遊びに親しむことができる。

イベント後の保護者のアンケートでは「楽しかった」「子どもがこんなに楽しそうにしているのを久しぶりに見た」「お兄さん、お姉さんが優しかった」「野球ってこんなに楽しかったんだ」などのコメントが寄せられ、評判も上々だった。

こうした取り組みは「200年構想」発表以降、全国で行われているが「誰のための、何のための取り組みなのか」を選手がはっきり理解することがポイントになる。

新宿高校の取り組みは、自分たちが大好きな野球の楽しさを子どもたちにも伝えようという熱意がはっきり見て取れたのが有意義だった。

 

東大野球部監督 井手峻さん

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創部100年目でプロ出身者は初めてとなる。

今月、東大野球部監督に就任した井手峻監督(75)である。

同大OBの井手監督は、1966年第2次ドラフト3位で同大出身2人目のプロ野球選手として中日に入団。

10年間の現役生活を終えた後は二軍監督やコーチを歴任、さらに球団代表などフロントの要職を務めるなど、50年近くにわたり、プロの世界に身を置いた。

2015年2月に退団後、東京都立新宿高校で特別コーチとなり、このたび母校で指揮を執ることに。

指導への情熱が衰えることを知らない井手監督に、話を聞いた。

球場近くで“単身赴任”

 ――東大の監督になったいきさつは?

「前任の浜田監督が契約更新の時期を迎え、今回はOBから公募しようということになった。何年か前なら自ら立候補しましたが、年齢のこともあるし、立候補は控えようと考えていた。そんな中、私の同級生が背中を押してくれ、ご指名いただいた。50年間、いろいろな野球を見てきて、勉強してきたことを還元したいと考えていた。持っているもの全てを吐き出してから死のうと思ってますよ(笑い)」

 ――就任して2週間。監督としての1日は?

「朝8時から正午ごろまで全体練習、午後は個別練習という形で、指導しています。まずは部員たちの名前を覚えること。今は4年生が卒業したので、部員は70人ほど。名簿を見ながら、名前と顔を一致させて。主将が気遣ってくれ、部員たちは練習用ユニホームの背中にみんな名前を書いてくれました」

 ――監督になるにあたり奥さまにご相談は?

「一言、『やりたいんでしょ?』と(笑い)。監督をやるにあたり、誰より妻に理解してもらわないといけない。朝のことなど考えて、東大球場(東京・文京区)の近くに小さい部屋を借りました。中日に在籍時もずっと名古屋で単身赴任をしていた。退団して関東に戻り、2人で余生を……というところだったから、私のワガママを聞いてくれた妻には感謝しています。自炊ができないから、普段は外食。でも、ちゃんと栄養も取らないとと思って、時間に余裕がある時は(都内の)自宅に帰って、妻と一緒に食事をすることもあります」

 ――以前から母校で指導をしたい気持ちはあったと。

「中日で10年間の現役生活を終えた直後に、延べ3週間ほど東大で指導をしたことがある。当時は大した知識はなかったですが、当時の部員たちは私が話すことを砂漠に水が染み込むように聞いてくれて。その時の快感は今も残っている。もう一回、東大で指導者をやってみたいと。中日を15年に退団し、11月上旬まで約2年、都立新宿高校で特別コーチをやらせてもらい、いろんな子供たちと接した。公式戦ではなかなか勝てなかったですが、初歩からやらないといけなかった子も、体が大きくなり、野球ができるようになる。進歩の度合いはプロとは違う。そこに面白さを感じていました」

せめて80歳までは、まずは42連敗を止める

 ――中日には選手、指導者、フロントの要職として約50年間在籍。

「見てきたもの、教わったものをどう還元できるか、ずっと考えています。ただ、プロの一流選手がこういう意図をもってプレーしているというような話はできても、とくにプロの打撃は“神秘的”な部分が8割を占めると思っている。感覚的なことですよね。打席で投手と対峙する中で、どの球を狙って、どう打つか。相手投手の心境、心理はどうか。これは言葉で言っても理解することは難しい。まして東大生は理詰めが好きです。まずは基本を徹底的にやり、体の仕組みを理解し、ロボットのようにというか、教科書通りにというか、プレーできるようになってほしい」

 ――どんな野球を?

