なつかしの名曲
第2回 昭和音曲同好会
ひばり邸の「三婆」(さんばば)
▲故美空ひばりさんの家政婦の3人
辻村あさ子、斎藤千恵子、関口範子
いい話だなぁ~
ひばりさん お元気なら今82歳
戦後の歌謡界が生んだ 二番目の天才
一番はもちろん 藤圭子 (T_T)
日本の戦後歌謡史に大きな足跡を残した美空ひばり。
6月24日は30回目の命日に当たる。
生前のまま残る東京・目黒区青葉台の自宅(現在は、美空ひばり記念館)には、住み込みで働いていた「おのり」「ちーこ」「あさこ」が今も住んでいる。
ひばり邸の「三婆」(さんばば)とも「妖精」とも呼ばれる3人。
ひばりの死後30年たっても、あのころのまま「『お嬢さん』が生きていた時と同じように」と暮らし続けている。
3人の朝は午前6時、仏前で火打ち石を打つことから始まる。
公私にわたってひばりを支えた母、喜美枝が、舞台へ向かう娘のために祈りを込めた習わしだった。
母の没後は、ひばりが仏前で打つようになって、その習慣を3人が引き継いだ。
耳のいいひばりは、台所のテーブルを動かす、わずかな音でも目を覚ました。
だから静かに、お嬢さんを起こさないように朝食の支度をする。
「今朝の食事はいかがでしたか」。
食事を担当してきた「あさこ」が仏前で尋ねる。
返事はない。
だが「おいしかったよ」という言葉を夢想して、あさこはひとり、うれしくなる。
日中は、自宅に併設する記念館をファンが訪ねてくる。
身近で見てきたひばりの素顔を今に伝える「語り部」としての役割が、3人の仕事だ。
「お客さんに『ひばりさんがここにいて、迎えてくれたみたいだわ』
なんて言われると、本当にうれしくて」
現場で付き人を務めた「おのり」の笑みがこぼれる。
ひばりの主演映画やコンサートの録画を3人で見る。
映像に合わせて誰ともなく歌い出す。
かわいらしい衣装や小物を見れば「お嬢さん、こういうの好きよね」などと語り合う。
「飽きる? いいえ、お嬢さんの話題は次から次に出てきますから」。
おのりとともに現場の付き人だった「ちーこ」が破顔する。
現在のひばり邸を新築する際、3人に個室を、という話もあった。
だが、固辞してそのまま、豪邸の隅っこ、10畳の和室で川の字になって寝る。
「お嬢さんが夢に出てくることは、ほとんどありません。夢でもいいからお話ししたいのに。なぜでしょう」と3人は口をそろえる。
長年、公私にわたって芸能活動を支えた3人を、ひばりは生前、とても大切にした。
ひばりの死後、誰も「辞める」と言わなかった。
「出て行け」とも言われなかった。
付き人として、ひばりと暮らしたあのころのまま、昨日と同じ今日を生きていたら、いつのまにか30年がたった。
これからのことなど考えたこともない。
明日も今日のように生きるつもりだという。
3人の夢、生きがいは、昔も今も「お嬢さんのそばにいること」。
おのりは言う。
「たった一つの願いがかなった人生です。私たちは本当に幸せです」
(以上、敬称略)
「おのり」こと関口範子さんは1940年(昭15)、「ちーこ」こと斎藤千恵子さんは37年、ともに東京都で生まれた。
「あさこ」こと辻村あさ子さんは50年生まれで静岡県出身。
いずれも熱烈なひばりファンだったが、ひばりの母、喜美枝さんに声をかけられて、住み込みで働くようになった。
おのりは商社勤務を経て61年、ちーこは66年から、ともに付き人に。
あさこは農協勤務を経て73年から料理係を務めた。
それぞれのあだ名は、ひばりがつけた。
現在は、東京都目黒区の美空ひばり記念館(旧ひばり邸)で案内係としても働いている。
昭和音曲同好会 設立総会
4月15日(月)池袋にて
昭和音曲同好会の設立総会が恙なく挙行されました
▼昭和音曲同好会の創立を厳かに宣言する菅義偉・内閣官房長官
新宿高校と日野高校
1982年4月5日、坂本龍一&忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」がオリコンのシングルチャート1位を獲得した。
