今年のNHK大河ドラマ
「花燃ゆ」が始まりました (^_^;)
今年のNHK大河ドラマ
「花燃ゆ」が始まりました (^_^;)
高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 – 2002年)は日本のヤクザ、右翼活動家。
日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。
明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は、農業と酒造業を営む旧家だった。
大正12年(1923年)、中野の桃園尋常小学校を卒業後、
東京府立第六中学校(現:都立新宿高校)に進学した。
同年9月1日昼、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていた。同日午前11時58分44秒、関東地震が発生し、関東大震災に発展した。東京府立第六中学校は半年間休校となった。休校の間に、酒、煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。
大正14年(1925年)、喧嘩で相手を刺傷した。
東京府立第六中学校から放校処分を受けた。実家を飛び出し、愚連隊に身を投じた。
その後、警察から追われるようになり、新宿を離れて、不良仲間だった高円寺の藤井の家に転がり込んだ。
幸平一家の中野・新井の貸元・大草宇一の若衆が藤井の家に出入りしていた。
その大草宇一の若衆の紹介で、大草宇一と知り合った。
昭和4年(1929年)、背中に「野ざらし」(長襦袢の袖口から両手を出した足のない幽霊と「南無阿弥陀仏」の文字が入った絵)の図柄の刺青を入れ始めた。
厳密に言うと 卒業していないので(放校) OBではないのかな
波瀾万丈の人生で 90歳まで生きた シブトさはすごい (^_^;)
座席数1000を超える大映画館「新宿ミラノ座」(東京都新宿区)が31日で閉館するのを前に、「新宿ミラノ座より愛をこめて~LAST SHOW~」を開催している。
新旧の洋画、邦画を織り交ぜ、華やかに最後を彩る。
27日から30日までは、各日4本立てで上映。
27日「荒野の 七人」「銀河鉄道999」「さよなら銀河鉄道999~アンドロメダ終着駅」「アラビアのロレンス 完全版」、28日「インファナル・アフェア」シリーズ3 作、「ディパーテッド」、29日「ハンニバル」「男たちの挽歌」「エクソシスト ディレクターズ・カット版」「スワロウテイル」、30日「マトリックス」 「青いパパイヤの香り」「新世紀エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に」「タワーリング・インフェルノ」と、大ヒット作が並ぶ。
最終31日は 「荒野の七人」と「E.T. 20周年記念特別版」の2本立て。
当日券500円均一(1作品鑑賞料金、各回入れ替え制)。
詳細はホームページ(http://www.tokyucinemas.net/)へ。
コマ劇場も新しいビルになったし
歌舞伎町も変わりますね (^_^;)
「たけくらべ」などの作品で知られる明治時代の女性作家、樋口一葉(1872~96年)が通ったとされ、国の登録有形文化財にもなっている文京区本郷の「旧伊勢屋質店」が、解体の危機に直面している。
土地と建物の所有者が「個人で維持するのはもう限界」と売却の意向を示したためで、愛着を持つ地元の有志らが17日夜、区内で保存への道を探る集会を開き、議論を交わした。
文京区などによると、旧伊勢屋質店は江戸時代末期の1860年創業。2階建ての土蔵と木造平屋の座敷棟、木造2階建ての見世(みせ)の3棟(総延べ床面積174・3平方メートル)からなり、関東大震災や東京大空襲にも耐えた。
本郷菊坂に住んでいた一葉は、現在の台東区に転居した後も生活に困ると伊勢屋質店に通い、生計を立てていたとされる。一葉の日記にも衣類を質に出したとする記述があり、24歳で亡くなった時には伊勢屋から香典が届けられたという。
土地と建物は経営者の家族が代々管理し、1982年に廃業した後も、親族が維持・保管してきた。テレビや映画の撮影にもたびたび使われ、2003年には国の登録有形文化財に登録された。02年からは、市民団体「文京の文化環境を活(い)かす会」などが、所有者の親族の協力を得て、一葉の命日にあたる毎年11月23日に一般公開し、13年間で約9000人が訪れていた。