「最初のミーティングで話したのは、チーム打率・250を目指し、これを研究課題にしようと。秋季リーグは打率・165。真っすぐ、変化球、甘い球が来た時にしっかり振れるように。走塁面では例えばゴロゴー。全員が完璧にできるように。大事なのは判断。足を動かし、どうやって“見る”のか、“見た”後に行くのか行かないのか。こういうものは実際にやって覚えないとダメ。そのことを教えてくれたのが中日の先輩である中利夫さん(元中日監督)」

 ――どんなことを教わったのですか?

「現役引退後、一軍外野守備走塁コーチに就任した1978年当時の監督が中さん。キャンプの際、シーズン中に起こる可能性があるプレーは全部、やらせてくれと言われた。自分自身、代走で使われることがあり、スチールの練習をしたことはあっても、走塁技術に関する知識がなかった。引退した後、もっといろんなことを勉強していれば、もっといいプレーができたかもしれないと思った。あとは、権藤博さんや鹿島忠、山崎武司といった中日OBに投手のこと、野手のこと、練習方法やメニューの内容などアドバイスをもらいました」

 ――東大といえば、日本最高峰の頭脳集団。

「勉強は一番かもしれませんが、スポーツって、うまい人の方が頭がよさそうに見える。ただ、理解するのは速いと思うので、そこに体がついてくれば、上手になるのは早いかもしれない。東大野球部の4年間で燃え尽きてもいい、というくらいの気持ちがあってもいいと思っている。卒業後も野球を続ける人もいるが、野球を終える部員の方が多いと思う。公式戦に限れば、1年間で20試合として、4年間で80試合だけ。出し惜しみをしていたら、もったいない。4年間、基本をしっかりやっておけば、もし将来、子供たちに野球を教えるとなった時に役に立つはずです」

 ――75歳という年齢で監督を務める。体力維持の秘訣は?

「とくに何も(笑い)。中日を退団してからは動くことっていったら、ゴルフをちょっとやっていたくらいで。お酒はだいぶ減りましたね。毎晩飲んではいるけど、食事をおいしく食べるために少し飲む、という感じで。ビール、日本酒、ワインかな。ウイスキーや焼酎のようなロングドリンクは飲まないですね」

 ――5年後には80歳。

「せめて80まではやりたいですね。これまでためてきたものをなるべく早く、吐き出して。それが勝ちにつながれば最高です。まずは、17年秋から続く42連敗を止めて、1勝すること。早大や慶大など、ライバル5大学にどうにかして一泡吹かせたい」

(聞き手=藤本幸宏/日刊ゲンダイ)

 

新宿高校の井手峻コーチ、東大監督に就任

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▲一回り上なんですけど、若々しいですね (^_^;)

東大硬式野球部(東京六大学野球)は、13日付で浜田一志監督が退任し、後任として井手峻(たかし)さんが就任することを発表した。

井出新監督は新宿高校と東大の野球部OBで、プロ野球中日ドラゴンズで10年間プレー。

東大硬式野球部としては、初のプロ出身監督となる。

井出新監督は取材に対して、就任の動機を

「現役引退後に野球に携わる中で、最後は母校にこれまで培ってきたものを還元したいと思っていた」

と説明。

「投手陣を整備し、まずは1勝を目指したい」

と意気込んだ。

井出新監督は都立新宿高校OBで、東大に入学後、投手としてリーグ通算4勝を記録。

今月までは、都立新宿高校野球部の特別コーチを務めていた。

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井手峻 いで・たかし

1944年2月13日生まれ、佐賀県唐津市出身。

都立新宿高校入学後、本格的に野球を始める。

東大では六大学通算4勝。

66年、第2次ドラフト3位で中日に入団、前年の新治伸治に次ぐ史上2人目の東大出身プロとして注目を集める。

76年に現役引退。その後二軍コーチ、二軍監督、一軍コーチを歴任し、87年から中日球団フロント入り。

92年に一軍コーチに復帰すると、96年以降は再びフロントに。2013年に中日球団代表。

15年に退任、現在は母校の都立新宿高校でコーチとして指導にあたる。

175センチ、70キロ。右投げ右打ち。

 

