80【ヒストリー】

宗教的信念(イデオロギー)のパワー

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人間を突き動かす心理的原動力と言えば

 第1の原動力:本能(DNA)の命令(根源的欲望)

 第2の原動力:宗教的信念(イデオロギー)

 第3の原動力:理性に基づく損得判断(これはタカが知れている)

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だから政治の世界でも、ワイロとか裏金みたいな金権政治は、第3のタイプなので、その害はタカが知れてますが、共産主義やナチズム、十字軍、ジハード(聖戦)のような第2のタイプは、非常に恐ろしいです

正義の人」が登場して、100%の善意と信念で、恐ろしい大虐殺をします

もし地獄という場所があるのなら、そこには善意が満ちていると思います

 ((((;゚д゚))))

 

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宗教的理由から、45年間右腕を上げたまま暮らしてきたインド人男性が話題になっている。

インド人男性のアマル・バルティさんは、ヒンズー教の「創造と破壊の神」であるシバ神(←)に自身を捧げるとして、1973年から45年間、右腕を一度も下ろさずに生活している。

過去にバラティさんは、妻と3人の子どもを持つ家長として働きながら平凡に暮らしていた。

しかし1973年に突然宗教的悟りを得て、ヒンズーの神に自身を捧げることを決心した。

バラティさんは家と家族を捨て、1人で山に入り修行を始めた。

彼は初めて、シバ神に対する信仰と感謝を表するために、片手を上げて生活を始めたという。

一部では彼が地球上のすべての戦争に反対して右腕を上げて生活し始めたと説明する。

45年にわたり上げられた右手の皮膚と爪は癒着し、肩の骨は固まってしまい手は全く使えなくなった。

現地メディアは

「やせ細った腕は、まるで棒のようだ」

と表現した。

バラティさんは最初の2年は苦痛の中で過ごしたが、その後、腕の感覚をすべて失ったと明らかにした。

あまりに長期にわたり腕を上げていたため、下ろしても腕に永久的な神経損傷ができる可能性が高く、一生手を上げたまま暮らすことがむしろ良いという。

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現在70歳をはるかに超えた年齢だが、彼の健康に大きな異常はないと外信は伝えた。

バラティさんのこうした行動が知らされ多くのインド人が、サドゥ(ヒンズー教の行者)になり彼のように腕を上げようとしたが、だれもバラティさんの記録を破ることはできなかった。

バラティさんは、いまも右腕を高く上げており、今後も下ろす計画はない。

家族で記念写真

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アメリカ共和党 Thomas Massie(トーマス・マシー)下院議員の家族写真です

家族全員で銃を持ちながら、にこやかにクリスマスの記念写真を撮っています

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日本みたいな、銃が身近に無い国から見ると

 少しビックリする人もいるかもしれませんが

銃でインディアンと戦いながら西部開拓し

 イギリスから独立を果たした歴史を考えれば

それなりの合理性があるのは理解できます

 (^_^;)

 

* * * * * * * * * *

 

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海外の反応:

・これがアメリカだよな

・アメリカってやっぱりどうかしてると思う

・彼らは一体何と戦うつもりなのか?

・凄い銃のコレクションだ

・なんで一般人がこんなに銃を所有するのか理解できない

・こんなに武装して、彼らは一体何と戦うつもりなの?(笑)

・なんで皆で銃を持って、自慢げな顔で写真を撮る必要があるのか?

・私も銃を愛しているが、クリスマスに家族皆で銃を持って写真なんて撮るだろうか?

・これはかなりの銃オタク一家だな

・こんなのアメリカでは普通の光景だろ

・彼らは真のアメリカ人だ

・銃規制派の人達がこの写真を見たらイラつくだろうな

・皆で銃を持って記念写真を撮るのって、タリバンと似ている

 

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うどん県の連絡船うどん

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 先日の紅葉旅2021で

  見てきたばかりです

 (^_^;)

 

うどん県」を称するほど独特の麺類文化を築き上げてきた香川県で、最大の鉄道駅であるJR高松駅構内の「連絡船うどん」が、2021年11月末をもって営業を終了します。

最終日には駅長による花束贈呈などの、ささやかなセレモニーが行われる予定です。

今回の閉店は、2023年度に完成が予定されている駅ビル建設のための立ち退き。

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同店横にあったスーパーマーケットも2019年に閉店。

跡地に作られたパーク&ライド駐車場も「連絡船うどん」とともに閉鎖が告知されています。

連絡船うどんは、中国ころな生物兵器の影響で数か月休業し、10月に営業を再開したばかり。

その矢先の閉店発表とあって、ひさびさに来店してうどんを味わいつつ、同時に別れを惜しむ人々が多くみられました。

 

馬上少年過ぐ

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 伊達政宗の、非常に有名な漢詩(↓)です

  シンプルですが、実に味わい深いなぁと思います

 東京都心の日比谷公園のあたりが、伊達藩の江戸上屋敷で

晩年の政宗は、ここで江戸幕府相手の外交関係の安泰維持に心を砕きつつ

私生活では、趣味の世界に生きて、平和な時代の余生を大いに楽しみました

「伊達」がオシャレの代名詞になるくらい、芸術的センスにも富んでいました

江戸時代初期には、戦国の夢と野心が捨てられず

幕府と諍いを起こして改易(お家とりつぶし)になった大名も多かったのですが

政宗はサッと頭を切り替えて、太平の世に順応したようです

  (^_^;)

 

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馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん

 

戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。
今や天下は泰平。俺の髪の毛はすっかり白くなった。
生き残ったこの身の処し方くらい
どうしようと天は許してくれる。
楽しまないでどうするというのだ。

 

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▲江戸の大名屋敷のイメージ 江戸東京博物館

これは50万石だった越前福井藩の上屋敷がモデル

伊達藩は62万石だったので、これより大規模か

 