しかし、親族は今年6月、固定資産税などの負担を理由に、「これ以上の維持は困難」と区に土地の借り上げを要請。区は当初、近隣の大学に打診し、平日は授業などに利用し、休日には一般開放できるよう関係者で協議を進めたが、まとまらず、親族は最近になって更地にして売却する意向を示したという。
文化庁によると、国の登録有形文化財を解体するには、国への届け出が必要だが、許可などは不要という。
区の担当者は「区で買い上げるには議会を通さねばならず、簡単には決められない。貴重な文化財なので、所有者のご意向が変わることを祈るだけだ」と話す。
17日夜に開かれた集会には、区内外から約60人が参加。建築家らが建物の歴史的価値を説明し、参加者からは「区に買い上げを依頼する請願書を提出すべきだ」「インターネットで呼びかけて基金を作るべきだ」などの意見が出された。
活かす会は「一葉のファンは全国にいる。どういう形であれ、今の場所で保存できる方法を考えていきたい」としている。
これは保存して欲しいです (^_^;)
新宿高校出身の不破哲三・共産党前議長(84)が10日夜、9年ぶりに街頭演説に立った。
2006年に議長を退任してからも党の「理論的支柱」という存在感は大きく、グレーのコート姿で街宣車に上がり、マイクを握ると支持者から「おおー」というどよめきが起こった。
舞台は、祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行ルートでもある京都市・四条河原町交差点。
不破氏は「日本のやった侵略戦争を認めない。ヒトラーを擁護するネオナチと同じ勢力に今の自民党は乗っ取られている」と自民党を批判。返す刀で、「我が党以外の野党の現状は惨たんたるものだ」とばっさり切り捨てた。
弁舌の鋭さは健在で、集まった数百人の聴衆からは何度も大きな歓声が上がった。11日には沖縄でもマイクを握る。
不破氏は、「京都の激戦ぶりを聞いて、矢も盾もたまらず駆けつけた。京都は日本を動かす大きなうねりのたびに先頭に立ってきた」と気勢を上げた。
京都府は、1996年衆院選の京都3区で共産党が最後の小選挙区議席を獲得したところだ。ここまで好調が伝えられる今回の選挙戦で、18年ぶりの小選挙区勝利を目指す。
民主党が政権交代の旗を降ろし、第3極も前回衆院選のような勢いがなく、「絶好の機会」(党関係者)というわけだ。
しかし、小選挙区比例代表並立制の導入以降、共産党は自民、民主の2大政党の間で埋没し、低落傾向にある。「共産党の勢いは一過性で他の野党が批判の受け皿にならないための一時的な現象」(民主党ベテラン)との見方は強い。
元気だねぇ~ (^_^;)
野地さんの本が出ています
2014年11月10日、悪性リンパ腫のため83年の生涯を閉じた俳優・高倉健さんに「追悼」の声が続々寄せられている。
高倉さん最後の出演作となった2012年秋公開の「あなたへ」に出演した俳優・浅野忠信さん(40)は画像共有サイト「インスタグラム」で「高倉健さんの ご冥福をお祈りします 本当に悲しいです ありがとうございました」とコメントした。
浅野さんは自身出演のハリウッド映画「バトルシップ」が公開された12年の会見で「高倉さんがいなければ、アメリカでも頑張ろうという気にならなかった」と発言するなど、多大な影響を受けていることを明かしていた。
「高倉さんの若い頃に似ている」としばしば話題になる自分の容貌を意識したのか、若い高倉さんの白黒写真をメッセージに添えた。
タレントの志村けんさん(64)は「悲しい 寂しい 辛い」と題したブログ記事を更新、高倉さんとの初めての出会いを振り返った。
「どんな言葉でも物足りない温かい大きな手で握手して よろしくお願いします。生涯1番緊張して始めてお会いした時 楽屋に 何なりとお申し付け下さい 乙松(編注:「乙松」は1999年公開の映画「鉄道員(ぽっぽや)」で高倉さんが演じた役名) 綺麗な花がありました」と一つ一つ思い返すように綴った。
そして「なんと優しい心使い 有難うございました 心からご冥福を御祈り申し上げます」と追悼した。
