「新聞のテレビ番組表を見て泣いてしまった」。
新聞各紙の2018年3月11日付テレビ欄で「縦読み」すると、被災地へのメッセージになっていると反響を呼んでいる。
東日本大震災からちょうど7年を迎え、テレビ各局では、情報番組などで追悼特集を組んでいる。
「新聞のテレビ番組表を見て泣いてしまった」。
新聞各紙の2018年3月11日付テレビ欄で「縦読み」すると、被災地へのメッセージになっていると反響を呼んでいる。
東日本大震災からちょうど7年を迎え、テレビ各局では、情報番組などで追悼特集を組んでいる。
明るく奔放なキャラクターで「女子アナブーム」の火付け役となった元フジテレビアナウンサーの有賀さつき(ありが・さつき)さんが死去していたことが4日、分かった。52歳。東京都出身。
取材では1月末に他界。詳しい死因などは明らかになっていないが、昨年から闘病していたという。
アイドルアナの先駆者らしく病気を公表せず、最後まで笑顔でテレビに出続けた。
あまりに早い旅立ちだった。有賀さんは4日未明の日本テレビの通販番組「日テレポシュレ」にも昨年収録済みの映像で出演していただけに、衝撃は大きい。
50代でも 40代でも 亡くなる方は亡くなる
60代の自分が生きてるのが 不思議な感じがします (T_T)
「日劇」の愛称で80年以上親しまれてきた東京都千代田区有楽町の映画館「TOHOシネマズ 日劇」が2月4日に閉館する。
東芝が経営合理化を理由に3月末で降板する国民的アニメ「サザエさん」の新スポンサーに、インターネット通販大手アマゾンジャパンやベビー用品専門店の西松屋チェーン、大和ハウス工業が決まったことが30日、分かった。
日曜日の夜に家族がそろって楽しめる人気番組で、いずれも提供企業に加わることでイメージアップなどの宣伝効果を期待している。
4月からの改編に伴う入札が行われ、10社近くの参加企業から選定された。
東芝は、エアコンやカラーテレビといった家電の普及が進んだ高度経済成長期末期の1969年に、サザエさんの提供を始めた。
事業の軸足がパソコンなどの情報通信分野に移り、98年に1社提供から撤退。
2016年に白物家電事業を中国企業に売却したことなどからスポンサーを続ける意味合いが薄れ、昨年11月に降板を発表した。
サザエさんとチビまる子ちゃん 毎週見てます
お父さんの波平って 54歳なんだよね (;´Д`)
東日本大震災の津波で全校児童108人中74人が死亡となり、児童を保護していた教職員10人が死亡した宮城県石巻市大川小の避難ルートについて、教職員が北上川の堤防道路(三角地帯)への最短ルートと誤解し、行き止まりを知らずに裏道を進んだ可能性が高いことが、河北新報社の検証で分かった。
児童の足取りを巡っては「なぜ、津波に向かって進んだのか」「なぜ、県道に直接出ず、遠回りしたのか」など長い間謎だった。
(大川小事故取材班)
2011年3月11日午後2時46分の地震発生。
その直後、教職員と児童は約45分間、校庭にとどまり、津波襲来の約1分前までに校庭を徒歩で出発した=上図=。
証言によると、その後、釜谷交流会館の駐車場を横切っている際に県道から戻ってきた教頭が「津波が来ているから急いで」と叫び、児童の一部は途中で右折し、民家の間を通って県道に出ようとした。
先頭付近にいた当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は県道に出る直前、津波に気付いて引き返し、裏山を約3メートル登った辺りで波にのまれた。
地元釜谷育ちの只野さんは「行き止まり」を知っており、とっさに右折するルートを選んだ。行き止まり付近では児童34人の遺体が見つかった。
地元住民によると、裏道は1976年12月に新北上大橋が開通するまで、軽トラックが通れる道幅があった。
開通後も幅1メートル弱の小道は残り、近所の住民が生活道として利用していた。商店主が震災の約10年前に高さ2メートル以上の鉄柵を設置し、通行できなくなった。
鉄柵と山裾にはわずかな隙間があり、「震災の数年前まで三角地帯に行けた」との証言もある。地元の女性は「無理をすれば通れたが、子どもを大勢連れて通る道ではない」と話す。
三角地帯は標高約7メートルで学校より6メートル近く高い。教頭は地元住民と相談し、三角地帯行きを決めた。
住民のアドバイスなどを基に、土地勘のない教職員が裏道を先導した可能性があるほか、「交通量が多い県道を避けた」との見方もある。
大川小は07年度に危機管理マニュアルを改定し、「津波」の文言を初めて盛り込んだ。10年度の改定でも校庭からの避難場所については「近隣の空き地・公園等」を踏襲し、具体的な場所を指定しなかった。
仮に三角地帯にたどり着けたとしても、付近は高さ2~3メートルの津波に襲われた。
マニュアルの不備に加え、震災当日の(1)避難先(2)避難ルート(3)出発時刻-など二重三重の判断ミスが重なり、「大川小の悲劇」につながったと言える。
<主体的決定なし/遺族らでつくる大川伝承の会共同代表の佐藤敏郎さん(54)の話>
先生たちは「三角地帯に行ける」と思って行ったのかもしれないが、
そもそも、なぜ45分間も、校庭にとどまり続けたのか?