1982年といえば、私が大学を卒業した年である。
在学中にアルバイトをしていたCBSソニー(当時)のTさんから「就職するのならば新しくできる会社がいい」と薦められ、できたばかりのロンドンレコードを受け、何度かの面接の後、なんとか合格。
4月から入社する予定だった。
社会人になるそれまで、いわゆる卒業旅行として、以前お世話になった、LAで「ハリウッド・ミュージック・ストア」を営んでいるMさんのところへ3か月ほど行く予定を立てていた。
そんな矢先、「邦楽第1弾を2月に出すことになったので、1月からアルバイトとして来てほしい」とロンドンレコードから連絡があった。
渋々、ソ連大使館の脇にあった就職先の会社へ行くと、その邦楽第1弾はYMOの坂本龍一さんとRCサクセションの忌野清志郎さんのコラボレーションだという。
「へえ、YMOとRCとはすごいじゃん」というのが、大学卒業前のアルバイトとしての実感だった。
1月上旬に新入社員となる我々(と言っても3人だが)が集められた時点で、すでにレコーディングは終わっており、ミックスの作業をしているという新富町の音響ハウスに連れて行かれた。
そこにはちょうど夕食のお弁当を食べている牧村憲一さんがいた。
挨拶をすると、「いやあ、今回僕は仲人役ですから」と言って自己紹介をされた。
牧村さんは資生堂のCM音楽のディレクターであり、またレコード原盤のディレクターという立場であった。
そこで初めて「い・け・な・いルージュマジック」とB面の「明・る・い・よ」を聴いた。
聴き終わると、スタジオにいたみんなの顔が“パアッ”と明るくなったのを憶えている。
さて、最初の私の仕事は宣伝だった。
邦楽第1弾であるこの「い・け・な・いルージュマジック」を各媒体に売り込むことである。
そして、ロンドンレコードからの宣伝請負人として吉見佑子さんが小さいけれども大きな声でさっそうと現れた。吉見さんに連れられて、出版社を中心にいろいろなところを回ったものだ。
当時、写真週刊誌の先行雑誌であったFOCUSが売れ行きを伸ばしていた。
何とかFOCUSの記事を取れないものかと宣伝会議でも議題に上がり、集英社なども担当していた私がFOCUSへ出向き、売り込むこととなった。
アポイントを取り、会ったのは記事を担当するフリーの記者であった。
今となっては誰だったのか知る由もないのだが。
使う写真は十文字美信さんが撮った宣伝用のポスターを使うことで合意した。
当然、記者としては内容を面白くしようとする。
曲も認知もされ、プロモーションビデオもかなり流れて話題になっていたので、そのPVのことをかなり取材された。
当時、「い・け・な・いプロジェクト」では撮影時のエピソードとして「撮影に使ったお金はすべて本物で、なぜか2万円がなくなっていた」というストーリーを作り、我々はそれを使っていた(2万円が紛失したのは本当の話で、その2万円は牧村さんが個人的に立て替えたそうだ)。
取材する記者に「撮影後、2万円が紛失していたのだけれど、それはもしかしたら清志郎の仕業かもしれないですね。いや、真相はわからないのですよ」と、なんとなくその場を盛り上げるプロモーショントークの延長のように言ってしまった。
FOCUSでの記事は掲載され、ヒットを後押しするための有効な宣伝となり、私はミッションを達成。
当時の役員から「これが欲しかったんだよ! ごちそうするぞ」と言っていただき、吉見さんからも「犬も歩けば棒に当たるのね」とおほめの言葉をいただいた。
しかし、後日、忌野清志郎さんの所属事務所の社長である奥田義行さんが会社にそのFOCUSを持ってやって来た。
ずいぶんとご立腹で、記事の中の「2万円は忌野清志郎が持って行ったことが判明した。
坂本龍一は新宿高校で、忌野清志郎は日野高校。その育ちの違い」という、正確な文面は覚えていないが、そこの部分に赤線を引いて何やら宣伝部長に言っている。
そこから聞こえたのは「これは杉岡がやったことですから」。