続けざまにブログを更新し、「恵存 志村けん」と書かれた高倉さんからのサイン色紙を公開した。
タレントの中川翔子さん(29)は1994年に32歳の若さで亡くなった父、中川勝彦さんに言及した。
「父、中川勝彦は映画海峡の新人オーディションで選ばれて出演していました」と明かし、「日本の宝であるお方 ご冥福をお祈りいたします」「映画はずっと残る生きた証 本当にありがたいです」と語った。
高倉さんの出演した映画の具体名を挙げる人も。
音楽グループ「FUNKY MONKEY BABYS」の元メンバーで現在はソロで活動中のファンキー加藤さん(35)はツイッターで「『幸福の黄色いハンカチ』。大好きな作品で、何度も繰り返し 観てました。ご冥福をお祈りいたします」とコメント。
タレントのダンカンさんもブログで「網走番外地久しぶりに見て~!と、思っていた矢先の訃報…」と驚き、「昭和よ…ありがとう」とつぶやいた。
「サザンオールスターズ」のリーダー兼ボーカルとして活躍、「TSUNAMI」など数々のヒット曲を世に送り出した、シンガー・ソングライターの桑田佳祐さん(58)は紫綬褒章を受け、コメントを発表した。
私のような者が本当にいただいてしまってよいものかと、非常に驚いております。
デビュー以来ずっと目立ちたい一心で、下劣極まりない音楽をやり続けてきた 私が、このような高貴な章をいただけるとするならば、そんな音楽を喜んでくださったたくさんのファンの方々と、大衆芸能を導いて来られたあまたの偉大なる 先達たちのおかげであると、心から感謝いたしております。
これからも、みなさまに喜んでいただける音楽を創り続けていけるよう、日々励んでいく所存です。
日本が、そして世界が平和でありますように。
ちょっとビックリ (^_^;)
ディープな世界です (^_^;)
CGで作られたゴジラがアメリカで暴れ回るハリウッド映画『GODZILLA ゴジラ』(公開中)。
その60年前に公開された、第1作の映画『ゴジラ』では、CGではなくゴム製の着ぐるみが使われていた。
中に入って演じていた「スー ツアクター」(着ぐるみに入って演技する俳優)が中島春雄さん(85才)だ。
東宝所属の俳優だった中島さんは1954年、上司から突然、一冊の台本を手渡された。
「表紙に『G作品』と書いてあって“ゴジラという怪物の役をやれ”と言われました。何を演じるのかまったくわからなかったけど、仕事を選り好みしない信条なので、よろしくお願いしますと引き受けました」
撮影前、役作りのために東京・上野動物園に通った。
「そのころ、インドから贈られたインディラというゾウがいたんです。インディラは足の裏全体を地面に押しつけながら、ゆっくりと進む。
ゴジラの歩き方はゾウを参考にしました。他にもクマの腕の使い方、ハゲタカの首の動かし方などを観察するため1週間ほど通い詰めました」
そして、その年の夏に東宝の撮影所で3か月間の撮影が始まった。着ぐるみの重さは約100kgもあった。
「私が片方ずつ足を入れた後、スタッフが後ろのジッパーを閉めて準備完了です。ゴジラの足には下駄が入っていて、それを持ち上げて動かすんですが、重いのなんのって。海軍で鍛えた体がなかったら動かせなかった(笑い)」
きつい撮影の連続だったが、今でも中島さんが思い出すことは暑さだ。当時はエアコンはもちろん扇風機も珍しかった時代、中の温度は60℃に達したという。
「1カット7秒の撮影が終わると休憩になるんですが、シャツをしぼると汗が滝のようにジャーって出ました。ゴジラの中は自分の汗のにおいで充満していました。くさかったです」
ギャラは1作20万円。
サラリーマンの給料が月3万円の時代に破格の値段だった。
妬みや軽蔑した目で見る俳優仲間は少なくなかった。
「当時はスーツアクターなんて格好いい言葉はなかった。“中に入って演じるなんて俳優の仕事なんかじゃない”と陰口を叩かれることがありました。でもね、ゴジラをゴジラらしく演じられる俳優は私しかいない。そう誇りを持ってやり続けました」
中島さんは、1972年『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』までの12作品でゴジラを演じ続けた。
CG全盛時代になった現在でも中島さんのゴジラを賞賛する声は多い。
※女性セブン2014年10月9日号