大谷翔平 2試合連続逆転3ラン

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 相変わらず スカッとするような

  大活躍をしています  \(^o^)/

 

エンゼルスの大谷翔平投手は5日(日本時間6日)、本拠地アスレチックス戦に「3番・DH」で2試合連続スタメン出場。

第3打席に2試合連続となる5号3ランを放つと、地元ファンは「愛してます」の大合唱が巻き起こっている。

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らしさ炸裂の一撃だった。

4回2死一、二塁のチャンスで大谷が打席へ、カウント1-1から右腕ペティットの直球を叩くと、打球は高々と舞い上がり、センター方向に豪快な3ラン弾。

MLB公式サイトの解析システム「スタットキャスト」で飛距離400フィート(121メートル)と計測された。

一時1-7とリードされたエンゼルスを、8-7とひっくり返した豪快な一撃に、地元ファンはツイッターで“大谷愛”を爆発させている。

「ショウヘイ・オオタニを愛している。本気です。紛うことなき一撃だ」

「こんばんは、全能なる救世主、ショウヘイ・オオタニについて話をさせてもらえるかな?」

「これはショウヘイ・オオタニの400フィート爆弾。ショウタイムが正式に再開だ」

「愛してます ショウヘイ・オオタニ」

「ショウヘイ・オオタニがエンゼルスと契約してから18か月。正直、いまだに信じられません」

「ショウヘイ・オオタニを愛している。命の全てをかけて守ります」

「ショウヘイ・オオタニは時速99マイルの豪速球で輝けることを忘れないように。そして、400フィート爆弾を打席で炸裂させる。信じられない」

「ショウヘイ・オオタニ、永遠に神の祝福あれ」

「こんにちは、アイ・ラブ・ショウヘイ・オオタニ」

まさに「アイ・ラブ・ユー」の大合唱。

2試合連続弾で本来の爆発力が戻ってきた昨季の新人王。

地元ファンは復調の大谷に惜しみない愛情を降り注いでいる。

 

雅子さまは強打者だった

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 非常に優秀な外交官だった訳ですから

  これから皇后陛下として皇室外交に

 大いに能力を発揮していただきたい!  (^_^;)

 

 皇后になられた雅子さまは、幼少期をニューヨークで、高校、大学時代をボストンでお過ごしになった。

 ボストンではどんな高校時代を送られたのか?

5月2日付の米紙ボストン・グローブ(電子版)が、過去の記事から、雅子さまの高校時代を振り返っている。

人気ドラマの劇制作

雅子さまが日本からボストンに移住し、ボストン郊外のベルモントにあるベルモント高校の2年生に編入されたのは1979年のこと。

当時の雅子さまにについて、教師の一人、リリアン・カッツ氏が、雅子さまが模範生だったこと、勉学に熱心で、化学、物理、数学、ドイツ語に秀でたこと、クラスのトップ10%に入る成績で卒業したことを回想、「彼女は素晴らしかった。頭が良く、優しく、思いやりがあった」と1993年の同紙の記事で話している。
ベルモント高校の1981年度の卒業アルバムに掲載されている高校時代の雅子さま。写真:boston.com

 

ベルモント高校の1981年度の卒業アルバムに掲載されている高校時代の雅子さま。写真:boston.com

 同紙に掲載された1981年度の卒業アルバムによると、雅子さまは、課外活動では数学チームとフランス語クラブに所属。思い出としては、ケネディ図書館、MASH(マッシュ)、ドイツ語、東京、ESL、エンサイクロペディアなどが記されている。「2年生の初めにここに来て、素晴らしい時を過ごしました。友だちみんなに感謝。友情は永遠」という感謝の一言も添えられている。