「え?! そりゃないでしょう!」初めて味わう大人の社会の仕組み。
だいたい、新宿高校と日野高校で何の育ちの違いがあるのか訳が分からない。
当時は原稿の事前確認なんてことはまったくできなかった。
まあ、そんなことも今となっては40年ほど前の楽しい思い出だ。
後年、間違った記事を見受けるが、撮影で使用されたお金は一部を除きそのほとんどはダミーのお札。
もちろん、清志郎が2万円を持って帰ったという事実もない。すべては私の若さゆえのことである。
【著者】杉岡中(すぎおか・あたる)
「大人のMusic Calendar」編集長。
ロンドンレコードでRCサクセション、坂本龍一を担当。
MIDIレコードを経て角川書店へ入社。
「月刊カドカワ」、「The寂聴」「月刊短歌」などの編集長を務める。
現在は「大人のMusic Calendar」の傍ら、ニッポン放送のサイト「1242.com」で編集を担当。
また瀬戸内寂聴等の書籍プロデュースを行っている。
訃報 ショーケン
先日の内田裕也さんに続き
アウトローの巨星が消えてゆく (T_T)
俳優・萩原健一=本名・萩原敬三=さんが26日午前10時30分、都内の病院で亡くなっていたことが28日、分かった。68歳。所属事務所が書面で発表した。
病名はGIST(消化管間質腫瘍)。2011年からひそかに闘病していたが、本人の強い要望で病名の公表を控えていた。妻でモデルのリカ(本名・理加)さんが最期を看取ったという。
葬儀は家族のみで営まれ、都内の斎場で27日に荼毘(だび)に付された。
萩原さんは1950年7月26日生まれ、埼玉県出身。
65年に結成したばかりのザ・テンプターズにボーカリストとして加わる。
テンプターズはグループサウンズの先輩であるザ・スパイダースと同じスパイダクションに所属し、67年10月、シングル「忘れ得ぬ君」でデビュー。
68年には「神様お願い」「エメラルドの伝説」が大ヒットし、萩原さんは「ショーケン」の愛称で、ザ・タイガースの「ジュリー」こと沢田研二と並ぶアイドル的な人気を博した。
グループサウンズのブームは短く、テンプターズは70年に解散。
萩原さんは71年にテンプターズの大口広司、タイガースの沢田、岸部一徳、スパイダースの大野克夫、井上尭之とニューロックのスーパーグループ「PYG」を結成。
「自由に歩いて愛して」などの名曲を残すが、PYGは自然消滅する。
75年、ファーストソロアルバム「惚れた」を発表。
ソロでは「愚か者よ」、映画「竜二」の主題歌「ララバイ」やBOROのカバー「大阪で生まれた女」などの名曲、柳ジョージ&レイニーウッドがバックバンドの「熱狂・雷舞」や、井上、ミッキー吉野ら豪華メンバーでの「アンドレ・マルロー・ライブ」など、ライブアルバムの名盤を残した。
2017年5月には東京と大阪のビルボードライブで50周年ライブを行っている。
俳優としては、72年に出演した「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事役、同年の映画「約束」で鮮烈な印象を残し、ドラマ「傷だらけの天使」、「前略おふくろ様」、「祭りばやしが聞こえる」や映画「股旅」、「青春の蹉跌」などで、政治運動が挫折した70年代の若者のアイコンになった。
映画では「八つ墓村」、「影武者」などの大ヒット作に出演し、83、86年には日本アカデミー優秀主演男優賞を受賞。
その他の主な出演作に「誘拐報道」、「もどり川」、「極道の妻たち 三代目姐」、「いつかギラギラする日」、「居酒屋ゆうれい」がある。
ドラマでは「豆腐屋直次郎の裏の顔」、「課長サンの厄年」、「外科医柊又三郎」や大河ドラマ「太平記」、「元禄繚乱」、「利家とまつ」などに出演。
近年もNHKのドラマ「鴨川食堂」(16年)、「不惑のスクラム」(18年)で大きな存在感を示していた。
著書に「ショーケン」、「不良のススメ」、「日本映画『監督・俳優』論」(共著)がある。
カーペンターズ
なつかしいなぁ (^_^;)
