歩くの大好き(^_^;)

Googleマップ散歩

35260900

 

35260901

catwalk

 

私は「歩くの大好き」で、国内外を問わず、あちこち出かけて行って歩き回るのがダイスキなんですが、今は中国コロナ生物兵器のせいで、旅に出るのが難しくなっています

それで代わりと言っては何ですが、「Googleマップ散歩」を楽しんでいます

ご存じの方も多いと思いますけど、Googleマップは世界中を網羅した膨大な地図データベースで、その機能の一つとして、マップ右下の人間マーク35260905を地図上にドラッグしてやると、その地点の360度写真を見ることが出来ます

さらに写真上の矢印をクリックすると、前後左右に移動することも可能で、バーチャル散歩を楽しめます

世界中の好きな場所を、いつでも好きな時間に、自宅に居ながら、無料で散歩できます

ときどき街の中を、Googleマークを付けたクルマ(↓)が、屋根の上に360度カメラを付けて走っているのを見ることがありますが、その写真が見れる訳です

 

p1

 

boueki_container_yard_terminal

ですから、Google車が自由に活動できる先進国の都会は大量の写真がアップされてますが、北朝鮮のような暗黒独裁国家とか、自然環境が厳しい砂漠や山奥の写真は少ないです

冒頭の写真は、横浜の南本牧ふ頭コンテナターミナルです

このままイラストと言ってもよいくらい美しい風景ですね

(^_^;)

 

35260902

 

35260903

 

35260904

▲航空写真にも簡単にチェンジ出来ます

 

銅閣寺もあるんだよ

35260838

hyousyou_sports_woman

 

  「京都の金銀銅めぐり

 とかやればいいのにと思いますけど

  残念ながら銅閣寺、通常は非公開

 だそうです

  (^_^;)

 

京都には金閣寺、銀閣寺のほかに銅閣寺(どうかくじ)があります。

銅閣寺の正式名称は、龍池山 大雲院(だいうんいん)。

1587(天正15)年に織田信長、信忠親子の菩提を弔うために、正親町(おおぎまち)天皇の勅命により建てられました。

1973(昭和48)年に、現在の祇園・東山界隈の位置に移転しました。

img_157c13b2b39932c1efb1110a14d179ba101983

この場所は、もともと大倉喜八郎(→)の別荘でした。

大倉喜八郎は一代で巨万の富を築き、大成建設や鹿鳴館、帝国劇場、帝国ホテルの創始者でもある人物です。

大倉喜八郎氏は、

「金閣も銀閣もあるんだから、銅閣も作る!」

と京都の名物にすることを考えて銅閣を建てました。

銅閣寺のモチーフは祇園祭の山鉾」(↓)です。

 

1231

祇園まつりを歩くへ

 

世界遺産 縄文遺跡

9

337af_1594_de8cfac102bba5be4e108df547359b82

 

上の写真は、三内丸山遺跡のシンボル、巨大な物見やぐら?

右は、ギッチリ詰めれば数百人が集会を開けそうな巨大建築で、30×10メートルくらいあります

下のニュースにも書いてありますが、遺跡というものは基本的に、地下に埋まっているので、地上からは簡単には見えません

上のような建物は、柱の跡(穴)などから、現代の考古学者が推察して地上に再現した実物大の模型です

job_hakkutsu

正しいのは、柱の位置と太さや深さくらいで、あとは考古学者の想像(空想)です

左の物見やぐらも、本当に4階建てだったのか、高さや形なども、真実は闇の中です

右の巨大建物(公民館?)も、屋根が茅葺きになっていたのか、こんな形だったのか、こんな大きな建物の中で何をしていたのか、正確なところは不明で、ほとんどは考古学者の想像です

でも巨大な遺跡(多くは県立や市立の遺跡公園と資料館になっている)を維持し、今後の発掘研究の費用を捻出するためには、歴史マニアのお客さんをいっぱい呼び込んで、入場料収入をいただく必要があります

そこで、なるべく話題性があってニュースネタになりそうな地上模型を作るのも、考古学者の腕の見せ所かもしれません

もちろん真っ赤なウソは、いけないんですけどね

とにかく世界遺産に登録されれば、またお客さんで、ドット混むことでしょう

 

* * * * * * * * * *

 

20年くらい前に、遺跡(石器)をねつ造する事件がありました

unnamed

余りにも見事に石器を発掘(発見)するので「神の手」と呼ばれていた考古学者が、実は事前に自分で石器を埋めて、それを後から掘り出して「発見」したと主張していたことが発覚した事件です

当時は大騒ぎになりました

これは縄文時代より前の旧石器時代(260~1万年前)のことなのですが、考古学者だって人の子ですから、「大発見をして脚光を浴びたい」という欲求はあって当然です

「神の手」(藤村新一、→)が発見した石器は、後から調べたらいろいろ矛盾だらけだったのですが、考古学会の主流は、その矛盾を追求せずに、彼の「発見」を鵜呑みにしていました

このねつ造(犯罪)をあばいたのが、考古学者ではなく新聞記者だったので、考古学会に対する世間の信用は地に堕ち、日本の旧石器時代の歴史は、全面的に書き換えを迫られました

camera_bouen_lens

一部の考古学者の間で「あるウワサ」が広がっているのを聞きつけた新聞記者が、夜中に遺跡の近くで張っていたら「神の手」がやってきて、石器を埋めていたのです

もちろんカメラマンも一緒でしたから、バッチリ証拠写真を撮って公表しました

私は、ある考古学者が書いた旧石器時代の本を、事件の前と後に出た2冊もっていますが、まったく書いてあることが変わっています

(^_^;)

 

119552211_796110221158039_95043239194853

 