 ケネディ図書館とは、ジョン・ F・ケネディ元大統領を紹介する映像や写真、遺品など、ケネディ元大統領に纏わる様々な歴史的資料が展示されているボストンにある博物館のこと。

 MASH(マッシュ)は、アメリカで1970年代初め~1980年代初めにかけて人気のあった医療ドラマで、朝鮮戦争時、韓国の野戦病院に駐留していた医師たちに起きる出来事を描いたブラック・コメディだ。オーストラリア人ジャーナリスト、ベン・ヒルズ氏の著書「プリンセス・マサコ:菊の玉座の囚われ人」によると、雅子さまの高校3年時のクラスはMASH(マッシュ)の劇を行い、雅子さまはその制作に参加していたという。

愛するお兄さん

 同紙は、1993年の記事で、雅子さまが、少女時代、熱心なソフトボールのプレイヤーで、少年たちが一緒に試合をしてくれなかったために、女子ソフトボールチームを結成したことにも触れている。

 また、当時、雅子さまはちょっとおてんば娘で、先生が雅子さまに「礼儀正しい日本の女の子にしてはあまりにボーイッシュ過ぎる」と言ったことや、雅子さまの妹たちが彼女を「愛するお兄さん(Dear Brother)」と冗談で呼んでいたという微笑ましいエピソードも紹介。

 雅子さまが、大きな野球リーグに入るのを夢見ていたほどソフトボールが得意だったことにも言及している。

「彼女(雅子さま)は3塁を守る能力があり、ボールを校庭の外まで打ち飛ばし、(それを見た)少年たちは驚いてポカンと口をあけ、先生たちは眉をひそめた。彼女のヒーローはみな野球選手だった。彼女は大きな野球リーグに入ることを夢見ていた」

 しかし、雅子さまはベルモントに引っ越してからは、テニスやスキーをするために、その夢を断念したという。

スラッガー・マサコ

 とはいっても、雅子さまはベルモント高校でもソフトボール部に所属、背番号11番で2塁を守っていた。チームメイトたちと一緒に写っている写真もある。上記の卒業アルバムでは、雅子さまは課外活動の中にソフトボールを入れてはいないが、ソフトボールの腕前が素晴らしいことで有名だったという。

 同紙によると、前述のヒルズ氏の著書には、以下のように書かれている。

「ベルモント高校時代、学業記録以外で、彼女(雅子さま)に関して唯一公になった報道は、ソフトボールが上手いことから、彼女のことを“スラッガー(長打力のある強打者)・マサコ”と呼んでいる地元紙の記事だ」

 

 

一番スゴイ選手

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 あの奥さんと 永年連れ添ったんですから

  何がスゴイと言って

 これに勝るスゴイは 無いように思います  (^_^;)

 

24日放送されたテレビ朝日系「プロ野球総選挙~レジェンド選手編~」で、ソフトバンクの王貞治会長がトップに輝いた。

2位は長嶋茂雄、3位には松井秀喜がランクインした。

同番組は「ファン1万人がガチで投票!本当にスゴいプロ野球選手ベスト30」と銘打って、プロの世界から引退している選手から一番スゴイ選手を決めるアンケートを行い、

上位30選手をカウントダウン形式で発表した。

王はやはり868本塁打がファンの心をつかみ、長嶋については天覧試合での本塁打をはじめ、ファンを魅了した引退試合を紹介。

3位の松井については、ヤンキース時代にMVPを獲得した2009年のワールドシリーズでの本塁打を振り返った。

 