世界でアルバム、シングル盤のレコード売り上げ1億枚を超える伝説の兄妹デュオ、カーペンターズ。
50周年の今年、ロンドンで管弦楽団と共演した新アルバム『カーペンターズ・ウイズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団』をリリース。
それを記念して作曲・楽器演奏・プロデュースを担当する兄のリチャード・カーペンター(72)が9年ぶりに来日し13日には東京・銀座の山野楽器で開催されたイベントに登壇した。
カーペンターズは、かれんで、愛くるしいルックス、ポップな歌声の妹、カレンが83年に惜しくも他界。
しかし、その人気は今も絶大だ。
イベントには、多くのファンが詰めかけ、ピアノで「イエスタデイ・ワンス・モア」や「青春の輝き」などのヒット曲を演奏する“お兄ちゃん”に熱い声援を送った。
「長い間ずっと応援し続けてくださる日本の皆さんに心から感謝しています。天国の妹カレンも同じ思いだと思います」とリチャードがあいさつすると涙ぐむ人も。
年末の第九もいいけれど、こちらの大工(カーペンター)もお忘れなく。
まさかのスーツ姿
舞台ではそれなりに「かっこつけ」てるんでしょうけど、普段は浮浪者と間違えられそうなジュリー。でもこの日は、カーネルサンダースで決めてました。
奥さんが田中裕子なんですね。「もっと大人になりなさい!」なんて怒られたのかな? (^_^;)
横浜市内の自宅に集結した報道陣の前に姿を現した沢田研二(70)は、まさかのスーツ姿だった。
レコーディングに出かけるにもヨレヨレのTシャツ姿ということがほとんどの沢田だが、よほどの覚悟を決めていたのだろう。
「近所に公園があるので……」
報道陣を小さな公園へいざない、始めたのは30分近くにも及ぶ“謝罪会見”。
「いちばんの原因は、僕自身にさいたまスーパーアリーナでライブをやる実力がなかったことだと思います。ホントに取り返しのつかない結果になったことに、心よりお詫び申し上げます」
そう言って、深々と頭を下げたのだ。
10月17日、さいたまスーパーアリーナで勃発した“ドタキャン騒動”。
会場は可動式で3万人以上の観客を収容することができる。だがその日集まったのは7千人にすぎなかった。
「僕は9千人と聞いていたのに、(実際は)7千人。(客席も)空いているところが多すぎた」
それが土下座して詫びるスタッフを尻目に会場から無理やり引き上げた理由だった。
結局翌日の18日には謝罪会見を行ったわけだが、昔から沢田を知るレコード会社関係者は言う。
「ジュリーのプライドの高さは、この業界では誰もが知っています。ガラガラな客席にブチ切れて帰ってしまうなんて、むしろ彼らしいという気もします。それよりもマスコミ嫌いの彼が、カメラの前で頭を下げるなんて、本当に驚きました」
実は会見終了後、本誌は沢田にいくつか質問を投げかけている。
――今回の件について、奥さんの田中裕子さん(63)とはお話ししたのでしょうか?
「いや、まぁ事情は全部話してあります」
――どんなことをおっしゃっていましたか?
「『(どうするかは)お父ちゃんが考えることやからね』、と。いまも支えてくれている? ……そうですね」
苦い笑いを浮かべていた沢田。この苦笑に隠された意味について、沢田夫妻の知人は言う。
「日常生活での細かい夫婦喧嘩はあっても、お互いの仕事スタイルには口を出さないのが沢田夫妻の流儀。沢田さんが反原発ソングを歌っても、政権批判を繰り広げようとも、田中さんはずっと見守ってきました。でも今回は7千人のファンを置き去りにしたわけですからね。田中さんも今回のドタキャンについては怒っていたそうで、自分の音楽活動については唯我独尊の沢田さんもトラブルのいきさつについて奥さんに説明せざるをえなかったようです。夫妻は結婚28年目ですが、沢田さんの仕事について田中さんが叱るのは恐らく初めてのことだと思います」
そんな愛妻の怒りに、さすがの沢田も“カッコつけさせてくれ”と言っている場合ではなくなったようだ。
勝手にしやがれ!