学校管理下の避難行動にもかかわらず、学校側の主体的な意思決定がなかったことが原因の全てだ。
とりあえず様子を見る という判断が
校庭のすぐ後ろが山だった
先日(2017年12月)のペットフード協会の発表によると、全国犬猫飼育実態調査で、調査開始以来、はじめてネコの推定飼育数が犬の数を上回ったという。
人類の相棒は犬じゃなくてネコだった──というわけではないけれども、少なくともペットの王は今やネコに移り変わりつつあるといえるのではないだろうか。
飼いやすいというのもあるが、ネットをみればネコの画像や動画はいつだって大流行で、あっという間に万を超える閲覧、再生数を叩き出し人間の心を鷲掴みにする。
いったいネコの何が人間をそこまで惹きつけるのだろうか?
犬は狩りもすれば防犯にも役に立ち、飼い主が苦しんでいれば寄り添って慰めてくれる。
お座りだろうがお手だろうがちょちょいのちょい。
一方、ネコはどうだ。お手ができるネコが現れれば奇跡のような扱いを受け、好き勝手に生活し、役に立つこともなく、人間がおネコさまに奉仕するかのようだ。
そのうえ、ネコは生態系を致命的なまでに破壊し、世界の侵入生物種ワースト100にまで選出されている。
僕はずっと犬派なので若干ネコへの視線が厳しくなったが、本書はそんなおネコ様の秘密──どのようにして飼いならされたのか、なぜ人間は特に役に立つわけでもないネコを飼い始めたのか、なぜ犬よりも飼われ、ネットでバカ受けするのかなど、ネコと人の歴史をそもそもの歴史と生態から問い直し、サイバースペースを支配する理由まで解き明かす一冊である。
京都市東山区の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)(国宝)に並ぶ千体千手観音立像(国重要文化財)について、45年間続いてきた保存修理がすべて終わり、12月22日午前、最後に修理されていた9体が堂内に運び込まれた。
観音立像は計1001体。平安~鎌倉時代につくられ、南北約120メートルの堂内で本尊の千手観音坐像(ざぞう)(国宝)の背後に1体、左右のひな壇に500体安置される。
年間100万人の参拝者が訪れるため、衣類の繊維などのほこりが表面に付着。その下層は、漆や金箔(きんぱく)がはがれやすくなるなどの傷みが進んでいた。
1973年から、年に数体~50体ほどを美術院国宝修理所(京都市)の工房に運び込み、ほこりの除去や表面の金箔(きんぱく)の浮き上がり防止などの修理作業を順次続けてきた。
総事業費は約9億2千万円。6割程度は国庫補助でまかなわれた。
文化庁によれば、重文の彫刻1件の修理期間としては過去最長だという。
こうゆうコツコツとした仕事って
日本人は得意だよね (^_^;)
全国各地を批評し尽くす【日本の特別地域】地域批評シリーズがついに文庫化!
初回作品は首都圏批評「練馬区」「杉並区」「世田谷区」を徹底解剖します! !
高級住宅街が立ち並び、セレブなイメージが強い世田谷区ですが、もともとは江戸の農産地として開発され、関東大震災では被災者の移住先となり、高度成長期には多くの農地が宅地開発されたエリアです。
玉川地区や成城地区には著名人や金持ちが居住し、文化人が集まる下北沢や三軒茶屋、ファッション性の高い二子玉川は憧れの街として多くの若者に支持され、それぞれが区の好感度を上げてきました。
しかし、世田谷区は、そもそも「高級」や「オシャレ」ではなかったのです。
ただ、そうした印象に捉われていたら、世田谷区の本質は見えてきません。
本書は過去に2度、世田谷区を調査し、その実態を追いかけました。
世田谷区の高級幻想をぶち壊した上で、小田急線、東急各線、京王線、各沿線の街の特徴と住民を徹底分析。
それらを基にして、現状や新たな問題点を加筆しました。
あらためて探った、世田谷区の真の姿を解き明かします。
「創立100周年記念事業」を在校生や同窓会会員各位に広くPRするための「ロゴマーク」(シンボルマークとロゴ(文字))を制定しました。
創立100周年記念事業で、在校生(教職員含む)に広く応募を呼びかけ、応募していただいた作品につき、平成29年10月7日の代表幹事会で選考の結果、下に示すように18回草川衛さんの作品が、ロゴマークに選定されました。
採用作品は、今後ポスター、各種案内、などに広く活用していく予定です。
皆様方の同期会の案内書面などにも、ぜひご活用ください。100周年を印象づけるとてもよいアクセントになります。
平成29年11月18日のホームカミングデーで、採用作品の表彰、多数応募くださいました皆様に御礼をしました。
▼応募作品
われわれ27回生が入学したとき 直前に刊行された
「新宿高校50年史」をいただいたのですが
もう100周年とは 月日の経過は速いですね (^_^;)