番組出演したプロ野球評論家の野村克也氏は、1位予想に長嶋茂雄氏の名を挙げ、

 「この人(長嶋)はね、選手としては大したことがないの。人気がすごいの。

 あの人気は何なんだろう。この人のうまいのはね、優しいゴロを難しく見せる」

と“ノムさん節”を披露していた。

今年1月8日放送の同局系「プロ野球総選挙」では現役選手も含まれ、【野手部門】では1位にイチロー、2位に王貞治、3位が長嶋茂雄、4位が大谷翔平、5位が松井秀喜がランクイン。

【投手部門】では、1位に大谷翔平、2位・野茂英雄、3位・稲尾和久、4位・金田正一、5位・田中将大だった。

なお、この日発表されたベスト30は以下の通り。カッコ内は主な所属球団。(敬称略)

 

1位・王貞治(巨人)
2位・長嶋茂雄(巨人)
3位・松井秀喜(巨人)
4位・沢村栄治(巨人)
5位・野茂英雄(近鉄)

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6位・金田正一(国鉄)
7位・野村克也(南海)
8位・落合博満(ロッテ)
9位・川上哲治(巨人)
10位・黒田博樹(広島)

11位・衣笠祥雄(広島)
12位・星野仙一(中日)
13位・バース(阪神)
14位・稲尾和久(西鉄)
15位・古田敦也(ヤクルト)

16位・江夏豊(阪神)
17位・金本知憲(阪神)
18位・ラミレス(ヤクルト)
19位・清原和博(西武)
20位・桑田真澄(巨人)

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21位・江川卓(巨人)
22位・前田智徳(広島)
23位・新庄剛志(阪神)
24位・原辰徳(巨人)
25位・山本昌(中日)

26位・掛布雅之(阪神)
27位・福本豊(阪急)
28位・津田恒実(広島)
29位・村田兆治(ロッテ)
30位・張本勲(東映)

 

ナベツネ生きていた!

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 死亡のウワサを聞いて バンザイした人たちも

  さぞや多かったのではないか? と推察されます

 憎まれっ子 世にはばかる

  長生きしたかったら 憎まれましょう!  (^_^;)

 

読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄(92)が10日、都内ホテルで行われた巨人・原辰徳監督の殿堂入りを祝うパーティーに出席。

11月中旬にネット上で“危篤説”や“死亡説”のうわさが広がっていたが、約5カ月ぶりに公の場に姿を見せた。

原監督は冒頭のあいさつで渡辺主筆にも感謝。

「本日は渡辺主筆も久々にお会いしまして、ご無沙汰しております」

と呼びかけると、会場の渡辺主筆も左手を挙げてうなずいた。渡辺主筆の話題を続け、

「いつも監督の時、いい成績であっても悪い成績であってもお話、報告しにいき、いろいろなお話を聞きました。野球の話は本当にご報告、10分くらい。あとは主筆の経験談や社会情勢、経済、政治であったり、私は楽しくて、自分が悩んでいることもたいしたことはない。勇気を持って来季もジャイアンツの指揮を執ろうと思ったものです」

と振り返った。

渡辺主筆は自宅で転倒し、頸椎(けいつい)の一部を骨折。8月中旬から入院生活を送っていた。

その後、11月になってインターネット上で渡辺主筆が亡くなったというウワサが広まり、球団の山口寿一オーナーが「非常にデマが流れて、うちの新聞社にも取材が殺到した。全くのデマなんだよね。亡くなったということもあり得ないし、危篤ですらなかった状態で、事実とは全く違う情報が流れた」と打ち消す事態となっていた。

この日、取材対応はなく、山口オーナーによると入院先の病院から駆けつけたという。

周囲には「死亡説が流されたから来たんだよ」とジョークを飛ばしていたという。

痩せた様子だったが「帰る時は自分で歩いて帰っていきました」と明かした。

渡辺主筆が公の場に姿を見せたのは、7月6日、東京ドームでの試合を観戦して以来、この時は苦しい戦いをしていた高橋由伸前監督を擁護し、「高橋はよく(選手を)観ている。一人、一人、(選手の現状や課題を)全部知っていて。名監督だよ。監督はよくやっている」と話していた。