 

訃報 江上泰山

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放火されて炎上する金閣寺

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ネット界では「炎上」が日常茶飯事ですが

 戦後すぐの世間を騒がせたのが金閣寺炎上事件

三島由紀夫や水上勉など、文学ネタにもなりました

 いま我々が金ピカの金閣寺(再建)を見れるのは

この事件があったからかもしれません

 (^_^;)

 

img_3352bf1aca379fca3a31ca7b94a49acb93021江上泰山(えがみ・たいざん、→)氏が11/19、誤嚥(ごえん)性肺炎のため死去した。

85歳。

金閣寺元執事長で、臨済宗相国寺派宗務総長を務めた。

1949年に中学2年で金閣寺(鹿苑寺)に入る。

翌年、兄弟子の放火で炎上した金閣(舎利殿)を目撃した。

葬儀は11/24午前10時、京都市北区等持院北町61真如寺。

喪主は長男で真如寺住職の正道(しょうどう)氏。

 

 

三千院の庭

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洛北大原の三千院に来ています

中学校の修学旅行以来です(ウン十年ぶり)

紅葉もさることながら、庭がスゴい!

この空間感覚は、写真や動画では伝わらない

この場に身を置くしか味わえない

作庭を芸術にまで高めた先人に感動します

これに比べたら、西洋庭園なんて・・・

(^_^)

 

東山散策

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今日も良い天気で、東山をプラプラ散策です

清水寺、高台寺、八坂神社、知恩院など、すでに何度も歩いた道ですが、やはり紅葉シーズンは別格

(^_^)

訃報 瀬戸内寂聴

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「号外なんて大げさな!」なんて言うなかれ

 出身地の阿波徳島では「郷土の偉人」です

ご自身も「寂聴連」をつくって踊ってました

好きなことをやり尽くした人生!」のように見えて

はたから見てると、まことにうらやましい大往生

 本当の心の中は、本人以外には分かりませんけど

(^_^;)

 

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▲阿波踊りに参加した寂聴連

 

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▲寂聴さんの出家得度には、作家の今東光氏が深く関わっている

 

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私が17~18歳の青春時代には、街のいい男はみんな戦争に取られて、年頃の女を相手する男はいなかったんですよ。

それを「トラック1杯の女に男が1人」というふうに言ってね。

女が留守を守っていたんだから、男を頼りにする未来なんていうのを考えもしませんでしたね。

男がいないんだから、男の留守にお嫁さんが舅と仲良くなったり、いまで言う女性の不倫みたいなことも、たくさんあったんですよ。

それをみんながけしからんなんて責め立てたけど、いま考えたら、無理もないことですよね。

彼らのせいではなく、戦争している国家が悪いのよね。

1957年に『花芯』を発表した時は、「子宮作家」と呼ばれて、随分叩かれましたけどね。

平気でしたよ。問題にしなかった。

ひどいことをいろいろ言われたり、されたり、そんなのをいちいち相手にしてたら、書くことなんてできませんから。

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いまとなっては、もう昔々のことでね。

よくまぁ、がんばってきたなと思いますけど。

ここ最近になって作品が受け入れられるようになったというのは、私の考え方が世の中より少し進んでいたのよね。

周りがついてこられなかったんですよ。

かつては男女間のタブーがあっても、それに目をつぶって綺麗ごとを書くのがよしとされていたでしょう?

当時は、社会を変えたいとか、そんな大層なことは考えていなかった。

私はただ、ありのまま、本当のことを書いただけだったのね。

道に外れたことをする男や女は、やっつけられるんです。

 

 

 

高輪築堤を移設

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高輪築堤(たかなわちくてい)

石に白い札のようなものが貼ってあるのは

正確に移築するために、石に番号をふっているのか

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 鉄道は軍事物資の輸送に重要な役割を果たすのに

  明治の初めには、軍が鉄道建設の邪魔をしていた!

 なんだか牧歌的な時代精神を感じます

  (^_^;)

 

1872(明治5)年の鉄道創建時に東京湾の浅瀬に築かれ、現在のJR高輪ゲートウェイ駅(東京都港区)西側で見つかった「高輪築堤」が、来春にも佐賀市の佐賀城公園で部分的に復元される。

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築堤建設を決めた旧佐賀藩出身の大隈重信(→)の没後100年の記念事業として、佐賀県が乗り出した。

築堤の石約400個を東京から西に900キロ離れた大隈ゆかりの佐賀市に運び、鉄道開業150周年も併せて祝う。

高輪築堤は、新橋~横浜間の鉄道開業に合わせて、現・田町駅付近から品川駅付近まで約2700mにわたり建設された。

佐賀城本丸歴史館(佐賀市)などによると、当時の兵部省(後の陸軍省と海軍省)の反対で付近の陸地に鉄道線路を通すことが出来ず、鉄道建設の責任者だった大隈重信らの判断で、海上建設に踏み切ったという。

当時は品川駅も海岸にあり、海岸から築堤を見て

「海の上を走る陸蒸気」

として観光名所にもなった。

 

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▲東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図 明治4年(1871)頃

実は明治4年、まだ鉄道は出来ておらず

これらの絵は、海外の資料をもとに想像で描いたらしい

そのせいか、変な形をしている  (^_^;)

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▲現在の田町付近を新橋方面へ走る貨物列車

1906(明治39)年頃、、左下は海

 

その後築堤は、付近の埋め立てで姿を消したが、JR東日本による品川駅周辺の大規模再開発に伴い、約800mが最近出土した。

このうち、国史跡に指定された120m分は保存されるものの、ほかは記録後に解体される。

そこで

「築堤の石垣から外された石の有効活用を」

と佐賀県が移築に名乗りを上げた。