古代史

読書 老年について

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ローマのストア哲学者を3人選ぶなら、エピクテトスとマルクス・アウレリウスが来て、3人目がセネカかキケロかな

キケロは雄弁家として切れ者なんだけど、ややクセの多いところが嫌われやすい

そのキケロが、大カトー84歳の口を借りて、若者2人に向かって、老年の何たるかを語らせています

時代は紀元前2~3世紀、日本では縄文時代が終わり、弥生時代が始まったころ

さすがにローマ帝国の超大物政治家である大カトーですから、老いてますます盛ん、弱ったところなどまったく見せず、むしろ「老いを楽しむ」余裕さえ感じさせます

特に、老年は「欲望の鎖」から解放された自由な年代であると主張しています

と言っても、大カトーは80歳で次男を儲けていますから、なかなか精力旺盛でした

良いもの(健康とかお金)について、

「有る時は大いに使え、無い時は強くは求めるな」

としているのは、いかにもストア哲学者キケロらしい

「死によって魂が消え去るなら、死は無視すれば良い。

 魂が不滅なら、死を待ち望むべきだ」

とも言っている

まだキリスト教が登場する以前だから、最後の審判のような話は出て来ない

本書の中の言葉ではないが

Live as if you were to die tomorrow. 明日死ぬかのように生きよ

Learn as if you were to live forever. 永遠に生きるかのように学べ

という言葉を思い出した

いま調べたら、ガンジーの言葉だそうです

(^_^;)

 

 

 

読書 古代史はどうして謎めくのか

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これまで読んできた反藤原史観による古代史疑問点を一覧表にしたような本

73個の論点について、それぞれ通説への疑問点(謎)と、反藤原史観に基づく解答らしきものを提示している

この解答らしきものを組み立てれば、反藤原史観による古代通史を描けるのだが、それは読者の楽しみとして、とっておいてる感じ

よく図書館の推理小説の本で、しばらく読んだあたりで「犯人はこいつだ」と書き込んであるイタズラがあるらしいですけど、いきなり犯人を明らかにしちゃっては、推理小説の楽しみが消えますからね

逆に、最初に本書を読めば、読者は更に個々の論点を突っ込みたくなって、それぞれに該当する本を買って、反藤原史観の世界に引きづりこまれていく可能性大

歴史書の売り方としては、上手なマーケティングかもしれません

(^_^;)

読書 倭国大乱と吉野ケ里

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福岡と佐賀の間に吉野ケ里遺跡というのがある

1980年代に工業団地の造成で地面を掘り返したら、弥生時代の巨大な遺跡、おそらく当時のクニが現れた

邪馬台国が見つかった!?ということで、当時はマスコミでも大きく取り上げ、毎日1万人以上の見学者が訪れた

周囲に深さ2~3メートルの堀を設けて防御を固めた、日本には珍しい城塞都市国家で、当時が古代の戦国時代(倭国大乱)であったことが分かる

遺跡内の墓からは、戦闘で傷ついたと思われる遺骨が数多く見つかっている

結局、邪馬台国ではないという結論になったが、50ヘクタールもある巨大遺跡は、今では吉野ケ里遺跡記念公園として整備されている

本書は、1989年に行われた歴史学者6人によるシンポジウムをまとめたもの

一般向けの公開討論なので、学会での討論に比べると穏やかなものだとは思うが、邪馬台国の場所についての議論にも関わるので、かなり熱っぽい議論になっている

(^_^;)

 

 

読書 マンガ古事記

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日本の古代史の原点である古事記を読もうと思うのだが、原文はもとより現代語訳でも読みにくいので、まずマンガから

世界からマンガの国と見られている日本では、多くの古典がマンガ化されている

横山光輝「三国志」全60巻などという超大作もある

古事記は江戸時代初めまでは偽書とされていた

本居宣長が慎重な考証によって偽書ではないことを論証し、日本書紀とならぶ古代史の正典となった

その神話編には荒唐無稽な話が多い

戦前は皇国史観から全て真実として教育したが、戦後はその反動で、すべてウソ話として歴史学会でも無視してきた

しかし高度成長期に日本中で道路やビルを建設し、地面を掘ってみたら古代の遺跡が次々に見つかり、それらが古代神話を微妙に反映していることが明らかになった

そんな訳で、今では何らかの史実を、神話の中に仮託していると考えられている

その「何らかの史実」を、推理小説にように探るのが、古代史最大の楽しみです

(^_^;)

大阪都

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▲大阪市が消えて、区の独立性を、市レベルまで高める

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大阪の気取らないところは好きだけど

 「都」と呼ぶには 都会的洗練

少々足りないような気がするんだよね

  (^_^;)

 