ユネスコは7/27、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界文化遺産への登録を決めた。

ユネスコの諮問機関は5月、

「先史時代の農耕を伴わない定住社会と複雑な精神文化、

 定住社会の発展段階や環境変化への適応を示している」

と報告した。

yoshinogari-remains_01c

「縄文都市」の異名を持つ巨大集落、三内丸山遺跡(青森市)では、道路や大型建物を計画的に作ったことが分かるほか、石を環状に並べた大湯環状列石(秋田県)は葬送や祭祀(さいし)の文化をうかがわせる。

御所野遺跡(岩手県)では、焼けた木の実が見つかり、祭りに火が使われていた可能性が判明した。

地元自治体は観光への効果に期待するが、遺跡自体は定住跡などで地中にあるものも多い。

観光資源とするためには、わかりやすく価値を伝える工夫が必要になる。

 

35260828

 

三内丸山遺跡を歩くへ

 

能と東京タワー

IMG_20210228_125013

engeki_nou_butai

 

 2月の末、お天気が良かったので

  芝公園の周辺をお散歩していたら

 こんな案内板(↓)を見つけました

  もうすぐ桜が咲きますね

 (^_^;)

 

IMG_20210228_125005

 

▼建設中の東京タワー 1958年ころ

sora-1

詳細はここをクリック

 

散歩 荻生徂徠のお墓

CREATOR: gd-jpeg v1.0 (using IJG JPEG v62), quality = 82

nichiyoudaiku

 

昨日2/13は天気が良かったので、散歩しました

このところ寒かったので、家の中をいろいろ断熱DIYしていたのですが、そのとき直角測定の必要性を感じ、三田にあるケーヨーD2というDIYショップ(ホームセンター)で指矩(さしがね)を買いました

プロの大工さんは、たぶんもっと大きいのを使いますが、私はアマなので30センチの小さいやつ(↓、327円)

 

IMG_20210214_020858

 

ちなみに私はDIYツール(日曜大工道具)を買う場合

1)百均ダイソーなど 超安いけど、安いなりにショボい、品揃え少ない

2)通販アマゾンなど 何でもあって割と安いけど、実物を見れない、送料かかる場合あり

3)三田のケーヨーD2(↓) 少し高いけど、たいていのものは揃う

4)渋谷の東急ハンズ 高いけど何でも揃うし、店員さんが相談に乗ってくれる

の順番で探します

 

000

Ogyuh_Sorai

 

そのあと通りを歩いていたら、「史跡 荻生徂徠」という表示があったので入ってみました

元禄赤穂事件(忠臣蔵)では、義士を賛美して助命を願う世論に対して、徂徠は切腹論を説いた

そのお墓が、泉岳寺の近くにあるというのも歴史の皮肉

(^_^;)

詳細はここをクリック

 

三菱創業150周年

71434866

nigaoe_iwasaki_yotarou

 

 上の写真の一番右のおじさんの

  首がやたら長いのが気になります

 三菱銀行のエラい人らしいです

  (^_^;)

 

2020年は、三菱が創業してから150周年の節目の年に当たる。

創業者であり、初代の社長に就いたのは岩崎彌太郎その人である。

大転換期の日本の世で、岩崎彌太郎は、どのように起業し、発展させたのか。

index_top_pic_01

 * * * * * * *

岩崎彌太郎(いわさき・やたろう)→

1835~85年(天保5~明治18年)。

三菱の創業者であり、初代社長

幕末から明治維新へ。激動の時代を生き抜き、三菱の礎を築いた。

1835(天保5)年、土佐井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれる。

指がやたら長いのが気になる→

 (^_^;)

『岩崎彌太郎傳』によると、幼少期の彌太郎は、

《気性は激しく、負けることが嫌いである。同じ年頃の子どもを集めて大将を気取り、敏捷で頭の回転が早い》(現代語訳)

とある。

今風に言えば“やんちゃ”だったのである。

一方で、学問に興味を持つのも早かった。

「彌太郎は15歳で、伯母の嫁ぎ先である儒学者の岡本寧浦(おかもとねいほ)の塾に入り、懸命に学びます」

と解説するのは、「公益財団法人 三菱経済研究所」の常務理事・村橋俊樹さんである。

54(安政元)年、彌太郎19歳のときにチャンスが巡ってくる。

江戸詰めに決まった儒学者の奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として、随行が認められたのである。

「その江戸で、岡本寧浦と親交のあった安積艮斎(あさかごんさい)の見山(けんざん)塾に入り、一層、勉学に打ち込みます。ところが、折あしく郷里で父親の彌次郎がトラブルに見舞われ、重傷を負ったという知らせが届きます。彌太郎はやむなく帰郷。江戸遊学は1年足らずで終わりました」

この時、彌太郎は江戸から土佐までの約800kmを16日間で走破している。

当時、土佐藩の早馬飛脚でも14日間かかるというから、彌太郎は並外れた健脚の持ち主でもあった。

帰郷後、彌太郎は父親のトラブルの遠因で投獄される。

約7カ月の入獄の末、出獄するが、傷心の日々。

そんな中、土佐藩開明派の指導者・吉田東洋の少林塾に入り、後藤象二郎(しょうじろう)などの知遇を得る。

詳細はここをクリック

 

平和島競艇を歩く

041

download

 

競艇マニアの蛭子さんに刺激されて、12年前に訪れた平和島競艇場を、再び散歩しました

この12年間に、「競艇」の正式名称は「ボートレース」に変わりましたが、会場の雰囲気は余り変わってません

競馬場のような熱気もなく、のんびりした、おじいちゃんたちの憩いの場です

(^_^;)

今回の写真へ 12年前の写真へ