歳を取って容色が衰えるのは仕方ないことですが、これはちょっと変わり過ぎですね。
右のオッサンがコンサートで、かつての「ジュリーの名曲」を歌う姿は、イメージしづらいです。
「契約上の問題」でドタキャンというのもヒド過ぎる。
70歳なんだから、せめて「健康上の理由」としておけば、ファンも納得するのに。
事務所との関係も、うまくいってないのかなぁ (;´Д`)
10月17日にさいたまスーパーアリーナで予定されていた歌手沢田研二(70)のコンサートが急きょ中止された。
午後3時半の開場時間になっても入り口は閉じたままで、突如、「契約上の問題が発生したため、中止とさせていただきます」との手書きの紙が張り出された。
同会場は約1万2000人(アリーナ仕様)収容の大ホール。
突然の中止で会場周辺は混乱した。
会場のスタッフは拡声器で
「重大な契約上の問題が発覚したため、主催者、所属事務所等々と協議を重ねた結果、中止という判断になりました」
などと説明した。
SNSでは
「勝手にしやがれ!」
「倒れたんじゃなく、契約上の理由って?」
「プロじゃない!」
などの怒りの声がアップされた。
さいたまスーパーアリーナなどによると、開演前に会場で中止の案内があり、入場料の払い戻し方法などは後日発表の予定。
沢田の所属事務所は「詳しく分かる者がおらず、申し訳ありません」と話した。
沢田は7月6日からコンサートツアー「70YEARS LIVE OLD GUYS ROCK」を開催中。
来年1月21日の日本武道館公演まで全66公演が予定されている。
80年代シティポップ
2010年代前半頃から日本で「シティポップ」が注目を浴びる様になりましたが、海外でも少し前から話題になっている様です。
テレビ番組『Youは何しに日本ヘ?』(テレビ東京系)でも、日本で80年代シティポップのレコードを探す外国人旅行客が紹介されていました。
竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」は公開8カ月で、なんと739万回再生されています。
この楽曲は1984年に発表されたアルバム『VARIETY』に収録されたもので、プロデュースは山下達郎さんとなっています。
驚くのは、この動画に付いているコメントです。
「この楽曲を聴いて80、90年代の日本に行きたかったなと思います」
「曲は最高だし、彼女は可愛いすぎるし、泣いてしまう。人生で1番素敵な8分間だ」
「神よ、恋に落ちてしまった」
「うっかりこれをクリックして、超幸せ」
など、世界中から賛辞が寄せられています。
80年代の日本のフュージョンやAORのリズムはもちろん素晴らしいのですが、録音のけだるい質感がとても気持ち良いですね。
上記のコメントにもありますが、私も80年代の日本に行ってみたくなりました。
そして、『Youは何しに日本ヘ?』で印象深かったのは、レコードを買いに来た外国人がお目当てのレコードを見つけた時のシーンです。
ジャケットを見つめながら、それを試聴して聴き終わると彼はうっとりとした顔で「もう1回聴かせて」と言ったのでした。
そういう感動はもう失われつつあるのではないでしょうか。
それは時代によって失われた自らの音楽体験を振り返る瞬間でした。
初めてCDを手にした時の気持ち、こういう感動はいつまでも忘れたくないもの。
でも苦労して音楽と出会って、それを大事に聴く体験が少なくなっているのは事実ですね。
それは少し寂しくもあります。
ただ前述の「プラスティック・ラブ」に寄せられたコメントは、YouTubeというテクノロジーがあって成立した出来事です。
サブスクリプションなども新しい音楽に簡単にアクセスできる素晴らしい文明の利器です。
とどのつまり「人生で一番素敵な時間だ」と言える経験ができるのであれば、アナログやデジタルというのは実はどちらでもよい事なのかもしれません。
日本がバブル景気に沸いていたころですね
良く言えば「日本が輝いていたころ」
もう一度そうならないかな? (^_^;)