8

吉村大阪知事(→)は9/23に記者会見を開き、

10/11に住民投票で「大阪都」構想の賛否を問う

とした。

松井市長も、賛同を得られなければ辞任すると宣言した。

行政改革の一環としての二重構造の解消、行政の効率化が目的としていることは賛成である。

問題は「都」という名称なのだ。

「都」とは「みやび」(雅び、宮び)に由来する、天皇の御座所ではなく、皇居がある所である。

から、「大阪都」となれば、必然的に「遷都」を意味することになる。

そうした歴史認識が欠如していることが最大の問題なのである

ただし吉村知事はすこしニュアンスを変えて「副首都」を目指すとも発言している。

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七世紀から八世紀にかけて、大阪の谷町から森ノ宮にかけて、宏大難波宮があった。

しかも戦後に発掘してみれば、難波宮跡地は日本最大規模の皇居だった事実が浮かんだ。

遷都が頻繁に行われた七世紀から八世紀の飛鳥、奈良時代を一覧すると次のようになる。

667 近江大津京(天智天皇)
672 浄御原宮 (天武天皇)
694 藤原京  (持統天皇)
710 平城京  (元明天皇)
784 長岡京  (桓武天皇)
794 平安京  (桓武天皇)

大津に都があったことをすっぽり忘れている向きも多いと思われる

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現在の歴史学では近江大津京と呼んでいる。

近江大津京は天智天皇が即位した場所だが、わずか五年間の首都だった。

遷都理由は白村江の戦い(663年)に敗れたため、天智天皇は、国防上の理由から遷都を決断された。

交通至便で優位な地形の近江大津の地が選ばれた。

この遷都は大化の改新から十八年後のことで、天智天皇六年(667)に、ここで即位されている。

しかし近江大津京は短命に終わった。

最大の理由は九州の大宰府に水城や山城を構築したこと。

これらの造営費用が膨大だったため首都移転は難儀を極めた。

最初から臨時の皇居という印象だった。

そのうえ守旧派(飛鳥派)が反対、妨害があった。

天智天皇崩御のあと、後継の弘文天皇は壬申の乱で、大海皇子(後の天武天皇)に敗れた。

ところで、近江神宮は天智天皇が祭神である。

京阪電鉄の近江神宮駅から七、八分ほど歩くとこんもりとして森があり、その突き当たりの、いくつかの階段を上る。

昭和十五年、近江神宮は皇紀二千六百年に創祀された。

小倉百人一首の第一首は天智天皇、いまでは近江大津宮のことより、カルタ競技の祭壇となった。

日本で最初に時計を取り入れたのも天智天皇だった。

その「遅刻」(水時計)が境内にある。

近年、若い人が参詣にくるのは、漫画「ちはやふる」2500万部の影響だろう。

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ちなみに小倉百人一首の第一番、天地天応の御製は、

あきのたの かりほのいほの とまをあらみ

わがころもでは つゆにぬれつつ

 (秋の田の仮小屋に泊まると、屋根の苫(とま)の目が荒く、

  冷たい夜露が、着物の袖を濡らしてしまった)

壬申の乱で勝利した天武天皇(大海皇子)は飛鳥に戻り、浄御原宮を造営した。

近江京の宮殿の主柱や仏殿、内裏正殿などを移設したため近江大津京は廃都となってしまった。

天武天皇と持統天皇は夫婦である。

この天武天皇と持統天皇の18年間が浄御原宮。

天武天皇の崩御後、持統天皇は飛鳥の近くに藤原京を造営、またも遷都した。

さて難波宮のことである。

歴史教科書には難波京のことを載せていないのである。

長らく「まぼろしの都」と言われたのも、『日本書紀』は難波宮「焼失」と記載しただけだからだ。

「なんば」は難波であり、船場(せんば)、水の都。

堂島、中之島という地名は海上交通のアクセスは至便である。

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つまり、大阪は首都というより商都である。

水運の発達は当然だが、当該地区を治める豪族の顔役がいる。

縄文の大規模集落はまだ発見されないが、神武東征のおり大阪湾からの突入に失敗、熊野路へ迂回した経緯は古事記にも日本書紀にもでてくる。

周囲は縄文時代から開けていたことは確実であり、森ノ宮から縄文時代の土器が見つかっている。

石山本願寺、大阪城の敷地は難波宮の一部ではないか?

戦後、本格的な発掘が始まり、 昭和32年に回廊を発見、天皇宮室と判明した。

いま「難波宮史跡公園」として整備されているが、大極殿基盤と八角殿のレプリカがある。

難波宮跡の北側はNHKや大阪市歴史博物館があって、これらは明らかに難波宮の敷地内であった。

それゆえ難波宮は「まぼろしの首都」ではなかった。

実質として難波宮は大化の改新ののちに孝徳天皇が遷都(652年)している。

この時から元号は「大化」となり、大化の改新の刷新政治は、難波宮が舞台だった。

ただし何回も火災に遭遇して、そのたびに仮御所が建てられ、ついに天武天皇は683年(天武天皇十二年)に副都制の詔をだされた。

すなわち難波宮は副都だったのだ。

だから正式な首都ではなく、教科書は採用しないようだ。

副都は世界史で珍しくなく、清朝では紫禁城に加え、清朝皇帝は夏、承徳に移った。

エカテリーナ女帝はサンクトペテルブルグ郊外に「冬の宮殿」を建設した。

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いずれにしても、現在の行革の一環として提言されている「大阪都」構造にも、知事の言う「福首都」という発想にも、このような史的考察が一片もないのである。

(宮崎正弘の国際情勢解題より)

 

読書 歴史の旅1 北九州

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半世紀くらい前に出版された、歴史に重点を置いた旅ガイド

5人の歴史学者や作家が書いている

ここで言う北九州は、北九州市のことではなく、九州の北半分という意味

朝鮮半島南部と一体だった古代

大宰府の歴史

足利尊氏の九州撤退

「葉隠」に現れた鍋島藩の特殊性など

元号「令和」の出典になった大伴旅人の邸宅で行われた梅花の宴は、当時の都(平城京)でも行われたことのないほど盛大なものだった

当時、花見と言えば梅で、桜ではなかった

 

<原文>
初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
<書下文>
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す
<現代訳>
新春の好き月、空気は美しく風は柔らかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉の如き香りを漂わせている

 

万葉集 巻3-344 大伴旅人 酒飲まぬ人をからかう歌

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「 あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと

   酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む 」

( あぁ~ みっともない!

  酒も飲まずに、賢そうにしている奴の

  顔をよ-く見たら、猿に似ているぞ! )

(^_^;)

 

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▼大伴旅人 お酒が大好きだった (^_^;)

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読書 古代史を歩く3 筑紫

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反藤原史観の旅ガイドとは違って、本書は多くの筆者の原稿の寄せ集めで、共通する史観のようなものは無い

毎日グラフの別冊なので、写真が多い

場所を筑紫(広く言えば九州全体、狭く言えば九州北部)に限って、古代史をテーマとしたシロウト向け数ページの文章や写真をゴチャゴチャ集めてある

やはり多数の筆者による共著というものは、全体を貫く一貫性もストーリーも無いので、イマイチ詰まらないなぁ、という印象

とりあえず最後まで読んだけどね

ホントにハズレの本なら、読書ノート書かないし、途中で読むのをやめる場合も多いです

(^_^;)

読書 壬申の乱の謎

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引き続き、反藤原史観の古代史を読む

壬申の乱がテーマなので、天武天皇の出自を細かく追ってゆくことで、天武と出雲系、つまり蘇我氏や尾張氏との関係を明らかにしてゆく

出雲と東国には、深い関係がある

当時は陸上交通が貧弱で、海の道こそが幹線交通だった

山陰地方の出雲は海の道を通じて、北陸地方や越の国(新潟)方面と深くつながっていた

大和朝廷内部でも、出雲系の蘇我氏や尾張氏が東国経営を任されている

壬申の乱の背景には、当時の東アジア情勢における大和政権内の外交政策の対立があった

天智系(九州系):百済外交を重視

天武系(出雲系):唐や新羅を含む多方面外交

現在の日本における、中韓重視派(野党、マスコミ)と米欧重視派(政府、国民)の対立によく似ている

(^_^;)

読書 大化の改新の謎

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いわゆる反藤原史観シリーズの1冊

反藤原史観というのは、要するに

1)3世紀に始まる大和朝廷は、日本各地の豪族が平和的に結びついた連合政権だった(大和=大きな平和)

2)7世紀に政権内の争いが激化した

3)藤原系(九州系・天智系)の始祖・藤原鎌足が、中大兄皇子(天智天皇)と組んで、暴力的なクーデター(乙巳の変・大化の改新)で、当時の権力者・蘇我入鹿(聖徳太子)を殺害し、主導権を奪取した

4)藤原鎌足は、朝鮮半島で滅亡した百済王朝の、日本に亡命した王子だった可能性がある

5)二代目・藤原不比等が、正史(日本書紀)を編集し、その中で反藤原系(出雲系・天武系)を抹殺した

6)藤原系は、明治維新まで名門貴族として、日本史の表舞台で活躍した

7)しかし、反藤原系の勢力も消えておらず、日本史の裏舞台で暗躍を続ける

8)藤原系は、聖徳太子や長屋王などの怨霊によるタタリを恐れて、反藤原系をまつる神社仏閣(出雲大社、法隆寺など)を、異常なほど大切に扱っている

9)これらは天皇家の正統性に関わるので、日本の歴史学会も、俄かに認めることが出来ずにいる

というようなことになる

まさに壮大なミステリーであって、興味は尽きない

(^_^;)

 

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▲乙巳の変(大化の改新)のクーデター実行場面

蘇我入鹿(聖徳太子)のが飛んでいる

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▲かつてお札の顔になっていた藤原鎌足

反藤原史観によると、鎌足は聖徳太子を暗殺したテロリストかもしれない

クーデターは成功すれば革命となり、首謀者は権力を握り、英雄になる

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